對酒   白居易

蝸牛角上争何事
石火光中寄此身
随富随貧且歓楽
不開口笑是癡人
 



 
蝸牛角上争何事
蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)何事をか争ふ

カタツムリの角の上(のような狭小な世界)で、
いったい何を争っているのか。



石火光中寄此身
石火(せきか)光中(こうちゅう)此(こ)の身に寄す

(人の一生というものは、まるで、)
火打ち石から飛び出る(一瞬の)火花の中に
を置くようなものだ。



随富随貧且歓楽
富に随(したが)い貧に随(したが)って且(しば)らく歓楽せん

貧富それぞれなりに、
(少しの間だけでも)楽しく過ごそうではないか。



不開口笑是癡人
口を開いて笑わざるは是(こ)れ癡人(ちじん)

(せっかく酒を酌み交わしているのに)
口をあけて笑うこともしないのは、
大馬鹿者だよ。





『對酒(たいしゅ)』~酒に対す~ と題された、
中唐の詩人白居易(はっきょい/772-846)の七言絶句。

『對酒は五首からなる連作の詩で、
ここに挙げた詩は其の二になります。
(訳文はご参考までに)



閑適への希求。

五十八歳以後の白居易は、
(カタチの上では)官職に就いたまま、つまり
生活の保証はありながら公務のほとんどない、
言わば、
仕官と隠逸の中間=“中隠”の暮らしを、
とくに晩年は存分に満喫しました。

この詩は、そんな彼が洛陽の邸宅で、
自適な生活を送りはじめてまもないころの作品。



中隠の暮らしを可能なものとし、
またそれによって“こころのバランス”
保ちつづけた白居易。


隋代に科挙制度(官僚登用試験)ができてからは
それまで以上に、
男の子は幼いころから立身出世を期待され、
また自らそれを目標として学ぶことが常となり
ました。(現代の受験制度はその名残)

ところが、

社会にまぎれて味わうのは、理不尽や俗気。


思っていた世界とはまるでちがう実態。

自分の思うようにはいかないということを知る。



いつしかこころは疲弊し、拒絶しはじめ、
そこから逃れたくなっていて  ・  ・  ・

(当時の時代背景も考慮しなければなりませんが)

とはいえ、
そう簡単には棄官できない現実との狭間で。




“もっともっと” = “いま以上”を求める前に、
白居易は、

まずは“与えられた環境・条件”のなかで、
“いますでにあるもの”を再認識し、さらに、
自分の“こころの拠り所”を見つけだした。

それが詩作であり、読書であり、老荘観であり、
酒であり、茶であり、、、

それらは
“積極的逃避”の時間(心の旅)だった。



“できないこと”を探すのでなく、
“今できる最大”を楽しむ。



こころだけでも自由でありたい・・・いや、
こころはもともと自由なはず。

社会に出てから、
いつの間にかそれを忘れてしまっているだけ。


何かに“不自由”を感じたぶんだけ、
何かに“自由”を感じて。




“不自由”を知った人でしか、
“自由”を意識することはできないのだ。


白居易は『食後』と題した五言律詩の結句で
こんなことを言っています。


無憂無楽者
長短任生涯

憂いも無く楽しみも無き者は、
長きも短きも生涯に任す。と。


おなじ時間でも、
楽しい時間はあっという間に過ぎますが、
そうでない時間は長~く感じますよね。

“楽しい”を知ってしまうから、
“憂い”を知ってしまうわけで。

かといって、
もし“楽しい”しか存在しなければ、
それは“楽しい”ではなく、“ふつう”。


つまり、
“憂い”をなくせば、“楽しい”もなくなる。
(極論ではありますが、そうなります)


“憂い”も“楽しい”も突き詰めれば“おなじもの”。

最終的には“ひとつ”だと。



“憂い”も“楽しい”も無い境地に至れば、
一日、一年、一生は、“長い・短い”を超えて、
あとは天命に任せるのみ。


しかし実際は、

“憂い”も“楽しい”も無い境地には到達できない。

到達できそうにない、、、

到達できるわけがない、、、


がゆえの、渇望と諦観。



だから白居易は、
それをわざわざ詩にして吐露しているのです。

せめて“ことば”の中だけでもと。




老子『道徳経』によると、

天下すべての人が、美を美として知れば、
その反面である悪を知ることになるし、

すべての人が、善が善であると知れば、
そこに不善が生じることになる。


つまり“善”が無ければ“不善”も無い、と。
そして、

美と悪、善と不善ばかりでなく、
有と無、難と易、長と短、高と下、音と声に
ついても、相対立するものが生じ、

その対立する世界にいるかぎり、
それにしたがうことになってしまう。…と。


 
老子はけっして
“美”を否定しているわけではなく、
“善”を否定しているわけでもありません。

陰陽、そのどちらも含めて理解し、
その執着から離れる(忘れる)ことで、
“無”(有る・無しの無でなく、そのどちらもない
“絶対無”)の状態になれると。

そのためには、

“無為自然(無と為すは自ずから然り)




科挙を及第し、儒教を徹底して学んだ白居易が、
こうした老荘的なものの見方・発想をもって
詠っている。

憂いも無く楽しみも無き者は、
長きも短きも生涯に任す。


後世において多くの人々が、彼の詩を愛好し、
その生き方に共感しました。

ただ裏を返せば、どの時代もそれだけ、
“自分の思うような暮らしができている人は
非常に少ない”という実情も、、、

だからこその、歓楽」。


いまもなお
彼の生き方、そしてその奥に潜む思想や哲学が、
“憧れの対象”とされている所以です。



ちなみに私は、

たぶん、
生活を保証されたらされたで、だんだんそれが
窮屈になっていき、つまらなくなって、、、
やがてストレスになり、、、爆発する。

私は好き嫌いがはっきりしている上に、
外部からの拘束や制限を徹底して嫌います。
両立などとてもムリ。

どっぷりと、属した経験があるから、
今はどこにも属したくないと、強く思います。


もちろんしんどいと言えばしんどいです。
ですが、
不安定という名の、私にとってはそれが安定。

日々“新しい景色”が増え続けていますし、
毎日がスリルに満ち溢れています。
いつも挑戦(わくわく)の連続。

私はそれを思いきり楽しんでいます。





ところで、

白居易は、字(あざな)が“楽天”であることから、
“白楽天(はくらくてん)の名でも知られています。

魏晋南北朝時代の陶淵明(とうえんめい)
盛唐の李白に次いで、大の酒好き。
(お酒に対する趣は、現代とは少し異なります)

また茶好きでもあったので、
茶の詩も沢山つくっていますよ。


茶を喫することで、
“自由・不自由の世界”から解放され(忘れられ)、
陰も陽もない“無事(事無し)”の状態
己の感情をもっていくことができたのでしょう。

何気ない日常の中に、

“自由・不自由を超えた真の自由”を感じて。



彼の詩文を集めた『白氏文集(はくしもんじゅう)
は、『枕草子』に登場するなど、
日本の平安文学に多大な影響を与えました。

中でも、
玄宗皇帝と楊貴妃の切ない恋物語を“比喩”した
『長恨歌(ちょうごんか)は大作です。

あの紫式部もこの『長恨歌』から影響を受け、
長編小説『源氏物語』を書き上げました。


『長恨歌』についてはこちらの記事でふれていますよ  ↓



“器の小さな者(小人)同士の争い”や、
“些細な事で言い争うこと”の喩えとして表される
ことわざ、
“蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争い”は、

『荘子(そうじ)の則陽(そくよう)篇に出てくる、
男が王に戦争の愚かさを説いている話──

カタツムリの
左角の上に国をつくっている触(しょく)氏と
右角の上に国をつくっている蛮(ばん)氏との、
愚かな争いによって、数万人の命が消えた
という寓話が、
その出典となっています。


白居易はこの『荘子』の寓話に倣い、
詩の起句に
「蝸牛角上争何事」と引用しています。



大事なのは、

これはけっして
架空の世界のどこかの国の出来事を詠ったもの
ではなく、

白居易は
“暗喩”(時の君主に対する進言)として、
この詩をつくった(であろう)ということ。


くだらぬ政争をとても見ていられなくて・・・




そして承句、
「石火光中寄此身」で表現された“石火(せきか)

それは
人生というものが如何に儚いものであるかを、
的確に、冷静に、捉えています。


人生とはまさしく諸行無常




明日、
今日とおなじ朝がくるとはかぎらない。

いつかまた、
今日とおなじように会えるとはかぎらない。


しんどいことを言い出せばきりがないし、
不平不満を並べ立てるだけでは何も解決しない。

狭い視野で、ああだこうだ言ったところで、
こころはいっそう虚しくなるだけだ。


それよりも、
今すでにあるしあわせに気づいたなら、

このひとときくらいは、まあ楽しく飲もうよ。


しょうもないことで
自らこころを揺らす暇があったら、

今をより楽しめるよう工夫しようよ。




いつの世も、

ごく少数の、支配者、権力者、王侯貴族たちの
くだらない争いに、
多くの一般庶民が巻き込まれ、犠牲になる。

挙げ句、
搾取ばかりされ、真実は隠され、破壊され、
歴史は都合のいいようにねじ曲げられ ・ ・ ・


人の本質は、なんにも変わっていない。



そう思うと、

感覚的にではありますが、
“楽しめるときはとことん楽しむ”という言葉の
深意がわかるような気がします。


“歳月人を待たず”


ただ楽しむのではない、

楽しむにも一所懸命に。徹して。




この社会になんの疑問も抱かず、
ただ頷き、
ただしたがってばかりいるということが、
如何に愚かなことか。

如何に愚かな時間を過ごしているか。



たとえ一日でも、一時間でも、一分でもいい、
その刹那、
いま楽しめるときに楽しもうとしない者は、
白居易からすれば、

“大馬鹿者”

と言われても、仕方ない。



おなじ瞬間、おなじ機会というのは、

もう二度と訪れないのだから ・ ・ ・ ・ ・ ・







壬寅 春分後五日
KANAME


参考文献
・白楽天 東洋の詩とこころ 片山哲 著  教養文庫 1960年
・漢詩を読む③ 宇野直人 / 江原正士 著  平凡社 2011年


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