アハラトのセルジューク墓地👈を見終わったあと、向かったのは念願のマラズギルト Malazgirtでございます‼️
憧れでしたが、アクセス悪い上に何も見るものないからと、なかなか来れなかった場所。
今回、車を手配してくれた現地旅行会社にも
「本当に何もないから、わざわざ行く人いないよ✋」
「ヴァンから4時間もかかって遠い、時間のムダだよ👋」と、
熱心に止められました😅が、
「妻がセルジューク・マニアなんで、行かないと納まらないんです!」
とオットが説得し、日程にねじ込んで頂きました。。。。
というわけで、は〜るばる来た〜ぜ マラズギルト〜!!
ここは、大セルジューク朝とビザンツィン帝国がぶつかりあった、
「マラズギルトの戦い Malazgirt Meydan Muharebesi 」が行われた場所なのでございます。
この戦いが、セルジューク側の大勝利🙌に終わったことで、
中央アジアからテュルク系の遊牧民がどどどーーーっとアナトリア半島に(はてはアラビア半島へまでも)流入する、歴史的ターニングポイントとなりました。
歴史に「もしも」はないですが、この勝利がなければ、
アナトリアのテュルク化、のちのオスマン帝国の誕生も無かったかもしれないし、
今日のトルコ系民族の分布図や、現トルコ共和国🇹🇷の場所も、
まったく別物になっていたかもしれない。
日本史でいう壇ノ浦とか関ヶ原かそれ以上の、歴史的重大事件なんです。
そんな、セルジューク史好きとしては詣でずにいられない場所に、やっと来れたわけです❣️
市内に入ると見えてきたのは、マラズギルト城塞 Malazgirt Kalesi
10世紀にビザンツィン帝国に築かれたもの。
ただ市自体は、だいぶ寂れた感じで「あの有名なマラズギルトが今はこれ?」と、一同びっくり。
まぁ昔から大都市ではなく、広い草原があったから戦場になったんでしょうが。
一応、街灯にはセルジュークのシンボルである、双頭の鷲の紋章があしらわれてしましたけど。
広場には、少ない戦力でマラズギルトの戦いを制した、大セルジューク朝のスルタン👑アルプアルスランの銅像がありました。
獅子なる勇者を意味する名を持つ彼、生き様がめちゃカッコいいんです
マラズギルトの戦いで、ビザンツィン帝国の皇帝(=東ローマ皇帝)を捕虜にしたのですが、
「もし立場が逆だったら、皇帝はどうしてた?オレを晒し首にしてたっしょ?でも俺の罰はもっと酷いぜ?」(←なぜかチャラ男語訳😅)と言って、
どんな恐ろしい仕打ちをするのだ〜と思えば、
ビザンツィン皇帝をその身分にふさわしくもてなし、数日後に解放すると、十分な護衛とお土産🎁までつけてコンスタンティノープルに護送してあげたんです‼️
うおうぅ、これこそが真のイスラーム武士道🌙だよね‼️
しかし、無事にコンスタンティノープルに帰還した皇帝を待っていたのは、
皇后👸が彼を不在中に廃位させ、全夫との子供を勝手に即位させていた、という非情な現実。
せっかく五体満足で帰還した皇帝は目潰しされ、その後流刑に……
これを見ると、この無慈悲な時代に、アルプアルスランの態度がいかに文明的で寛容だったか際立ちますね。
左がその皇帝ロマノス・ディオジェノス、右が皇后エウドキア
さて、戦いの場は、マラズギルト村近郊の平原とされていて、
一応、推定で古戦場跡とされているエリアが、国立マラズギルトの戦い歴史公園Malazgirt Meydan Muharebesi Tarihi Milli Parkıという施設になっていました。
特になにかあるわけではなく、だだっ広い草原が広がります。
その近くには、毎年8月26日に、マラズギルトの戦勝記念式典を行うための施設がありました。
ここも特に何かあるわけではなく、”戦勝とテュルク民族のアナトリアへの到来をイメージした”というモニュメントがありましたが、まぁ正直言ってあんまセンスない。。。
これを見終わったら、もうマラズギルトで見るものは他に無し。
ほんとーに草原の中の、小さな小さな町でした。
これまでも、色んな地方都市に行くときに「○○なんて何もないよ」って言われたけど(今回のビトリス👈とか)、実際に行ったらそれなりに見るものあることが多かったんですが、
マラズギルトは本当に何も無かった……
でもいいのです。
やっぱりトルコに住んでてマラズギルトの地を踏まない、というのは、私の中ではあり得ないことだったので。
はるばる行って、そこに立って、その空気を吸う。
今はこんなに廃れているんだ、っていう時代の流れもこの目で見る。
それもまた、百聞は一見にしかず。
やっと実現することができて、満足です❤️
たださ、マラズギルト、もうちょっとセルジュークがらみで町おこししても罰は当たらないんじゃないの?とは思うけどね
長い間おつきあいいただき、ありがとうございました。
充実したヴァン湖周辺旅行、これにて完です🙏