満天の空を泳ぐように
舞い散る
それは
桜のプラネタリウム
遠い記憶の向こうで
微笑んだ
あなたの眼差し
今年もあなたの心に
桜は満開ですか
昨年12月の退院から僅か2ヶ月余りで再入院。年頭に掲げた『今年は入院0を目指す』は早々に脆くも崩れ去った。2月初旬辺りから体重が徐々に増え始めた為、かなり食事に気を使っていたのだが、やはり限界だった。
2月14日の夜、三井記念病院の救急外来へ電話を入れ『心不全の症状が出ている』事を看護師に伝えると、これまでとは違い「タクシーで来れますか?」と意外な返事。話している感じから救急車を呼ぶほどではないと判断したのだろう。
入院グッズを大きなバッグに詰め込み、タクシーを呼んだ。土曜日の夜と言う事もあり、渋滞する事もなく道路もスムーズで1時間も掛からず病院へ到着。「じゃ、お大事に…」運転手の労いの言葉を背中に受けつつ、夜間受付のドアを開けた。「神戸さんですか?」薄暗いロビーに居た警備員が声を掛けて来た。
夜間受付の女性事務員がやって来て待合室に通される。重たいバッグが心臓に更に拍車を掛け、立っていられないほど息切れも酷く、受付の椅子に座り込んでしまった。事務員が運んで来た車椅子に移り、救急外来の処置室へと入って行った。
当直の医師と研修医、そして循環器内科の医師が、いつものように私の心臓を調べあげて行く。レントゲン、超音波、心電図、血液検査…。前回入院した時のデータと照らし合わせつつ、「今回の方が重症かな…」と意外な言葉が返って来た。
いつも「もっと早く来なければ駄目」ときつく看護師から言われ続けていたので、自分ではかなり早目の来院だと思ったのだが…。多少辛くても強がって見せる自分が今回も裏目に出たのかも知れない。酸素吸入と左腕に点滴を施し、ベッドのまま入院棟へと運ばれた。
病室も前回と同様で循環器病棟の715号室。その部屋はまるで私の為に開けて待っていてくれたかのように静かに佇んでいた。土日に掛けての入院だった為、担当医が決まるのは月曜日だったが、それもまた前回と同じS医師であった。
検査の為、車椅子で移動している最中に私のリハビリ担当で理学療法士のY先生と鉢合わせ、顔を見るなり「あれー、かんべさん、戻って来るのがちょっと早いんじゃないの?」笑みを浮かべながらの挨拶に「そうですよねー、早すぎです…」と私もまた照れ笑い。
入院4日目、循環器内科部長が数人の医師を引き連れて私の元にやって来た。開口一番「手術についてですが…」と、いきなり心臓の手術について触れて来た為、「とうとうこの日が来たか…」と腹を括った。短期間で心不全を繰り返し、入院を重ねて行く内に心臓はダメージを受け続け、回復力も弱まり内科的治療も限界点に達しようとしていた。
これ以上薬を増やす事も出来ず、薬そのものの効き目も思う様に効果を上げて来ない。この辺が潮時で、外科的治療に踏み切った方が良いのではないかと言う医師たちの見立てである。心不全の病根となっている『三尖弁逆流』『収縮性心膜炎』この2つについて外科的アプローチを行う訳であるが、手術をしたからと言って26年前に受けた『僧帽弁置換術』の時の様に、状態が劇的に改善されると言う保証は何処にもなく、3回目となる開胸術の為、医療ドラマに度々登場する『癒着』が激しく、それらを剥がして行く作業がかなり手術事態を難しくする事も予想が付いた。
次の日から手術を前提とした術前検査が始まった。『CTスキャン』『弁透視』『肺拡散能力』等など。そして是が非でもやっておかなければならない検査が『心臓カテーテル』。慌ただしい検査の連続をよそに心不全の状態は徐々に改善され、23日に一般病棟の14Fへと移った。
そして27日、午後1時30分、心臓カテーテル室へ。この部屋に入るのは、2008年6月、不安定狭心症で緊急入院し、カテーテル治療により右冠動脈にステントを入れ、辛くも一命を取り止めて以来、7年振りの事となる。左手首の動脈と、両足付け根の静脈と合わせ3箇所からのカテーテル。局部麻酔だから意識は鮮明で、医師や看護師の言葉や行動が手に取るように分かった。検査は予定通り約2時間で終わり、後はベッド上で4時間の絶対安静へ。
足の方は4時間が過ぎれば自由に動いてよいのだが、手首の方は圧迫止血バンドを装着した部分が痛み出して余り良く眠れなかった。次の日の夜、担当医から検査結果の説明を受けた。余命1年の宣告を言い渡された時のような緊急を要する状況ではない為、今回は手術を見送る事にした。但し、年に2、3回と入院を繰り返す様であれば手術を受ける事になるだろう。
まな板の鯉が切られて元気を取り戻し、再び大きな池に放たれて勢い良く泳ぎ回る…そんな姿を想像しながら、手術を前向きに捉え希望の灯火として受け止めようと思っている。ワーファリンの効き目が中々安定しなかった為、予定より2日遅れて3月7日退院となった。
皆さんにご心配をお掛けした事をお詫びするとともに、今後も末永く見守って頂けると有難いです。どうぞ宜しくお願い致します。
管理人 神戸俊樹
全国民の願いも虚しく、ジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国を名乗る者の手によって殺害されてしまった。2月1日の早朝(日本時間)ネット上にその映像は世界(日本)に向けて配信された。黒装束に身を纏い、自らを「ジハーデイ(聖戦士)」と名乗る男は、鋭い刃物を振り翳しながらカメラに向かい日本政府に対し声明文を声高らかに読み上げた。
その内容は安倍首相を名指しするなど過激な文面で構成されており、後藤さん殺害が終わりではなく、日本にとって『悪夢の始まり』と語っている。これはまさしく日本に対する『宣戦布告』と受け取ってもよいだろう。
人質事件発生以来、日本政府はヨルダンに現地対策本部を置き、情報収集や人質解放に向けて全力を注いで来たが、イスラム国に対し交渉の切り札を持ち合わせていない為、ヨルダン政府に頼らざるを得ないといった他力本願的な対応に、私たちは何ともし難いやりきれぬ思いと歯痒さを抱いていたのではないだろうか。
ネットワークを巧みに操り、あらゆるプロパガンダに利用する様はあの『ヒトラー』を想起させる意味においては、『イスラム国』が単なるならず者の集団ではない事は明らかである。そしてまた今回の邦人人質事件が絶妙のタイミングで安倍首相の中東訪問時に発生した事は、裏を返せば安倍政権の失策が齎した結果とも思えるのである。
「テロには屈しない」と「人命が最優先」この相反する二つのジレンマに立って、身動きが取れず、自ら窮地に追い込まれた日本政府は後藤さんを見殺しにしたのである。
テロリストの言葉を受けて、苦渋に歪んだその表情から込み上げて来る悲しみと怒りを懸命に堪えている安倍首相の口から「後藤さんを解放する代わりに私が身代わりになる」くらいの力強い言葉を発して欲しかった。それこそが『国民の命を守る』頂点に立つ者の姿である。
紛争地帯に赴き、その地域の惨状や生の声や映像を私たちに届けてくれるジャーナリストや戦場カメラマンは、武器こそ携えていないものの、一人の兵士そのものである。正義と勇気と行動力、その使命感に燃える後藤さんの姿に私はサムライ魂を垣間見た気がする。
そして更に付け加えるとするならば、平和や命の尊さをリスク覚悟で訴える彼らの命が、理不尽な暴力によって奪われるなどと言う事は絶対にあってはならないし、阻止すべきである。アルカイダやタリバンさえもその残虐性に目を背けると言う過激テロ集団『イスラム国』がなにゆえ誕生したのか、その背景に『湾岸戦争』や『イラク戦争』が複雑に絡んでいるとするならば、アメリカをはじめ世界各国も内省しなくてはならない点も多分にあるだろう。何れにせよ今は唯々、湯川遥菜さんと後藤健二さん両氏のご遺体が家族の元に一刻も早く帰って来るよう、心より願うとともにお二人のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
元旦に外出したのは何年振りの事だろう…。家族4人で暮らしていた頃は近くの帝釈天に初詣と、我が家の恒例行事になっていたが、離婚して一人暮らしになり今の所に越して来て6年目。過去5年間、常に体重増加と心不全を意識して正月を迎えていたような気がする。
今年は初詣にもまだ行っていないが、それより貴重な体験をさせて頂いた。私にお呼びの声が届いたのは昨年、退院してまだ間もない頃だったと思う。
大衆文藝ムジカの責任者、そして詩人で歌人・俳人でもある『葛原りょう』氏からフェイスブックを通して吉祥寺の老舗ライヴハウス曼荼羅で元旦ライヴを行う旨、参加の呼び掛けがあった。
当然の事ながら私は退院間もない身であり、一ヶ月は自宅静養が当たり前であったから、「参加する」と即答出来ず、「体調が良かったら行きます」と返答を濁らせた。
そして迎えたライヴ当日、体調は思ったよりよかったので退院後初めての電車を乗り継ぐ外出となった。正月の東京は人影や走る車の数も少なく閑散としている。凍てつく真冬の空は今にも雪がやって来そうな厚い雲に覆われていた。
開場は16時だったが、30分ほど早く会場に到着。吉祥寺に降り立つのも随分久しぶりの事となる。受付もまだ始まっていなかったが、B1階のドアを開け中の様子を覗き込んでみると、中では出演者たちのリハサール中だった。
入口に立つ私の姿に気付いた『久留素子』さんが、真っ先に声を掛けて来た。「かんべさん、かんべさん…」「お久しぶりです」満面の笑みを浮かべつつ握手を交わす。彼女も今日ステージに立つ一人である。そして『葛原りょう』君と握手。
病み上がりの身体を気遣う彼に促されながら、ベンチ型の長椅子に席を設けた。正月恒例のイベントとなっているこのライヴは飛び入り参加もOKで、もし私の体調が万全だったら詩の朗読に挑戦してみたいと思ったが、10年前100名の同窓生の前で詩を二つ朗読して以来、その機会から遠ざかっており、とてもステージに立つ余裕もなかった事から観劇に徹する事とした。
オープニングは司会・進行役を務める『葛原りょう』君の詩の朗読で幕を開けた。出演者たちが自分の得意分野を披露するその内容はバラエティに富んでおり、詩、俳句、短歌、小説の朗読以外に、アカペラ、カンフーの演武、ピアノ演奏、舞踏など多岐にわたっている。
会場にはNHKテレビ連続ドラマ『鳩子の海』や『Gメン75』などでお馴染みの女優『藤田三保子』さんもみえており、葛原君の紹介でステージに上がり熱いメッセージを私たちに贈ってくれた。
アーティスト個々の演劇も素晴らしい内容であったが、私にはもう一つ密かに楽しみにしていた物があった。素子さんから事前に情報を得ていた『お雑煮』である。「お正月だからやっぱりお雑煮が食べたいかなぁ…」「曼荼羅でもお雑煮が出るそうですよ」。この一言で曼荼羅行きを決めてしまった部分もあった。
曼荼羅のカレーも美味しいと人気メニューであるが、この『お雑煮』がまた格別の味で「うーん、美味い」と声が出てしまったほどである。見た目はあっさり上品だが、出し汁がしっかり効いていて、何杯でもお代わりをしたくなるほどだった。お雑煮を頂くのも、一人暮らしを始めてから長い事口にしていなかったので、より一層このお雑煮の味が五臓六腑に染み渡ったのは言うまでもない。
約4時間にわたるライヴが終了し、二次会へのお誘いもあったが、流石に疲れて二次会に参加する余力も残っていなかったためお断りしたが、こうして私の1年が普段とは違うスタートを切れた事に感謝するとともに、見事なパフォーマンスを披露してくれたアーティストの皆さんにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
店の外に出ると、星も凍てつく冷たい夜風にコートの襟を立てたくなったが、心の中は言葉の温もりで一杯だった。来年もっと元気な自分でいたなら今度はステージに立ってみよう、マイクを握りしめて叫んでみよう…。そう思いながら曼荼羅を後にし、帰路へと就いた。
私の今年の抱負は入院しない事。毎年、同じ目標を掲げて来たが、過去7年間でそれを達成出来た試しがない。最も酷かったのは脳梗塞で新年を迎えた2年前の時。右半身完全麻痺の状態から、後遺症全くなしと言う奇跡の復活を果たしたまでは良かったが、その後がいけなかった。
2月~4月にかけて心不全を2回起こし救急搬送。そして記憶に新しい昨年1月、蜂窩織炎と心不全で緊急入院し左奥歯を3本抜歯、痛み止めが効かずモルヒネを使用。この時の入院で初めて腎臓内科に掛かる事となった。
「今年は入院1回で済みそうだと…」と高を括っていた矢先、11月末に心不全で救急搬送、体重が思うように落ちてくれず2週間の予定が3週間かかり、12月18日に妥協しての退院となった。
その退院からまだ1ヶ月も経っていなが、何とかギリギリ体重を維持しているものの、1~4月における気温の低い時期は心臓に余分な負担がかかりやすいため要注意である。前置きが長くなってしまったが、今年もやって来た1月7日の誕生日。
静岡にいる息子『勇樹』から玄米(ひとめぼれ)30キロが届いた。昨年『ひとめぼれ30キロの思いやり』と題して記事を書いたが、その時は白米であった。それが今回、玄米に変わったのには訳があった。
入院を何度も繰り返している内に心臓以外に腎機能も悪化の一途を辿って行った。腎臓内科の担当医から「かんべさんの腎臓は30%の機能しかありません…」と告げられ、その場で返す言葉もなく私は沈黙し俯いてしまった。
余命1年を宣告された26年前よりショックだった。心臓の場合は手術をすれば元気になれると言う希望があったのでそれほどショックもなかった訳であるが、それに比べると腎臓の場合は非常に厄介で、病気がかなり悪化し末期状態になって初めて自覚症状が現れるため、気付いた時には手遅れと言う事態も少なくないようである。
私の場合も長い期間に渡り腎臓病に対するアプローチやフォローもなくここまで来てしまったため、気付いた時には腎機能30%だったと言う事なのだろう。心臓病と同様に腎臓病を治す薬は今のところ存在しておらず、腎機能を助ける対処療法や食事療法などで出来るだけ腎臓に掛かる負担を減らす事が最善の方法になっている。
退院日が近いて来ると、希望すれば栄養士から退院後の食事指導が受けられるが、自宅に戻ってからが本当の闘病生活の始まりである。病院から一歩外に出れば、別世界が待ち受けている。特に『食欲』に対する誘惑は街の至る所に存在し、食の脳幹を刺激して来る。
厳しい食事制限を言い渡され、『食の楽しみ』を奪われてしまうと尚更美味しい物が食べたくなってしまうのだ。然し栄養士や看護師などから言われた事を守らなければ、即座に病院へ逆戻りの結果が待ち受けている。
玄米、腎臓病をキーワード検索すると、玄米をメインとした腎臓食のレシピが数多くヒットする。人間に必要なビタミン、ミネラル、食物繊維など40種類が豊富に含まれている事も初めて知った。但しメリットばかりではなく、デメリットもある事を承知しておかないと玄米依存に陥ってしまう可能性もあるので気を付けたいところである。
玄米初体験、30キロあれば半年は米を買う必要もない。息子の真心に感謝し、生まれて初めて味わう玄米の食感を噛み締める父であった。
喪中につき新年のご挨拶をご遠慮させて頂きます。
郷里の藤枝に住んでいる従姉の父親『神戸福治』が93才にて老衰の為、永眠致しました。
一昨年末に亡くなった伯母『ふさ枝』の後を追うように、静かに息を引き取ったとの事でした。従姉からその知らせが届いたのは私が入院中の事だった為、喪中ハガキを用意する準備時間もなく、また藤枝に帰省し、仏前に手を合わせる余裕もありませんでした。
ふさ枝、福治、この両人とも幼い頃に大変お世話になっており、私にとっては親も同然の存在でした。暴力団との諍いで逮捕された父『信夫』が、藤枝警察署の拘置所で号泣した話しを今でも忘れられません。
※藤枝警察署の取調室に男が四人いた。父を中心に話し込んでいるのは担当の巡査、伯父の福治、そして祖父の弟、良一だった。
「信さん、どうするよ」と巡査が言った。
警察署員が犯罪者に「さん」付けで呼ぶのはこれが初めてではないだろうか。元々父はここの署員だったし、同僚も数名おり、顔なじみだったからだ。皆の前でうなだれ、酒の切れた父はそれこそ牙を抜かれた狼同然だった。福治が続けて言う。
「俊樹をどうするつもりだ」
「おみゃーが服役している間は俺んとこと良ちゃんちで面倒みるから」
「もう二度と馬鹿なことするじゃにゃあぞ」
福治の言葉が相当こたえたのか、父は涙をぼろぼろ零し泣いた。自分の愚かさを嘆いていた。もうこんな馬鹿な事は二度とするまいと誓っていたのかもしれない。
※小説『届かなかった僕の歌』より引用。
語り尽くせぬほどの思い出を私に与えてくれて、本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
昨年は当ブログをご贔屓頂き誠にありがとうございました。本年も皆様のご多幸を願いつつ、宜しくお願い致します。