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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-借金

 東西に長く延びた静岡県の地形は、西が浜松、東が熱海とその距離はおよそ150kmにも及び、南北は120kmと広大な県域を保つ。北部には3千m級の山々が連なり、その頂点には日本一の富士山を抱き、南には日本で最も深い駿河湾がある。山の幸、海の幸に恵まれた新鮮で豊富な食材を楽しむ事が出来るだけでなく、その気候も温暖で住み易い県として人気が高い。

 静岡市のベッドタウンとして発展して来た藤枝市は、サッカーの街として有名であり、私の通った藤枝小学校の直ぐ近くには、賞嫌いで有名な作家の小川国夫も卒業した藤枝東高校があるが、実は父の兄もまた藤枝東を卒業している。卒業後は東京外国語大学に入学し、優秀な成績で卒業したものの、残念ながらその秀逸な能力を発揮する間もなく南方で戦死した。

 父の墓参りで帰郷した時に、亨伯父さんが「頭のいいやつほど早死する…」とぼやいていたのを思い出す。おそらく、兄弟の中で一番出来が悪かったのは父だったのかも知れない。

 乗客たちで混雑している人ごみを分け入り改札口へと向かうが、実はあまり乗り慣れていない電車と、駅の改札口を探すのに手間取ってしまい、流れ出る汗をタオルで拭いつつ漸く改札口へと辿り着いた。

 「よお!ご苦労さん、東京も暑ついが静岡も結構暑いね」

 切符を受け取る改札の駅員に気軽に声を掛ける。機嫌が良い時の信夫は言葉も流暢になる。

 「電話は何処にあるんだろう?」

 「あっ、はい、電話はあの自動販売機の横にございます」

 「ああ、あの赤いやつね、サンキュー」

 ズボンのポケットから小銭を何枚か取り出し、十円玉をその口へと落として行く。胸ポケットから一枚の紙切れを出し、数字を確認しながらダイヤルを回した。

 「はい、中央工芸でございます」

 電話口に出たのは、浅田美代子によく似ている遠藤さんという20代の女性だった。

 「あっ、もしもし、お仕事中恐れいります、私、神戸俊樹の父ですが息子はおりますでしょうか?」

 刑務所帰りとはとても思えぬ、丁寧な言葉使いだった。

 「神戸君、お父さんから電話だよ」

 松坂屋の催事場で使う看板の製作に追われ、多忙を極めている時だった。父からの電話と聞き、私は疑問ばかりが先立った。何故なら、中央工芸に就職した事も知らせてなかったし、就職の相談で清水の訓練所に呼び出されたのは父ではなく亨伯父さんで、事実上の父親代わりは伯父だったからである。

 養護学校を卒業する時も迎えに来てくれたのは伯父だった。父がいるのに何故?と私は不思議で堪らなかったが、その理由を憚れる思いに駆られていたのは確かだった。

 それはあの夜の事だった。卒業して清水に行くまでは藤枝の実家で暫く過ごしていた。家には父と伯父が住んでいた。兄弟仲は悪く、顔を合わせる度に伯父の罵声が飛び交ったが、父は伯父に対し罵るような事は一切なかった。然し、それにはそれなりの理由があった。父は伯父に頭が上がらないような事ばかりして来たからで、その極めつけは家の権利書を担保にして借金を作ってしまった事。その金額はなんと5百万円。

 昭和40年代の5百万だから桁の大きさは想像が付くと思う。その借金を伯父は一人で返し、権利書を取り戻したのである。言い方を変えればつまり家を守ったと言う事になる。だから父に対し、伯父の怒りがどんなに時間をかけても収まる事はなかった。

 父は一体その5百万もの大金を何に使ったのだろう…。一つの布団で私と一緒に寝ている伯父が言った。

 「俊樹、俺が父親だったらお前を高校に行かせてやったのにな…」

 その直ぐ横には酔った父が赤い顔で、あぐらをかきながら二人を見つめていた。息子を取られてしまったような、少し悲しい眼差しの奥にはうっすらと涙が滲んでいるように見えた。父と伯父との間で私の今後について何か話し合いがあったのだろうか…。

 伯父と一緒に寝た事のない私は、何処か他人と寝ているような気がして、安らかな眠りに付けないでいた。伯父がどんなに優しく接してくれても、眼の前で飲んだくれている父の方が気になって仕方がなかった。父親である事を放棄した男の涙でその夜は音もなく更けて行った。

 ペンキだらけの手を洗い、受話器を取った。「もしもし…」

 「おう俊坊、久しぶりだな、今な静岡駅にいるんだ」

 「駅?なんでまた駅にいるの?」

 「まあ、いいからさ、ちょっと迎えに来てくれよ」

 ははぁ、なるほど、そういう事か…。私は事の次第を直ぐに理解した。

 「仕事が忙しくて、今日は木曜日でしょ、残業になると思うよ」

 父との会話を横で聞いていた課長の平岡さんが、頷きつつ右手でOKのサインを出しながら言った。

 「かんちゃん、定時で終わっていいからね」

 「仕事は5時半に終わるので、駅に行けるのは多分6時頃になると思うよ」

 「おう、そうか、何時でもいいから来てくれよ」

 「今4時でしょ、だいぶ待つ事になるから何処か店にでも入って時間潰してて」

 「分かった、じゃあ、6時頃に駅の改札辺りにいるから」

 「はい、じゃあね…」

 「忙しい時に済みません、ありがとうございます」

 電話を切って、平岡さんにお礼を言ったが、私は未成年だったので、残業をする義務もなく、会社の方も残業を強制させる訳には行かなかったが、残業は日常的にあり、徹夜した事もあった。但し、残業代は専務から直接手渡しで受け取っていた。タイムカードには記録が残っていないのでその金額は殆どがどんぶり勘定だったと思う。

 電話を切った後、信夫はキヨスクで購入しておいたワンカップ大関をバッグから取り出した。2年振りとなる酒である。

 「金輪際、酒は止めるから…」親戚縁者が集まる中で何度も頭を下げた。傍らには痣だらけの息子が小さく震えていた。私は子どもの頃、酒を「きちがい水」と呼び、この世から無くなってしまえばいいと思っていた。父を狂わせる酒が憎くて憎くて仕方がなかった。

 父が酒を止められなかったのは、意思が弱いとかそう言った類のものではなく、父にとってみれば、酒は薬そのものだったのかも知れない。

 深夜、泥酔状態で帰って来る父の面倒をみるのは常に私の役目だった。柱の時計は既に午前0時を回っており、辺は物音一つせず、時折走る車の音だけが暗闇の国道に吸い込まれて行った。ポツポツと点在する街灯が頼りない光を放つその下で、男が身体を左右に揺らしながら家路に着こうとしていた。

(続く…)。


プールサイドの人魚姫-島倉千代子

 大衆に最も愛され続けた昭和の時代を代表する歌手の一人、島倉千代子さん(75)が、先日の8日に肝臓がんのため死去した。

 島倉千代子さんについてここで多くを語る必要もないだろうが、実はわたし自身が島倉さんに個人的思い入れがある。それはわたしの母の妹である倭江(まさえ)叔母さんの顔が島倉さんによく似ていたからである。

 島倉さんを初めて見たのは8歳の頃だったと記憶している。その頃のテレビ番組の中でも、音楽番組として最も人気の高かった『ロッテ歌のアルバム』に、島倉千代子さんと守屋浩さんがデュエットで出演し、「星空に両手を」という曲を歌っていた。

 昭和の名司会者である玉置浩さんが、番組の冒頭にロッテのCMソングである「小さな瞳」がBGMとして流れる中で「お口の恋人、ロッテ提供…」そして流行語にもなった「1週間のご無沙汰でした。玉置でございます」で番組は始まるのだが、そのナレーションは当時の子どもたちの間でも人気で物真似をする者が続出していた。

 島倉さんと守屋浩のデュエットは、島倉さん自身が強く希望した為に実現したのであるが、当時、甘い歌声の男性人気歌手として多くの女性ファンを魅了した彼を島倉さんが口説き落として実現した「夢のデュエット」として話題をさらっていた。

 その番組で島倉さんを見た時に、「誰かに似ているなぁ…?」と思い、浮かんで来たのが倭江叔母さんであった。母ではなく叔母を連想したのは、自分の中に母の存在が殆どなかったからだと思う。写真でしか母の顔は知らなかったし、いつもわたしを可愛がってくれたのが倭江叔母さんだったから…。

 その叔母は長い間、精神病院に入院していたが、病院を脱走して行方不明になったままである。生きているのか死んでしまったかそれすら分からない。

 だから、島倉さんをテレビで見る度に今でもその叔母の顔を思い出す。島倉さんの言うとおり、人生いろいろであるが、わたしの周りは余りにも色々あり過ぎて「人生いろはにほへと」である。

 「俊樹だよ、おっ母さん」と言って、母を東京に招きたかった…。

 慎んで島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

プールサイドの人魚姫-入れ墨

 「父ちゃん、勇次が来たよ」

 私は幼い頃から勇次の名前を呼び捨てにしていたが、それは父の影響もあったのだと思う。

 「なんだ、俊樹いたのか…」

 父に用事があって来た勇次が、まるで父の存在を無視するかのように私を睨み付けて来た。勇次の強さはその腕っ節だけでなく、その鋭い眼付きにもあった。街のチンピラ程度ならば、手を上げる必要もなく、その威圧的な眼光だけで相手を震え上がらせるほどの威力を持っていた。

 私は勇次の姿を見ると、つい口ずさみたくなる歌があった。「唐獅子牡丹」高倉建主演の任侠映画で主題歌も高倉建が歌っていた。 

 ――義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹――

 この曲を僅か10歳の幼い少年が、高倉建の真似をしながら焼酎の空瓶をマイク替わりにして歌うのである。この歌の内容を理解していたとは思わないが、勇次の背中から腕にかけて彫られていた入れ墨がまさに唐獅子牡丹だった。

 「お前、父ちゃんを殴ったんだって?」

 私はその場に立ち尽くしたまま無言で俯いてしまった。俯いた丁度その足元には、畳に染み付いた血痕が生々しく昨日の出来事を物語っていた。

 父が昨日の事を勇次に話したのは間違いなかったが、私に殴られたと話したのにはそれなりに理由があったのかも知れない。もし仮に私ではなく相手が何処かのチンピラだと話していれば気性の荒い勇次の事なので、その輩を探し出して半殺しにしてしまうだろう。勇次の性格を知り尽くしている父の判断だったのか、それとも成長した息子を自慢したかっただけなのか、父と勇次との間でどんな会話が交わされたのか、全く知る由もなかった。

 親子喧嘩はどんな家庭にもあるだろうが、暴力沙汰となれば一歩間違えると殺人事件に発展してしまう恐れがある。バット殺人事件などはその典型だ。息子に殴られ怪我を負った父親が、その事を正直に他人に話すものだろうか?場合によっては子どもを庇ったり、出来るだけ隠しておきたいと思うような気がする。

 父がこれまで誰かに殴られ怪我をしたと言う話は聞いた事もなかったし、ヤクザ同士の喧嘩に巻き込まれた後の姿を何度か見て来たが、持ち出した木刀が折れた程度で、父自身は返り血すら浴びていなかった。だからそれが本当だとすれば、私の放った拳が父にとってみれば記念すべき初めての一発だったのかも知れない。

 私の前で仁王立ちになった勇次が、ドスの利いた声で言った。

 「自分の親を殴る息子がどこにいるか!謝ったのか?」

 それは私に非があるような言い方であったが、自分に問いかけてみても答えが出て来なかった。

 「謝ってないよ…」

 幼い頃に返ったような子どもの声で私は小さく答えた。

 「まあまあ勇次、もういいからさ…」

 間髪入れず、父の声が宥めるように言った。どんな理由があるにせよ、やはり殴った私が悪かったのだと思う。だから勇次はそれを父の代わりに咎めようとしたのだろう。それにしても、めっぽう喧嘩も強く散々相手を殴って来たであろう勇次に言われたのにはどことなく抵抗感があった。

 極道の世界を理解しようなどと思ってもいなかったが、子どもの頃からずっと見て来た父や勇次たちの姿が眼に焼き付いて忘れる事は出来なかった。

 「それで兄貴、例の仕事の話なんだけど、車の手配がついたので」

 「おお、そうか、じゃあ後は調理師だな」

 「俺がやってもいいけど、即席ラーメンって訳にはいかんわな」

 笑いながら冗談半分に言う父だったが、父の作るラーメンが結構美味い事を私はよく知っていた。

 「調理師の方は何とか俺の方で探してみるから」

 「じゃあ、そっちの方はよろしく頼みます」

 二人の会話を聞いていて、どことなく違和感があったので訊いてみた。

 「父ちゃん、本当にラーメン屋やるの?」

 「ああ、やるよ。車で移動式のな」

 「へぇー、なんだか想像付かないよ」

 息子にとってみればその疑問は当然だった。これまでの父の職歴を振り返れば、警察官以外は全て土建業だったからである。但し、職に就いていた期間は限定的なものであり、無職時代の方が遥かに長かった。

 帰り際、勇次が私に言った。

 「俊樹、ちょっと手を見せてみな」

 「はぁ?…」何の事かさっぱり分からなかったが、取り敢えず右手を勇次の前に差し出した。

 「手を握ってみな」

 その握った手を見つつ触って来た。大きな勇次のゴツゴツした手の中に私の手はすっぽり収まって行く。

 「云々」と頷きながら「いい拳してるわ、これなら一発でノックアウトも仕方ないか」

 「ふふっ」と笑みを浮かべ納得したように「気を付けて帰れよ」と私を送り出してくれた。私はその勇次の言葉が嬉しくて仕方なかった。それも当然だろう、藤枝で一番喧嘩の強い勇次に認められたのだから…。

 清水の訓練所には約1年半いたが、職員の計らいで就職先が決まり9月から静岡市沓谷にある「中央工芸静岡支社」で働き始めた。若干16歳の少年が社会人として新たな一歩を踏み出した場所であった。

 父から連絡があったのは、働き始めてから9ヶ月後の事で、私は17歳になっていた。

 「しずおかー、しずおかー、お降りの際はお忘れ物のないようご注意願います。次の停車駅は島田ー」

 駅員のアナウンスが構内に響き渡っていた。約2年振りに見る静岡の街並みは殆ど変わっておらず、真新しい物と言えば登呂遺跡で有名な登呂博物館がオープンしたくらいのものだった。

 「やれやれ、やっと着いたか…」独り言を呟きながら座席を立つ。止まり木から果てしなく広がる空に向かって飛び立つ鳥のように、広げた両手は翼の如く掴んだ自由を満喫しているかのようだった。

(続く…)。


プールサイドの人魚姫-バイタリス

 私は父が逮捕された事を知っていた。藤枝の町はそれほど広くはない、だから噂は直ぐに広まった。ましてや暴力団同士の諍いとなれば立ち所に住民の耳に入る。

 「長楽寺の信さんがまた何かやらかしたらしいよ」

 「あれ、今度は何だね?どうせまた酒飲んで暴れたんじゃないかね?」

 噂が噂を呼び、事の真相とは大きくかけ離れて噂だけが一人歩きしていたが、そんな噂も流石に清水市内にまでは飛び火して来なかった。

 私は天竜養護学校を卒業した後、心臓病のため高校進学は諦め清水市内にある療養型職業訓練所へ入所した。其処で商業簿記3級の資格を取り、将来の為に役立てようと思っていた。施設の入所者は殆どが60歳を超える老人ばかりで、病院で面倒が見切れなくなった者たちが行き場所を失い、家族にも見捨てられた、謂わば現代版姥捨て山のような所であった。

 少し遅めの朝食を終えて、テーブルの上にある新聞に眼を通していた。最後の3面記事に差し掛かった時、思わず「ええっ!」と声を上げてしまったのである。

 ――静岡県警藤枝署は15日、同県藤枝市本118、住吉会系組織暴力団極東会桜組み幹部・神戸信夫(39)を恐喝容疑で逮捕した。取り調べによると、調理師である山崎忠雄さん(29)に調理の仕事を依頼したが断わられた為、再三に渡り因縁を付け仕事を手伝わなければ金を出せと脅したと言う――。

 活字のみの表記であれば逮捕された人物を父だと特定には至らなかったかも知れないが、楕円の顔写真付きで載っていた為に、紛れもない事実なんだと受け入れるしかなかった。

 然し、その記事に寺下勇次の名前が載っていなかった事に疑問を抱いていた。藤枝に帰った時、勇次と二人で的屋をやる話しは聞いていた。軽車両を使って移動式のラーメン屋を始める内容だった。

 父は酒癖が悪いと言っても、普段は実に大人しく人当たりも良い方だし、近所の人たちからは「信さん、信さん」と慕われていた。酒を飲んだにしても酔って暴れるのは殆ど私の前だけであったし、酔って他人を傷つけたと言う話(ヤクザ同士の喧嘩以外)は一度も聞いた事がなかった。

 そんな性格の父が人を脅すなんて事をするだろうか?疑問は尽きなかったが、おそらく寺下勇次の差金に違いないと思っていた。勇次は気性も荒く、喧嘩っ早くて有名だった。いざこざの仲裁に父が呼び出される事は度々あったし、尻拭いをするのはいつも父の役目だったような気がする。

 勇次の度胸と腕っ節の強さは、父が「兄貴、兄貴」と慕っていた人斬り慎司の異名を持つ杉山慎司(私はシンちゃんと呼んでいた)も一目置いていたほどである。そんな勇次から私は一度だけ思い切り怒鳴られた事があった。

 清水の訓練所に入所してから半年あまり経った頃、初めての外泊許可が出た。入所したばかりの頃は頭髪も短く中学生の素顔もまだ抜け切れなかったが、半年も経つと髪も大分伸びてきており、それなりに色気付いてくるものである。大人の真似事をして、初めて買った整髪料がライオン化粧品のバイタリスだった。

 その整髪料をべったりと塗付け、櫛を使って髪型を整えると、意気揚々と藤枝の実家に帰ったのである。家に帰る事を事前に連絡しておかなかったのは、突然帰って、父や伯父たちを驚かせてやろうと言う魂胆だったが、その辺はやはりまだまだ子どもじみていたと思う。

 父は昔から何の予告もなく突然行方知れずになる人だったので、その時も在宅かどうか全く当てにはしていなかった。学校から帰った時のように「ただいまーっ」と玄関をくぐった。すると、いきなり酒の臭いがプーンと鼻を突いた。

 私は思わず「ムッ」として怒りがこみ上げて来た。父が家にいるのは確かだったし、それはそれで嬉しかったのであるが、時計を見ればまだ昼を少し回ったばかり。こんな明るい内から飲んだくれている父に対し、怒りと同時に例えようのない悲しみを押さえる事が出来なかった。

 こんな事は初めてではなかったし、幼い頃に嫌というほど経験している。だからこそ余計に腹が立ったのかも知れない。座敷に上がると案の定、父はあぐらをかいて日本酒を飲んでいた。顔は既に紅く、私を見つめる眼も虚ろで泳いでいた。

 「なんだよ、こんな昼間から酔っ払って…」

 「おう!俊坊、帰って来たのか」

 その後、どんな会話を交わしたか殆ど覚えていなかった。気が付くと父は鬼のような形相で立ち上がり、私の両肩を両手で掴みグッと力を入れて押さえ付けて来た。が、その瞬間だった。咄嗟に放った私の右ストレートの拳が父の口元に見事にヒットし、父は崩れるようにもんどり打って畳に倒れ込んだ。

 うつ伏せに倒れた父の口元から真っ赤な鮮血がドクドクと流れ出していた。酒で充血した眼はカッと開いたままで、畳のある一点を見つめているかのようだった。流れ出した血が見る見る内に畳を赤く染めて行く。

 倒れたまま何も語らぬ父のそんな姿に怖くなり、私は涙を堪えながら急いで家を飛び出し、母の実家がある木町(茶町)へと向かった。後にも先にも父を本気で殴ったのはこれ一回のみであったが、幼少期に散々父に殴られ痣だらけだった少年の姿はもう其処にはなく、父と少年の立場が逆転した瞬間でもあった。

 次の日、父の事が気になっていたので家に寄ってみた。黙ったまま玄関をくぐると、縁側で日向ぼっこを楽しみながら新聞に眼を通している父の姿があった。私は内心ホッとして後ろからそっと声を掛けた。

 「父ちゃん、昨日の事覚えているよね?」

 父は酔うとその日の出来事を忘れてしまうので、確認の意味も込めて訊いてみた。

 「俊坊、いいパンチしてるな、かなり効いたぞ」

 信夫は少し腫れ上がった口元を撫でながら笑みを浮かべつつ言った。それはまるで成長した息子の姿を確信したかのような、喜びに満ちた表情にも見えた。

 「父ちゃん、昨日の事しっかり覚えてる…」私は心の中で呟いた。昨日の出来事が原因で父と子の間がぎくしゃくするような心配は何もなく、私は胸をなで降ろすように安心したが、父が掴み掛かって来た原因が何だったのか全く思い出せなかった。

 「訓練所の暮らしはどうなんだ?」

 「うん、まあまあかなぁ、月5千円小遣いが出るのでそれで日用品とか買ってるよ」

 「三保の松原が近いんだっけ?」

 「うん、まあ近いけどバスで30分くらいかな」

 「清水市内に浅田さんの家があるぞ」

 「浅田さん?親戚なの?」

 「ああ、父ちゃんの従姉妹の家だ、宝くじ3千万当たったって自慢してたから行けば何かくれるかもしれんぞ」

 「へえー、本当?凄いね」

 「ケチで有名だけどな」そう言って父は大笑いしていた。

 そんな笑顔の父が私は大好きだった。柔らかな陽射しと父の言葉に包まれて、私はいつになく幸せな気分に浸っていた。春の到来を告げるかのようにメジロがさえずり、風は優しく幹の小枝を揺らしいた。

 「じゃあ、父ちゃん門限があるのでそろそろ帰るね」

 「おお、そうか、またいつでも帰って来いよ」

 帰り支度と電車の時間を確かめ、立ち上がろうとした時だった。

 「おーい、兄貴いる?」寺下勇次の声だった…。

 (更に続く…)。


プールサイドの人魚姫-タワー

 雨上がりの少し湿った朝の空気が頬を軽く撫でて行く。信夫は大きく息を吸い込んだ。身体中が娑婆の空気で満たされて行くのが分かる。酒と煙草に晒されていない身体が健康そのもののように思えたが、それを拒むかのように手の震えは止まっていなかった。

 刑務所の直ぐ近くには、緑の樹木が鬱蒼と生い茂る大きな公園があり、余暇を楽しむ人たちの憩いの場所でもあったが、平日のためか人影も殆どなかった。湿り気を含んだ梅雨空の風で樹木たちがざわついている。

 まるで数年前のあの日を思い出せと言わんばかりに――。

 「兄貴、申し訳ない、本当にすまなかった…」

 「世話ばかりかけやがってまったく、迎えに来るのはこれが最後だと思えよ」

 出所の出迎えに来た亨が、刑務官の眼も気にせず半ば怒鳴るように言った。

 「俊樹も一緒だ、外で待ってるぞ」

 「俊坊も連れて来てくれたのか…」

 「ああ、連れて来たくはなかったんだが、良一爺さんが連れて行ってやれと煩くてな…」

 信夫が服役中、息子の面倒を見てくれていたのは亨ではなく、親戚である神戸良一の一家だった。藤枝警察署に拘留されている時、息子の面倒を誰が見るのかでかなり揉めていた時があった。

 面会時、良一と福治が俊樹の世話係りを巡って口論となったが、性格の穏やかな良一爺さんが面倒を見る事で決着がついた。

 「いいか、信よ、俊樹の事は責任持ってわしが面倒見るから、刑期が終えたら二度と馬鹿な真似はするんじゃないぞ、分かったな…」

 その言葉を耳にするなり信夫は良一と福治の前で声を荒げて号泣した。

 あの時に流した涙に嘘はなかったが、酒好きとお人好しの性格が災いして、何度も刑務所の門をくぐっている。今度こそはといつも自分に言い聞かせて来たが、酒の誘惑に勝てず、妻の雪子でさえもが自分から去って行った。その雪子も数年前に亡くなった。

 雪子が残して行った息子が今は唯一自分の生き甲斐である筈なのに、俺は父親らしい事を何一つして来なかった。まるで禅問答のように信夫は自分に問いかけるのだった。

 亨と並んで刑務所の外に出る。外は快晴、ギラギラと焼け付く太陽の光で眼を開けていられないほどだった。

 「俊坊は何処に?」

 「ほら、あそこで待ってるよ」

 刑務所の門から約100メートルほど離れた公園の中に一人ポツンと佇む少年の姿があった。息子の姿を確認した信夫の眼が潤むと同時に笑顔が溢れた。

 「声を掛けてやれよ…」

 息子の姿を眼にして口を開かぬ信夫に対し、すかさず亨が言った。

 一年振りに見る息子の姿であったが、服役中、息子がどれほど淋しい思いをしていたかと思うと、どう声を掛けたらよいものか迷っていた。

 「おーい、俊坊、父ちゃんだぞー…」

 ゆっくりと歩きつつ手を振って声を掛けたが、少年は微動だにもせず公園の緑の中に埋もれてしまいそうだった。おそらく距離が離れ過ぎていて父親の声が届いていなかったのかも知れないが、父親に向かって駆け寄って来る素振りも見せなかった。

 一年振りに聞く父の声とそしてその姿が少年にとって嬉しい筈がない。嬉しくて大声で泣きたいほどであっただろう。駆け寄って抱きつきたい、父にその腕でしっかりと受け止めてもらいたい…。僅か9歳の幼い少年が、それでもそうしなかったのは、父親譲りのプライドのせいだったのだろう。

 「俊坊、いいか、男はな人前で涙を見せるものじゃない、泣きたい時は誰もいない所で泣け…」

 酒が入れば雪子の話しをしながらぼろぼろと涙を流し、顔をくしゃくしゃにする父の矛盾した言葉であっても、息子にとって父の存在は絶対的であった。

 あの日のように公園に息子の姿はない。辺りを見回したが、勇次の姿も見当たらなかった。バッグからハガキを一枚取り出し、内容を再度確認するように眼を通した。

 ――拝啓 神戸信夫様 この度の服役、本当にご苦労さまです。本来であれば舎弟分の私がおつとめしなければならない所でしたが、兄貴の温情に甘え罪を被せてしまう形となってしまった事、心よりお詫び申し上げます。(中略)。出所時には必ずお迎えに上がりますので、出所日が決まり次第連絡を下さい――。

 勇次に手紙を出したのは、出所が決まる一ヶ月ほど前の事だった。杯を交わした舎弟分であっても世話になる事に些か抵抗を感じていた事もあり、「出迎え不要」と返事を出したが、義理堅い勇次の事だから、断ってもあいつなら出所日を聞き出してやって来るかも知れないと思っていた。

 然し、迎えに来ないとなると却って勇次に何かあったのではと不安になったが、今ここであれこれ考えても仕方のない事と思い直し、バス停へと歩を進めた。

 府中刑務所から徒歩5分程度の所に「晴海町」のバス停がある。国分寺駅までバスで行き、そこから国鉄・中央線に乗り、東京駅に出て東海道本線・静岡行きに乗り換える。各駅止まりだから静岡に着くのはおそらく午後3時頃だろうと思っていた。

 「父ちゃん、ほら見て、東京タワーだよ」

 雨に煙る薄暗い空にそびえ立つ東京タワーを見て、息子が大喜びした時の事が昨日の出来事のように脳裏を過ぎった。

 「今度、東京に来たら一緒に登ろうな…」

 「えっ!本当?今度いつ来るの?絶対だよ、約束だからね」

 そんな約束を息子は覚えていただろうか…。息子との約束など一度も守った事のない自分を信夫は今更のように恥じた。

(更に続く…)。


プールサイドの人魚姫-網走

 夜通し降り続いた雨も漸く上がり、厚い灰色の雲に覆われた梅雨空の合間を縫って初夏の陽射しが緑の木々に降り注ぎ、活き活きと葉音を奏でている。今年の夏も例年以上に暑くなりそうだと、早朝のラジオが伝えていた。

 昨夜は雨音のせいもあってか余り良く眠れなかったが、眠れぬ理由が他にあった事を信夫は知っていた。午前6時30分起床、7時の点呼までに布団をたたみ、身の回りの簡単な掃除を済ませる。点呼の最中は正座か安座の姿勢で全員が終わるのを待つ。

 点呼が終わると同時に係りが忙しなく配食の準備に入る。此処での食事もいよいよ今日が最後だと思うと、その喜びもひとしおであった。

 「信さん、いよいよ今日ですね…」

 隣の席で食事をしていた同僚が蚊の鳴くような小声で話し掛けて来た。

 「あっ…まあなんとか…」

 刑務所内での受刑者同士の会話は余暇時間以外は固く禁止されていたので、信夫も小声で喉を詰まらせながら答えた。

 「息子さんか誰か迎えに来るんですか?」

 「いや、それはちょっと分からないですよ」

 父親が服役中である事を息子が知っている筈もないから、迎えに来るとすれば舎弟の勇次だろうと思っていた。

 朝食が終われば後は出所を待つのみであったが、これまで仲良くしてくれた仲間たちにお礼の言葉の一つも掛けたい気持ちを抑えつつ刑務官の姿を待っていた。

 信夫の服役は今回が初めてではなく、過去に何度も世話になっていたので、入所から出所に至るまで刑務所内での決め事は身体が自然に覚えてしまっていた。

 時計の針が8時丁度を指すと、迎えの刑務官がやって来た。6人部屋の舎房から処遇管理棟へと移動し、案内された部屋に入ると着替えが用意されていた。約2年間慣れ親しんだグレーの舎房着から入所した時と同じ私服に着替える。

 服役中の受刑者に対しての刑務官は非常に厳しい態度で臨むが、一旦出所が決まった者に対しては親しみの情を込めた優しい笑顔さえ見せて接してくれる。

 「信夫さん、あんたも懲りない人だけれど、今度こそこれを最後にね…」

 満面の笑顔を覗かせながら刑務官が優しく言葉を掛けた。

 「はい、ありがとうございます、もう二度と戻るような事は致しません」

 照れ笑いを浮かべながらそう呟くと、軽く頭を下げ刑務官に向かって一礼した。

 服役中に購入しておいた黒いボストンバッグに私物を詰め込み、出所の準備を整えた。刑務官の案内で出所式の行われる部屋に移動する。

 式場には既に副所長と幹部職員数人が整列して待っていた。出所式は何度経験してもやはり最も緊張する場面だった。信夫の額から大粒の汗が見る見る内に流れ出していた。

 少し震えながら宣誓文を読み上げる信夫。

 「他人を脅しめる行為を一切行わない事をここに誓います…」

 「今後再犯を繰り返す事なく、社会人としてしっかり生活の基礎を築くよう最大限努力致します」。

 上ずった声が式場に木霊し、宣誓文を持つ両手は震えが止まらず、信夫の身体は緊張の沸騰点に達しているようだった。

 形式だけの決まり切った宣誓文を全て読み終えると、信夫の顔に安堵の色が広がった。額から滴り落ちる汗を拭おうともせず、視線は真っ直ぐ副所長の口元に注がれている。

 その場の緊張した空気を解きほぐすかのような柔らかい口調の、然し重厚な副所長の式辞に耳を傾ける信夫。そして式辞が終わり、釈放通知書が交付され出所式は終了した。副所長と幹部職員たちが退室した後に、朗読した宣誓文に署名指印を押す。そして次に会計担当が報奨金と領置金の精算をしてくれた。

 服役中の労働に対して報奨金が受刑者に支払われるが、その金額は非常に少なく、1日当たり3~40円で、一年間無休で働いたとしても僅か1万4千円程度にしかならなかった。

 信夫が会計担当から受け取った金額は領置金と合わせて1万6千円ほどであったが、故郷の藤枝に帰る交通費と食費代としては十分な金額だった。

 「2年間、お世話になりました」と告げて深々と頭を下げる。

 「戻って来るんじゃないよ…」

 刑務官の優しい励ましの声に背中を押されながら出口へと向かう。一人の受刑者をその罪から解放するかのように、重い金属の扉の向こうには2年振りとなる娑婆が広がっている。静岡にいるであろう息子の顔を早く見たいと、心は既に息子の事で一杯に溢れ返っていた。

 ギィイイ…。鈍い金属音と共に分厚い鉄の扉が開く。開放を待ちわびたかのように、眩い光が一斉に注がれる。信夫の身体が娑婆の光に包まれた瞬間だった。まっさらな白いタオルをバッグから取り出すと、漸く額の汗を丁寧に拭った。

(後半に続く…)。



プールサイドの人魚姫-腎不全


 わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。

 心不全で入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。

 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置で、これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。

 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。

 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。

 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならない。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくてはならない。

 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800キロカロリー」であった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全で救急搬送。

 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテート)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に若干の変化があった。前回1800キロカロリーだったものが、1600へと僅かに減量されていた。

 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全で救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。

 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。

 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。

 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。

 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。

 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうようなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。

 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからであり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネルギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。

 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。これからもプールサイドの人魚姫と神戸俊樹をよろしくお願い致します。


プールサイドの人魚姫-歓楽街


あたしの生きざま歓楽街で

もたれる男の手を握る

恋や愛など要らぬもの

欲望ネオンの差すところ

深爪するほど切った指で

夜をまさぐる歓楽街


昨夜のナンバー踊り子で

あたしを出し抜くいい女

ピンクの口紅うるおす指先

胸のタトゥーは伊達じゃない

膨らみ過ぎた欲望が

踊るネオンの歓楽街

 


ビール 水割り ロックに煙草

煙と一緒に吸い込む噂

悪い男じゃないのだけれど

女遊びがたまにキズ

付かれた嘘は星の数

口先だけの歓楽街







プールサイドの人魚姫-アンパンマン

 国民的キャラクターとして子どもから大人まで幅広いファン層に絶大な人気を誇った「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし(本名:柳瀬嵩 94歳)」さんが、先日の13日に心不全のため亡くなった。

 心不全の症状が出ていた為ブログも暫く休止していたのだが、やなせたかしさんの死因が心不全と言う事であり心なしか穏やかではなかったが、94歳と言う年齢を考えれば大往生ではなかったかと思う。

 日本漫画家協会の理事長を長く努め、漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人と多くの肩書きを持つやなせさんと初めて出会ったのはわたしが16歳の時だった。

 当時、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり(チッチとサリー)詩画集」が女子中高生の間でブームとなっており、静岡の書店でも飛ぶように売れていたと記憶している。この頃、わたしはまだ詩を書くと言うまでには至っていなかったが、手紙を書くのが一つの趣味となっていたため、何人かの相手と「文通」をしていた。

 気に入った女性相手にはやはり気の利いた言葉を綴りたいと思っていたので、そのヒントを得る為に何冊かの本に目を通していた。そんな中で一際目立っていたのがサンリオから出版されていた『詩とメルヘン』であった。

 『詩とメルヘン』はやなせたかしさんが編集を担当した文芸雑誌で、一般人が投稿した詩やメルヘンにイラストレーターたちが挿絵をつけるという画期的な雑誌であり人気を博していた。わたしも何冊か購入し文通の手助けとしてお世話になっている。

 やなせたかしさんは上記の肩書き以外にも多彩な経歴があり、作詞・作曲も手掛け多分野で活躍しその才能を発揮している。作詞では『手のひらを太陽に』が代表作品である事は誰もが知るところであるが、「アンパンマン」以前には現在のようにそれほど注目を浴びるには至らなかった。

 アンパンマンが初めて登場したのは1969年であるが、その頃のアンパンマンは普通の人間と同じ姿であり、現在のそれとは大きく異なっていた。子どもだったわたしの記憶に全く残っていないのは、大人向けの絵本「こどもの絵本」に掲載されていたからだと思うが、当時、親だった人たちの記憶には残っているかも知れない。

 アンパンマンがどのような経緯を辿って現在の人気キャラクターになったのか、アンパンマン生誕44年と言う長い過去を紐解いてみるのも良いかも知れないが、忘れてならないのは「空腹の人にパンを届ける」と言う骨子が誕生から現在まで変わる事なく貫かれている事であろう。

 やなせさん自身が語っているように「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろう、と。そんなヒーローをつくろうと思った」は、やなせさんの戦争体験が背景になっているものと思われる。

 食料の乏しい戦地での過酷な体験により、人間にとって最も辛いのは「飢え」であると言い切るやなせさんの言葉は「命の継続」が如何に大切かを教えてくれているのではなだろうか。

 遅咲きのヒーロー「アンパンマン」はこれからもわたしたちに愛と勇気を教えてくれるに違いない。

 謹んでやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。


プールサイドの人魚姫-絶食

 数日前より体重が急激に増えてしまった為、心不全状態にあります。主治医の指示に従い薬の増量と食事のコントロールで様子をみようと思います。よって、ブログの更新を暫くお休み致します。

 読者の皆さまにはご迷惑をお掛け致しますが、回復するまで温かく見守って頂けると管理人も喜びます。

 管理人:神戸俊樹