桃紅復含宿雨
桃は紅にして 復(ま)た宿雨(しゅくう)を含み

紅く染まった桃(の花)は
昨夜からの雨をたっぷり含み、



柳緑更帯春煙
柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ

緑に芽吹いた柳は、さらに、
春霞(はるかすみ)を帯びています。



花落家僮未掃
花落ちて 家僮(かどう) 未だ掃(はら)わず

桃の花びらが(庭先に)散り落ちているが、
使用人はまだ掃除していないようだ。



鶯啼山客猶眠
鶯啼(な)いて 山客(さんかく)猶(な)お眠る

鶯が鳴いているというのに、
隠棲生活をしている私はまだ寝ている。





「田園楽(でんえんらく)と題された、
中国盛唐の詩人、王維(おうい/699-759)の詩。
六言絶句でつくられた珍しい作品です。

訳文は参考程度に。



起句と承句が対句になっていますよ。

桃紅復含宿雨
柳緑更帯春煙


“柳は緑、花は紅”
(柳の葉は緑に、桃の花は紅色に)

これは、
自然の“ありのままの姿”を表現した
よく知られた春のコントラストですが、
王維はそれを別視点からとらえていますよ。



何でもない、
雨降り続いたあとの朝の一コマ。


どんよりとした空模様。

水滴に覆われ霞んだ景物。

辺り一帯が白くぼんやりとしていて。



思わず動かされたこころ。

目の前の情景と感情の機微にふれ。



鮮明な世界と対極にある“幽かな世界”

それを“もうひとつの美”としてとらえた、
しっとりとした静けさを感じさせる作品です。



おなじものを目にしても、
シチュエーションが異なれば、
見えかたや感じかたはまったくちがってくる。




文字から情景をイメージしてみてください。


雨で散った花びらが地面を桃色に染めあげ、
みずみずしく、重たく、へばりついている。

春の霞を帯びた柳の葉はうっすらと、
奥で緑を放っている。


これもまた、意図を持たぬ自然の
“ありのままの姿”であることには変わりない。

これも、春。
春のワンシーンではないか。


花びらは落ちたままでいい。
別にかまわない。

そう思えてきた  ・  ・  ・


そのままで。自然のままで。

人の手を加える(ムリにいじる)必要はない。


私も自分のこころにしたがい、
このままもうしばらく横になっていよう。



王維の“心のありよう”が、
こんなふうに私には伝わってきましたよ。
(正解は王維に訊かないとわかりません…)




そして結句、

鶯啼山客猶眠

“もう鶯が鳴いているというのに、
山に棲む私はまだ寝ている


まるで“自分は起きたいときに起きられる”
“まだこうして寝ていられる”と言わんばかりに。



“時間”というしがらみに拘束される必要のない、
世間の煩わしさから解放された(距離をおいた)
閑適な暮らしぶり。

そうした、王維の、
“ありのままの(自分に合った)生きかた”
できていることへの充足と自負が窺えます。



本来ならなんでもない“当たり前のこと”が、
社会では、人の勝手な決めごとや、
統一されたおかしなルールによって
当たり前にはできなくなっていて、、、

気付くと逆転していて、、、


“おかしい”が当たり前になっていて、、、



なにかに縛られているぶんだけ、
当たり前が“特別なこと”のように感じられて。



起きなければいけない理由など
どこにもないのだ。

落ちた花びらも、
掃きたくなったら掃けばいい。


鶯だって、鳴きたいときに鳴く。

ならば私も、
起きたいときに起きる。


たったそれだけのことなのだが・・・


私にはこの上ない喜びに感じられる。




“不自由”知っての“自由”の実感、でしょうか。

この詩にふれるたび、
同じく唐代の詩人で「王孟」と並称され、
王維と親交があった孟浩然(もうこうねん/689-740)
五言詩「春暁」が思い出されます。

あくまでなんとな~くではありますが、
この詩と雰囲気が似ていて。


また、
唐代の詩人(とくに半官半隠)たちの発想の発端、
憧憬の対象には、やはり、
隠逸詩人、田園詩人と呼ばれ、自然を愛した
魏晋南北朝時代の詩人、
陶淵明(とうえんめい/365-427)の生きかたや、
その作品の影響が色濃くあり、

世間で苦悶していた淵明の心の置き場であった
“精神世界”をはじめ、
代表作『桃花源記』にみられる、淵明が描いた
“別天地”の表現が、淵明以降の(隠者風)詩人の
作品には多くみられます。

李白(りはく/701-762)の七言詩「山中問答」も、
淵明の『桃花源記』を意識してつくったものと
されています。




社会で味わう不条理。
矛盾だらけの世の仕組み。

いつの間にか、“離俗”を求めていた。

自然に還ろうとしていた。


“本来の自分”を取り戻そうと・・・



しかし、
なかなかそうはいかないこのもどかしさ。


その“ひずみ”が、
詩となり、表現となって。


彼らに共通するもの・・・





ささやかなところに四季を感じられるのは、
こころが健全である証拠。


社会のリズムに合わせすぎると、
そうした自然界の微細な変化や情景に、
気づく余裕すらなくなってしまう。

知らないうちに、
感覚はどんどん鈍くなっていて。



季節は人から教わるものではなく、
自分で感じ取るもの。

その感じかたが、人それぞれ異なるだけで。




目に映る景色は、
“こころの状態”によって変わってくる。

こころの状態は、
“目に映る景色”によって変わってくる。


“何気ない日常の一瞬”を、けっして見逃さない。





当たり前が当たり前じゃなくなったときから、
人は自然を“自然”として、
自分たちと区別(対峙)しはじめた。

人は“不自然”であるがゆえに、
その対極にあるもの(=自然)に惹かれてしまうの
だろうか。
自然との同化を試みようとして。



不自然な世を知り、、、

不自然な生きかたを覚え、、、






“ありのままの自分”でいることが難しいから、

“ありのままの自分でいたい”と、強く思えて。



社会の中に自分を置くのでなく、
自分の頭の中に社会という枠組みがある、だけ。



“こころはいつも塵外にあるのだから ”




壬寅 春分前夜
KANAME


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