結廬在人境
廬(いおり)を結んで人境(じんきょう)に在り

(私は)人里に庵を結び(粗末な家を構え)
暮らしている。




而無車馬喧
而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し

それでも、
車や馬の往来する(役人どもの路を通る)騒々しさ
(やかましい音)に煩わされることはない。




問君何能爾
君に問う  何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと

“どうして、そうやっていられるのか”と
問われるが、(自問自答)




心遠地自偏
心遠ければ  地自(おの)ずから偏(へん)なり

心が(俗界から)遠く離れていれば、自然と、
住む処もそのような場所となるのだ。




採菊東籬下
菊を採る  東籬(とうり)の下(もと)

東の垣根のもとに咲いている菊の花を採り、




悠然見南山
悠然(ゆうぜん)として南山を見る

悠然と南山を見る。
(ゆったりと落ち着いた心地でふと目を
上げると、はるか南方には廬山の姿が見える)




山気日夕佳
山気(さんき)  日夕(にっせき)に佳(よ)く

山の佇まい(気配や雰囲気)夕暮れ時が
最もすばらしく、




飛鳥相與還
飛鳥(ひちょう)  相(あい)与(とも)に還る

飛ぶ鳥は連れ立って
(山のねぐらへと)帰ってゆく。




此中有真意
此の中に真意有り

このなかにこそ(こうした自然のなかに)
人間の本来の(あるべき)姿がある。




欲辨已忘言
弁ぜんと欲して已(すで)に言(げん)を忘る

そのことを説明しようと思ったが、
忘れてしまった。
(その意を言葉にしようとしたが・・・
もうどうでもよい)





魏晋南北朝時代の詩人、文学者
陶淵明(とうえんめい/365-427)の代表的な五言古詩。

『飲酒』二十首 其五です。




日常生活に即した詩文を多く残した陶淵明。


“ありのままの日常”を、時に面白おかしく、
時に深刻に、時に不満や皮肉たっぷりに、
時に切実な願いを込めて。

主体と客体を自在に交錯させる彼の詩風は、
日本の文学にも大きな影響を与えました。



“拙くも誇り高き自身の率直な胸の想い”

“政権や貴族(世の中)に対する反骨精神”


棄官し田園で隠者(のような)生活を送りながら、
実生活をより克明に詩で表現しはじめたのは、
この陶淵明からと言っても過言ではありません。



自然を愛し、大の酒好き。

隠逸詩人田園詩人と呼ばれ、
死後に友人から贈られた「靖節(せいせつ)」という
(おくりな/死後に贈られる称号)にちなみ、
後世には靖節先生と呼ばれたり、

また自伝的作品「五柳(ごりゅう)先生伝」から、
親しみをこめて五柳先生と呼ばれたり。

(淵明の家の庭には一本の松の木と
五本の柳の木があったそうです)



陶淵明の詩文で
一般的に広く知られている作品といえば、
やはり『桃花源記(とうかげんき)でしょうか。


これは伝奇小説になりますが、
『桃花源記』(この基となる物語には諸説ありますが)
のなかには、

戦乱の世を逃れてきた人たちが隠れ暮らす村、
外界と隔絶した争いや搾取のないもうひとつの
現実世界

(またはそこから転じて、
地上のどこかではなく、誰もが既に知っている
心の奥底に存在している世界を指す場合も)

がでてきます。

“桃源郷(とうげんきょう)です。



李白はそこを“仙境”と呼び探し続けました…

“パラダイス”ではありませんよ、
“理想郷”とも少し意味合いが異なるのですが。


探そうと意識するとかえって見つけられない…

どうやら
そうした“別天地”があるようです。



物語を読みすすめると、

“別天地”とはいっても…そこは、

平らな土地が広がり、家屋が並び、田畑があり、
池があり、桑や竹が生え、路は縦横に通じ、
鶏や犬の声が聞こえる・・・、

“何でもないのどかな里山の風景”

“どこにでもある景色” であって、


それは
“何でもない日常そのもの”、なのですが、、、



ただひとつ異なるのは、


そこではお年寄りも子どもも、
みな楽しげに暮らしていること。

“笑顔の絶えない場所”なのです。



それは、

淵明が求め続けた“人間本来の暮らし”

“それ以上でもそれ以下でもない穏やかな日常”
比喩した世界であるとも言えるでしょう。




この記事の冒頭に挙げた『飲酒』二十首其五は、

淵明が三十八歳の頃、
まだ役人として人里に住んでいた時期に詠った、
これも大変よく知られた詩です。


『飲酒』二十首→ “酒を飲みながら詠う二十首”
其五です、


結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
採菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相與還
此中有真意
欲辨已忘言



心遠地自偏
心遠ければ  地自(おの)ずから偏(へん)なり


大意は、

どこに居ようとも、
自分自身の心がのどかであれば、自然と、
目に映る景色、聴こえる音は、
心に応じたものとなる。


私が
常日頃から大事にさせていただいている言葉
この詩に出てきます。



多くの伝説的な隠者がそうであるように、
隠者は山奥を好み人里には住みません… が、

淵明は役人として人里で暮らしながら、
そうした“隠者(風)の生活”を送っています。


(時代背景も大きく影響していますが、)

この姿勢態度については、
文献により様々な見解がなされており、
研究者の間で意見が溢れるところ。

彼の複雑な心情実生活については、
他の詩文でも言い尽くされておらず、
推測の域を出ない部分も多くあります。



この詩からは、
彼の、隠者への深い憧憬が窺い知れますし、


また、詩意を汲みとるに、

“理想の境地を言葉で表すことで解消される
わだかまりのようなもの”
あったのではないかと思われます。



私見に過ぎませんが、

もしかしたら、
車や馬の往来する音が、“気になって気になって
仕方なかった”のかもしれません。


(やかま)しい!と、
むしろ心を揺らされる自分がいたからこそ、

負け惜しみを含んだやや高踏的な感情で、
それを詩中でわざわざ対象化させ、
理屈の上で見事に解決させたのではないかと。


あくまで“事後的な振舞い”として、
その都度心を遠くにやろうとしていた、

“隠者の境地に達したいのだが…なかなか…” と、
苦心していたのかもしれません・・・



働かなければ家族を養っていけない現実。

仕官したものの時世に適応できない自分。

とても“隠者生活”とは言えない実情。



その矛盾した日常がもどかしく、

しかし“そうした自分を肯定してやれるのも、
また自分なのだ” …と、

自己を凝視しては
自身を爽快に“フォロー”し続けた淵明。


だからこその、心遠地自偏



いま私は人里で暮らしてはいるが、
“心はいつもそこから遠く離れたところにある”

“だから何も気にならない”

“心の有り様ひとつなのさ”




問君何能爾
心遠地自偏


問答形式の表現(ここでは自問自答)を用いる
ことで、
“矛盾した日常”を自らあえて鮮明に浮き出させ、


さらに続けて「心遠地自偏」と、

漱石沈流をする。


自問への自答(ひとつの理屈)を挿入することで、
自己に内在する不一致を調整しているようにも。


とても人間味を感じます・・・




そして、次の二句、


結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
採菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相與還
此中有真意
欲辨已忘言



採菊東籬下
悠然見南山

東の垣根のもとに咲いている菊の花を採り、
ゆったりと落ち着いた心地でふと目を上げると、
はるか向こうには南山の姿が見える。



一般的にはこのように解釈されることが多いの
ですが、

ここで二つ、悩ましい部分があり・・・それは、
文献(辿れる記録)によっては、

「悠然南山」 悠然として南山を見る
「悠然南山」 悠然として南山を望む

というように、

「見」と「望」にわかれる点です。

たいしたちがいではないように思われますが、
情景が変わってきますよ。


「見」は、
ふと目をやる、目に入るといった意味合いに。

「望」は、
意識して見る、惹かれるといった意味合いに。



そしてもうひとつ、

「悠然」は、
淵明にかかるのか、南山にかかるのか、
というところです。

果たして
悠然としているのは淵明なのでしょうか、
それとも南山の姿なのでしょうか。


仮に、
悠然としているのは南山だとして、さらに、
悠然南山と置き換えた場合、

悠然として南山を見る → 悠然たる南山を望む
“悠然と佇む南山の姿を望む” …となります。


意味合いが大きく変わりますよね。
私は、、、こちらのような気がするのですが。

これについては、
石川忠久『陶淵明とその時代』
第二節「見南山」と「望南山」 P.150-165 
詳しく取り挙げられています。


しかし最終的な結論においては、
やはり淵明に訊かないとわかりません・・・




この「南山」とは、

長江の南にある廬山(ろざん)のこと。
現在は世界文化遺産に登録されています。


中国の数ある名山の中でも、
とくに絶壁から落ちる瀑布のすばらしさで
名を知られる廬山。


そこには大小合わせて百以上の峰々があり、
雨や霧が多く、雲海の上にそびえ立つ様子は、

まさしく理想的な山水(画のような世界)として、
また仏教や道教の霊山として、仙界の地として、

淵明以降も、李白や白楽天や蘇東坡…
多くの詩人が心を寄せてきました。


意外と、日本列島に近いんですよ。
私の行きたいところリストにも入っています。


写真集『中国廬山』より ↓




きょうもまた
東の籬(まがき)で菊の花を摘み、酒に浮かべて、

西の空から射し込む夕陽に染められながら、
遥か遠くの廬山を望む。


不変にして雄大、無言にして圧倒的。

いつ如何なる時も揺らぐことなく、
悠然としていて、

“自分の居場所”をわきまえている、廬山よ・・・



同じく
“自分の居場所”をわきまえている菊の花。

(陽中の陽から陰中の陽へと移ろう季節、)
多くの花が枯れてゆくなか、


おまえはいつも凛としていて、
ひっそりと静かに、堂々とそこに佇んでいる。

私も、そうありたいのだよ・・・




余談ですが、

菊の花は、
中国語で「菊 (ju2)」と「居(ju1)」がほぼ同音
であることから、

就く、住む、留まる、落ち着くの意味を持ち、
隠棲・隠逸の象徴的な花として好まれます。


日本に伝わる文化、

“菊”と言えば ・ ・ ・ “陶淵明”なのです。




さて
この『飲酒』二十首其五に続いて、其七で、
彼はこう詠っています。(前半部分のみ抜粋)


秋菊有佳色
衷露採其英
汎此忘憂物
遠我遺世情


(黄色に)美しく色づく秋菊。
露で潤った香りのよいその花びらを摘み、
忘憂の物(= 酒)に浮かべると、
私から世間の俗事を遠ざけてくれる。

(私の想いはより一層深いものとなるのだ)



昨日の記事『重陽』でも少しふれましたが、
昔から
菊は“霊草”として信じられてきました。



かたちあるものいつかはなくなる。

生まれたかぎり死からは逃れられない。


“天命には逆らえない”



淵明は、
菊の花びらを諸行無常なる人生のツマとして、

“忘憂の物”に浮かべてはひとり味わうのでした。


その仙薬に、深い祈りを込めて  ・  ・  ・




陶詩をはじめ
「菊」が出てくる詩文は数多くありますが、

そのひとつに、

(ここではそれを表現した人物側)の歴史の
原初に登場し、
淵明が師として仰ぎ見ていた、
屈原(くつげん/前343-前278/中国戦国時代の楚の政治家、
詩人)の詩が思い出されます。


『楚辞(そじ)(楚の国でつくられた詩集で、
『詩経』と並ぶ中国古代の二大歌謡集のひとつ)の中に
収められた屈原の長編詩

『離騷(りそう)(“悩みにとりつかれる”)に、

こんな一節が…



朝飮木蘭之墜露
夕餐秋菊之落英


朝にはモクレンに降りた露を飲み、
夕べには秋菊の花びらを食べる。

(私はそうやって過ごしています…)



対句で表現されたこの一節、

これが事実かどうかということよりも、

自身を貫いて生きていくことの“象徴”として、
彼はこう表現したのだと思います。



憂国の情。

後に“愛国詩人”と呼ばれたほど、
屈原は他のだれよりも忠臣であったがゆえに、

免職され、追放され、絶望を味わい、、、

そして自ら、
切なく不遇な生涯の幕を閉じた・・・


もはや目的としてではなく“結果”として、
募る憂いを詩文で表現し訴えるしかなかった。



悲哀に満ちた人生。


屈原の“生き方”“吐露したことば”は、
その600年後の時代を生きた陶淵明をはじめ、
さらにそこから1500年の時空を超えるなかで、

多くの詩文に溶け込み、

数えきれぬ共感を蓄え、

幾度も温めなおされ、


そして、

“いま”を生きる人の心にまで訴えかけてくる。




人のことばに古いも新しいもない。


その“精神”は、生きつづける・・・




宇野直人・江原正士著『漢詩を読む 1』
『詩経』、屈原から陶淵明へ P.53-54

(前略)
近代に至るまで中国の知識人には一つの行動パターンが
あって、自(みずか)らの学問見識を懸命に磨いて天下社会に
尽くそうとする、ところがとかく自分の思うとおりには
ゆかず、やむなく詩や文章を書いて志を述べる境遇に陥る。
そういう軌跡をたどる人は多く、李白や杜甫も例外では
ありません。そういう人たちは常に「離騒」に戻り、
その内容に共感して作品を作った。つまり「離騒」は
後世の大きな手本になっているというわけです。(後略)

(引用ここまで)


“やむなく詩や文章を書いて志を述べる境遇に陥る

何年も前、
この表現と遭遇したあの瞬間、私は、
まだ読み出して5分も経たぬうちに、
本を開いたまま伏せてしまっていました・・・



屈原については、

↑ こちらの記事でも少しだけふれていますので、
よろしければあとで覗いてみてください。





淵明は
わずか十二年の間に五度も出仕しています。

どうも長続きしないようですね。


役人として人里で隠者(風の)生活を送りながら、
ついには(そうした自分にも)耐えきれず、
(いくつもの理由や出来事が重なり、)

四十一歳の時、仕事を辞め故郷へ帰ります。


それからの後半生は、
官界に復帰することはありませんでした。


現代の常識や世間体からすれば、彼は、
“敗者”“負け犬”になるのかもしれませんね。

しかし・・・



高橋徹著『帰去来の思想』陶淵明ノート  P.78
には、こんなふうに記されています。

はじめから隠逸の民として生きようとするのであれば、
淵明にはもっと別の途があったかもしれない。しかし、
彼は矛盾をおのが身の上に引き受けて、そのうえで
自分の政治的志向の未熟さを恥じ、「本心に順う」ことを
求めたのだ。五回も仕官したというところに、彼の一家の
家長としての誠実さを見てとるべきなのである。
女房的リアリズム風に、出仕してもすこしも長続きせず、
気分の赴くままに辞任してしまうのを、彼の甘えと脆弱な
性格として指弾すべきなのではない。五回の出仕には
つねに上昇志向がはたらいていたにちがいない。だが、
上昇志向を抑制し、無化してしまう側の志向を、
彼はより強く現実のなかではぐくむ結果をもったのである。
下降しても、生きるほどのことは可能である、といった
自信が彼に生まれてあった。
対他的に、糊口をしのぐために政治勢力の驥尾に付して
右往左往することをやめて、田園の耕植に身を置くことを
決意して腰を落とした構えをみいだすことを、
彼は選択したのである。

(引用ここまで)




その時代、彼と同じように苦悶していた人は
他にも多くいたはず。
それなのになぜ、
彼の名が突出して今日まで残ってきているのか、

それは“ロマンチスト”である彼が、
その心情を沢山の詩文で表現したからです。



ただし、
ここで捉え違えてほしくないのは、

(当時は“詩人”という職業はなく、あくまでも、
後世の人がわかりやすくそう呼ぶだけで、)


詩を作る(ことばを組み立て表現する)ことは、

(当時、詩作は“修養のひとつ”でもあり、確かに
“創作表現”としての、文学性や芸術性の一面も
ありましたが…、でもそれ以前に、)

心の内から湧き起こる“自発的行為”であり、
自分の率直な心情を外に訴える“術(すべ)”でも
あります。


よって、

陶淵明というひとりの人間を、
単に“詩人”と位置づけ、詩人の世界に包括させて
しまうことに、
私はいささか違和感を覚えます、が、

それはともかく、

詩という形式を借りて表現した彼のことば
(たまたま…いや必然的に)葬られることなく、
民衆の心に留まり続けてきたという事実は、


逆に言えば、

それだけ天下太平の世が訪れぬまま、
人は歴史を繰り返してきたという示唆であり、


淵明とおなじように、

社会に出てから、
“不条理”“失望”を味わう人が多くいたことは
想像に難くありません。現代においても。



日常的であり情緒的であり、
普遍性を帯びた淵明のことば、その精神は、

後世において
おなじような人たちの“心の支え”となり、

“処世術”となり、

“逃げ込み場”となり、


共感を生んでいきました。




不条理失望というものを味わったことのない
人には、
なにも響かないのでしょうけれど…




結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
採菊東籬下
悠然見南山
山気日夕佳
飛鳥相與還
此中有真意
欲辨已忘言



欲辨已忘言
弁ぜんと欲して已(すで)に言(げん)を忘る

そのことを説明しようと思ったが、
忘れてしまった。

(その意を言葉にしようとしたが・・・
もうどうでもよい)



そして
詩の結句にやってくるこの表現、

これは実際に“忘れた”というよりも、


“言葉では表しきれないこの気持ち(感覚)”を、
わざわざ二次的な生産物である言葉を借りて、
これ以上
“外”に対して説明を続けるという行為が、
もはや馬鹿馬鹿しく(もういいやと)思えてきた、

なぜなら、

“私の心はもう次へと向かっているのだから”


といったニュアンスでしょうか、、、
それくらい

“自分の胸中はさっぱりとした状態にある”


それを強調するための表現だと思われます。




“弁ぜんと欲して已(すで)に言(げん)を忘る”

淵明のこの言葉に、
私は少なからず支えられています・・・




昔と今とでは“常識とされるもの”や、
目に映る“カタチ”は大きく異なりますが、

人の本質は、それほど変わらない。


この不自由で複雑で窮屈で閉鎖的で空虚な
おいて、
(感じ方は人によりますが)

長い年月を経て
“ずっと残ってきていることば”は、


私にとっては、

その辺に転がっているどの売れ筋の新刊よりも、
“役立つ情報”と謳い発信されるどの情報よりも、


重く、

深く、深く、深く ・ ・ ・   心に響きます。





“自分が生きやすい世界”


“あるがままの姿”




“がんばればかりが答えじゃない。

選択肢は無数にあるのだよ


…と、

陶淵明は教えてくれます。




「その二」へ続く・・・



辛丑 重陽前日
KANAME


参考文献 :
松枝茂夫・和田武司訳注『陶淵明全集』(上下巻  岩波書店 1990)
石川忠久『陶淵明とその時代』(研文出版 1994)
高橋徹『帰去来の思想』(国文社 2000)
和田武司『陶淵明 伝論』(朝日新聞社 2000)
伊藤直哉『「笑い」としての陶淵明』(五月書房 2001)
安藤信廣・大上正美・堀池信夫編『陶淵明 詩と酒と田園』(東方書店 2006)
宇野直人・江原正士『漢詩を読む 1』(平凡社 2010)



【関連記事】

2021年9月7日 投稿

2021年8月22日 投稿

2021年5月1日 投稿

2021年4月24日 投稿