タイで10回目のボランティア活動:ジョン牧師の人生 | 大野純司のブログ

タイで10回目のボランティア活動:ジョン牧師の人生

 タイでの最初の日曜日、私たちは、礼拝の後、教会の軒の下で直射日光を避けながらおしゃべりをしていました。チーム一員のGさんがいないのに気付き、探したところ、冷房の効いた教会の事務室でジョン牧師と片言の英語でおしゃべりをしていました。私も加わって通訳をしたのですが、Gさんが、あなたはなぜクリスチャンになったのかという質問をしました。

 

 

 その質問に答えて、ジョン牧師が体験談を話してくれた後、あるウェブサイトを見せてくれました。ハワイからタイに宣教師として行ったケリー・ヒルダーブランドさんが書いた記事でした。私がタイでボランティア活動をするきっかけになったのも、ケリーです。

 その三日後、ハワイの家内からラインでリンクが送られてきました。クリックしたところ、ジョン牧師が見せてくれたものと同じサイトでした。家内がどうやってこのリンクを見つけたのはわかりません。

 それよりもっと驚いたのは、このサイト、クリスチアニティー・トゥデイという、たぶん米国で最も有名なキリスト教の雑誌のサイトだったのです。そんな有名なサイトにジョン牧師に関してケリーが書いた記事が載るなどとは、夢にも思いませんでした。全部訳してここに載せることは著作権侵害になりますし、ちょっと長いので、ジョン牧師がGさんに話した内容を、記事と比較して補足しながら、以下にまとめておきます。

 

 私は 1959 年にタイ北部の山岳地帯、チェンマイ地区のノンブア村で生まれました。私の母は出産時に亡くなりました。私は赤ん坊の頃に重い病気になりましたが、家族には私を病院に連れて行くお金がありませんでした。

 代わりに、タイの伝統的な心霊治療師とシャーマンを呼んで私を癒そうとしました。彼らは漢方薬を調合し、儀式を行い、鶏を犠牲にしましたが、何の効果もありませんでした。他にできることがなかったので、父は私を地元の寺院に連れて行き、私が癒されたら僧侶にすると仏像に誓いました。それから私は回復し始めたのです。

 8歳のとき、私は寺院に住み始め、その後、新米僧侶として出家しました。「私はもう父の子供ではない、今はお寺の子供だ」と父から言われたのを覚えています。

 お寺での日常生活は午前3時に始まり、私は瞑想してダルマ(仏教の教え)を暗記するために起きました。その後、私たちはお経を唱え、祈り、施しを集め、朝食を取りました。それから私たち新米僧侶は皿を洗い、掃除をし、地元の学校まで3キロの道のりを歩いたのです。

 若い僧侶としての生活は楽ではありませんでした。正午以降は固形物を食べることができなかったのです。学校が終わると、私は歩いて寺に戻り、境内を掃除しました。夕方、私たちは上級僧侶の足元に座って法を唱え、暗記しました。当時の私は普通の子供と同じように遊んだり、食べたり、騒いだりしたかったのですが、お寺にはたくさんの規則がありました。

 19歳になる頃、私はもううんざりしていました。お腹が空いているのに、どうして平安を保つことができるでしょうか。修道士の生活は私の心に平安をもたらしませんでした。上級僧侶に何か質問をしても、何も答えてくれません。私はだんだんと人々から敬愛される僧侶になりつつありましたが、辞めることにしました。

 

 私は父と暮らすために家に戻り、飲酒、喫煙、その他寺院で禁じられていた世の楽しみに耽溺し始めました。犯罪者、麻薬売人、殺人者と付き合い始めて、私の人生は暗転しました。

 ギャングに加わってすぐ、私は新たな規則に束縛されていることがわかりました。私は彼らの命令に従わなければなりませんでした。もし私が拒否したら、恐ろしい結果が待っていたでしょう。私は常に引っ越しを続け、警察を避け、他の犯罪組織から逃げていました。

 私は最終的にチェンマイ周辺のジャングルや山中に隠れ、70年代から80年代にかけて政府と戦っていた共産主義者の中に隠れて暮らすことになりました。激しい銃撃戦が頻繁に起こり、共産主義者と関係があったとして警察に逮捕されたこともありました。薬物とアルコールは私の激しい怒りと感情を抑える薬となりました。

 私が29歳だったある夜、友人と一緒に大酒と麻薬を飲んでいたとき、人々が歌っているのが聞こえました。「あれは何のパーティーかな。」と尋ねると、彼は、「あれはパーティーじゃない。彼らはクリスチャンだ。」と答えました。興味があったので、調べてみることにしました。

 私は家の入り口に立って、集まって床に座っていた群衆を見つめていました。私は、みんなが自分を怖がっていることが分かりました。長い髪、つやのないひげ、汚れた服、薬で瘦せた中毒者の酔っぱらいです。人々は私の顔を直接見るのを恐れていました。

 しかし、グループのリーダーはまっすぐに私を見つめました。彼は微笑んで私を部屋に招き入れました。私はすぐに彼を信頼できなくなりました。なぜ危険人物を家に招くのか。私はリーダーの真向かいに座って、対決を待っていました。

 礼拝後、私はリーダーに質問をぶつけました。元僧侶ですので、私は彼を質問攻めにすることができました。しかし、彼は冷静に福音を説明して答えました。「信じれば神の恵みが分かるでしょう」と彼は言いました。仏教に恵みなどありません。赦しはありません。仏教では、善を行えば善が与えられると考えています。悪を行えば、悪を受けるでしょう。

 私は、自分の宗教によれば、自分が犯した悪事のせいで、地獄で生まれ変わる運命にあることを知っていました。私は、恵みについて疑問を抱き、この赦しを望み始めました。そこで私はリーダーに尋ねました、「この恵みはどこにあり、どうすれば受け取れるのですか。」

 グループリーダーはこう答えました。「それは簡単です。ただ頭を下げて目を閉じて、私の後につけて祈ってください。」不安になり、彼が私を攻撃してきた場合に備えて、注意しながら目を閉じました。もし彼が突然不審な動きを見せたら、私は、隠し持っていた銃で彼を撃つつもりでした。しかし、祈りの言葉を繰り返すうちに、私の中の何かが崩れていきました。私は泣き始め、多くの罪が赦されたと感じました。私は変わりましたが、次に何をすればいいのか分かりませんでした。

 3か月後の日曜日、私はチェンマイの工場で教会の集会の看板を目にしました。イエスについてもっと知りたくて入ったのですが、粗暴な外見にもかかわらず、人々は私を温かく歓迎し、前の席に案内してくれました。牧師の呼びかけで、私は再び祈り、泣きました。その日、私は自分がクリスチャンになったと自覚しました。

 私は髪を切り、ひげを剃り、クリスチャンのコミュニティに加わりました。逃げるのをやめても、誰も私を追いかけていないことがわかりました。警察もギャングも私に興味を失いました。 3か月の聖書訓練コースに参加した後、私の教会は、チェンマイの北70キロにあるチェンダオの新しい教会の立ち上げを手伝うために、私を派遣しました。

(中略)

 メーソットに引っ越した後、私はラフ族のために働くよう召されていると感じました。1990年の母の日、私はオートバイに乗って、メーソットの山々にあるラフ族の村ドイ・ムセルに向かいました。私は村で許可をもらって、説教を始めました。多くの人が集まってきましたが、私の話に興味を持ったのは2人だけでした。

 説教した後、二人の男は私に挑戦しました。「イエスが本当に偉大な神であり、その力を持っているのなら、私たちの村のシャーマンのために来て祈ってください。」シャーマンは一週間ほど病気で、小屋で一人で横たわっていました。私は家に近づき、暗くてかび臭い部屋に入りました。その男性は重篤な病気で、ほとんど動くことができませんでした。

 私はひざまずいて彼にイエスの話を説明しました。その男性が聞いているかどうかはわかりませんでしたが、私は彼に「癒されたいかどうか」と尋ねると、彼はうなずきました。私たちが祈ってから約 15 分後、その男性は起き上がり、私たちのために食べ物を用意してくれました。私に挑戦した二人の男と元シャーマンは、イエスに従うことを決心しました。これは、メーソット周辺の山岳民族の間で設立された多くの教会のうちの最初のものでした。

 

 ジョン牧師は、涙を流しながら彼の人生について語ってくれました。

 その日、Gさんはバンコクに飛び、一日観光をしてから月曜日の晩、日本に帰る予定でした。しかし、空港まで行って、バンコク行きの便がキャンセルされたと知らされたのです。仕方なく、メーソットにもう一晩泊ることにしたのですが。そのおかげで、その晩、あるラフ族の村でのクリスマスパーティーに出ることができました。後でわかったことですが、それがドイ・ムセル村だったのです。

 私は、11年前、初めてタイに行ったときに、この村を訪れました。ジョン牧師がここで伝道を始めてからもう20年経っていましたが、まだまだ村人たちは部外者を警戒していました。子供たちは小学生のころからフリーセックスにふけり、月経が始めるとすぐ妊娠する子も多いとか。生まれた子は、自分が育てることができないので、お母さん、つまり、生まれた子のおばあさんに育てられるそうです。アヘンをお使っている人も多いそうです。

 村のシャーマンがクリスチャンになってしまったので、村人は別のシャーマンをリクルートしました。祈ってもらうたびに豚などを生贄として捧げなければならないし、いろいろなものに霊が宿っていると信じているので、自由に農耕することもできません。それから解放されたクリスチャンは、そのようなアニミズムを信じている村人よりも、若干裕福な暮らしをしており、対立していました。

 しかし、今では、村の村長さんもクリスチャンです。以前のクリスマスパーティーは、私たちが全部やっていましたが、今では、村のクリスチャンたちもパーティーで歌や踊りを披露するようになり、私たちはお客様気分でした。