第十二章(救急車)。 | プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

救急車

 
 事の顛末を聞きながら、「勇次のやつ…」と僅かばかりの怒りを覚えつつ、父の呆れたお人好しに「あんたは大馬鹿者だ」と私は言ってやりたかった。困っている者を見ると、放っておけない性分は、祖母キクノ(父の母)にそっくりだった。

 それは父の唯一の長所でもあったが、自分の家庭を顧みず、他人を助けると言うのは「ええかっこしい」と思われても仕方がなかった。藤枝で5本の指に入るほどの資産家に育ち、我がまま放題の子ども時代を送った父にとってみれば、プライド=世間体が大事だったのである。

 自分の息子が弁当を持たずに学校へ行って辛い昼時を迎えようと、一日一杯の即席ラーメンで飢えを凌いだとしても、見て呉れさえ良ければ問題なかったのだろう。

 私は父から小遣いを一度も貰った事がなかった。父は親戚の子どもたちを孫のようにたいへん可愛がっており、会う度に小遣いを上げていたようだ。だから従兄弟たちからは「信ちゃん、信ちゃん」と慕われていた。そんな従兄弟たちに嫉妬心など抱いた事もなかったが、唯一救われていたのは、私を可愛がってくれる人たちが大勢いた事である。父や母の分まで私を抱きしめてくれた祖母や叔母たちの存在があったからこそ、苦労を苦労とも思わず生き延びて来られたのだろう。

 煙草に火を点けながら父が言った。

 「心臓の方はどうだ?大丈夫なのか…」

 「うん、今の所はね、半年に一度市立病院に行ってるよ」

 「そうか、それはよかったな…」

 「でもね、いずれは手術しないと駄目みたいだよ」

 「とし坊が入院するって電話で呼び出された時は、どうなる事かと思った…」

 「夜中に救急車で運ばれた時でしょ」

 「ああ…、父ちゃんの居場所がよく分かったなぁ…」

 「どうして分かったんだろうね?僕も知らなかったし」

 「あの時、勇次や他の連中と飲んでたからな」

 「父ちゃんが酔っ払って救急車に乗り込んで来た時は参ったよ…」

 それは、私が十二歳の時だった。父は仕事で家を長く留守にしていたため、私は母の実家で暫く過ごしていた。大好きな祖母や叔母、叔父たちに囲まれての暮らしは、たいへん居心地の良いものであったが、その一方で、病魔は確実に私の身体を蝕んで行った。

 学校も長く休みがちになり、祖母が学校まで直接出向き、長期病欠の手続きをしてくれた。その当時の心臓弁膜症と言えば、不治の病として恐れられ、治す手立ても殆どなく死を待つのみであった。

 心臓が悪くなった十歳頃から、突然鼻血をよく出すようになり、それが止まらず滝のように流れ出て来るのである。その度に周りの大人たちが慌てふためき、私を取り囲んで必死に鼻血を止めようとした。時には顔を氷の塊で埋め尽くす事もあったが、それでも血は止まらず、鼻を詰めれば、その血は行き場を失い、喉の奥へと逆流し、それが固まって何度も窒息しそうになった。そんな事が年に数回あり、それが心臓と関係していたかは分からなかったが、私が心臓病だと知っていたのは父だけだった。

 「父ちゃん、これ貰って来た…」

 学校の健康診断の結果が書かれてある紙を父に渡した。

  ――心臓弁膜症の疑い有り、早急に専門医の診察を受ける事――。

 「うん…?」とその紙に眼を通したかと思うと、父はその通知書をゴミ箱に捨ててしまったのである。私の心臓病は約2年に渡り放置されたままになり、医者に掛かる事は殆どなかった。

 その夜もやはり突然に鼻から夥しい血を吹き出したのである。叔父や叔母たちの慌てる声が耳の奥で木霊していた。「俊樹、とし坊、どうしただ…」「母ちゃん、俊樹が大変だよ」。

 私の枕元は見る見る内に真っ赤な血の海と化して行った。これほど大量の流血を見た事がない祖母たちが慌てるのも当然だった。鼻はおろか、口からも血を吐き出し、もがき苦しんでいる子どもを眼の前にして、大の大人が4人も揃って成す術もなく狼狽えている。

 「持宗(小児科)さん呼んで来る…」そう言って祖母が外へと駆け出して行った。

 白衣を着た小児科医が私の血まみれの顔を見るなり言った。

 「私の手には負えない、直ぐ救急車呼んで…」

 「信さんにも連絡しないと…」

 祖母が心配そうに私の顔を覗き込みながら呟いた。父は以外にも救急車より先にやって来たが、既に顔は赤く眼付きさえも変わっていた。酒臭い息を吐きながら、「とし坊、どうした?」人前だから妙に優しく、にこやかな笑顔を見せている。

 喧嘩で散々血を見慣れているせいか、父は血だるまの息子の顔を見て驚きもしなかった。静まり返った深夜の道を切り裂くように、サイレンの音が響き渡る。「ウウー、ウウーー」。担架に乗せられ、車内へと運ばれる。両方の鼻には灰色のチリ紙がギュっと詰め込まれていた。

 私の直ぐ横に乗り込んで来た父は、息子の悲惨な様態を見ても酔から醒める事はなかった。車内が酒の匂いで充満して行く。酔っ払いと瀕死の子どもを乗せた救急車が、暗闇の国道へと音を響かせ消えて行った。

(更に続く…)。