大野純司のブログ -3ページ目

神アポイント

 私が介護している百歳の母が、ある日突然、ちょっとショートステイに入ると言い始めました。ショートステイが好きだというご老人はいないと思いますが、母も決して好きではありません。私の都合で母の介護ができないときは、仕方なく入ってもらうのですが、自分から入ると言ったのはこれが初めてでした。

 実家が寒いからかもしれませんし、私を休ませたいと思ったのかもしれません。理由を聞こうかとも思いましたが、「なんで?」などと聞いて、「それもそうだな」などと思われても困るので、気が変わらないうちにさっさと手配をして、私は数日間、介護から解放されました。

 とは言え、里の松山には仲の良い友達がいるわけでもなく、家族はみなハワイに住んでいますので、特にすることはありません。唯一行ったのは、介護が必要になるまで母が通っていた教会でした。日曜日の礼拝に行ったところ、何か挨拶をしてくださいと言われたので、タイでのボランティア活動の話をしました。私たちの教会がサポートしている孤児院などの話をしたのです。

 私の後で、Sさんという男性も話をしました。彼は、ある中小企業の社長さんで、愛媛大学と協力して、浸食によって舗装道路の下にできる空洞を発見する機械を開発しました。補助金がまだ残っていて、年度末までに使わなければいけないので、何かニーズがあれば使ってくださいと大学から言われたそうです。そこで、この機械に関して問い合わせのあった国々を2週間かけて訪問し、帰ってきたところだったのです。

 その一つがタイで、タイ政府が買ってくれるかもしれないとのことでした。私は、寄付の話などしなかったのですが、何かニーズがあれば会社からタイのために寄付したいと言ってくれたのです。

 そこで、礼拝の後、タイの状況について彼に話しました。2月のブログにも書きましたが、宣教師のマイクさんが、孤児院の経済的自立のために養鶏プロジェクトを拡大しました。彼は、アメリカ人で、孤児院自立のためにいろいろなプロジェクトを始めたのですが、今年になって、それを拡大したのです。彼は、うまく行けば自立可能だと思っているのですが、タイ人のジョン牧師はそれほど楽観的ではありませんでした。

 養鶏の手助けをしているマイクさんのタイ人の奥さん

 その理由については長くなるので述べませんが、もう一つ困ったことがありました。私は、母の介護で私が牧師を辞め、私の教会も、知り合いの牧師が始めた教会と合流することになったことを、1年前にジョン牧師に告げました。そのため、教会の口座に残っているお金がなくなったら、孤児院を全面的にサポートすることはできなくなるということも話しました。

 このままだと、数年後にはなくなります。お金を使い果たす前に、そのお金を使って何らかの事業を始めてもらいたかったのですが、彼はそれほど英語が上手ではないので、ちゃんと理解できていなかったようです。私は、ジョン牧師が、一向に自立できそうな規模の事業を始める様子がないので、もう一度はっきり説明しなければいけないと思っていたところでした。

 ところが、今回の養鶏事業拡大について彼がマイクさんと話をしていた時、そのことが話題に上って、状況を理解していたマイクさんがジョン牧師に説明したのです。サポートがなくなれば孤児院の運営を継続できなくなるので、ずいぶんがっかりしていました。彼がうまく行くとは思っていない事業のために私が資金提供したことも、良く思ってなかったのかもしれません。

 私はそのことをSさんに説明しました。孤児院が自立できる前に私の教会のお金がなくなったら、その後サポートを続けていただくことが可能かどうか尋ねたところ、快く引き受けてくれました。それをジョン牧師に報告し、彼も非常に喜んでくれました。もし自立できれば、他にもニーズはいくらでもありますので、寄付先はいくらでもあります。特に、この教会はミャンマーとの国境が近いので、難民支援のためにも貢献しています。皆さんの中にも、心ある方がいらっしゃったら、ご連絡ください。

 母がショートステイから帰ってきたとき、なぜ入ったのと聞いたところ、全然覚えてないとのことでした。私が母の教会に行って、Sさんと話すためだったに違いないと説明しましたが、あまり理解できていないようでした。

タイで10回目のボランティア活動:ジョン牧師の人生

 タイでの最初の日曜日、私たちは、礼拝の後、教会の軒の下で直射日光を避けながらおしゃべりをしていました。チーム一員のGさんがいないのに気付き、探したところ、冷房の効いた教会の事務室でジョン牧師と片言の英語でおしゃべりをしていました。私も加わって通訳をしたのですが、Gさんが、あなたはなぜクリスチャンになったのかという質問をしました。

 

 

 その質問に答えて、ジョン牧師が体験談を話してくれた後、あるウェブサイトを見せてくれました。ハワイからタイに宣教師として行ったケリー・ヒルダーブランドさんが書いた記事でした。私がタイでボランティア活動をするきっかけになったのも、ケリーです。

 その三日後、ハワイの家内からラインでリンクが送られてきました。クリックしたところ、ジョン牧師が見せてくれたものと同じサイトでした。家内がどうやってこのリンクを見つけたのはわかりません。

 それよりもっと驚いたのは、このサイト、クリスチアニティー・トゥデイという、たぶん米国で最も有名なキリスト教の雑誌のサイトだったのです。そんな有名なサイトにジョン牧師に関してケリーが書いた記事が載るなどとは、夢にも思いませんでした。全部訳してここに載せることは著作権侵害になりますし、ちょっと長いので、ジョン牧師がGさんに話した内容を、記事と比較して補足しながら、以下にまとめておきます。

 

 私は 1959 年にタイ北部の山岳地帯、チェンマイ地区のノンブア村で生まれました。私の母は出産時に亡くなりました。私は赤ん坊の頃に重い病気になりましたが、家族には私を病院に連れて行くお金がありませんでした。

 代わりに、タイの伝統的な心霊治療師とシャーマンを呼んで私を癒そうとしました。彼らは漢方薬を調合し、儀式を行い、鶏を犠牲にしましたが、何の効果もありませんでした。他にできることがなかったので、父は私を地元の寺院に連れて行き、私が癒されたら僧侶にすると仏像に誓いました。それから私は回復し始めたのです。

 8歳のとき、私は寺院に住み始め、その後、新米僧侶として出家しました。「私はもう父の子供ではない、今はお寺の子供だ」と父から言われたのを覚えています。

 お寺での日常生活は午前3時に始まり、私は瞑想してダルマ(仏教の教え)を暗記するために起きました。その後、私たちはお経を唱え、祈り、施しを集め、朝食を取りました。それから私たち新米僧侶は皿を洗い、掃除をし、地元の学校まで3キロの道のりを歩いたのです。

 若い僧侶としての生活は楽ではありませんでした。正午以降は固形物を食べることができなかったのです。学校が終わると、私は歩いて寺に戻り、境内を掃除しました。夕方、私たちは上級僧侶の足元に座って法を唱え、暗記しました。当時の私は普通の子供と同じように遊んだり、食べたり、騒いだりしたかったのですが、お寺にはたくさんの規則がありました。

 19歳になる頃、私はもううんざりしていました。お腹が空いているのに、どうして平安を保つことができるでしょうか。修道士の生活は私の心に平安をもたらしませんでした。上級僧侶に何か質問をしても、何も答えてくれません。私はだんだんと人々から敬愛される僧侶になりつつありましたが、辞めることにしました。

 

 私は父と暮らすために家に戻り、飲酒、喫煙、その他寺院で禁じられていた世の楽しみに耽溺し始めました。犯罪者、麻薬売人、殺人者と付き合い始めて、私の人生は暗転しました。

 ギャングに加わってすぐ、私は新たな規則に束縛されていることがわかりました。私は彼らの命令に従わなければなりませんでした。もし私が拒否したら、恐ろしい結果が待っていたでしょう。私は常に引っ越しを続け、警察を避け、他の犯罪組織から逃げていました。

 私は最終的にチェンマイ周辺のジャングルや山中に隠れ、70年代から80年代にかけて政府と戦っていた共産主義者の中に隠れて暮らすことになりました。激しい銃撃戦が頻繁に起こり、共産主義者と関係があったとして警察に逮捕されたこともありました。薬物とアルコールは私の激しい怒りと感情を抑える薬となりました。

 私が29歳だったある夜、友人と一緒に大酒と麻薬を飲んでいたとき、人々が歌っているのが聞こえました。「あれは何のパーティーかな。」と尋ねると、彼は、「あれはパーティーじゃない。彼らはクリスチャンだ。」と答えました。興味があったので、調べてみることにしました。

 私は家の入り口に立って、集まって床に座っていた群衆を見つめていました。私は、みんなが自分を怖がっていることが分かりました。長い髪、つやのないひげ、汚れた服、薬で瘦せた中毒者の酔っぱらいです。人々は私の顔を直接見るのを恐れていました。

 しかし、グループのリーダーはまっすぐに私を見つめました。彼は微笑んで私を部屋に招き入れました。私はすぐに彼を信頼できなくなりました。なぜ危険人物を家に招くのか。私はリーダーの真向かいに座って、対決を待っていました。

 礼拝後、私はリーダーに質問をぶつけました。元僧侶ですので、私は彼を質問攻めにすることができました。しかし、彼は冷静に福音を説明して答えました。「信じれば神の恵みが分かるでしょう」と彼は言いました。仏教に恵みなどありません。赦しはありません。仏教では、善を行えば善が与えられると考えています。悪を行えば、悪を受けるでしょう。

 私は、自分の宗教によれば、自分が犯した悪事のせいで、地獄で生まれ変わる運命にあることを知っていました。私は、恵みについて疑問を抱き、この赦しを望み始めました。そこで私はリーダーに尋ねました、「この恵みはどこにあり、どうすれば受け取れるのですか。」

 グループリーダーはこう答えました。「それは簡単です。ただ頭を下げて目を閉じて、私の後につけて祈ってください。」不安になり、彼が私を攻撃してきた場合に備えて、注意しながら目を閉じました。もし彼が突然不審な動きを見せたら、私は、隠し持っていた銃で彼を撃つつもりでした。しかし、祈りの言葉を繰り返すうちに、私の中の何かが崩れていきました。私は泣き始め、多くの罪が赦されたと感じました。私は変わりましたが、次に何をすればいいのか分かりませんでした。

 3か月後の日曜日、私はチェンマイの工場で教会の集会の看板を目にしました。イエスについてもっと知りたくて入ったのですが、粗暴な外見にもかかわらず、人々は私を温かく歓迎し、前の席に案内してくれました。牧師の呼びかけで、私は再び祈り、泣きました。その日、私は自分がクリスチャンになったと自覚しました。

 私は髪を切り、ひげを剃り、クリスチャンのコミュニティに加わりました。逃げるのをやめても、誰も私を追いかけていないことがわかりました。警察もギャングも私に興味を失いました。 3か月の聖書訓練コースに参加した後、私の教会は、チェンマイの北70キロにあるチェンダオの新しい教会の立ち上げを手伝うために、私を派遣しました。

(中略)

 メーソットに引っ越した後、私はラフ族のために働くよう召されていると感じました。1990年の母の日、私はオートバイに乗って、メーソットの山々にあるラフ族の村ドイ・ムセルに向かいました。私は村で許可をもらって、説教を始めました。多くの人が集まってきましたが、私の話に興味を持ったのは2人だけでした。

 説教した後、二人の男は私に挑戦しました。「イエスが本当に偉大な神であり、その力を持っているのなら、私たちの村のシャーマンのために来て祈ってください。」シャーマンは一週間ほど病気で、小屋で一人で横たわっていました。私は家に近づき、暗くてかび臭い部屋に入りました。その男性は重篤な病気で、ほとんど動くことができませんでした。

 私はひざまずいて彼にイエスの話を説明しました。その男性が聞いているかどうかはわかりませんでしたが、私は彼に「癒されたいかどうか」と尋ねると、彼はうなずきました。私たちが祈ってから約 15 分後、その男性は起き上がり、私たちのために食べ物を用意してくれました。私に挑戦した二人の男と元シャーマンは、イエスに従うことを決心しました。これは、メーソット周辺の山岳民族の間で設立された多くの教会のうちの最初のものでした。

 

 ジョン牧師は、涙を流しながら彼の人生について語ってくれました。

 その日、Gさんはバンコクに飛び、一日観光をしてから月曜日の晩、日本に帰る予定でした。しかし、空港まで行って、バンコク行きの便がキャンセルされたと知らされたのです。仕方なく、メーソットにもう一晩泊ることにしたのですが。そのおかげで、その晩、あるラフ族の村でのクリスマスパーティーに出ることができました。後でわかったことですが、それがドイ・ムセル村だったのです。

 私は、11年前、初めてタイに行ったときに、この村を訪れました。ジョン牧師がここで伝道を始めてからもう20年経っていましたが、まだまだ村人たちは部外者を警戒していました。子供たちは小学生のころからフリーセックスにふけり、月経が始めるとすぐ妊娠する子も多いとか。生まれた子は、自分が育てることができないので、お母さん、つまり、生まれた子のおばあさんに育てられるそうです。アヘンをお使っている人も多いそうです。

 村のシャーマンがクリスチャンになってしまったので、村人は別のシャーマンをリクルートしました。祈ってもらうたびに豚などを生贄として捧げなければならないし、いろいろなものに霊が宿っていると信じているので、自由に農耕することもできません。それから解放されたクリスチャンは、そのようなアニミズムを信じている村人よりも、若干裕福な暮らしをしており、対立していました。

 しかし、今では、村の村長さんもクリスチャンです。以前のクリスマスパーティーは、私たちが全部やっていましたが、今では、村のクリスチャンたちもパーティーで歌や踊りを披露するようになり、私たちはお客様気分でした。

タイで10回目のボランティア活動:孤児院の子供たちとの交流

 私や私の知人が、グレイスハウス(女子専用孤児院)の5人の子供たちを一人月100ドルでサポートしています。その子たちを夕食に誘ったのですが、何を食べたいかと聞いたところ、日本食がいいと言うので、町一番のショッピングセンターに連れて行きました。

 ファストフード以外に4件のレストランがありますが、うち2軒は日本料理屋です。どうやら、タイでは日本料理が流行っているようです。みんな、日本料理は一度も食べたことがないそうですが、食べ放題の焼き肉屋で、刺身など、慣れないものもよく食べてくれました。一人2千円近くしたので、タイにしては高いのですが、日本人の私たちから見ると、味はちょっと…。でも、子供たちは喜んでくれました。

 去年も食事に連れて行ってあげたのですが、食後ゲーセンに行きました。私がサポートしているまだ10歳のチャンポヌットちゃんがその味を占めたようで、今年もねだられて行くことに。

 1年前、ご両親がミャンマーからの難民であるフォンとノック姉妹を紹介しました。お父さんは離婚していなくなり、お母さんは糖尿病で生活が苦しく、住んでいる村には小学校までしかないので、孤児院に入りました。この二人も、私の知人がサポートしているのですが、国籍のない彼女たちが将来どのように生計を立てることができるかについては、よくわかりませんでした。

 今回、孤児院を運営している教会のジョン牧師に聞いたところ、大学を卒業すれば市民権が取れるそうです。政府高官や弁護士など、就けない職業もありますが、生活には支障がないそうですので、安心しました。この二人は本当によく気が利くし、英語がかなり話せるので、助かります。

 この二人に関しては、もう一つ訂正しておかなければならないことがあります。私は、東南アジアに、モン(Hmong)族とは別に、モーン(Mon)族がいることを知りませんでした。モン族は、奥さんを4人までもらえる一夫多妻制度が残っており、文化的にもタイとかなり違いますが、モーン族は、文化的にも言語的にも、タイに似ているそうです。私は、今まで、モン族のことしか知りませんでした。

 この二人のご両親は、ミャンマーのモーン州から来たモーン族です。前回、私がこの姉妹はモン族だと言ったら、ノックが「モーン」と言って訂正してくれました。その時は、発音の間違いを指摘するためにゆっくり発音してくれたのだと思っていたのですが、正直、どこがどう違うのかは分かりませんでした。モン族ではなくモーン族だと言いたかったのだと、今回初めて分かりました。

 モン族では、男性の一存で結婚が成立するそうで、それを阻止できるのは女性のお母さんだけだそうです。一夫多妻は裕福な男性に限られるわけではなく、何の生活力もない男性が複数の女性と結婚して、奥さんたちに稼がせるということもあるそうです。

 実際、以前孤児院に住んでいたモン族の女の子が、学校の春休みに自分の村に帰っている間に、無理矢理に結婚させられ、孤児院に戻れなかったことがあるそうです。お母さんがいないので、止めることができなかったのかもしれません。フォンとノックはモーン族なので、その心配はしなくてもよさそうです。

 

 5人の子供たちをサポートしてくれている皆さんから、寄付やお土産を持って行きました。子供たちのために何かプレゼントしてくださいと言われていましたので、全員、土曜夜市に連れて行きました。食事代150バーツ(約600円)とお小遣い500バーツ(約2,000円)を渡して、好きなものを買ってもらったのです。

 小学生もいるのに、ちりちりバラバラになってしまい、最初は心配しましたが、みんなちゃんと必要なものを買って、無駄遣いした子がいなかったのには感心しました。小さな男の子がマスクを買ったのは、ちょっと驚きでした。

 

 母にショートステイに入ってもらって、10日ほどの旅行でしたが、とても忙しくて充実した楽しい旅でした。自分も何かしたいと言う方がいらっしゃったら、ご連絡ください。また来年のクリスマスにも行くと思いますので、興味のある方は是非ご参加ください。

 

アップデート

 先月のブログに書きましたが、グレイスハウスの裏の土地を洪水から守る作業が終わりましたので、ご報告させていただきます。寄付をしてくださった皆さんに感謝します。

 宣教師のマイクさんが始めた養鶏は順調で、養鶏場の隣の空き地も同じ大家さんから借りて、もう一つ鶏小屋を作り、鶏の数を増やすことにしました。費用は、鶏340羽45万円、鶏のエサを作るために野菜を砕く機械5万円、最初の2か月のエサ代45,000円、最初の2か月の人件費6万円で、計60万円ほどです。さっそく送金して、始めてもらうことにしました。

 マイクさんが教えている小学校の生徒さんの家族がホームレスになり、その家族のために家を建ててあげて養鶏、養殖、水耕を手伝ってもらうと、先月のブログに書きました。給料は2万円と書きましたが、鶏の数が増えるので、3万円に上げるそうです。

 このプロジェクトは、もともと女子専用の孤児院グレイスハウスの自活のために始めました。しかし、鶏を増やすことによって、うまく行けば、男女共学の孤児院ホーム・オブ・ホープの自活も可能になります。

 後者は、現在、私の教会が全面的にサポートしており、毎月22万円ほど送金しています。私が、母の介護のためハワイの教会の牧師を辞め、他の教会と合流することになり、今教会の口座に残っているお金が無くなったら、サポートを継続することは困難です。そのため、できるだけ早く自立できることを願っていたのですが、出口が見えてきました。