こんにちは( ´ ▽ ` )ノ



今日は一日雨のようですね。


文房で書を読み、
閑に過ごします・・・・・・お茶



晴耕雨読とは言われますが、

“読むこと”・“知ること”


それ以上に、



古い本を手に取って、


“触れる”・“開く”という心地よさ…



紙の香りや感触…


開いたまま伏せておく時間…


著者との心的距離…




それはまさしく


ひとりで楽しめる“時間旅行”・・・






現代は

傍に本がなくてもスマホやパソコンで

瞬時に文字を拾うことができます。


便利な世の中です。



そのぶん、

自ら思索したり想像したりする時間は

少なくなってきました。


“情報”を受け取るばかりで、


“知ること”に夢中で。




明日何が起こるか、

1年後に常識がどう変わっているか、


言い切れる(わかる)わけないのに。



“明日すぐに役に立つ知識”は、


明後日には要らなくなるかもしれないのに。





さてさて



たまには時間を忘れ、


“役に立たない話”でもいかがですか。




今日は古代中国の故事をひとつ。
(お時間ある時にゆっくりと

想像を膨らませながらお読み下さい)



人里離れたところで自適に暮らそうと
思っていた晋の孫楚(そんそ)は、
その意を親友の王済(おうせい)に告げました。


ところが、


「流れに漱(くちすす)ぎ石に枕す」

と言わねばならないところを、

うっかり
「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまった。


すぐさま王済が、
「そんなことはできることではない」
と指摘すると、


孫楚は

「流れを枕にするというのは、
昔の隠者の許由(きょゆう)のように、
つまらないことを耳にしたときに、
自分の耳を洗うためだ。
また、石で口をすすぐのは歯を磨くためだ」


と、うまくこじつけて言い逃れた・・・



この故事から、


こじつけること言い逃れをすること
負け惜しみの強いことを表す言葉として

「漱石枕流(そうせきちんりゅう)


が用いられるようになりました。


出典:『晋書』(楚書)「孫楚伝」




「漱石」と言えば…  


文豪夏目漱石「漱石」という雅号でも
有名ですね。

“自分の意見や書くものはすべてこじつけ
であり、負け惜しみだ”


という寓意をもってつけたとされています。





「流石(さすが)という言葉がありますが、

辞書を引くと…


「流石」

いかにもそんなことをやりそうだ、という
予想にそむかないようすをほめて言うことば。



「流石に」

①なんといっても…だけのことはある、
 というほめる気持ちをあらわすことば。

②…ではあるが、なんといっても限界がある、
 という気持ちをあらわすことば。


『三省堂国語辞典』参照




「さすが」という語に「流石」という漢字を
当てたのも、

孫楚の逸話が源流にあるようです。


“さすがにうまく言い逃れた”の意から。



「漱流枕石」と言うべきところを
「漱石枕流」と言い誤ったことから生まれた
この“ことわざ”。



このお話の中で、孫楚の口から出た

許由(きょゆう)という名の人物。


許由は、

古代中国・三皇五帝時代の“伝説の隠者”と
いわれています。


私欲が無く、清廉な人格の持ち主として

知られていた許由の噂をきいた

当時の尭(ぎょう)帝が、

帝位を譲ろうと許由に申し出たところ、


それを聞いた許由は川のほとりに赴き
“汚らわしいことを聞いた”と、
水の流れで耳をすすぎ、
そのまま山に隠れてしまいました。

それ以後、
許由が山を下りることはありませんでした



・・・ ・・・ ・・・



・・・ ・・・ ・・・




許由の人物像を窺い知るこんな話もあります。


許由は山に隠れ棲む際、

水を飲むための器を手にしておらず、

水を飲むときは川の水を手で汲み上げて

飲んでいました。


あるときその様子を見た人が、
彼に一個の瓢(ひさご)をあげました。

許由は、一個の瓢をもって水を飲む道具とし、
飲み終わると

瓢の紐を木の枝に掛けていました …が、

それが風で動く声(音)が次第に煩わしくなり

……
終いにはその瓢を棄て去ったそうです。



“変わり者”と言えば変わり者。
でも、

“わかりやすい”と言えばわかりやすい人間。

私は好きです。


正直すぎるのでしょうかね。





さて、話は戻り…


許由が川の水で汚れた耳をすすいでいた
まさしくそのとき、


川の水を牛に飲ませようとやってきた

巣父(そうほ)は、
許由が耳をすすぐのを見て、
“牛に汚れた水は飲ませられない”と言って
その場を立ち去りました。


許由と同じく、
巣父も尭帝から同じ話を持ち掛けられ、
それを拒絶した高士のひとり。

これは

「許由巣父(きょゆうそうほ)という画題で、
掛軸の画などにもみられます。





「漱石枕流」と言い誤ったことを

うまくこじつけた孫楚は、許由にまつわる

この逸話を

知っていたからこそ、


王済に対して即座に
“言い訳”できたとも言えますね。さすが…




許由のように
正直に生きられたらなぁ・・・
 
と思います。
 


あくまで私の“理想”にすぎませんが…
 
 
  
俗世間で暮らしていると

つまらぬ話を耳にしたり、

 (何をもって‟つまらぬ”とするかは
人それぞれですが・・・)


 
目にしたくなくても

目にしてしまったり、



だから
 
私はときどき山へ行く・・・
 



山へ行って


瀧の音(真実の音)で耳の根を洗う・・・・・・


 


山へ行けない時は?
 
 
 
「心遠地自偏」
心遠ければ地自ずから偏なり
 
 
心が俗界から遠く離れていれば、
自然と
見える景色や聴こえてくる音、
自分を尋ねてくる人はみな
それ相応になってくる・・・
 
心をどこに置くかで、
自然と
気持ちは変わってくるし、
振舞いも変わってくる。
まるでそこにいるかの如く・・・
 
 
これも
“こじつけ”と言われれば
そうかもしれませんね  ( ´_ゝ`)笑
 


それでも・・・・・・





2021.04.29 雨
KANAME