9月に読んだ本は3冊(図書館本3冊)でした。
見事に昭和陸軍軍人の3人の評伝。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少
<お気に入り順>
『渡辺錠太郎伝』岩井 秀一郎(小学館 2020.2)
【満足度】★★★
【概要・所感】 二・二六事件で暗殺された唯一の陸軍大将・渡辺錠太郎の評伝。そもそも事件の細部は全く知らなかったのですが、渡辺将軍の次女・渡辺和子の証言にあった“父の血を浴び、肉片が飛び散る”という生々しさ、こういうのも学校の近現代史の授業で教えた方がいいですね。渡辺は、山県有朋の副官を二度も務めたので、それを利用して出世もできたはずですが、「学者将軍」と言われた彼は、梅津に同じく政治的な立ち回りや権力闘争を極端に嫌う性質だったようで、結局、陸軍三長官の一つである「教育総監」が最後のポストとなりました。もし、二・二六事件で暗殺されなければ無謀な戦争に突入する可能性がいくばくか低くなったかもしれないと思わせます。和子氏と渡辺将軍を殺害した高橋少尉の弟氏との邂逅も興味深かったです。
【ポイント】
*狙われた六人の中で、岡田、斉藤、鈴木の三人は海軍大将で、陸軍大将は渡辺錠太郎のみ
だった。襲ったのは陸軍の一部であるから、彼らは自分たちの所属する組織の上層部の人間を
殺害した =中略= 渡辺は、首相経験も大臣経験もない純粋な陸軍軍人だった。(p.44)
*五・一五事件や二・二六事件の発端は、やはり金解禁にあったといっても、私は言い過ぎじゃ
ないと思うんです。(p.185 経済評論家・高橋亀吉)
⇒浜口内閣の蔵相・井上準之助は血盟団のテロで殺害
*「陸軍改革」という大きなことを、いきなり少佐程度のメンバーだけでできるはずもない。永田
らは長州閥に属さない有力と見られる将軍たちを担ぎ出そうと考えた。彼らが支援すると定め
たのが、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎だった。(p.190)
*永田は陸軍省の軍事課長だったが、上司は軍務局長、すなわち宇垣擁立に動いた小磯国昭
だった。
⇒三月事件・・・桜会のが陸相・宇垣一成を首相に擁立するクーデター計画
*小畑の戦略論は、=中略= 「対ソ早期開戦論」だった。=中略= 対して、永田はソ連の
準備がそれほど早く整うと考えておらず、対ソ開戦の時期を早々に決定してしまうのは誤り
だとしていた。=中略= この永田と小畑の対立は、単なる両者の仲違いでは済まなかった。
陸相の荒木は小畑の作戦に関する才能を非常に評価しており、小畑の話に耳を傾けることが
多かった。(p.199~200)
*荒木は陸相を退き、=中略= 後任の林は教育総監からの横滑りだが、当初荒木は、自身の
盟友である真崎を陸相に据えようとしたらしい。ところが、参謀次長だった真崎の陸相就任
に対し、上司だった閑院宮参謀総長が強く反対した。=中略= 閑院宮は真崎が自分を無視
して勝手に振る舞うことにかなり腹を立てていたようで、以後も真崎と敵対的な立場をとる。
(p.203)
*真崎については「影の実力者」といったイメージがあったらしく、「荒木は真崎のロボットだ」
とまで評された(p.203)
⇒意図的に若者の人気を取ろうとして、次長時代、若手将校と昼食を共にしていた
*林の陸相就任には渡辺が相当に手を回し、下地をつくった =中略= 林があまりにも主体性
のない人物のように映ってしまうが、実際、同時代の人からは林の評判はあまりよくなかっ
た。=中略= 永田が林と推した荒木や真崎とはだいぶ異なる。(p.210)
*渡辺は真崎らとの敵対姿勢を隠そうともしなかった。他の参議官が仲裁に入らねばならない
ほど、強い調子で責任を問うている。(p.234)
*渡辺の訓示は、「教育総監が天皇機関説を支持した」として大問題になる。=中略= 真崎の
更迭に加えて、この名古屋での訓示が大きな要因となり、渡辺が二・二六事件の襲撃対象に
加えられることになったとする見方が根強い。(p.236)
⇒渡辺の主張は「天皇機関説は個々で議論せず、陸相の判断に一任し、その統制に従え」という
ことだったが、青年将校の間では天皇機関説に賛成していると悪意をもって受けとられた
*南(次郎)は閑院宮と同じく騎兵科出身で、派閥的には宇垣一成に連なる。宇垣閥は荒木が
陸相となってからはほぼ一掃されており、皇道派とは敵対的な関係にあった。つまり、渡辺
とは「敵」を同じくする。(p.241)
*しぶしぶ渡辺陸相案に同意をしていた荒木が、=中略= 永田遭難後になって渡辺陸相案に
反対したということは、昭和九年段階では渡辺がそこまで脅威として見られてはおらず、
恐らくは教育総監就任後に初めてその恐るべきを知ったことを示していると見ていい(p.243)
『武藤章 昭和陸軍最後の戦略家』川田 稔(文春新書 2023.7)
【満足度】★★
【概要・所感】 武藤章は永田鉄山の後継として陸軍をリードし、戦後、最年少でA級戦犯となり、死刑判決を受けた人物。(東条からは「君を巻き添えに合わせて気の毒だ。まさか君を死刑にするとは思わなかった」との発言もあった) 日中戦争においては戦局拡大を主張、そして三国同盟・南北仏印進駐の決定に深く関与する一方、日米開戦には反対し続けた軍務局長時代の武藤に焦点を当て、彼の行動と思想を考察。陸軍は石原ー永田ー東條・武藤・田中新一の世代交代のゴタゴタ(主導権争い)で歯止めが利かなくなっていった感もあり、現代のビジネス界隈でも政治界隈でも同じような話があるように思いますが、自虐史観ではない本当の意味で戦争の総括は出来ているのだろうかと感じざるを得ません・・・。
【ポイント】
*今村は、事変当初は石原ら関東軍の行動を、やむをえないものと見ていた。だが、その後、
関東軍が北満出兵や錦州攻撃を企図していることを知ると、国際的な配慮から =中略=
抑制しようとした。武藤はそのような今村に反抗して、石原ら関東軍の動きを支援(p.20)
⇒武藤は作戦課員、今村は上長の作戦課長
*永田と武藤は、教育総監部第一課で二ヵ月、情報部で一年四ヵ月、軍務局で五ヵ月、同じ部署
に属した。(p.27)
*武藤の対中強硬論の主要なねらいは、石原作戦部長による華北分離工作中止の方針を打破し、
華北の軍需資源を確保することにあった。(p.37)
⇒石原は対ソ戦備充実を最優先課題に中国との紛争を避けようとしていた
*武藤は国防国家体制の確立には、国内の体制整備のみならず、「自給自足経済体制」の確立、
ことに資源の自給自足が必要だと考えていた。(p.48)
*永田の時代には、中国の資源で自給自足が可能と考えられていた。だが、今や、中国の資源
のみでは長期の国家総力戦には対応できない、と武藤は判断していた(p.50)
*大東亜生存圏、大東亜共同経済圏の設定が、戦前昭和史において武藤が果たした役割の最も
重要なものであろう。(p.53)
*武藤の真のねらいは、三国同盟を日独伊ソの四国連合に展開させ、それによって日本の国策
遂行に対するアメリカの介入を押し止めることにあった。(p.99)
⇒対米戦を危険視していたので三国同盟は対米戦のためではでなく、回避するため
*一九四○年一○月、田中新一が、北部仏印進駐問題で更迭された冨永恭次の後任として、参謀
本部作戦部長となった =中略= 東条陸相の意向によるものだった。田中は東条が関東軍
参謀長だった時期、東条の「一番の幕僚」とみられていた。(p.116)
⇒陸軍内での戦略決定における一番の阻害要因となっていく
*陸軍トップの東条陸相は、長く中央を離れていたため独自の構想をもっておらず、武藤や田中
の構想や政策に最終判断を下す立場だった。(p.116)
*陸軍中央では、来たるべき独ソ開戦への対応について、事態を静観すべきとする武藤ら軍務局
と、北方武力行使と南方進出を主張する田中ら作戦部の深刻な対立が生じた。(p.154)
⇒独ソ戦により日独の対米牽制力が低下するのでソ連を屈服させ、独を英に向かわせたい
*南部仏印進駐は、当地の資源獲得とともに、さらなる南方作戦が必要になった場合の軍事基地
の確保を目的とするものだった。(p.164)
*陸軍は、タイに兵力を進めれば、イギリスは強い危機感をもち、「米英の反発は必至」だと考え
ていた。それゆえ逆に、=中略= 南部仏印なら、シンガポールは爆撃圏内に入るだけで、
直接攻略することは困難 =中略= これが、南部仏印に武力進駐しても、戦争に至るような
決定的な事態にならない、と判断していた大きな要因だと推測される。(p.174)
⇒進駐により米英関係は悪化するとは見られていたが、蘭印石油資源確保の渇望が切実だった
*武藤は、南北同時戦争に陥ることを回避するには、彼自身、対日禁輸強化を危惧していた南部
仏印進駐実施を容認し、まずは対ソ開戦が不可能な状態を選択するしかないと考えていた
(p.185)
⇒実際、田中は北方武力行使を断念する
*アメリカの対日石油全面禁輸と、その後の対日戦決意は、イギリス存続のためにおこなわれた
といえよう。(p.192)
⇒ソ連の崩壊はドイツに資源等工業力をもたらし、より大規模な攻撃でイギリスに向かわせる
*中国からの全面撤兵とそれにともなう特殊利権の放棄は、これら永田以来の営為の結果が全て
無に帰することを意味した。=中略= 対米戦回避に力を尽くそうとした武藤といえども、
容易には、そこまでは踏み切れなかったといえよう。(p.246)
*一九四二年四月、南方戦線視察直後、武藤は軍務局長を解任され、近衛師団長に任命される。
=中略= 武藤解任について、正確なことは分かっていない。(p.252)
⇒岡田啓介や東郷外相に、戦争終結に導くため首相に辞めてもらうしかないという話が東条の
耳にはいったという説も。
*「私の不思議に思うのは、日本の某々新聞が、東京裁判を連合国対被告と思い込んでいること
である。被告に対していかに憎悪を感じても、彼らは日本を代表している。彼らが侵略者で
あれば、日本も侵略国である。」(p.270 武藤談)
*対米戦回避に意を注いだ武藤への死刑判決を意外に思う関係者も少なくなかったが、この判決
については、軍務局長在任中の行為は終身刑相当だが、スマトラやフィリピンでの残虐行為の
責任から死刑になった、との見方がある。(p.271)
*武藤をはじめとする昭和の日本が持ちえなかったのは、そうした環境の変化への対応力でも
あったのではないだろうか。(p.275)
⇒アメリカは独ソ戦という新たな事態を受けて政治・外交など対日戦略を変更した
『東條英機』一ノ瀬 俊也(文春新書 2020.7)
【満足度】★★
【概要・所感】 現在においても厳しい批判の対象とされるA級戦犯として処刑された東條英機とは極悪人の独裁者だったのか?また、彼のやり方を現代から見た結果論ではなく、戦時下の国民はどういう風に見ていたのか?も気になります。天皇に忠実で生真面目な努力家であった一介の軍人が、いかにして総力戦指導者として戦争敗北への道を突き進んだのか、東條の実像に迫っています。東條に限らず、昭和の軍人は“その叩きこまれた強烈な自負心は根が純真であるだけに勇ましく尖鋭な実行力となり、どこまでも走らずにはいられない”という内面が全員に備わっているように思います。戦争責任者の東條の場合は、国家としてその精神主義と現実問題の乖離を埋められずに、ひいてはそれが日本の敗因にもなったのではないでしょうか。
【ポイント】
*名門第一連隊長への就任は、エリートコースに乗ったことを意味する。東條は部下をよくいた
わった名連隊長で、「人情連隊長」とあだ名されていたと言われている。(p.55)
*二葉会と木曜会は、前記の張作霖爆殺事件を契機として、陸軍上層部を突き上げる圧力団体へ
と変化していく。(p.65)
⇒政党内閣や軍上層部に対する不信感が統制無視につながり、国家国軍のためなら超法規
*真崎と永田・東條はのちに激しく対立するが、このころは反金谷・南次郎(宇垣一成系)で
結束(p.68)
*永田と小畑は =中略= ソ連が所有していた北満鉄道の買収問題をめぐって決定的に対立
した。(p.76)
⇒対ソ戦志向の皇道派/部内を統制し総力戦体制整備の統制派
⇒林陸相が恣意的な人事の目立った荒木・真崎を嫌いはじめていた
*明治~大正期の陸軍は、藩閥という「出自」の論理で動いていた。しかし、よくも悪くも「デモ
クラシー」化した昭和期にものを言ったのは数の力、すなわち「世論」であった。(p.79)
*近年の研究では、陸軍の総力戦体制論が少なくとも満州事変までは国民主体の、議会や政党
との協調を重視していた(p.84)
*第一師団長時代の真崎は部下である第一連隊長の東條を「東條連隊長は日本一の連隊長だよ」と
口を極めて褒めていた(p.91)
*一九三五年七月十六日、真崎は彼を嫌うようになっていた林陸相と閑院宮参謀総長によって、
教育総監の座を追われる(p.105)
⇒真崎の更迭に皇道派は激怒し、永田を黒幕と見なした
*東條は同年九月二一日付で関東憲兵隊司令官に就任し満州へ渡る。東條が永田と同じ運命を
たどるのを危惧した林の配慮だったという(p.106)
*東條は、第一次近衛内閣の陸相となった板垣征四郎の補佐役として、三八年五月三○日、陸軍
次官に就任した。東條を選んだのは、その事務能力を高く評価した近衛である。(p.117)
⇒石原系の板垣に統制派の東條を配して、陸軍をコントロールしたかった、とも。
*岩畔は「天皇陛下に関しては、東條さんは小学生のような如く忠臣であった」という。(p.122)
*東條の仕事ぶりは、たしかにカミソリ大臣、電撃陸相と呼ばれるに値するものだった。
(p.142)
⇒業務の細かいところまで目を配り、不手際があれば叱責もしている
*東條の”悪名”をなした理由の一つに、一九四一年一月八日、陸相として出した訓令「戦陣訓」が
ある。(p.144)
⇒降伏投降を禁止したものとされ軍事課長・岩畔が板垣陸相に提案し、完成時は東條陸相
*東條の「思想戦」や「経済戦」そして「国民の給養」に気を遣う態度は、彼の個人的なものという
よりは、第一世界大戦後の陸軍が組織として主に敗戦国の独国より得た”教訓”に根ざした
もの(p.148)
*「大衆層」は「従来の総理大臣に見られなかった東條首相の、気軽な、そして、きびきびした
「町の探訪」に多大な好感を寄せている」(p.153)
*東條がここまで大陸駐兵に固執したのは、先に衆議院や枢密院でなぜ陸軍は中国から賠償金や
領土をぶん取らないのかと突き上げられており、せめて駐兵だけでも「事変の成果」として
国民の示す必要があったからである。何もとらず、おめおめと米国に屈することはできないと
いうのだ。(p.178)
*かつての陸軍は自ら責任をとることなく、内閣で自分の利益のみを主張していればよかったが
現役の陸軍将官たる東條の首相就任は、そうした無責任な態度を許さなくなった(p.186)
*一○月三○日、嶋田は=中略=前任の及川と違い、対米戦争も止むなしと判断したのだ。
海軍は海軍で、対米屈服の全責任を押し付けられるのを拒絶したのであった。(p.190)
*東條は天皇の忠実な軍事官僚として、天皇の前で全会一致の手続きを重んじたのである。(p.202)
*この戦争は名称をめぐる陸海軍間の食い違いがあった。陸軍は「大東亜戦争」と称し、=中略=
海軍側は「太平洋戦争」「対米英戦争」を提案し、太平洋正面で「決定的に戦」う、つまり短期決戦
をめざす(p.204)
*東條が「上奏癖」といわれるほどに天皇への報告を怠らなかったことにより、その信任をかち
えていたことは有名である。(p.221)
⇒独国民の飢えが敗戦につながったことを重要視。天皇も国民生活を重大問題に。
*東條は、ガ島作戦における制空権確保の重要性を、控えめながらも陸軍部内でいち早く指摘
した(p.)
⇒航空総監、航空本部長の経験があり、航空重視の感覚は絶対的なものがあった(戦史叢書)
*昭和天皇は=中略=「要するに、彼は、近衛の聞き上手で実行しないのに反して、聞き下手で
直ぐ議論をやるから人から嫌われるのであろう」と東條評を語っている(p.240)
*東條は、<日本の物質力+精神力>で<米国の物質力>を克服し勝つという発想に傾きつつ
あった(p.286)
*天皇から見ると、東條はこれ以上首相の地位に固執して「世論」の反感が天皇に向かってしまう
のを避けるため、辞表を出したことになっている。つまりは自分をかばうために一身を犠牲に
した忠臣である。だから「立派」なのである。(p.309)
*結果的には東條が故人となった杉山と永野にかわり、開戦の全責任を一人で背負った形と
なった(p.359)