タイ・メソト孤児院活動報告
タイのメソトにある孤児院には、今年3月に行ったばかりでした。ですから、こんなに早くまた行くことになるとは思っていませんでした。孤児院といっても両親とも亡くなっている子はほとんどいませんので、児童養護施設と呼ぶべきかもしれません。4月から、Sさんが孤児院の一つ「ホームオブホープ」のサポートを、ほぼ全面的に引き受けてくれるようになりました。今回は、向こう半年分の運営費を送ることに加えて、新しいコンピューターも設置したいということで、再びメソトへ行くことになりました。
今回のメンバーは6人です。Sさん、そのビジネスパートナーのTさん、従業員のBさん、いつものS君、今回初参加のMさん、そして私です。私とS君は一週間滞在しましたが、ほかのメンバーはわずか2泊3日です。かなり慌ただしい旅でした。バンコクで大きなバンを借り、6〜7時間かけてメソトへ向かいました。到着後、ジョン牧師と打ち合わせをし、半年分の運営費の送金も無事に終えることができました。
2. 子どもたちが喜んだもの――アメニティ、パソコン、そしてムガタ
到着した日の晩には、3月に息子がやって大好評だった「ホテルアメニティーの取り合い合戦」をもう一度やりました。前回、息子が知り合いからもらったホテルのシャンプーや石鹸などを、スーツケースにいっぱい持ってきました。それをテーブルの上に敷き詰めて、子どもたちに自由に取ってもらったところ、ものすごく喜ばれたのです。その話を私が知り合いにしたところ、「うちにも息子が出張のたびに持ち帰ってくるアメニティが山ほどあるから、使ってください」と送ってくれました。
まず、Sさんが子供たち一人一人に1,000バーツ(4,650円)ずつお小遣いを上げましたが、貧しい子供たちにとっては大金です。今回は石鹸やシャンプーだけでなく、ちゃんとした化粧品まで入っていましたので、中高生の女の子たちは大喜びです。どうやら、これは恒例行事になりそうです。
翌日は、3台の新しいラップトップを設置しました。2台は男女共学のホームオブホープに、もう1台は女子専用のセーフハウスであるグレイスハウスに置きました。もともと両方の施設にはデスクトップパソコンが2台ずつありましたが、かなり古く、あまり使われていませんでした。そこでSさんが、最新のラップトップをバンコクで購入して持ってきてくれたのです。
Sさんの目標は、通信環境を整えて、オンラインで子どもたちにいろいろなことを教えられるようにすることです。そのために今、英語か日本語ができるタイ人の先生を探しています。
その晩は、子どもたち全員を連れて「ムガタ」を食べに行きました。ムガタは、しゃぶしゃぶと焼肉を一緒にしたようなタイ料理です。食べ放題で、しかも好きな食材を自分で取って食べられるので、子どもたちには大人気です。これも、すっかり恒例行事になりました。
3. 3日目からは作業です
ほかのメンバーが帰った3日目からは、私とS君が残って、頼まれていた作業をしました。教会では今、裏手にかなり大きな倉庫を建てています。その工事のため、既存の建物や壁を撤去した廃材が山のように積まれていました。一方、教会の向かいにあるグレイスハウスの裏には、雨季になると水がかなり溜まる土地があります。すぐそばに小川が流れているため、そのままでは有効利用しにくい土地です。
そこで、レンガやブロック塀、コンクリートの塊などの廃材を運び、砕いて、その土地を少しずつ埋めていきました。倉庫が完成すると、次は既存の倉庫とカーポート、それに副牧師の家を壊し、そこに新しい教会堂を建てる予定だそうです。その時にも廃材が大量に出ます。それもグレイスハウス裏の土地に入れ、その上に土をかぶせて地面を高くする計画です。この土地は、もう10年以上前に、私の教会や息子が購入資金の一部を提供して買ったものです。なんとか有効に使えるようになることを願っています。
そのほかにも、孤児院の壊れたドア、照明、蛇口などを直しました。以前から気になっていたのが、ホームオブホープの男の子たちが住んでいる建物です。地盤が悪いせいか、建てて間もないころからバスルームの壁が大きく割れていました。今回はその割れ目を埋めることができ、少しはまともになったと思います。瓦礫を運ぶくらいなら私にもできますが、修理となると話は別です。手先の器用なS君が、ほとんどやってくれました。
4. 子どもたちの近況――T君、Tちゃん、Cちゃん
滞在中、うれしい再会もありました。3月までホームオブホープに住んでいたT君が、ある晩、訪ねてきてくれたのです。T君はサッカーが上手で、体育専門の学校に進学することになり、ホームオブホープを出ました。去年3月に私たちが訪れた時に、Y君がT君にサッカーボールを買ってあげました。それも、彼がサッカーを続ける励みになったのかもしれません。
今回は近くでサッカーのトーナメントがあるので寄ってくれたそうです。ただ、理由はそれだけではありません。今年5月から、妹のTちゃんがグレイスハウスに入ったのです。T君にポジションを聞いたら、「まだ控え選手」とのことでした。今年入ったばかりですから、それは仕方ありません。これからに期待です。
T君とTちゃん
土曜日には、子どもたちを連れて恒例の夜市へ行きました。子どもたちにお金を渡し、それぞれ好きなものを買ってもらいます。前回は1人100バーツでしたが、ホームオブホープを世話しているビサヌさんに、「この辺は物価が高いから100バーツでは足りない」と言われました。「物価が高い」は、どうやら世界共通語のようです。
市場では、4人の小学生の女の子たちが進んで私と一緒に歩いてくれ、私が買ったものを持ってくれたりしました。特にTちゃんは、値段を聞いてくれたり、辛くないか確認してくれたりして、本当に助かりました。Tちゃんは、まだ小さいのにとてもよく気がつきます。いつも私を先に歩かせ、自分は2、3歩後ろからついてきます。グレイスハウスに入ったばかりで背も低いので、私はてっきり小学校低学年くらいだと思っていました。後で聞いたら11歳。それにしてもよく気が付くいい子です。
ある日、グレイスハウスに入ろうとすると、中から変な音が聞こえてきました。何だろうと思って見ると、私がサポートしているCちゃんが、プラスチックのコップを使ったパフォーマンスの練習をしています。「なんでこんなこと練習してるの?」と聞いたら、「明日、学校で競技会がある」とのことでした。残念ながら優勝はできなかったようですが、こういう何気ない場面を見るのも、現地を訪れる楽しみの一つです。
5. これから必要になる支援――子どもたちと車両
TちゃんとDちゃんは今年入ったばかりで、まだ個別のサポーターがいません。Sさんが支援しているホームオブホープは、1人または1団体が施設の運営費をまとめて負担する仕組みです。一方、グレイスハウスは、複数の方が子どもを一人ずつ支援する形になっています。私も知り合いたちに声をかけて、5人の方々がサポートを引き受けてくれました。個別サポートは月100ドルです。Dちゃんは13歳です。興味のある方は、ぜひご連絡ください。月100ドルで、その子にとって、とても大きな支えになることができます。
TちゃんDちゃん
もう一つ、今後かなり大きな課題になりそうなのが送迎車です。今年9月から、トラックの荷台に子どもたちを大勢乗せて学校へ送迎することが規制されるようになりました。グレイスハウスでは、トラック後部を延長してドアをつけ、法律に対応しました。ただし、ホームオブホープでは同じ方法では対応できないようです。人数が多いからかもしれません。現在、ホームオブホープには17人、グレイスハウスには9人の子どもが暮らしています。そのため、ホームオブホープでは大きなバンを購入する必要があるそうです。しかし教会は今、新会堂の建設を進めているため、車を買う余裕がありません。
ホームオブホープのトラック。これに17人乗る。
グレイスハウスのトラックも、改造して法律上は使えるようになりましたが、車そのものが古く、よく故障します。こちらも近いうちに、新しいトラックかバンが必要になると思います。大きな金額になりますが、こうした車両支援に関心のある方がいれば、ご連絡ください。
6. 現地で見た、もう一つの現実
今回、ジョン牧師が教会の近くに住んでいるミャンマー難民・移民の人たちの住居も案内してくれました。私が14年前に初めてメソトを訪れたころには、ミャンマー人が暮らす小屋のような住居をあちこちで見かけました。最近はそういう家がほとんど見えなくなったので、私は、貧しいなりにも生活環境が少し良くなったのかと思っていました。
ところが、ジョン牧師の説明によると、実際にはそうではありませんでした。取り締まりを恐れて、以前より目立たない場所に住むようになった人たちが多いというのです。教会の近所にも、木が茂った場所がいくつかあります。そうした場所の奥に、小さな集落がいくつもありました。
ジョン牧師からは、在留資格のない人々が多数暮らしていることや、警察に毎月300バーツ(1,420円)ほど支払って黙認されているケースがある、という話も聞きました。もっと多額の賄賂を受け取って多くのビザを不正に発行していた事件が摘発されたこともあるそうです。孤児院の子どもたちと過ごしていると、どうしても施設の中だけに目が向きます。しかしメソトには、そのすぐ外側にも、複雑な事情を抱えて暮らしている多くの人がいます。今回、その現実も垣間見ることができました。
7. 今回の訪問を終えて
今回は人数も少なく、ほかのメンバーの滞在も短かったので、最初はそれほど多くのことはできないだろうと思っていました。ところが、あまり予定を詰め込まなかったことで、子どもたちとゆっくり話す時間が取れました。Google翻訳を使いながら、一人ひとりと話すことができました。作業をしたり、一緒に食事をしたり、市場へ行ったり、何でもない時間を一緒に過ごしたり。そういう時間のおかげで、今まで以上に子どもたちと仲良くなれたと思います。とても楽しい一週間でした。
次回の訪問は、おそらく来年3月になると思います。一緒に行ってみたい方、子どもの個別サポートに関心のある方、あるいは車両支援について話を聞いてみたい方は、どうぞご連絡ください。今回も、さまざまな形で支えてくださった皆さんに感謝します。ありがとうございました。
私は偽善者か
先月は、私は放っておくと何をしでかすかわからないのでセルフモニタリングが高いが、家内は自然体でほぼ問題ないのでセルフモニタリングが低いという話でした。平たく言うと、家内は善人だから善行を行うが、私は善人ではないので無理して善行を行っているということです。だとすると私は偽善者なのか。これが今月の疑問です。
私は母の介護を始めてもう5年になります。そのために仕事を辞めて松山で1年の大半を過ごしています。そう聞くと立派だと思うかもしれませんが、耳の遠い母にいつも大きな声で話していると、つまらないことで、大声が怒鳴り声に。そんなとき、自分は偽善者ではないかと思うこともあります。息子として当然すべきことと思ってやっているのか、それとも人に良く思われたいだけなのか、と考えてしまうこともあります。
私はもちろん前者だと思っているのですが、人に良く思われたいという気持ちは誰にでもあります。それがある人がみな偽善者だということなら、偽善者でないのは善い行いをしない人のみ、ということになるでしょう。私は、内省的に自分の動機を探るのはいいことだと思いますが、動機がどうであれ、良いことならした方がいいと思っています。
誰かがバスに敷かれそうだとしましょう。その場に私が居合わせて、危険を冒してでもその人を助けようととっさに決断した瞬間、「ちょっと待てよ。私はこれを善意でやっているのだろうか。それとも人に良く思われたいからやっているのだろうか」などと考えていたら、その人は敷かれてしまいます。
人生は決断の連続です。特に私のようにもともと自己中の人間は、毎日が利己的誘惑に負けないようにという決断の連続なのです。しかし、いつも正しい決断ができるわけではありません。理想を目指すのはいいですが、それは無理なので、特に大切なことに関しては間違った決断を下さないようにしようと努めるわけです。
そこでおろそかになるのが普段の生活における小さな決断です。5年も母の介護をしているけど(大切な決断)、ちょっとしたことで母に怒鳴りつけてしまうなんて(小さな決断)偽善的に見えますよね。本当に偽善なのか、調べてみることにしました。
獲得的セルフモニタリングと防衛的セルフモニタリング
近年のセルフモニタリング研究では、行動調整の動機に基づき、獲得的セルフモニタリングと防衛的セルフモニタリングに区別されるそうです。前者は他者からの肯定的評価や承認を獲得することを目的とし、後者は他者からの不承認や社会的非難を回避することを目的とします。なーるほど。私は前者の方だと思いますが、だとするとやはり偽善者?
高セルフモニターの行動は、しばしばお芝居や印象管理として捉えられます。しかし、自らの自己中心的な衝動を認知し、それが社会的に不適切あるいは不道徳な結果を招くことを防ぐために、意識的なモニタリングを行う行為は、自他に対する影響を客観視する高次の自己認識の所産だそうです。性格的欠陥の隠蔽ではないと言うのですが、果たして?
コストの負担と真の利他行動の鑑別
道徳心理学においてダニエル・バットソンらは、道徳的行動の背後にある動機を分析し、道徳的偽善と誠実性の概念的境界を明確にしました。バットソンの定式化によれば、道徳的誠実性とは、道徳的原則を実際に遵守し、正義や公平性という客観的結果をもたらすことを目標とする動機です。一方で道徳的偽善とは、実際には道徳的行動に伴うコスト(時間、資金、労力など)を回避しながら、他者あるいは自己に対して道徳的であるように見せかけることです。
バットソンの知見によると、母を介護するような行動は、明確で実質的なコストを伴います。したがって、そのような行動の背景に「他者から良く思われたい」という承認欲求(獲得的セルフモニタリング)が一部存在していたとしても、実質的コストを免脱しようとする道徳的偽善の定義には該当しないというのです。じゃあ私はセーフ?
さらに道徳的偽善は、他者に対する印象管理を目的とする対人的偽善と、自己概念を保護するための自己欺瞞を伴う内省的偽善に分類されるそうです。自らの動機の純粋性を疑い、「自分は評価目的で行動しているのではないか」と自省する認知プロセスそのものが、無意識の自己欺瞞に陥っている真の偽善者とは決定的に異なる高い自己観察力と道徳的繊細さを示しているというのです。ホントかいな?
自我消耗と道徳的ライセンシングの相互作用
私が大切な事柄に関しては概ね正しい決断ができても、日常的事柄に関してはしばしば自己中の決断をしてしまうという点はどうでしょう。大きな社会的支援や緊急時の決断(私の場合は母の介護)において道徳的選択ができる人物が、普段の日常場面における些細な決断で自己中心的な行動をとってしまう現象です。これは、先月も触れた認知心理学における自我消耗や道徳的ライセンシングの枠組みから説明されるそうです。
高セルフモニターの人物は、周囲の文脈を常に観察し、自己の行動や感情表現を制御し続けるため、日常的に多大な認知資源(意志力)を消費しています。この自己統制リソースが過度に消費されると、意志の力が枯渇する自我消耗状態が引き起こされ、日常の些細な場面において衝動の抑制や他者配慮を行う認知能力が一時的に低下するというのです。
さらに、大きな善行や高コストの社会的支援を行ったという認識は、個人の心理内部に道徳的クレジットを蓄積させます。この蓄積されたクレジットが無意識の免罪符となり、「自分は十分道徳的な人間である」という自己認識をもたらします。その結果、その後の日常的な小さな決定において利己的な行動をとることを心理的に許可してしまう道徳的ライセンシング現象が発生するというのです。
したがって、大局的な善行と日常的脱線との間に生じる不整合は、根本的な人間性の欠如や偽善を意味するのではなく、人間の認知資源の限界と心理的均衡メカニズムの産物だというのです。これは、私のような人間を弁護してくれているのだとは思いますが、本当にそうなのか考えさせられました。
以前、家内に怒鳴らないようにしようと決心して、多大な「認知資源」を使って「自我消耗」したことがありましたが、長続きしませんでした。「こんなことに多大な資源を使うより、もっと大切なことに使った方がいいのでは?」というのがその時の結論でした(家内と相談して決めたわけではないですけど)。これは、大切なことで正しい決断をしていれば、つまらないことは許されるという免罪符なのかもしれません。
聖書は何と言ってる?
この検証は、私を弁護する結果にはなりましたが、私はどうしても納得できないことがあります。バットソンの所見は、行動(犠牲を払ったかどうか)で判断しようとするものです。犠牲を払ったふりをしているだけなら偽善だというのは理解できますが、犠牲を払っていても偽善ということはあり得ると思うのです。承認欲望を満たすために犠牲を払うということは十分にあり得ます。
聖書に、愛に関する有名な言葉があり、よく結婚式で使われます。結婚式で読まれるのは、コリント人への第一の手紙13章4~8節と13節ですが、3節はこう述べています。
「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」
この言葉は、全財産の寄付や身を投じるほどの自己犠牲という極限のコスト(実質的被害)を払っていても、愛が欠けていれば、その価値はゼロであると言うのです。
コリント書の著者であり、熱心な元ユダヤ教徒であったパウロがここで想定しているのは、対人的偽善や内省的偽善だけではなく、対神的偽善かもしれません。「これだけのことをすれば神は私を義人だと認めるだろう」という極限的な行動を取ったとしても、肝心なのはその動機が愛であるかどうかだというのです。
バットソンは、個人の動機を知ることはできないので、具体的にコストを払ったかどうかで判断しています。しかし、神は私たちの動機をご存じですので、コストで判断する必要はありません。人が他人の道徳性を裁くことはできませんが、神にはできるのです。
じゃあどうすればいいのか。そもそも神は善行やその動機を見て人を救うわけではありません。神ご自身が私たちの罪の身代わりになってくださったのでそれを受け入れる人は赦される、というのが聖書の教えです。自分の動機を知ることは大切ですが、それが究極の問題ではないのです。
成長とは、自己の現実と道徳理念の格差が縮まっていくプロセスではないでしょうか。自然体で道徳的な人が成熟した愛のある人です。その点、家内は間違いなく私よりも愛がある人です。自然体で親切な行動ができない私のような者が意識的に行動を調整する行為は、その欠陥を少しずつ改善していくプロセスです。それがほんの少しずつでも身について、自然にできるようになっていくのだと思います。
私の毎日の葛藤は一生続く道のりなのでしょう。仮に私が全財産を施すようなことがあるとしても、その時の私の本当の動機を知っておられるのは、神だけなのでしょう。
優しい人が時々見せるわがままの心理
私の家内は、とても優しくていい人です。「これはめっちゃ怒るだろうな」と思っていたら、全然気にもしていないということもあります。ところが、そんな家内が、時々わがままを言ったり、人に無理な要求をしたりすることがあります。「何であの家内が?」長い間、それが不思議でなりませんでした。
母についても同じようなことが言えます。母はキャリアウーマンでしたし、典型的な優しいお母さんというわけではありませんが、とてもあっさりした性格の人です。父は昔ながらの気難しい人でしたが、母は人当たりがいいし、昔の部下には100歳を超えた今でも慕われています。しかし、父と母とどちらが気配りができるかと聞かれたら、ちょっと迷ってしまうのです。
一例をあげましょう。父は、生前、一人っ子の私に迷惑をかけたくないという配慮から、将来はホームに入るという計画を立てていました。母は全く逆で、自分はそこまで衰えることなぞ絶対にないと言い張って、よく父と口論していました。父はそうなる前に亡くなりましたが、母は98歳まで一人でとても元気に暮らしていました。
ところが、玄関の外で転倒して入院し、私はハワイから駆け付けました。その後肺炎になり、いつ亡くなるかわからない病態したが、すっかり元気になり、今は103歳です。私は母の介護を始めてもう5年になりますが、母がこんなに元気で長生きするとは、夢にも思いませんでした。
私は、自分の仕事を辞め、ボランティアでやっていた牧師も辞めて日本に戻ってきました。母は、客観的にはそれが大変なことであることを理解していますが、父が持っていたような息子への気配りはないのです。もちろん、母には大変お世話になっているので、私も当然と思っているのですが、母がそれを当然と思っているとすれば、正直、ちょっと抵抗があります。父とはえらい違いです。
家内と母はその点似ているところがあると思うのですが、最近、なぜなのか考えることがよくあります。以下が、私の推論とその検証結果です。
私の推論
私は、家内や母のような優しい人間ではありません。クリスチャンになったので、表向きはまともな生活をしていますが、もしなってなければ、女性関係や、グレーなビジネスなど、色々手を染めていたでしょう。クリスチャンになって、何事も自分の望む通りにしてはいけないということを学ばされたのです。
家内や母は、二人ともクリスチャンですが、多分元々いい人だったのだと思います。ですから、自分の思い通りに行動しても、ほとんどの場合、差し障りがないでしょう。ところが、思い通りにしてはいけない事情が発生した時、自制することに慣れてないのではないかと思うのです。
あるユダヤ教のラビが、男は自制心が必要だと話していました。男は利己的なので、自制する必要があるけれど、女性は男性ほど利己的ではないので、自然体でも大丈夫だということなのでしょう。
調査結果:自我消耗とセルフ・モニタリング
調べた結果、心理学に自我消耗という考え方があるということがわかりました。自発的な努力や、感情をコントロールする力(自制心)は、無限に湧き出るものではありません。実は筋肉のように限界があり、有限のエネルギー(脳のブドウ糖など)を消費していることが証明されているそうです。筋トレ直後は疲労して一時的に力が入らなくなりますが、心も全く同じなのだそうです。
私のようにいつも自分をチェックしなければ暴走する人は、自分勝手になっていないか、人に迷惑をかけていないか、日頃から自分を監視しなければなりません。それが必ずしもよくできているわけではないかもしれませんが、こうして無意識のうちに「自制心の筋肉」を日々トレーニングしているわけです。そのため、葛藤が生じる場面でもスタミナが切れにくく、理性を保ちやすくなるそうですが、ホントかいな。
しかし、もともと自然体で優しい人、生まれつき善い人で、自分の感情のままに行動しても周囲と衝突することがない人は、日常的に我慢する必要がほとんどありません。これは一見幸せなことですが、見方を変えれば、自制心の筋肉が未訓練のままになりがちとも言えます。
このため、どうしても感情を抑制しなければならない重大な局面では、未訓練の心の筋肉はすぐに限界を迎えてしまうのです。その結果、普段の優しさからは想像できないような、感情的なわがままが抑えきれずに表に出てしまうことがあるのだそうです。
また、心理学には、セルフ・モニタリングという概念があります。これは自分が他者からどんなふうに見られているかを意識し、自分の行動をコントロールする度合いのことだそうです。
- セルフ・モニタリングが高い:「今、自分がこれを言ったら相手はどう思うか」に敏感で、状況や相手の反応に合わせて自分のキャラクターや言動を柔軟に変えることができます。
- セルフ・モニタリングが低い:周囲の目線よりも、自分の内発的な感情や一貫した信念を大切に行動します。
私は、セルフ・モニタリングは高いと思いますが、相手がどう思うかに関して決して敏感ではありません。敏感でない分、気を付けなければいけないと思っているので、余計にモニタリングするよう気を付けているということだと思います。
普段から優しい良い人で、セルフ・モニタリング傾向が低い人の場合、他者への親切は「そうしたいからする」という純粋な気持ち(内発的動機)から生まれています。しかし、自分を客観視する(自己モニタリング)習慣が欠けているのです。
そのため、自分の「こうしたい」というストレートな感情が生じたときに、それが「相手にとってどれほど無理な要求か」に気づきにくい、という死角を持っているのです。これは、家内や母にも当てはまるのではないかと思います。
心の免罪符
もう一つ、無意識の「免罪符」の仕組みであるモラル・ライセンシング(道徳的認可)という概念があることもわかりました。人間は、何か良い行いや他者への貢献をすると、心の中に道徳的貯蓄(ライセンス)が貯まります。すると「私は十分に正しい人間だ」という安心感が生まれ、その後に少しわがままな行動をとることへの心理的ハードルが下がってしまう(罪悪感が軽減される)のです。
「普段からこれだけ周りに尽くしているのだから、今、これくらいわがままを言っても許されるはず」ということです。「今日はたくさん運動したから、ケーキを食べてもいいよね」という心理に似ているかもしれません。
ちなみに、家内や母は、運動しなくてもケーキを食べる人です。対照的に、私は、健康のためにペスカタリアンダイエット(ビーガンだけど魚は食べる)と、毎日16時間断食を始めて、もう3年続いています。
このように、普段から非常に優しくて良い人として周囲から高く評価されている人ほど、心の中には膨大な道徳的貯蓄があります(私は貯蓄じゃなくてサラ金地獄)。そのため、自分の中に利己的な欲求が生じた際、無意識の免罪符が働き、罪悪感なしに無理な要求を押し通すことを自分自身に許してしまうのだそうです。
これは、家内と母には当てはまらないのではないかと思いましたが、無意識のうちにそれが働いている可能性はあるかもしれません。特に母の場合など、「自分は息子のために大きな犠牲を払ってきたのだから、今度は自分が面倒見てもらう番だ」と感じているかもしれません。
これを封じる技もあるそうです。彼女たちにいつも感謝することで道徳的貯蓄をこちらから引き出して、精算してあげるのが効果的だそうです。「いつも本当にありがとう」と日常的に伝えることで、承認欲求が満たされ、無理な要求という形で免罪符を行使する心理が低下するらしいのです。
そこまで計算して感謝をするというのはどうかと思いますが、感謝をすれば、されるほうの人間形成にも役に立つということでしょう。残念ながら、私はそれができていないのですが、何とか私の唯一の頼みの綱である自己制御力を使って、それができるようになりたいものです。
私としては、二人の自然体が羨ましいというのが本音です。しかし、私の周りには、全然優しくはないけれど、いざというときに頼りになる人もいます。そのような人はよく自制の鍛錬ができているのでしょう。皆それぞれ長所短所があり、改善点があるということですね。











