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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-網走

 夜通し降り続いた雨も漸く上がり、厚い灰色の雲に覆われた梅雨空の合間を縫って初夏の陽射しが緑の木々に降り注ぎ、活き活きと葉音を奏でている。今年の夏も例年以上に暑くなりそうだと、早朝のラジオが伝えていた。

 昨夜は雨音のせいもあってか余り良く眠れなかったが、眠れぬ理由が他にあった事を信夫は知っていた。午前6時30分起床、7時の点呼までに布団をたたみ、身の回りの簡単な掃除を済ませる。点呼の最中は正座か安座の姿勢で全員が終わるのを待つ。

 点呼が終わると同時に係りが忙しなく配食の準備に入る。此処での食事もいよいよ今日が最後だと思うと、その喜びもひとしおであった。

 「信さん、いよいよ今日ですね…」

 隣の席で食事をしていた同僚が蚊の鳴くような小声で話し掛けて来た。

 「あっ…まあなんとか…」

 刑務所内での受刑者同士の会話は余暇時間以外は固く禁止されていたので、信夫も小声で喉を詰まらせながら答えた。

 「息子さんか誰か迎えに来るんですか?」

 「いや、それはちょっと分からないですよ」

 父親が服役中である事を息子が知っている筈もないから、迎えに来るとすれば舎弟の勇次だろうと思っていた。

 朝食が終われば後は出所を待つのみであったが、これまで仲良くしてくれた仲間たちにお礼の言葉の一つも掛けたい気持ちを抑えつつ刑務官の姿を待っていた。

 信夫の服役は今回が初めてではなく、過去に何度も世話になっていたので、入所から出所に至るまで刑務所内での決め事は身体が自然に覚えてしまっていた。

 時計の針が8時丁度を指すと、迎えの刑務官がやって来た。6人部屋の舎房から処遇管理棟へと移動し、案内された部屋に入ると着替えが用意されていた。約2年間慣れ親しんだグレーの舎房着から入所した時と同じ私服に着替える。

 服役中の受刑者に対しての刑務官は非常に厳しい態度で臨むが、一旦出所が決まった者に対しては親しみの情を込めた優しい笑顔さえ見せて接してくれる。

 「信夫さん、あんたも懲りない人だけれど、今度こそこれを最後にね…」

 満面の笑顔を覗かせながら刑務官が優しく言葉を掛けた。

 「はい、ありがとうございます、もう二度と戻るような事は致しません」

 照れ笑いを浮かべながらそう呟くと、軽く頭を下げ刑務官に向かって一礼した。

 服役中に購入しておいた黒いボストンバッグに私物を詰め込み、出所の準備を整えた。刑務官の案内で出所式の行われる部屋に移動する。

 式場には既に副所長と幹部職員数人が整列して待っていた。出所式は何度経験してもやはり最も緊張する場面だった。信夫の額から大粒の汗が見る見る内に流れ出していた。

 少し震えながら宣誓文を読み上げる信夫。

 「他人を脅しめる行為を一切行わない事をここに誓います…」

 「今後再犯を繰り返す事なく、社会人としてしっかり生活の基礎を築くよう最大限努力致します」。

 上ずった声が式場に木霊し、宣誓文を持つ両手は震えが止まらず、信夫の身体は緊張の沸騰点に達しているようだった。

 形式だけの決まり切った宣誓文を全て読み終えると、信夫の顔に安堵の色が広がった。額から滴り落ちる汗を拭おうともせず、視線は真っ直ぐ副所長の口元に注がれている。

 その場の緊張した空気を解きほぐすかのような柔らかい口調の、然し重厚な副所長の式辞に耳を傾ける信夫。そして式辞が終わり、釈放通知書が交付され出所式は終了した。副所長と幹部職員たちが退室した後に、朗読した宣誓文に署名指印を押す。そして次に会計担当が報奨金と領置金の精算をしてくれた。

 服役中の労働に対して報奨金が受刑者に支払われるが、その金額は非常に少なく、1日当たり3~40円で、一年間無休で働いたとしても僅か1万4千円程度にしかならなかった。

 信夫が会計担当から受け取った金額は領置金と合わせて1万6千円ほどであったが、故郷の藤枝に帰る交通費と食費代としては十分な金額だった。

 「2年間、お世話になりました」と告げて深々と頭を下げる。

 「戻って来るんじゃないよ…」

 刑務官の優しい励ましの声に背中を押されながら出口へと向かう。一人の受刑者をその罪から解放するかのように、重い金属の扉の向こうには2年振りとなる娑婆が広がっている。静岡にいるであろう息子の顔を早く見たいと、心は既に息子の事で一杯に溢れ返っていた。

 ギィイイ…。鈍い金属音と共に分厚い鉄の扉が開く。開放を待ちわびたかのように、眩い光が一斉に注がれる。信夫の身体が娑婆の光に包まれた瞬間だった。まっさらな白いタオルをバッグから取り出すと、漸く額の汗を丁寧に拭った。

(後半に続く…)。



プールサイドの人魚姫-腎不全


 わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。

 心不全で入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。

 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置で、これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。

 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。

 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。

 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならない。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくてはならない。

 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800キロカロリー」であった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全で救急搬送。

 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテート)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に若干の変化があった。前回1800キロカロリーだったものが、1600へと僅かに減量されていた。

 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全で救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。

 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。

 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。

 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。

 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。

 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうようなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。

 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからであり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネルギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。

 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。これからもプールサイドの人魚姫と神戸俊樹をよろしくお願い致します。


プールサイドの人魚姫-歓楽街


あたしの生きざま歓楽街で

もたれる男の手を握る

恋や愛など要らぬもの

欲望ネオンの差すところ

深爪するほど切った指で

夜をまさぐる歓楽街


昨夜のナンバー踊り子で

あたしを出し抜くいい女

ピンクの口紅うるおす指先

胸のタトゥーは伊達じゃない

膨らみ過ぎた欲望が

踊るネオンの歓楽街

 


ビール 水割り ロックに煙草

煙と一緒に吸い込む噂

悪い男じゃないのだけれど

女遊びがたまにキズ

付かれた嘘は星の数

口先だけの歓楽街







プールサイドの人魚姫-アンパンマン

 国民的キャラクターとして子どもから大人まで幅広いファン層に絶大な人気を誇った「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし(本名:柳瀬嵩 94歳)」さんが、先日の13日に心不全のため亡くなった。

 心不全の症状が出ていた為ブログも暫く休止していたのだが、やなせたかしさんの死因が心不全と言う事であり心なしか穏やかではなかったが、94歳と言う年齢を考えれば大往生ではなかったかと思う。

 日本漫画家協会の理事長を長く努め、漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人と多くの肩書きを持つやなせさんと初めて出会ったのはわたしが16歳の時だった。

 当時、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり(チッチとサリー)詩画集」が女子中高生の間でブームとなっており、静岡の書店でも飛ぶように売れていたと記憶している。この頃、わたしはまだ詩を書くと言うまでには至っていなかったが、手紙を書くのが一つの趣味となっていたため、何人かの相手と「文通」をしていた。

 気に入った女性相手にはやはり気の利いた言葉を綴りたいと思っていたので、そのヒントを得る為に何冊かの本に目を通していた。そんな中で一際目立っていたのがサンリオから出版されていた『詩とメルヘン』であった。

 『詩とメルヘン』はやなせたかしさんが編集を担当した文芸雑誌で、一般人が投稿した詩やメルヘンにイラストレーターたちが挿絵をつけるという画期的な雑誌であり人気を博していた。わたしも何冊か購入し文通の手助けとしてお世話になっている。

 やなせたかしさんは上記の肩書き以外にも多彩な経歴があり、作詞・作曲も手掛け多分野で活躍しその才能を発揮している。作詞では『手のひらを太陽に』が代表作品である事は誰もが知るところであるが、「アンパンマン」以前には現在のようにそれほど注目を浴びるには至らなかった。

 アンパンマンが初めて登場したのは1969年であるが、その頃のアンパンマンは普通の人間と同じ姿であり、現在のそれとは大きく異なっていた。子どもだったわたしの記憶に全く残っていないのは、大人向けの絵本「こどもの絵本」に掲載されていたからだと思うが、当時、親だった人たちの記憶には残っているかも知れない。

 アンパンマンがどのような経緯を辿って現在の人気キャラクターになったのか、アンパンマン生誕44年と言う長い過去を紐解いてみるのも良いかも知れないが、忘れてならないのは「空腹の人にパンを届ける」と言う骨子が誕生から現在まで変わる事なく貫かれている事であろう。

 やなせさん自身が語っているように「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろう、と。そんなヒーローをつくろうと思った」は、やなせさんの戦争体験が背景になっているものと思われる。

 食料の乏しい戦地での過酷な体験により、人間にとって最も辛いのは「飢え」であると言い切るやなせさんの言葉は「命の継続」が如何に大切かを教えてくれているのではなだろうか。

 遅咲きのヒーロー「アンパンマン」はこれからもわたしたちに愛と勇気を教えてくれるに違いない。

 謹んでやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。


プールサイドの人魚姫-絶食

 数日前より体重が急激に増えてしまった為、心不全状態にあります。主治医の指示に従い薬の増量と食事のコントロールで様子をみようと思います。よって、ブログの更新を暫くお休み致します。

 読者の皆さまにはご迷惑をお掛け致しますが、回復するまで温かく見守って頂けると管理人も喜びます。

 管理人:神戸俊樹


プールサイドの人魚姫-僕の人


君は 忘れられない僕の人

ポニーテールがよく似合う

白いうなじを見せてくれ

笑った口もと白い歯キラリ

忘れられない僕の人

くちびる囁く愛の歌


 

だめよ だめだめ僕の人

赤いリボンで目隠しすれば

小指に絡まる愛の糸

結んだ約束 解いておくれ

忘れられない僕の人

眠れぬ夜は愛の歌

 


囁く君は僕の人

長い髪を束ねて眠る

抱いて抱かれた夜が降り

朝を待つ君 涙に濡れた

忘れられない僕の人

歌っておくれよ恋蓮花









プールサイドの人魚姫-毛布

 今から26年前の1987年、わたしは火災により焼け出され住む所もなく路頭に迷っていた。僅か3万円の現金だけを持ち、頼る当てのないまま成り行き任せの上京から6年目の秋を迎えていた。

 当時わたしは、京浜東北線のJR蒲田駅から徒歩7分程度の所にある「コーポ英(はなぶさ)」と言う鉄筋5階建てのマンション301号室に住んでいた。

 大井町にある2万円の木造アパートから一気に7万円のマンションに移り、6年目の暮らしは0からスタートした時と比べれば大きく様変わりし、家財道具や衣装なども増えてそれなりのリッチな独身貴族を味わっていた。

 9月30日のその日も普段と変わらず、少し遅い朝を迎えていた。歩合制の仕事をしていたため、会社員のように時間に縛られる事もなく、請け負った仕事を納期までに収めれば事務所への出社時間などは自由に自分で決める事が出来た。

 朝のシャンプーを終え、軽い朝食を済ませ煙草を一服吸うとそのまま部屋を後にした。水道橋にある事務所に着いたのは昼少し過ぎた頃だった。

 仕事仲間と雑談を交わしながら時間はゆったりと過ぎて行った…。時計が午後4時に差し掛かろうとしていた時だった。

 「神戸さん、お友達から電話ですよ」仕事中に電話など掛かって来た事がなかった為、「一体誰だろう…?」と疑問に思いながら電話口に出た。

 その第一声は俄かに信じ難い内容だった。「神戸さんの家が全焼だって…」。電話を掛けて来てくれたのは友人の「多津子ちゃん」だった。「わたしもこれからマンションに向かうから…」。受話器の向こうで嗚咽とも思える悲痛な彼女の声が半分泣き声に変わって行く様子に返す言葉も見失っていた。

 放心状態のまま蒲田方面行きの電車に飛び乗った。自分の身の上に起こった事を受け入れるには時間が余りにも足りなかった。

 火災現場を確認していない事もあり全てが憶測の域を出なかったのは確かであったが、気休めのような言葉は一切浮かんで来ず、頭の中では「全焼」の文字が浮かんでは消えて行くばかりであった。そして容赦なく襲いかかる絶望感と、火災で焼け出され被害に合った人たちへの補償問題が現実となって更にわたしを窮地へと追いやった。

 電車が蒲田駅に着く頃、西に傾いた夕陽で空が赤々と燃えているように見えた。駅を出ると火災がどれほど酷かったかを物語るように焦げ臭い空気が鼻をついた。

 急ぎ足でマンションへと向かう。焦げた臭い以外に街はいつもと変わらぬ佇まいを見せていたが、臭いが徐々に強くなって来るに従い、絶望感と不安は更に高まって行った。

 出火元がわたしの部屋だと友人から聞いていたので、建物全体が跡形も無く焼け落ちてしまっていたらと最悪の想定も頭に入れておいたが、それを考えた所で今の自分にはどうする事も出来ないと、半ば諦めの気持ちでいたのも事実だった。

 陽が落ちて辺りはすっかり暗闇に包まれていた。あの角を曲げればマンションが見える…、胸の鼓動が緊張感で激しく踊り狂っていた。そして自分の目の前に飛び込んで来た光景に思わず我を忘れて胸を撫で下ろした。

 暗がりの中にマンションは朝と同じ佇まいを見せていた。一体この建物の何処で火災があったのか?と首を傾げるほどに静けさを漂わせ白いマンションは立っていた。その中で激しく燃えたであろうと思わせる箇所があった。

 わたしの部屋の窓の所だけが真っ黒く煤けており、明らかに出火元がそこであると主張しているようにも見えた。3階に行くと消防士が二人出迎えてくれた。そして火災の状況と消火作業などについて詳しく説明をしてくれたが、この消防士の対応に思わず涙が溢れて来てしまった。

 消防士が優しかったのは言うまでもないが、火災と言う人生に於いてあってはならない、出来るものなら絶対避けて通りたい災難に不遇にも出会ってしまった時、人はその全てを奪い尽くす炎の前で成すすべもなく泣き崩れるだけだろう。

 消防士は炎を消すのが仕事であるが、火災に遇った本人のダメージを出来る限り最小限に抑えることまでも引き受けている。消火作業にあたっては、水を使わず白い粉の消火剤で鎮火させた事は、家電製品などを出来るだけ現存させて置こうと言う気配りが、絶望の淵にある本人への希望を僅かでも残してあげたいと言う愛情と受け取れたからである。

 部屋の異常にいち早く気付き通報したのは隣人であった。普段全く顔を合わす事もなく挨拶さえ交わした事もなかったが、この時は他人の有り難さを痛感した。火災により部屋の温度が上昇し、おそらく100℃は軽く超えていたものと思われる。

 部屋の分厚い鉄のドアは熱で斜めに歪み、部屋全体は墨を塗りつぶしたように真っ黒く焦げていた。キンチョールの缶が破裂したのか天井の壁に思い切り突き刺さっており、中々取る事が出来なかった。

 その日は友人宅に泊めて貰い、次の日に蒲田警察署に出向いたのだが、そこで待っていた刑事課のデカ長は優しい消防士とは全く逆で、野太い声で思い切り怒られてしまった。

 それも当然の事であるが、出火原因は掴めていなかった。デカ長の話しでは消防車が10台も駆け付け一時騒然となりヘリコプターまで飛んだようだ。

 焼け出され、住む所もなく難民状態になったわたしに日本赤十字社(↑上の画像)から毛布が一枚届いたのは火災から数日経ってからだった。わたしの全財産はその日持っていた現金2万円と着ていた服、そしてアイワのウォークマンだけになってしまった。

 火災に遭って困っている人を援助する機関や手当など行政の取り組みなどを調べてみたが、徒労に終わってしまった。そしてその時に最も力になって支えてくれたのは友人たちだった。普段から付き合いのある仲の良い友人であったが、常に笑顔を絶やさず励まし続けてくれた友人たちには足を向けて眠ることなど出来ないほどお世話になった。

 火災に遭うのはこれで2度目…、上京して一年ほど経った頃、藤枝の実家が全焼している。この時はさほどショックを受けなかったが、幼い頃の思い出が炎とともに消えてしまったと少し感傷的になった程度であった。

 人生に於いて2度も火災に遭う不運…強運と言われ続けて来たわたしの運は不遇の時代によって培われて来たものなのかも知れない。そして蒲田の火災の後、ストレスが原因で持病の心臓病が悪化し、その半年後に余命一年の宣告を受けるに至ったのである。


プールサイドの人魚姫-かもめ


白いカモメを夕陽が染める
日暮れにたたずむ影法師
此処に来ればあなたに逢える
そんな気がして見つめた神田川
気まぐれな風が川面を滑り
想い出しぶきが頬濡らす

酔った振りしてあなたの肩に
もたれて眠れば夢の川
カモメに託した想いは何処
届かぬ夢と知りながら
背伸びして見た神田川
あなたの背中を流れ行く

揺れる想いが川面を渡り
流れの早さが時を射す
飛び交うカモメはあなたの名前
せめてもう一度だけ逢えるなら
ああ神田川
んんこの身投げ打って



※ある女性ロックシンガーがこの詩に惚れ込み、是非曲を付けて歌わせて欲しいと言う要望がありました。

その為に、急遽3番を作り作曲し易いように完成させたもの。

作詞家としてのデビュー作第一弾となりますか、お楽しみに。


プールサイドの人魚姫-もんた

 有名人の親を持つその家族は時と場合に寄ってかなり神経をすり減らす。成功している親の足を引っ張らぬよう毎日の気配りが欠かせない。それは親と子の立場が逆転しても同じ事であるが、一般の社会と違い、芸能界のようなスキャンダラスに充ちた世界に身を置くとそれは更に顕著となって現れる。

 先日、タレントみのもんたさんの次男で日本テレビ社員の御法川雄斗(みのりかわゆうと)容疑者(31)が、不正入手したキャッシュカードを使って現金を引き出そうとしたとして、窃盗未遂の疑いで逮捕された。

 事実経緯の詳細が現時点で明らかになっていない事から、マスコミ関係者が余り騒ぎ立ててしまうと事の真相が表面に出ず藪の中に隠れてしまう可能性も孕んでいる。

 彼が日本テレビのエリート社員と言う立場から見ると、罪状が窃盗未遂と言う部分も大いに気になるところであり、窃盗をするほど金銭に困っているとはとても思えない。

 家庭も仕事も飛び抜けて恵まれた環境にあり、順風満帆の人生を歩んでいた御法川容疑者…。そこに降って沸いたような今回の窃盗未遂。この事件の背景にはわたしたち一般人には到底理解の及ばない何かが隠れているような気がしてならない。

 彼にしてみれば、父「みのもんた」の存在は計り知れないほど大きかったのだろう。親の七光りを上手く利用して狡猾に振舞う政治家たちほどの神経の図太さを彼は持ち合わせていなかった。常に比較される兄の存在も彼には相当のプレッシャーと感じ取っていたのかも知れない。

 自分の方を向いてくれない親の関心を引くために、子が意図的に親を困らせる事がある。まるで駄々っ子のように親の愛を独り占めしたくなる…。大人になりきれない自立心が欠如した心のままで育ってしまった結果ではないだろうか。


母  厳しい残暑が続く9月の初めだった。福島県のある町に20代後半の若い女性が住んでいた。このさびれた温泉街にたどり着いたのは6年前。

 ある理由で生まれ故郷藤枝を飛び出したのは22歳の時だった。自分の判断が間違っていたとは思いたくない、荒れた生活に耐えられなくて幼い一人息子を残し、伯母を頼ってこの町に来たのだが、この6年間私の心を癒すものに出会う事は出来なかった。

 常に付いて回る耳の病気は、日増しに悪化して行き最近に至っては激しい頭痛を伴い私を苦しめ始めた。
 耳の治療のため、年に何回か郷里の藤枝に帰っていたが、その度に母ちゃんから「俊樹に一目だけでも会ってやったら」と言われ続けて来たけれど、どうしてもそれだけは出来なかった。
 もし息子の姿を見てしまったら私の決心は揺らぎ、元に戻れなくなってしまうのが目に見えていたので、母ちゃんには悪いけど「俊樹の事よろしく」と言って藤枝を後にして来た。

 耳鼻科の主治医三島先生には「次回外来の時、手術の日程を決めましょう」と言われたが、この半年間私は疲れ果てていた・・・。
 小さな温泉旅館の女中として働いて来たけれど、頭痛もひどくなり夜もろくに眠れない日々が続いた。精神的にも追い詰められ、将来にも希望を持てず、絶望感に苛まされる毎日。死の誘惑につい目がくらみ手首を切ってみたりもしたが、そう簡単に死ねるものではなかった。
 私の変化に気づいたのか、時々伯母が心配して相談にのってくれる事もあったけれど、解決の糸口は見つからない。耳の病気は脳にまで達していて、手術したからと言って完治する約束はなかった。もっと早くに病院にかかっていれば、きっとここまでひどくはならなかったと思う。でも今更もう遅い。
 昨夜も痛みのせいで眠れず、結局朝を迎えてしまった。薄暗い部屋の片隅に膝を抱えてうずくまり、青白い表情から生気は消え失せ、思い詰めたようにその眼はある一点を見詰めていた。
 その視線の先にある物は、丸いテーブルの上に乗っている小さな薬壜だった。死にたいわけではない、この辛さから抜け出したい、ただそれだけだった。我慢の限界だったかもしれない。辛さを耐え抜く気力がもう今の私には残っていなかった。

 一体どの位時間が経過しただろう。気が付くと私は薬壜を手にしていた。陽は高く上り、昨夜から付けっぱなしの扇風機がカタカタと音を立て回っている。生暖かい風が乱れた黒髪に当たり、額から流れ落ちる汗と重なって弾けた。それは死神が微笑んだ一瞬の出来事だった。
 大量の薬を口に放り込み、蛇口へと向かい水と一緒に喉の奥に流し込んだ。喉から食道、食道から胃へと流れ込んでいくそれらの一粒一粒が絶望の淵に立つ私を解放してくれることを願って横になった。
 薄れていく意識の中であの歌だけが木霊していた。
――どらの響きもやるせなく消えて 泣いて未練をヨー告げるのに かわいいお前にゃ何時また逢える 無事でいるならせめての便り 海のカモメに託してお呉れ 俺は待ってるぜ――
 私の背中に刻み込まれた歌。息子が毎朝歌ってくれた。私は忘れていない、今でもこの歌を思い出すたび3歳だった幼いお前の姿が浮かんでくる。
 母親失格の私をお前は許してくれますか。駄目なお母さんだったよね。お前を連れていく勇気もなくて、黙って出て行ってしまったけれど、生きていれば逢える日も来るかと思っていた。自分勝手な母さんでした。お前は生まれた時からとっても丈夫で、3歳になるまで風邪一つ引かない子だった。私がいなくとも立派に成長してくれている事でしょう。ごめんね、俊樹。お前の歌に応えられなくて。

 昭和39年9月8日、母雪子は自ら命を絶った。28歳という若さで人生に終止符を打ってしまった。この時、私は母の死を全く知らなかった。父は服役中に刑務所の中で母の死を知ったらしい。夕食が終わりテレビを見ている私を良一爺ちゃんが呼んだ。