読書日記

読書日記

自分用の読書備忘録。
なので、よほどのことが無い限り画像とか一切無いです。
そしてアップはけっこう遅延しがち。

11月に読んだ本は5冊(図書館本4冊・購入1冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

本『こえび隊、跳ねる!』 監修・北川 フラム/編著・こえび隊 (現代企画室 2025.3)
【満足度】★★★

【概要・所感】瀬戸内国際芸術際外伝という副題の通り、こえび隊から見た芸術祭(黎明期の1985~2025年まで)の記録。芸術祭のオモテは、アート鑑賞や旅という楽しく華やかな一面で、ウラはそれを滞りなく進めてくれている運営面ですが、そこに考えを廻らしたこともあまりなかったですね。(運営の段取り悪いと激しくバッシングされ、スムーズが当たり前の仕事・・・。) 会場の島、作品や各会期、こえびさん一人ひとりにそれぞれドラマがあり、特に大島の山本隆久さんと理沙さんの文通は泣けました。いつか芸術祭のボランティアに関わって恩返しをするのもいいかもと思わせてくれる、非常に面白い1冊。

 

クリップ『リボルバー』原田マハ(幻冬舎文庫 2023.7)
【満足度】★★

【概要・所感】「ゴッホの死」の謎に迫るミステリー小説。史実をベースにしながらも史実に無い行間は脚色し、ゴッホ他殺説、そしてゴッホが自殺に使ったとされる「リボルバー」をネタに、ゴーギャンの子孫のサラ、日本人オークショニアの冴を登場させ、現代のストーリーとして成立させています。お見事です、ページをめくるまで想像がつかず面白かった。

 

本『保阪正康と昭和史を学ぼう』保阪 正康(文藝新書 2025.7)
【満足度】★★

【概要・所感】 保阪氏が「文芸春秋」に寄稿した中で、氏の昭和史に向き合ってきた姿勢がうかがえる原稿を15本厳選。後半の半藤一利や戸部良一との対談が一番学びがありました。他でも書きましたが、昭和(=太平洋戦争)は何も総括されておらず、今の時代が歴史に学んでいない、昭和を克服出来ていないことを思い知らされます。
【ポイント】

*東條内閣のもとでは石油がどれだけ足りないか、足りない分の石油をいかにして調達するか、

 という真剣な議論がなされた形跡が見たらない。(p.92)

 ⇒開戦しないとあと何年で枯渇するとか南方から調達すれば国力が維持できるという話のみ

*「玉砕」を繰り返すことは、確実にアメリカ兵の「日本兵を徹底的に叩く、絶滅させる」という

 意識を増幅させてしまったはずだ。(p.144)

 ⇒撃たれても撃たれても向かってくる日本兵

*海軍には伝統的に、日本の艦隊の戦力がアメリカの七割あれば勝てるという考えがある(p.163 半藤)

 ⇒七割のうちに戦争を始めないと勝てない

天皇は独裁者ではなくて立憲君主(p.171 保阪)

 ⇒開戦時は政府も統帥部も一致して開戦に賛成だから反対はできない。終戦時は戦争終結と

  継続の意見が一致せずだったから鈴木首相が憲法違反だと知りながら無理やり天皇に判断を

  仰いだところ、ポツダム宣言賛成の「聖断」を下した

*皇族で軍令部総長の伏見宮博恭は、激しい対米強硬派で、この三人(山本五十六・米内・

 井上)のことを大嫌いだった(p.174 半藤)

*開戦直後の十二月十一日に、単独不講和を定めた日独伊三国協定を結んでしまいました。これ

 があるおかげで、日本だけ先に講話することができなくなった。(p.179 保阪)

*明治維新以降に政治家、軍人と立場が分かれても、軍事と政治の両方を分かっている人が

 多かった(p.189 戸部)

 ⇒伊藤、山県など下級武士出身とはいえ軍事エリートであり、政治エリート

「原発は絶対安全」という発想は、「戦艦大和は絶対沈まない」という発想と同じです。=中略=

 「完璧だ」となった瞬間に、そこを破られたときのことを考えなくなる。(p.249 戸高)

*太平洋戦争の三年八カ月の間、大本営発表は八百四十六回あるんですが、そのうち八十数回は

 開戦直後の十二月八日から同三十一日の間に、それこそ一時間おきくらいに集中 =中略=

 それが戦況の悪化につれて、頻度が減り、「撤退」を「転進」と言い換えるなど言葉をごまかす

 ようになる。その後は、台湾沖航空戦みたいに嘘をつく。=中略= 昭和二十年の四月ごろに

 なると、月にせいぜい二、三回ですよ。(p.258 保阪)

*日本軍人に捕虜はいない、ということになってましたから、捕虜になった後の教育もできなか

 った。米英軍の兵士は、「捕虜になったら名前と認識番号以外はしゃべるな」と教育

 (p.264 半藤) 

アメリカは戦力とは総合力と考える、=中略= 港や、さらに奥にいる牧場の牛、つまり食糧

 まで含めて”戦力”と定義 =中略= ところが日本で戦力といえば、単に戦艦であり、兵士

 (p.265 保阪)

*アメリカとすれば、世界中が全面的に日本と戦争している構図を作りたかった。実際、そう

 なった五月から八月までの間、たった一国で四十ヵ国以上と戦争をやっている。(p.277)

 

本『太平洋戦争』大木毅(PHP新書 2025.8)
【満足度】★★

【概要・所感】戦略・作戦・戦術からなる戦術の諸階層から太平洋戦争諸戦役の検討した内容。太平洋戦争史は失敗した作戦がクローズアップされることが多いですが、本書は真珠湾作戦やマレー作戦など初期の圧倒的勝利を戦術的成功と分析して紹介している点が珍しいですね。しかし、結局のところ日本には最初から最後まで統一された戦略が存在せず、つまり、戦略なきまま開戦して各個に作戦を展開し、敗北していったというプロセスと結果はこの戦争での押さえておくべき反省点でしょう。なお、本書は「歴史街道」の連載記事の再構築したものであるため、ある程度知識のない人には分かりにくいと思います。
【ポイント】

国運を賭した大作戦、南方攻略といえども、十一個師団の兵力しか割り当てられなかったので

 ある。(p.22)

 ⇒当時の師団数は五十一個。対中戦争、ソ連への備えが必要。

*少なくとも南方攻略に関しては、それなりに論理的な戦略にもとづき、巧妙な作戦を実行して

 いた(p.24)

 ⇒マレー攻略は戦略目標が明確、それに応じて戦略立案など本来のプロセスが機能した

*マレーとフィリピンを押さえることが、蘭印作戦発動の前提(p.83)

*国際情勢に戦雲が垂れこめ、日米開戦が現実味を帯びるまで、日本陸軍は、具体的なフィリ

 ピン攻略計画を準備していなかった(p.97)

 ⇒大本営はフィリピン軍を植民地軍と侮り、殲滅戦も首都奪取も楽観視していた

*本間(雅晴)は、駐英武官を務めたこともある知英派で、ドイツとの同盟や対米戦にも反対

 していたという、健全な戦略的識見の持ち主である。(p.99)

*南方攻略=第一段作戦終了後に何をなすべきかは、まったく検討されていなかった(p.111)

 ⇒南方攻略作戦で手いっぱいで、余裕がなかった。

*MI作戦は、かくも量的に貧弱なスタッフにより、拙速で策定された計画であったことは否定

 できない。(p.136)

*いわば、太平洋戦争は昭和十八年に水面下で決定的な転換点(p.172)

 ①早期にパイロットの大量育成に踏み切った米は3倍増、日本は昭和十八年にかけて1.6倍

 ②米は新艦隊を完成。硫黄島や沖縄の作戦を支援した艦艇は真珠湾以降に建造された

 ③米の海上輸送路への攻撃

 

本『うまくいくチームはカリスマに頼らない』 三浦 将(三笠書房 2024.1)

【満足度】★★

【概要・所感】人材育成・組織開発系コンサルがリーダーシップを発揮する具体的な方法を体系立てて解説。その根幹はメンタルコーチング・アドラー心理学・認知心理学に支えられたメソッドとなっています。類書を読んだことがあれば、内容については特に目新しい話はありませんが、入門書として読みやすく学ぶべき内容も多いです。
【ポイント】

*リーダーシップとは、「変化に対応する力」(p.18)

 ⇒一人では変化に対応しきれない。チーム全体で考え、施策を実行していける体制を作る

*本物のコーチは、「できたのは、ひとえにコーチのおかげ」でなく、「コーチのサポートを受け

 ながら、自分が達成したんだ」と相手が思うような方向にリードしていくコーチ(p.157)

 ⇒マインドの変化を促すが行動をしたのは自分自身なので自分で達成したという感覚になる

*弱みとは強みを提示したのちに、控えめにさらすべきもの(p.200)

 ⇒しかし、強みを周りの人が認めないうちに、弱みをさらすことにはリスクあり

10月に読んだ本は4冊(図書館本2冊・購入本2冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

クリップ『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』今井 むつみ(日経BP 2024.5
【満足度】★★

【概要・所感】著者は慶大の環境情報学部の教授の今井氏。本書はコミュニケーションの困りごとについて、認知科学と心理学の視点からコミュニケーションの方法を教えてくれます。「言い方」ではなく、「心の読み方」にフォーカスしているのが類書とは違う点です。「話しても伝わらない」ことについて、記憶の曖昧さやいろいろなバイアスなど人の高い認知能力を支える性質がかえって、それにつながっていると指摘。相手の思考の文脈に歩み寄ることこそが、伝わるための第一歩です。
【ポイント】

*相手に正しく理解してもらうことは、相手の思い込みの塊と対峙していくことです。(p.37)

 ⇒自分の枠組みというフィルターを通してしかコミュニケーションはとれないことを理解する

*偏った視点や考え方を持った者が集まって、仕事は進んでいきます。意見を擦り合わせたり、

 歩み寄ったりすることで、より広い視点を獲得することができる(p.110)

 ⇒相手がどんな視点からそれを言っているのかを考え、聞き取り、その懸念の払拭が必要

*私たちの記憶容量は「1G」ほどしかない(p.121 スローマン教授)

*「相手の立場に立つ」「相手の気持ちになって考える」というのは、単に思いやりを持てという

 ことではありません。ビジネスにおいては、相手の置かれている状況を分析し、それに応じた

 提案をする、ということ(p.172)

*つまり人は「これが好き」という感情が最初にあって、それを基に意思決定をし、あとからその

 選択でいいかどうかを理性で検証している(p.195)

 ⇒何かを選ぶ時や迷った時、最初の瞬間に注視したものを最終的に選ぶ傾向がある

「失敗・分析・修正」をセットでできる人だけが、「失敗は貴重な機会だ」と言うことができる

 (p.256)

 ⇒失敗を分析できるかどうかが大切

*「仕事は段取り8分」と言われますが、その段取りの中に「相手」が含まれていることを覚えて

 おく(p.277)

 ⇒あの人にこう言ったらこういう反応が返ってくる、だからこういう風に準備しよう

 

クリップ『努力は仕組み化できる』山根承子(日経BP 2024.8)

【満足度】★★

【概要・所感】行動経済学のコンサルの著者が「日経BOOKプラス」に連載していた内容を加筆・再構成し、「努力」を行動経済学的な視点から解説。「今コストを払って報酬を手に入れるか」または「今、楽する代わりに将来何も得られないか」、この選択に良い悪いはありませんが、「自分の時間割引率の下で効用を最大化した」結果、「努力しなくても困らない」と選択している人は良いとして、反対にそれが自分にとって最良の選択が行われていない=後悔するとしたらもったいない話です。その「今」払うコスト=“努力”ですが、努力を中断させようとする敵の正体と戦い方は下記にメモ。参考文献からの事例の記載も多いので(それはそれで信頼に値しますが)、そこは読み飛ばしていいかもしれません。
【ポイント】

*努力を続けられない人ほど「努力には意志の力が必要だ」と考えている。(p.40)

 ⇒努力を継続している人はそうは考えておらず、努力を努力と思わずにできる

*努力が勝手に続く4つの仕組み(p.43~)

 ①フィードバックの内容を受け止め、それを目標に反映させることでパフォーマンスが向上

 ②その行動をどこで、いつ、どのように行うかを予め決めておく

 ③2ヶ月頑張ることができれば、意識せず自然に行える

 ④目標や教育によって自動化する

*努力の継続のためには、まずは自分の努力は無駄ではないのだと感じることが必要(p.93)

*必要な努力が無理なく続く2つのナッジ(p.105~)

 ①デフォルト・ナッジ・・・初期設定に従ってしまうという性質を利用する

 ②他人の力を借りるナッジ・・・「みんなやっていますよ」「みんなで頑張る」  

*人は難しい作業やつらい作業をするときにこそ、コミットメントを必要とする(p.135)

 ⇒コミットメントで将来の自分の行動を制限することは、誘惑と戦う上で重要

*人と一緒にいるときや、疲れているときが、努力をやめてしまう危険なタイミング(p.214)

 

メモ『今村 均 敗戦日本の不敗の司令官』岩井 秀一郎 (PHP新書 2023.7)
【満足度】★

【概要・所感】太平洋戦争下において名指揮官だったと言われる今村均・陸軍大将の評伝。彼を知る軍人との関係性から足跡を掘り下げようとするが、それがかえって読みにくくなり残念でしたが、こういう軍人がいたことはやはり知っておくべき話でなぜ紹介されないのでしょうか。今村将軍は不敗の指揮官と呼ばれ、開戦時は蘭印を攻略、優れた統治を行い、第八方面軍時代には司令官としてガ島からの撤退を指揮、その後ラバウルで徹底した自給自足を命じ、防御面では要塞化、連合軍の上陸を見ずに終戦を迎えたという人物です。真骨頂は敗戦後の振る舞いです。マッカーサーに直談判し、自ら望んで巣鴨から、南洋のマヌス島の刑務所へ移り、収容されていた多くの部下たちを励まし続けたことです。「自分の責任だ」と言える人はいても、行動に移せる人はそうそうおらず、今村将軍も旧来の武士道の精神を備えた真の軍人だったと思います。

【ポイント】

*今村は一夕会のメンバーではなかった、永田に信頼されていた(p.73)

*師団は戦略単位として戦闘から経理、兵器、馬事全ての機能を備え、連隊はその下で戦術単位

 として十分な権限を委ねられている。しかし、旅団長となると副官二名、書記を担当する

 下士官二名がいるだけであり、伝令も連隊から来ているものが二、三名、経理や兵器、衛生に

 ついてはなんら関わりを持たなかった。(p.106)

*中央ではガダルカナル島を巡って参謀本部と陸軍省の対立があり、作戦部長の田中新一が南方

 軍司令部附に、作戦課長の服部卓四郎が首相秘書官に更迭(p.204)

 

メモ『マッキンゼーで学んだ時間の使い方がうまい人の一瞬で集中する方法』大嶋 祥誉(PHP研究所 2024.3)
【満足度】★

【概要・所感】マッキンゼー出身の著者が集中する方法を伝授してくれると思ったのですが、集中できない現代事情の考察(スマホ等のIT化)等から始まって、解決法にしても、すでに一般的に知られている内容が多く、新しい知見等ありませんでした。第4~5章の「大嶋流の集中する方法」などはほぼエッセイに近い内容。

9月に読んだ本は3冊(図書館本3冊)でした。

見事に昭和陸軍軍人の3人の評伝。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

本『渡辺錠太郎伝』岩井 秀一郎(小学館 2020.2)
【満足度】★★★

【概要・所感】 二・二六事件で暗殺された唯一の陸軍大将・渡辺錠太郎の評伝。そもそも事件の細部は全く知らなかったのですが、渡辺将軍の次女・渡辺和子の証言にあった“父の血を浴び、肉片が飛び散る”という生々しさ、こういうのも学校の近現代史の授業で教えた方がいいですね。渡辺は、山県有朋の副官を二度も務めたので、それを利用して出世もできたはずですが、「学者将軍」と言われた彼は、梅津に同じく政治的な立ち回りや権力闘争を極端に嫌う性質だったようで、結局、陸軍三長官の一つである「教育総監」が最後のポストとなりました。もし、二・二六事件で暗殺されなければ無謀な戦争に突入する可能性がいくばくか低くなったかもしれないと思わせます。和子氏と渡辺将軍を殺害した高橋少尉の弟氏との邂逅も興味深かったです。

【ポイント】

*狙われた六人の中で、岡田、斉藤、鈴木の三人は海軍大将で、陸軍大将は渡辺錠太郎のみ

 だった。襲ったのは陸軍の一部であるから、彼らは自分たちの所属する組織の上層部の人間を

 殺害した =中略= 渡辺は、首相経験も大臣経験もない純粋な陸軍軍人だった。(p.44)

*五・一五事件や二・二六事件の発端は、やはり金解禁にあったといっても、私は言い過ぎじゃ

 ないと思うんです。(p.185 経済評論家・高橋亀吉)

 ⇒浜口内閣の蔵相・井上準之助は血盟団のテロで殺害

「陸軍改革」という大きなことを、いきなり少佐程度のメンバーだけでできるはずもない。永田

 らは長州閥に属さない有力と見られる将軍たちを担ぎ出そうと考えた。彼らが支援すると定め

 たのが、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎だった。(p.190)

*永田は陸軍省の軍事課長だったが、上司は軍務局長、すなわち宇垣擁立に動いた小磯国昭

 だった。

 ⇒三月事件・・・桜会のが陸相・宇垣一成を首相に擁立するクーデター計画

*小畑の戦略論は、=中略= 「対ソ早期開戦論」だった。=中略= 対して、永田はソ連の

 準備がそれほど早く整うと考えておらず、対ソ開戦の時期を早々に決定してしまうのは誤り

 だとしていた。=中略= この永田と小畑の対立は、単なる両者の仲違いでは済まなかった。

 陸相の荒木は小畑の作戦に関する才能を非常に評価しており、小畑の話に耳を傾けることが

 多かった。(p.199~200)

*荒木は陸相を退き、=中略= 後任の林は教育総監からの横滑りだが、当初荒木は、自身の

 盟友である真崎を陸相に据えようとしたらしい。ところが、参謀次長だった真崎の陸相就任

 に対し、上司だった閑院宮参謀総長が強く反対した。=中略= 閑院宮は真崎が自分を無視

 して勝手に振る舞うことにかなり腹を立てていたようで、以後も真崎と敵対的な立場をとる。

 (p.203)

*真崎については「影の実力者」といったイメージがあったらしく、「荒木は真崎のロボットだ」

 とまで評された(p.203)

 ⇒意図的に若者の人気を取ろうとして、次長時代、若手将校と昼食を共にしていた

*林の陸相就任には渡辺が相当に手を回し、下地をつくった =中略= 林があまりにも主体性

 のない人物のように映ってしまうが、実際、同時代の人からは林の評判はあまりよくなかっ

 た。=中略= 永田が林と推した荒木や真崎とはだいぶ異なる。(p.210)

*渡辺は真崎らとの敵対姿勢を隠そうともしなかった。他の参議官が仲裁に入らねばならない

 ほど、強い調子で責任を問うている。(p.234)

*渡辺の訓示は、「教育総監が天皇機関説を支持した」として大問題になる。=中略= 真崎の

 更迭に加えて、この名古屋での訓示が大きな要因となり、渡辺が二・二六事件の襲撃対象に

 加えられることになったとする見方が根強い。(p.236)

 ⇒渡辺の主張は「天皇機関説は個々で議論せず、陸相の判断に一任し、その統制に従え」という

  ことだったが、青年将校の間では天皇機関説に賛成していると悪意をもって受けとられた

*南(次郎)は閑院宮と同じく騎兵科出身で、派閥的には宇垣一成に連なる。宇垣閥は荒木が

 陸相となってからはほぼ一掃されており、皇道派とは敵対的な関係にあった。つまり、渡辺

 とは「敵」を同じくする。(p.241)

*しぶしぶ渡辺陸相案に同意をしていた荒木が、=中略= 永田遭難後になって渡辺陸相案に

 反対したということは、昭和九年段階では渡辺がそこまで脅威として見られてはおらず、

 恐らくは教育総監就任後に初めてその恐るべきを知ったことを示していると見ていい(p.243)

メモ『武藤章 昭和陸軍最後の戦略家』川田 稔(文春新書 2023.7)
【満足度】★★

【概要・所感】 武藤章は永田鉄山の後継として陸軍をリードし、戦後、最年少でA級戦犯となり、死刑判決を受けた人物。(東条からは「君を巻き添えに合わせて気の毒だ。まさか君を死刑にするとは思わなかった」との発言もあった) 日中戦争においては戦局拡大を主張、そして三国同盟・南北仏印進駐の決定に深く関与する一方、日米開戦には反対し続けた軍務局長時代の武藤に焦点を当て、彼の行動と思想を考察。陸軍は石原ー永田ー東條・武藤・田中新一の世代交代のゴタゴタ(主導権争い)で歯止めが利かなくなっていった感もあり、現代のビジネス界隈でも政治界隈でも同じような話があるように思いますが、自虐史観ではない本当の意味で戦争の総括は出来ているのだろうかと感じざるを得ません・・・。

【ポイント】

*今村は、事変当初は石原ら関東軍の行動を、やむをえないものと見ていた。だが、その後、

 関東軍が北満出兵や錦州攻撃を企図していることを知ると、国際的な配慮から =中略= 

 抑制しようとした。武藤はそのような今村に反抗して、石原ら関東軍の動きを支援(p.20)

 ⇒武藤は作戦課員、今村は上長の作戦課長

*永田と武藤は、教育総監部第一課で二ヵ月、情報部で一年四ヵ月、軍務局で五ヵ月、同じ部署

 に属した。(p.27)

*武藤の対中強硬論の主要なねらいは、石原作戦部長による華北分離工作中止の方針を打破し、

 華北の軍需資源を確保することにあった。(p.37)

 ⇒石原は対ソ戦備充実を最優先課題に中国との紛争を避けようとしていた

*武藤は国防国家体制の確立には、国内の体制整備のみならず、「自給自足経済体制」の確立、

 ことに資源の自給自足が必要だと考えていた。(p.48)

*永田の時代には、中国の資源で自給自足が可能と考えられていた。だが、今や、中国の資源

 のみでは長期の国家総力戦には対応できない、と武藤は判断していた(p.50)

大東亜生存圏、大東亜共同経済圏の設定が、戦前昭和史において武藤が果たした役割の最も

 重要なものであろう。(p.53)

*武藤の真のねらいは、三国同盟を日独伊ソの四国連合に展開させ、それによって日本の国策

 遂行に対するアメリカの介入を押し止めることにあった。(p.99)

 ⇒対米戦を危険視していたので三国同盟は対米戦のためではでなく、回避するため

*一九四○年一○月、田中新一が、北部仏印進駐問題で更迭された冨永恭次の後任として、参謀

 本部作戦部長となった =中略= 東条陸相の意向によるものだった。田中は東条が関東軍

 参謀長だった時期、東条の「一番の幕僚」とみられていた。(p.116)

 ⇒陸軍内での戦略決定における一番の阻害要因となっていく

*陸軍トップの東条陸相は、長く中央を離れていたため独自の構想をもっておらず、武藤や田中

 の構想や政策に最終判断を下す立場だった。(p.116)

陸軍中央では、来たるべき独ソ開戦への対応について、事態を静観すべきとする武藤ら軍務局

 と、北方武力行使と南方進出を主張する田中ら作戦部の深刻な対立が生じた。(p.154)

 ⇒独ソ戦により日独の対米牽制力が低下するのでソ連を屈服させ、独を英に向かわせたい

*南部仏印進駐は、当地の資源獲得とともに、さらなる南方作戦が必要になった場合の軍事基地

 の確保を目的とするものだった。(p.164)

*陸軍は、タイに兵力を進めれば、イギリスは強い危機感をもち、「米英の反発は必至」だと考え

 ていた。それゆえ逆に、=中略= 南部仏印なら、シンガポールは爆撃圏内に入るだけで、

 直接攻略することは困難 =中略= これが、南部仏印に武力進駐しても、戦争に至るような

 決定的な事態にならない、と判断していた大きな要因だと推測される。(p.174)

 ⇒進駐により米英関係は悪化するとは見られていたが、蘭印石油資源確保の渇望が切実だった

*武藤は、南北同時戦争に陥ることを回避するには、彼自身、対日禁輸強化を危惧していた南部

 仏印進駐実施を容認し、まずは対ソ開戦が不可能な状態を選択するしかないと考えていた

 (p.185)

 ⇒実際、田中は北方武力行使を断念する

*アメリカの対日石油全面禁輸と、その後の対日戦決意は、イギリス存続のためにおこなわれた

 といえよう。(p.192)

 ⇒ソ連の崩壊はドイツに資源等工業力をもたらし、より大規模な攻撃でイギリスに向かわせる

*中国からの全面撤兵とそれにともなう特殊利権の放棄は、これら永田以来の営為の結果が全て

 無に帰することを意味した。=中略= 対米戦回避に力を尽くそうとした武藤といえども、

 容易には、そこまでは踏み切れなかったといえよう。(p.246)

*一九四二年四月、南方戦線視察直後、武藤は軍務局長を解任され、近衛師団長に任命される。

 =中略= 武藤解任について、正確なことは分かっていない。(p.252)

 ⇒岡田啓介や東郷外相に、戦争終結に導くため首相に辞めてもらうしかないという話が東条の

  耳にはいったという説も。

*「私の不思議に思うのは、日本の某々新聞が、東京裁判を連合国対被告と思い込んでいること

 である。被告に対していかに憎悪を感じても、彼らは日本を代表している。彼らが侵略者で

 あれば、日本も侵略国である。」(p.270 武藤談)

*対米戦回避に意を注いだ武藤への死刑判決を意外に思う関係者も少なくなかったが、この判決

 については、軍務局長在任中の行為は終身刑相当だが、スマトラやフィリピンでの残虐行為の

 責任から死刑になった、との見方がある。(p.271)

武藤をはじめとする昭和の日本が持ちえなかったのは、そうした環境の変化への対応力でも

 あったのではないだろうか。(p.275)

 ⇒アメリカは独ソ戦という新たな事態を受けて政治・外交など対日戦略を変更した

 

本『東條英機』一ノ瀬 俊也(文春新書 2020.7)
【満足度】★★

【概要・所感】 現在においても厳しい批判の対象とされるA級戦犯として処刑された東條英機とは極悪人の独裁者だったのか?また、彼のやり方を現代から見た結果論ではなく、戦時下の国民はどういう風に見ていたのか?も気になります。天皇に忠実で生真面目な努力家であった一介の軍人が、いかにして総力戦指導者として戦争敗北への道を突き進んだのか、東條の実像に迫っています。東條に限らず、昭和の軍人は“その叩きこまれた強烈な自負心は根が純真であるだけに勇ましく尖鋭な実行力となり、どこまでも走らずにはいられない”という内面が全員に備わっているように思います。戦争責任者の東條の場合は、国家としてその精神主義と現実問題の乖離を埋められずに、ひいてはそれが日本の敗因にもなったのではないでしょうか。
【ポイント】

*名門第一連隊長への就任は、エリートコースに乗ったことを意味する。東條は部下をよくいた

 わった名連隊長で、「人情連隊長」とあだ名されていたと言われている。(p.55)

*二葉会と木曜会は、前記の張作霖爆殺事件を契機として、陸軍上層部を突き上げる圧力団体へ

 と変化していく。(p.65)

 ⇒政党内閣や軍上層部に対する不信感が統制無視につながり、国家国軍のためなら超法規

*真崎と永田・東條はのちに激しく対立するが、このころは反金谷・南次郎(宇垣一成系)で

 結束(p.68)

*永田と小畑は =中略= ソ連が所有していた北満鉄道の買収問題をめぐって決定的に対立

 した。(p.76)

 ⇒対ソ戦志向の皇道派/部内を統制し総力戦体制整備の統制派

 ⇒林陸相が恣意的な人事の目立った荒木・真崎を嫌いはじめていた

*明治~大正期の陸軍は、藩閥という「出自」の論理で動いていた。しかし、よくも悪くも「デモ

 クラシー」化した昭和期にものを言ったのは数の力、すなわち「世論」であった。(p.79)

*近年の研究では、陸軍の総力戦体制論が少なくとも満州事変までは国民主体の、議会や政党

 との協調を重視していた(p.84)

*第一師団長時代の真崎は部下である第一連隊長の東條を「東條連隊長は日本一の連隊長だよ」と 

 口を極めて褒めていた(p.91)

*一九三五年七月十六日、真崎は彼を嫌うようになっていた林陸相と閑院宮参謀総長によって、

 教育総監の座を追われる(p.105)

 ⇒真崎の更迭に皇道派は激怒し、永田を黒幕と見なした

*東條は同年九月二一日付で関東憲兵隊司令官に就任し満州へ渡る。東條が永田と同じ運命を

 たどるのを危惧した林の配慮だったという(p.106)

*東條は、第一次近衛内閣の陸相となった板垣征四郎の補佐役として、三八年五月三○日、陸軍

 次官に就任した。東條を選んだのは、その事務能力を高く評価した近衛である。(p.117)

 ⇒石原系の板垣に統制派の東條を配して、陸軍をコントロールしたかった、とも。

*岩畔は「天皇陛下に関しては、東條さんは小学生のような如く忠臣であった」という。(p.122)

*東條の仕事ぶりは、たしかにカミソリ大臣、電撃陸相と呼ばれるに値するものだった。

 (p.142)

 ⇒業務の細かいところまで目を配り、不手際があれば叱責もしている

*東條の”悪名”をなした理由の一つに、一九四一年一月八日、陸相として出した訓令「戦陣訓」が

 ある。(p.144)

 ⇒降伏投降を禁止したものとされ軍事課長・岩畔が板垣陸相に提案し、完成時は東條陸相

*東條の「思想戦」や「経済戦」そして「国民の給養」に気を遣う態度は、彼の個人的なものという

 よりは、第一世界大戦後の陸軍が組織として主に敗戦国の独国より得た”教訓”に根ざした

 もの(p.148)

*「大衆層」は「従来の総理大臣に見られなかった東條首相の、気軽な、そして、きびきびした

 「町の探訪」に多大な好感を寄せている」(p.153)

*東條がここまで大陸駐兵に固執したのは、先に衆議院や枢密院でなぜ陸軍は中国から賠償金や

 領土をぶん取らないのかと突き上げられており、せめて駐兵だけでも「事変の成果」として

 国民の示す必要があったからである。何もとらず、おめおめと米国に屈することはできないと

 いうのだ。(p.178)

*かつての陸軍は自ら責任をとることなく、内閣で自分の利益のみを主張していればよかったが

 現役の陸軍将官たる東條の首相就任は、そうした無責任な態度を許さなくなった(p.186)

*一○月三○日、嶋田は=中略=前任の及川と違い、対米戦争も止むなしと判断したのだ。

 海軍は海軍で、対米屈服の全責任を押し付けられるのを拒絶したのであった。(p.190)

*東條は天皇の忠実な軍事官僚として、天皇の前で全会一致の手続きを重んじたのである。(p.202)

*この戦争は名称をめぐる陸海軍間の食い違いがあった。陸軍は「大東亜戦争」と称し、=中略=

 海軍側は「太平洋戦争」「対米英戦争」を提案し、太平洋正面で「決定的に戦」う、つまり短期決戦

 をめざす(p.204)

*東條が「上奏癖」といわれるほどに天皇への報告を怠らなかったことにより、その信任をかち

 えていたことは有名である。(p.221)

 ⇒独国民の飢えが敗戦につながったことを重要視。天皇も国民生活を重大問題に。

*東條は、ガ島作戦における制空権確保の重要性を、控えめながらも陸軍部内でいち早く指摘

 した(p.)

 ⇒航空総監、航空本部長の経験があり、航空重視の感覚は絶対的なものがあった(戦史叢書)

*昭和天皇は=中略=「要するに、彼は、近衛の聞き上手で実行しないのに反して、聞き下手で

 直ぐ議論をやるから人から嫌われるのであろう」と東條評を語っている(p.240)

*東條は、<日本の物質力+精神力>で<米国の物質力>を克服し勝つという発想に傾きつつ

 あった(p.286)

*天皇から見ると、東條はこれ以上首相の地位に固執して「世論」の反感が天皇に向かってしまう

 のを避けるため、辞表を出したことになっている。つまりは自分をかばうために一身を犠牲に

 した忠臣である。だから「立派」なのである。(p.309)

結果的には東條が故人となった杉山と永野にかわり、開戦の全責任を一人で背負った形と

 なった(p.359)

8月に読んだ本は5冊(図書館本5冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

メモ『ペリリュー玉砕』早坂 隆(文春新書 2019.6)
【満足度】★★

【概要・所感】 太平洋戦争の激戦地・ペリリュー島。昭和19年9月〜11月にかけての戦闘が行われた島です。・・・と言われても、本書を読むまでは、そんな島の名前とか聞いたこともないし、どこにあるのかも知らないし、なぜそんな名前も知らないような島で激闘が行われたのかも全くわかりませんでした。(調べたらパラオ諸島の一番南) 中川洲男大佐率いる日本軍約1万の守備隊に対して米軍は4万2千人と4倍ほどの兵力差があったのに第一海兵師団は史上最悪の損害を被ったとされ、その74日間の激戦のあと行われた沖縄戦や硫黄島での戦い方に影響を及ぼしたと言われています。第四章から最終章までは、生き残った兵士など関係者からのインタビューで中川大佐の人物像に迫っていますが、現代に生きる我々にもリーダーたる人物はかくあるべしということを教えてくれます。ちなみに本筋とは関係ありませんが、中川大佐が、西南戦争時に西郷方の一兵士として参戦した父に対峙した歩兵第二連隊の連隊長としてペリリューに布陣したとのことで、これにはなんとも因果な縁を感じざるを得ませんでした。
【ポイント】

中川が連隊長となった歩兵第二連隊は、茨城県の水戸を編成地とし、「陸軍最強の精鋭部隊」

 との呼び声も高い部隊であった。(p.70)

日本軍では、陸軍は中国大陸や朝鮮半島、海軍は太平洋区域と責任が総じて棲み分けられて

 おり、島嶼部の防衛は海軍陸戦隊が主に担っていた。しかし、太平洋戦線の戦況の逼迫を

 受けて、陸軍の精鋭部隊が島嶼防衛にあたるよう変更になったのである。(p.82)

 ⇒満州の第十四師団をニューギニア(のちにマリアナ)・第二十九師団をマリアナ諸島へ派遣

*パラオは「内南洋」にあたるため、絶対的国防圏内として認められたことなる。軍中央はこの

 決定に基づき、パラオ方面の防備を強化する構想を固めた。=中略= 十月には豪北方面に

 第二方面軍が設けられ、パラオはその後方兵站基地とされた。(p.110)

 ⇒昭和19年3月パラオの空襲を受けて第十四師団の行き先がパラオに変更された

*現場からの叩き上げである中川は、徹底した「準備の人」でもあった。(p.121)

 ⇒島内の視察の多くの時間を割く。作戦担当や大隊長も同乗させ上空からも地形を検証

*中川大佐は将校を定期的に昼食などに呼んで一緒に食事をし、そこで陣地の配備や兵員の動き

 などを聞くということを常にやっていたそうです。縦社会である軍隊では、連隊長ともなると

 自分の側近を通じて下に指示を出していくのが普通なわけですが、中川大佐の場合は末端の

 将校にまで直接、話をした(p.130 第二大隊第六小隊長 山口氏)

*グアム島が陥落した結果、第三十一軍司令部は機能を喪失。その影響から、パラオ地区集団は

 第三十一軍から南方軍に編入された。総司令官は寺内寿一元帥である。(p.142)

*マリアナ諸島を陥落させた米軍の次なる目的は、フィリピンの奪還であった。=中略=そんな

 中で米軍が注目したのが、フィリピンの近隣に位置するパラオ諸島であった。中でも大規模な

 飛行場があるペリリュー島は、フィリピンを奪還するための拠点として最適な地と判断された

 (p.143)

 ⇒日本軍も十分に予測しており、原住民と在留邦人を避難させた

*玉砕を覚悟した訣別電報の末尾で、御嘉尚の数の訂正を依頼する。中川とは、そんな「細やか」

 な人物であった。(p.214)

 ⇒極限の戦いの中、先の電報で御嘉尚の数を間違えてしまった

 

本『誰が一木支隊を全滅させたのか』関口 高史 (芙蓉書房出版 2018.2)
【満足度】★★

【概要・所感】 著者は防衛大学准教授でガダルカナル戦を考察した著作が多数。その中でも本書は一木支隊にフォーカスして、定説を史実に基づき検証しています。一木支隊は旭川を出て宇品からサイパンへ。そして、サイパンからミッドウェー(イースタン島)への前進中にMI作戦の敗北により南鳥島へ。しかしそこには部隊を展開させる場所も食料もないと分かり、途中で針路変更し、グアムへ。防諜上の問題によりグアムで二か月過ごした後、旭川へ戻る予定だった話が、パラオへ転進。再び行き先の変更でトラック島へ行く、第十七軍隷下に入ることに。そしてガダルカナル島へ直行・・・という数奇な運命をたどります。以前、一木大佐の年老いた娘をテレビで見ましたが、隊を全滅させた部隊長の負い目を背負って生きてきた姿には胸が締め付けられる思いがしました。
【ポイント】

*戦争によって国運を開く、それが当時に「常識」だった。(p.44)

 ⇒戦争がはじまり、皆が祭りのように浮かれていた

一木支隊はミッドウェー作戦に参加する唯一の陸軍部隊(p.53)

 ⇒第七師団はフィリピンへの上陸作戦想定で訓練をしていたところ、田中作戦部長が一木大佐

 の経歴と盧溝橋での活躍を知っていたことから歩兵第二十八連隊に白羽の矢が立った

*日本軍にとってオーストラリア進出の道筋に当たるソロモン諸島の価値が陸軍と海軍では

 異なっていた。(p.81)

 ⇒海軍はオーストラリア侵攻を視野。陸軍はFS作戦失敗により重慶・インド洋に関心

第十七軍は、=中略= 「FS作戦」を担任するために新編された。大本営直属の軍(p.105)

 ⇒軍司令官は百武晴吉中将。二見秋三郎参謀長

*ガダルカナル島奪回の条件をめぐり、中央では「時間」を優先するのに対し、二見参謀長は

 「態勢」を重視(p.115)

 二見:一木支隊のような小部隊を派遣しても意味がない。ポートモレスビー攻略に集中すべき

 参謀:大本営からは一木支隊を直ちにガ島へ派遣し、飛行場を封殺せよとの意向

*二見参謀長は責任感の強い一木支隊長に過大な任務を与えることは、支隊長を窮地に追いやる

 ことになると感じていた。(p.124)

*そもそも松本参謀(※第十七軍作戦担当の高級参謀 中佐)は、大本営への恭順を示すために

 一木支隊を二組に分け、駆逐艦六隻でガダルカナル島へ上陸させる計画を発案した(p.129)

当時の陸軍では、米軍の一個師団に対し、日本軍一個連隊でも駆逐できるという自惚れが

 あった。(p.137)

*辻中佐こそ、後日、大本営の作戦の失敗を覆い隠すため、現地部隊の失陥を論い、その責任を

 なすりつけた張本人と目される人物である。(p.225)

*ガダルカナル島における一木支隊の全滅と川口支隊の攻撃失敗は、帝国陸軍の不敗伝説が米軍

 の前に躓いたことを示した。(p.232)

*一木支隊は支隊と言っても、一個大隊基幹であり、支隊のほとんどの将校は少・中尉などの

 尉官であり、戦術能力には限界があった。大佐は一木支隊長ただ一人、中佐はおらず、少佐は

 二人、しかも一人は第二梯団を率いていた。さらに大尉も数名で多くの中隊長は中尉だった。

 (p.263)

 ⇒ガ島のような戦場は自律型の戦闘が求められるが、経験豊富な実兵指揮に長けた将校は不在

*一木支隊は戦いに勝つことはできなかったが、支隊長の統率は成功したのである。(p.264)

 ⇒緒戦で負ければ士気は低下し、国民の信頼も失う。そのため教訓を学ぶことなく封印された

 

本『昭和の怪物七つの謎』保阪 正康(講談社現代新書 2018.7)
【満足度】★★

【概要・所感】東條英機、石原莞爾、犬養毅、渡辺和子、瀬島龍三、吉田茂についての考察から昭和の、あの戦争を解明する。結局、面白かったのは東條、石原でしたw 軍人の評伝を読んでいくと、個人の優秀さだけでなく、日本特有の組織の論理や国民性が絶妙にマッチングして“昭和の怪物”を生み出した気がします。

【ポイント】

*東條は中堅将校の頃から第一師団長の真崎甚三郎ときわめて良好な関係だった(p.8)

 ⇒若い将校をたきつける真崎の私心に不信感を持ち、注意し、真崎も東條は生意気となった

*東條は、昭和九年八月に東京から久留米の師団長に飛ばされてしまう。=中略= 皇道派が力

 を持っている陸軍内部で、東條は久留米の旅団長として軍人生活を終えるだろうといわれた。

 (p.9)

*永田の血染めの軍服を宿泊先に持ってこさせたという。その永田の軍服を、東條は自らの軍服

 を脱ぎ捨てて着ている。そして永田を殺した将校や皇道派への復習を誓った(p.10)

二・二六事件が、陸軍中央から追われつつあった東條の運命を変えることになった =中略=

 事件が起こったあと、=中略= 二人の将官が、誰よりも早く決断を示した。一人が第二師団 

 (仙台)長の梅津美治郎であり、もう一人が東條だったのである。(p.12)

*東條のように強引で、自らの権限しか考えない軍官僚こそが陸軍を動かすにふさわしいと陸軍

 内で考えられていた(p.12)

*木戸は強硬派の陸軍を抑えられるのは逆にその指導者である東條しかいないだろう、=中略=

 と考えるに至った(p.17)

 ⇒虎穴に入らずんば虎児を得ずだね、と昭和天皇が漏らした

*東條さんは軍人としてはアメリカとの戦争やむなしという側にいた。とくに陸軍大臣のときは

 ね。しかし、首相になって陛下から白紙還元を命じられ、=中略= そうはできなかった。

 =中略= だからひとたび戦争になったら勝たなければ、との姿勢に転じた(p.29 赤松貞雄)

*戦争というのは東條さんは、最後まで精神力の勝負だと考えていたことは間違いないと思うね

 (p.47 赤松)

*東條には思想も意見もない。私は若干の意見も持っていた。意見のない者との間に対立がある

 訳はない(p.60 石原莞爾)

*「東條と石原」の対立を見ていくと。昭和陸軍の過ちはやはり昭和十年代の人事異動にあった 

 (p.82)

*石原は作戦部長から、関東軍参謀副長に転じる =中略= 参謀長は東條英機であった。

 =中略= 東條と対立させ、陸軍から追い払って予備役に編入させる意図を含んでいた。

 (p.104)

*二・二六事件が、=中略= 四日間を鎮圧までに要したのは、天皇の意思が無視された結果

 (p.110)

 ⇒指導者たちは自身の計算を優先させて断固討伐をためらっていた

*林に列なる一派は統制派と評されたが、こちらは永田鉄山、南次郎、東條英機といった軍人

 たちで、軍事独裁政権を樹立するには非合法活動より合法的に権力を握るべきであると考え、

 青年将校をおだてあげているとして荒木や真崎と対立していたのである。(p.122)

*青年将校から見れば、石原は永田に直結する軍人である点では暗殺対象にすべきであるとする

 一方で、石原はわれわれの考えをわかってくれる、決して敵ではないと説く青年将校も存在

 したのである。(p.125)

*満州事変から三カ月、軍部がゴリ押しして政治に介入してくる事態をとにかく犬養で乗り

 きってほしいと天皇は考え、大任を托した(p.147)

*第二次大戦下の太平洋戦争では、日本は六十ヵ国余の国々と戦争を行った(p.257)

*東條には思想や哲学がないとはよく言われたが、いやむしろこの軍官僚は思想や哲学の意味が

 わからずにひたすら現実の中で二つの選択肢のうちのどちらかを選ぶかばかりに戦争を進めて

 きたというべきだった。(p.276)

 

本『自分で選んでいるつもり』リチャード・ショットン(東洋経済新報社 2024.5)
【満足度】★★

【概要・所感】行動経済学の本です。普段、買物をするとき、我々は自分で主体的に選んで買物しているつもりに見えて、実は巧妙に選ばされている話のある意味、タネあかしです。人間はいかに周囲の環境や、情報の提示の仕方が選択を左右しているかを認知バイアスで紹介。行動経済学を知っている自分にはオーソドックスな内容。翻訳本なのでエビデンスがやや冗長でした。
【ポイント】

*人間にとって「考える」というのは、ネコにとっての「泳ぐ」。できなくはないが、なるべく

 したくない(p.10 ダニエル・カーネマン)

*フット・イン・ザ・ドアのテクニックは要求の大きさを実際に変える。ドア・イン・ザ・

 フェイスのテクニックは、大きさの印象を変えている(p.54)

*名詞は「自分はどんな人間か」を表す。そのため名詞のほうが強い説得力をもつというわけだ。

 (p.178)

 ⇒○投票・定期購読 ×投票すること・定期購読

*人は出来事を流れとして憶えるのではなく、一瞬一瞬を切り取る形で心に刻む(p.255)

 ⇒記憶は映画ではなく写真を撮る。

  ピーク・エンドの法則=体験した出来事のピークが記憶に残りやすい

 

本『昭和史講義 軍人篇』筒井清忠/編 (ちくま新書 2018.7) ※再読 
【満足度】★★
【概要・感想】ちくま新書の昭和史講義シリーズ。前書きで昭和時代の陸軍の派閥抗争についての解説、本章でお馴染みの戸部良一氏ほか各分野の研究者が昭和の軍人14名を解説していく構成です。
【ポイント】

*陸軍の中枢では明治以来、山県有朋を中心にした長州閥が桂太郎、寺内正毅、田中義一と受け

 継がれてきたが、大正後期・昭和初期には人材が切れ、岡山出身で長州閥の庇護を受け昇進

 してきた準長州閥の宇垣一成を軸にした宇垣閥へと展開していった。

 これと対抗したのが大山巌に始まり上原勇作を中心とした薩摩閥で、武藤信義らを経て、真崎

 甚三郎・荒木貞夫などを擁する九州閥に転生していく(p.13~14)
*昭和期の軍は一枚岩ではなかった(p.39 要約)
 ①陸軍と海軍 ②中央と出先 ③国務と統帥

*軍の政治化は、つまり、危機に直面した政治家が気概を喪失したことでも促進された(p.43)
 ⇒軍は暴走するという認識の中、生命の危機に脅かされながら意思決定できない政治家
*東条英機(p.35~)
 山県、桂、寺内に続く、近代史上四人目の現役軍人の首相。国務と統帥の責任者を兼任する

 のは内閣創設以来初。師団を率いた経験はないが、軍事官僚としての高い実務能力で次官、

 大臣に就任。

*梅津美治郎(p.53~)

 関東軍司令官は、原則的には皇族を除く現役陸軍大将の中で最古参が任命されていたが、梅津

 は中将で、異例の大抜擢であった。功名心に走らず、幕僚の言いなりにならない確固たる信念

 を有する人物という条件に合致した。翌年の陸士15期のトップを切って陸軍大将に昇任。
*阿南惟幾(p.71~)
 阿南陸相待望論は、畑陸相の頃から陸軍内外に広がっていくが、戦局の悪化によりその声は

 大きくなっていった。彼の精神主義が、不利に傾く戦局の打開に不可欠な価値として陸軍
 内に認識されていたことを物語る。鈴木貫太郎内閣の政権運営は「徹底抗戦論」を排除すること

 なく、耳を傾けながら内閣瓦解を避け、戦争終結の機会をうかがうスタイル。それには中堅層

 の信頼が厚い将官の阿南の陸相就任と、和平派の米内の留任であった。
*鈴木貞一(p.87~)
 東條の側近として国を誤った元凶の一人。陸軍のトップエリートでありながら、部隊勤務は
 少なく、中央でのデスクワークで終始した異色の軍人。個々の局面での政治判断は正鵠を
 得ているものの、処世のため近衛や東條の決断に依存。
*今村均(p.161~)
 ラバウルの名将と呼ばれる。今村は南寧作戦が成功した時点こそ、日中終戦の絶好の機会

 だったと振り返る。(延々と中国各地に軍隊を駐留させ、戦闘を継続した)

 今村の人道的な軍政は、現地住民、部下将校、のちに敵軍からも絶大な称賛を受ける。当初、

 死刑判決を受ける予定だったが、現地住民の支援もあり、禁固10年の刑に。
*米内光政(p.197~)
 海軍兵学校は中位の成績だった米内が艦隊や本省で最高位に就くことは異例。

 2年半の海軍大臣時代・6ヶ月の総理大臣時代・終戦までの1年半の海軍大臣時代それぞれの

 期間、平和に尽くした政治家として評価
*永野修身(p.215~)
 日本海軍の歴史で、海軍省(海相=軍政)、軍令部(総長=統帥)、聯合艦隊(司令長官)
 という三つの重要ポスト全てで長を務めたのは永野のみ。
広田内閣総辞職と一緒に海相を辞す 

 が転出先は聯合艦隊司令長官。10ヶ月後、軍事参議官へ退いた後、四十一年四月、伏見宮の

 後任として軍令部総長に就任。(皇族を頂いたまま重大な決断をした場合、天皇に累が及ぶ

 のを危惧し、陸軍は杉山元に交代していた)現状ままでは日米間の軍事力の差は広がっていく

 ので有利なうちに戦争した方が良いという考えを公式の場で表明した最初の責任者。

 石油の備蓄が無くなってから米に攻撃されたら手も足も出なくなるという危機感から、

 あやふやな見通しでも直ちに戦争に踏み切り、地盤を取っておいた方が三年後に始めるより

 容易というだけで勝算は不明という無責任なもの。戦争の目算が立たないと正直に言えば、

 海軍の存在意義を失う。

*高木惣吉(p.237~)

 開戦時は若かったため、要職には就いていないが、海軍に関する著作物と、終戦時、側近

 として米内や井上成美を補佐し、終戦工作にあたった。

*石川信吾(p.253~)
 海軍省や軍令部の中堅層における対米英開戦の強行論者筆頭。

 最も影響を及ぼした経歴は軍務局第二課課長時代
*堀悌吉(p.271~)
 堀が本来就くべき、枢要なポストに就かなかったことが敗戦につながったと多くの関係者
 が認める。ロンドン軍縮条約において、条約派として大きな功績を残し、そのために加藤
 寛治軍令部長と末次信正軍令部次長の艦隊派から敵視されて海軍を去る。堀が現役将官として

 海軍に籍を置いていた場合、海相に就任する可能性が高かったため、予備役に編入された。(加藤個人の問題ではなく、時代背景の変化も影響)

7月に読んだ本は6冊(図書館本6冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

メモ『永田鉄山と昭和陸軍』岩井 秀一郎(祥伝社新書 2019.7)
【満足度】★★★

【概要・所感】 陸軍軍人として知名度は高くないが、必ず出てくる名前が永田鉄山。将来の日本陸軍を背負う逸材で、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」とか「彼が生きていたら日本はみじめな敗戦にはならなかった」と言われた存在の軍人でしたが、相沢三郎中佐に惨殺されました。いくら永田が頭脳明晰だと言っても、太平洋戦争は日本一国の事情(ましてや軍人ひとりの影響)だけで起こったわけではなく、米英中の存在や対応があり、選択肢のひとつとして戦争に踏み切ったという流れは承知していますが、少なくとも何か違った結末にはなった気がしました。
【ポイント】

*磯部(浅一)は、永田殺害の現場である陸軍省で、エリートである幕僚たちの周章狼狽を

 見て、そこに「軍閥をたおす」好機を見つけた(p.26)

 ⇒二・二六事件の決起を間接的に促した

*東条を「型通りの秀才」とすれば、永田は「型にはまらない天才」(p.32)

*永田の所属する区隊の区隊長は金谷範三中尉だったが、永田は金谷に将来を嘱望されていた

 という。金谷はのちに参謀総長に就任するが、その人物に将来を見込まれていた(p.38)

 ⇒中央幼年学校時代。陸大時代の教頭も金谷大佐

*岡村、小畑の二人は、特に永田と親しかった。この三人は「十六期の三羽ガラス」(p.42)

 ⇒他に土肥原賢二大将、板垣征四郎大将

*バーデン・バーデンの盟約(p.74)

 将来の戦争は総力戦になることを考えればこのままの陸軍では対応できない。

 大正10年、岡村、小畑、永田は軍の改革を誓い、陸軍の長州閥の排除を目標にしたとされる

*軍内部には永田らの一夕会のほかに、桜会があった。主宰者は、橋本欣五郎中佐。(p.79)

*永田は、その後、歩兵第一旅団長を経て、軍務局長になるが、注目すべきは、経歴における

 陸軍省勤務の長さである。(p.98)

 ⇒陸軍省は編成、兵器、人事など軍政を司る機関。軍務局長は幕僚として大臣を支える

*主に軍政方面を歩んだ永田に対し、同期の小畑敏四郎は作戦面で才能を認められた。(p.98)

 ⇒永田と小畑を並べて、「前者は軍政の第一人者、後者は統帥の権威」

  荒木貞夫 「こと作戦に関しては、陸軍広しといっても小畑の右に出るものはいない」

*二葉会と木曜会が合流してできたのが一夕会である。(p.100)

 ⇒バーデン・バーデンの盟約を経て、二葉会を結成。この動きに影響を受けた鈴木貞一が

  木曜会を結成。石原莞爾も参加。その後、対ソ・対中戦略をめぐって統制派・皇道派に分裂

*相沢をはじめとするいわゆる青年将校は当初、別の問題意識から「国家革新」を唱え、やがて

 皇道派と共闘関係になった(p.127)

 ⇒荒木の大らかで精神論を信奉する態度は、青年将校に好感を持って受け入れられた

*荒木の陸相時代である昭和七年頃、小畑は参謀本部第三部長、永田は同第二部長であった。

 荒木陸軍大臣であるから、両者の直接の上司でない。しかし、小畑は荒木のもとをたびたび

 訪ね、荒木もまた小畑の話をよく聞いた。(p.139)

 ⇒永田は秩序や統制を重視し、逸脱を嫌ったので、陸相の私的顧問になっている小畑を快く

  思っていなかった?

*真崎のほうが荒木より知恵者と見られていたようで、二人の全盛期は「荒真時代」と呼ばれ、

 なかには「荒木は真崎のロボットだ」という者までいたという。(p.143)

*荒木が陸相の間は皇道派が優勢であり、彼らの天下だった。=中略= 病気を抜きにしても

 荒木の辞任は時間の問題だったとの指摘もあり、予算獲得に失敗した荒木は幕僚たちの信頼を

 失い、その地位は不安定なものとなっていた。=中略= 荒木は当初、真崎を後任の陸相に

 据えようとしたが、閑院宮参謀長に拒絶される。(p.146)

 ⇒陸軍三長官の後任人事は三長官の合意で決める慣例。閑院宮は自分を差し置いて好き勝手に

  振る舞う真崎参謀次長に嫌悪感を抱いていた

*林(銑十郎)陸相のもと、いよいよ永田軍務局長が誕生する。この時五十歳、階級は少将で

 あった。林は荒木や真崎と近しい関係にあったが、二人が威を振るう状況については快く

 思っていなかったようだ。そこで人事の目玉として永田を軍務局長に持ってきたのである。

 (p.147)

 ⇒永田の局長就任は周囲も待望していたが、林は特に熱心だった

永田の死がおよぼした影響で最も大きいのは、統制派を取りまとめる人材がいなくなったこと

 であろう。永田が亡き後、軍を率いることになったのは東条英機らだった。(p.202)

 ⇒永田の一期下の東条は傍で見る目も羨ましいほど仲が良く、永田が東条を引っ張る関係

*永田氏の叡智の前に東条氏は永田氏に師事している格好である。だが、闘志になると、東条氏

 のそれは凄まじく、猛烈な断行力、何者にも屈せず驀進する鉄のような力は、東条氏の最も

 得意とするところである。(p.202)

 ⇒騎手なき悍馬。東条は永田のような包容力をもたないゆえに多田駿や石原莞爾と衝突した

*昭和天皇は東条の真摯な態度、緻密な頭脳を高く評価している。東条が悪く言われるように

 なったのは、東条の兼職の多さ(首相・陸相・参謀総長など)と憲兵の使いすぎが原因と

 述べている。(p.223)

 

メモ『最後の参謀総長 梅津美治郎』岩井 秀一郎(祥伝社新書 2021.12)
【満足度】★★★

【概要・所感】日本が無条件降伏を受け入れ、代表としてミズーリ号に乗り込んだのが梅津美治郎大将です。彼は東京裁判でも沈黙を守り、自らについて多くを語らなかったのですが、重光葵にして“東條より板垣よりも先に陸相となっていなければならない。梅津を重用していれば軍の統制は取れ、あるいは戦争になっていなかったかもしれない”と言われ、軍の内外からも“梅津が一番しっかりしていて正しい“という評判があったようです。在任中、親分肌の軍人ではなく、統制派や皇道派にも属さず、愚直に軍内の秩序を重んじ本務以外に関わることを嫌っており、それに陸軍大学首席で卒業の優れた頭脳の持ち主だったため、警戒の目で見られることも多々あったようです。陸軍軍人にしては稀有な人物だったからこそ、二・二六事件後に陸軍次官として粛軍、ノモンハン事件後に関東軍司令官になり国際紛争を起こさせず、そして終戦前の1944年7月に参謀総長に就任し、終戦処理という大きな後始末ばかりを任されました。幹部として戦争を止められなかった責任はあるにしても、こういった軍人がいたことは知っておいていいと思います。
【ポイント】

*梅津は明治四十四年十一月に陸大を卒業するが、この時に成績は主席だった。=中略= 永田

 鉄山が二番の成績だったことからも、いかに優秀な頭脳の持ち主だったかがわかる。(p.26)

*現役武官制が内閣を倒す道具として使われてしまうが、そもそもの目的が「皇道派の復活阻止」

 にあったことはまちがいない(p.53)

 ⇒軍が大臣を出さなければ組閣出来ないが、それは政治への介入強化ではなく、二・二六事件

  で追放された皇道派の大物たちが大臣になる道を防ぐため

*陸軍省はトップに陸軍大臣がおり、次官、軍務局長がいる。ただし、命令系統として次官の下

 に軍務局長がいるのではなく、次官はあくまで陸相の補佐役であり、軍務局長は大臣に直接

 つながり、その幕僚として大きな権限を振るった。(p.56)

*参謀本部の改正が石原大佐のイデオロギーで行われたのに対して、陸軍省の改正は梅津中将の

 イデオロギーで行われたといっても過言ではあるまい。(p.58)

 ⇒兵務曲の新設・軍務課の設置。改正前は群務局長と呼ばれるほど書類の決裁に追われ、

  大臣の補佐が疎かになっていた

*「宇垣内閣」に反発したのが参謀本部作戦課長の石原莞爾である。(p.62)

 ⇒宇垣内閣阻止、林銑十郎へ大命降下、陸相に板垣征四郎を配置すれば完成という段階にきた

*柴山兼四郎 =中略= 日中が戦争状態に突入した時は軍務課長として、早期の和平にも尽力

 している。外務省東亜局長を務め、=中略= 「陸軍部内で最も正しく中国を理解する第一人

 者」 =中略= この柴山がもっとも尊敬し、評価していたのが梅津だった。(p.70)

*二・二六事件以降、陸相は寺内寿一、中村孝太郎、杉山と三人を経てきたのに対し、次官の

 梅津はずっと同じ地位にいる。下を見ても要職の軍務局長は磯谷廉介、後宮淳と交代して

 いる。(p.83)

*多田駿は中国文化に深い造詣を持ち、陸軍でも屈指の中国通と言われた人物である。石原とも

 旧知の仲で、石原以上とも言える日中戦争不拡大論者だった。(p.91)

*梅津への信頼は、五年間という異例の長期間関東軍司令官を任されたことでも証明されて

 いる。(p.131)

 ⇒満州事変以降、大中将の最古参を選ぶことになっていたが、梅津は二十数名の先輩を飛び

  越し、重責に就いた。在任中は一度も国境紛争を起こさせなかった。

*阿南は、「皇軍本来の姿に還元」するには、杉山や山田では物足りなく、同郷の先輩である梅津

 こそ、その任に相応しいと考えていた(p.134)

*参謀本部戦争指導班の種村佐孝大佐によれば、「(東條のあと)誰を陸軍大臣にするかは一に

 梅津参謀総長の発言如何にあった」(p.148)

 ⇒教育総監だった杉山元帥を推し、東條の予備役編入まで言及。人事は思い切った決断

*小磯内閣で最初に行われた目立った施策は、「最高戦争指導会議」の設置である。(p.150)

 ⇒首相も軍事に参加可能に。それまでは「大本営政府連絡会議」という情報共有の会議

*梅津総長は、すでに陸軍次官時代、幕僚の越軌沙汰に苦労しただけあって、重要事項は幕僚の

 意見を用いなかった。=中略= 梅津大将が、杉山元帥をリードし、杉山は梅津にさからわ

 なかった。梅津は天皇にも親任篤く、彼が陸軍を代表している感があった。だから、この頃の

 陸軍は、稀に見る静穏で幕僚の越軌行動も殆ど目だつものはなかった。(p.156)

 ⇒東條は参謀本部との連携に苦労し、最終的に自ら総長まで兼ねた。そのときの総長は杉山

*梅津の部下の使い方には、=中略= 陸軍次官時代は柴山兼四郎、関東軍司令官時代は田村

 義富、参謀総長時代は種村佐孝というように、誰か一人信頼できる部下を見出し、その人物を

 懐刀として使うことだ。(p.156)

*梅津が戦争継続論を唱えた話を聞き、これを父に問い質してみた。=中略= 「バカ、いやしく

 も全日本陸軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が

 出来ると思うか」と一笑に附された。(p.195 長男・美一談)

 ⇒表面強硬論を唱えながら、少しずつ和平に向けて陸軍の軌道を動かした

*梅津は、まさしく「合理」の人だった。阿南は、「徳望」をもって慕われた。=中略= 阿南は

 梅津に国家の後始末の役割を頼み、梅津は屈辱に耐えて、ミズーリ艦上に立った(p.232)

*昭和二十年三月と言えば、すでに硫黄島の戦いが佳境に入っており、ドイツは無条件降伏直前

 =中略= 細菌兵器の使用は、まさしく「人類に対する戦争」になっていただろう。梅津は、

 これをギリギリの段階で阻止したのだ。(p.234)

 ⇒米内海相も承認し、決行待ちだったが、「人道的に世界の冷笑を受けるだけだ」と中止させた

*梅津は満州時代に此人ありと云われた人、冷静にして思慮稠密にして折り目正しき将軍で

 ある。(p.237 重光葵)

 

メモ『罰ゲーム化する管理職』小林 祐児(集英社新書 2024.2)
【満足度】★★

【概要・所感】著者はパーソル総研の研究員。今やなりたくないものの筆頭・管理職が「罰ゲーム化」している事態を攻略するアプローチを提案。過酷な現状の分析から「罰ゲーム」の終わらせ方、そして管理職としてのやりがいや本来の使命も提示する。

【ポイント】

*性別役割分業意識を背景に、仕事を通じて女性にモテたり、妻子を経済的に支えようとする、

 マッチョで男性的な規範があることによって、たとえ管理職が「罰ゲーム化」しても、「大変

 だが、やってみよう」と覚悟を決めていく男性が現れてくれる(p.55)

*ピープル・マネジメントの問題は「管理職向けの、対人スキル・トレーニング」へと偏って

 きます。(p.160)

 ⇒対人関係という相互行為の問題を「管理職の側のスキル」で解決しようとしている根本的誤り

*「罰ゲーム」に苦しんでいる管理職は、忙しいにもかかわらず、自ら能動的に動く「アクション」

 が多すぎます。(p.215)

 ⇒会議に出過ぎ、指示を出し過ぎ、プレイングし過ぎ、働き過ぎ

*「全体のタスク量のシェア」ではなく、「期待水準のすり合わせ」(p.217)

 ⇒目の前の仕事が必要に見えているからこそ行動している。期待水準もUPしている

 

本『ドンキはみんなが好き勝手に働いたら2兆円企業になりました』吉田 直樹(日経BP 2024.9)
【満足度】★★

【概要・所感】PPIHのCEO吉田氏、上席執行役員の森谷氏、博報堂クリエイティブDの宮永氏による共著。同時期刊行の「進撃のドンキ」の姉妹本という位置づけです。ドンキはある種、本部からの制約なく自由に売りたい商売人気質の社員は働きやすいように思います。“好き勝手”という言葉の響きは魅力的ですが、創業者の安田隆夫氏が記した企業原理「源流」を理解した上で、、その枠の中で考えながら継続してやり続けるのはそれはそれで逆にしんどいシステムかもしれません。

【ポイント】

*現代の消費者にとって、日常の買い物の多くは「義務的行動」(p.228 宮永)

 ⇒「こっちのほうがいいじゃん!」と違う定番に入れ替わる。その発見の楽しさがドンキにある

*権限委譲とは、プロセスコントロールをしないこと(p.276 安田会長)

 ⇒ドンキでは丸投げしないマネジャーは評価されない。決められた範囲を深く狭く任せる

*競争意識がないと、結果に対するこだわりが減り、失敗でも成功でもどっちでもいいや、

 となってしまうため、失敗の確率が増える。つまりリスクが増すんですね。(p.291 吉田)

 

メモ『部下に「困ったら何でも言ってね」はNGです』伊藤 誠一郎(日本実業出版社 2023.1)

【満足度】★

【概要・所感】若手社員育成が専門のコンサルの著者による昨今の若手社員の傾向と対策。若手の社員のことを理解し、若い力が伸びる環境をつくるノウハウや良好な関係を築くためのポイントを紹介。本書に書かれているのは一般的な若手社員の傾向でしょうけど、年長者や上司が一方的に本書のノウハウを使うのも危険な気はします。上司は「声だけかけてマネジメントしている感」を戒めないといけないし、部下の「待ちの姿勢」を助長しないよう留意が必要です。

【ポイント】

*「品質を高めるために練習することは、仕事上の義務になります。しかもその良し悪しを

 決めるのは、お客様である第三者です。」(p.172)

 ⇒仕事・義務・給料が発生している・社会人・品質(自信があるなら手本に)がキーワード

 

メモ『脳から見るミュージアム』中野 信子・熊澤弘(講談社現代新書 2020.10)
【満足度】★

【概要・所感】 東京芸大准教授の熊澤氏との対談形式。全体を通して深い話は無く、美術館やアート、学芸員にまつわる雑談といった感じ。かと言って、読みやすい訳でもなく。タイトルの「脳から見る」となっていますが、脳は関係がなかったです。中野さんの鑑賞法でキュレーターの作品の並べ方や、美術館がこの時期にこの個展を開催した理由など、作家以外の視点も考えて「問いを立てる練習をしながら観る」というのは若干、参考になった程度でした。

 

6月に読んだ本は4冊(図書館本3冊・購入1冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

メモ『石原莞爾の世界戦略構想』川田 稔(祥伝社新書 2016.4)
【満足度】★★★

【概要・所感】満州事変の首謀者として知られる石原莞爾の戦略思想である「世界最終戦争論」を緻密に分析した一冊です。国家のグランドデザインを描き、洞察力にも優れた鬼才の石原は満州事変後、一貫して日中戦争不拡大の考えに転換し、武藤と田中と激しく対立。また犬猿の仲である東条との対立から予備役に追い込まれ、軍からは失脚。極東軍事裁判では東条と敵対したことも幸いし、罪に問われることはなく、、、もし石原の考え方のままに進んでいればその後の日本は果たしてどうなっただろうか。

【ポイント】

*柳条湖での鉄道爆破は関東軍の部隊によって実行された謀略だった。(p.9)

 首謀者は石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀。実行は独立守備隊の河本末守中尉

*当時宇垣派が掌握していた陸軍を改革するため、一夕会が事実上陸軍中央の人事を掌握し、

 =中略= 荒木貞夫・真崎甚三郎・林洗十郎ら反宇垣派将官を擁立しようとしていた。(p.21)

関東軍司令官は天皇に直属しており、参謀総長といえども、彼らを指揮命令する権限はもって

 いなかった(p.39)

*若槻らは、南陸相の辞職を回避し、南陸相。金谷参謀総長との連携を回復することによって、

 なおこれ以上の関東軍の暴走を食い止めようとした(p.43)

*日本政府はやむなく、満州でに軍事行動を、自衛のための一時的な行動と対外的に説明して

 きた。だが、錦州爆撃は、自衛の範囲をはるかに超え、対外的に説明がつかないものだった

 (p.48)

*石原は、満蒙領有は、対米持久戦の契機となる可能性がきわめて高いと判断していた。

 (p.103)

石原の対米持久戦構想は、=中略= 太平洋戦争開戦前夜の田中新一作戦部長の戦略構想の

 なかに、かたちを変えて引き継がれる。(p.131)

*石原が参謀本部に初出勤の日、統制派の指導者だった永田鉄山軍務局長が、白昼陸軍省の

 執務室で殺害(p.158)

*(二・二六事件後)軍中央のなかで強い影響力をもつようになったのが、参謀本部では石原

 作戦課長、陸軍省では武藤軍事課高級課員だった。いずれも永田が軍務課長在任中にそれぞれ

 参謀本部・陸軍省に呼び寄せていた。(p.167)

 ⇒武藤は、前年死去した永田鉄山の後継者と目されており、統制派を率いていた

*軍部大臣現役武官制の復活など制度改変の目途のついた同年(1936年)六月、武藤は

 =中略= 関東軍参謀として満州に転出。石原が一時、陸軍中央において主導的役割を果たす

 ようになる。(p.169)

 ⇒参謀本部を改組。戦争指導課を新設、初代課長となった。

  戦争指導課と作戦課を中心に作戦部が構成されるようになり、参謀本部の主要な権限が

  作戦部に集中するシステムになった

*石原は=中略=対ソ戦略上、米英との良好な関係を維持することが必要だと判断していたが、 

 両国は中国に強い利害関心をもっていた(p.222)

*幕僚間では、たとえ部長と課長のような上下関係でも、組織としての決定でない限り、個別的

 な命令関係にはなく、参謀総長への意見具申などが許されていた。(p.277)

日中戦争は、その発端においては、陸軍内の政策的対立に起因するもので、武藤らが石原の

 政策的指導権を破砕しようとしたことが重要な動因となっていた。(p.351)

 

本『陸軍作戦部長 田中新一』 川田 稔  (文春新書2025.1
【満足度】★★

【概要・所感】1940年10月、東条陸相の意向により47歳で参謀本部作戦部長就任、開戦を最も強硬に主張し、陸軍を動かしていった人物が田中新一です。彼が作戦部長だった対米開戦期を中心に、作戦部長を任されるほど優秀な人物がなぜ日本を破滅に導く決断をすることになったのか、彼の思想と行動を追っています。元々、個人的な疑問として作戦課の主要メンバーが東京裁判にかけられておらず(本書の主役である主戦論者の田中も戦犯指定を受けず)、一方、対米慎重論の武藤はA級戦犯で死刑、と対照的な結末を迎えたことから気になっていた人物でした。なお、田中の作戦部長としての最後は、ガ島放棄の方針に佐藤賢了軍務局長を殴り、東条に「バカ者ども!」と暴言を吐き、更迭という成り行きです。(ただ、これは作戦部長として責任が持てなくなり確信犯的に辞職した等、諸説あるようです)

【ポイント】

*「抜群な説得力」「指導力」と「比類なき迫力」で参謀本部内外に強い影響力を持っていた=中略=

 田中部長を中心に、部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の三人が、「開戦の

 強力な主唱者」(p.9 作戦課員・高山信武談)

 ⇒日米開戦に慎重姿勢は武藤章陸軍省軍務局長 ※軍務局は軍政、予算を担当する部局

*田中が去ったあと武藤は、「アイツとの調整で精魂が尽きる。これでは何んにも出来ない」と

 漏らしている。(p.10)

 ⇒三国同盟維持により米を挟撃したい田中と、三国同盟を空文化し日米戦を回避したい武藤。

  この大方針の相違が二人の激論の根本要因

一夕会は、当時陸軍を主導していた長州系を排除し、満州問題の武力解決や国家総動員体制を

 実現するため、陸軍を主導権を握ることを目的とした非公然組織(p.19)

*田中はソ連から帰国後教育総監部に所属していたが、同じ部署の永田にさそわれ、一夕会の

 メンバーとなった。これが、その後、田中が陸軍中央で有力ポストにつく一つの要因となる。

 (p.19)

参謀本部作戦中枢において、石原作戦部長の方針に武藤作戦課長が強硬に反対し、陸軍中枢

 ラインでも、梅津次官や田中軍事課長が石原案に強い批判をもっていた。(p.35)

 日中戦争不拡大:石原 ⇔ 日中全面戦争:田中、武藤(権益保持が目的なら撤退は総敗北)

*(1939年)当時、陸軍省中枢ラインは、杉山陸相、梅津次官、町尻量基軍務局長、田中軍事

 課長で構成されていた。町尻、田中はともに一夕会員で、石原転出後に軍務局長となった町尻

 は、実務の中核である田中軍事課長の意見を基本的に尊重するスタンスをとっていた。(p.55)

 ⇒陸軍省内では対中強硬論の田中が強い影響力を持っていたため、杉山陸相も強硬論を主張

*(1938年)6月、近衛首相の強い意志で杉山陸相が辞任し、石原莞爾と親しい板垣征四郎が

 陸相となった。=中略= 板垣は石原を次官に望んでいたが、それを阻止するために、先手を

 打って東条を次官に据えたのである。(p.63)

 ⇒軍紀を乱す石原を嫌悪した梅津が企図した

*田中の世界戦略の方策(p.138)

 独ソ戦によって三国同盟と日ソ提携との連繋は消失。米英ソを連繋させないため、ソ連を打倒

 するしかない。そして独を英屈服に向かわせ、日本の南方武力行使とともに英を崩壊させ、

 米を孤立させる。

長年陸軍が想定、研究してきた「仮想敵国」はアメリカではなくソ連だった。(p.150)

 ⇒関特演の実態は演習ではなく、対ソ戦のための兵力動員(否定派の武藤の不在を衝いて)

*石油全面禁輸を知った近衛首相は、対米戦争を回避するため、ルーズベルト米大統領との首脳

 会談を企図する。田中ら参謀本部は、近衛が三国同盟を弱める方向でルーズベルトと妥協する

 ことに強い危惧をもった。(p.159)

 ⇒その場しのぎの「妥協」が成立しても、一時的であり、欧州戦争が片付いた時には海軍の戦力

 比が圧倒的に不利な状況になった後、日本は米英その他に袋叩きにあうことを恐れた

南進戦略、三国同盟の堅持が米英蘭一体を招いたとすれば、田中らの決断の帰結(p.181)

*作戦部長である田中は、大本営連絡会議などの国策決定の場に出ることはなく、参謀総長を

 介して自らの意思を通していた。(p.200)

*海軍は、次官(澤本)、軍務局長(岡敬純)、軍令部次長(伊藤整一)、作戦部長(福留繁)

 ともに慎重姿勢のなかで、嶋田海相、永野軍令部総長の二人のトップが、開戦やむなしとの

 判断を示していた(p.209)

*田中はガダルカナルの争奪戦が、日本が長期持久戦を維持できるかどうかの分岐点であり、

 日米戦争の一つの決戦場だと考えていた(p.245)

 ⇒陸軍首脳は米軍の反攻は1943年以降と考えていたが、田中はすでに本格的だと捉えていた

*決戦後講和の方針から、日米の戦力差の拡大のなかで、日本陸海軍は決戦を求めては失敗し、

 膨大な犠牲を積み重ねることとなっていく。(p.251)

 ⇒田中も日米戦は回避の考えだったが、結局、死中に活を求めるしかなくなった

*田中には、仙台幼年学校同窓で、関東軍での上司だった石原の構想に惹かれるところも残って

 いた。=中略= 石原の日米持久戦論から強い影響を受けていた。(p.260)

 ⇒永田の後継者だった武藤は中国を完全な支配下に置くのではなく資源や経済のみ独占下に

 

クリップ『リーダーは偉くない。』立花 陽三(ダイヤモンド社 2024.2)
【満足度】★★

【概要・所感】慶応ラグビー部から外資系証券会社数社を渡り歩き(メリルリンチ時代にガツガツ系のリーダシップが通用しないことに気付き)、その後、東北楽天イーグルス社長としての経験を中心に「リーダーシップとは何か?」をあくまで「自分向けに」考えてみたとのこと。「上に立つからといって偉そうにしない」のは当たり前な気がするのですが、著者のような経歴だと切り替えが難しいのかもしれません。氏が影響を受けたという宿澤広朗氏が気になります。 

【ポイント】

*リーダーはメンバーの「能力」を高めるために、あれこれと教える(ティーチング)することも

 必要ではありますが、より根本的に重要なのは、メンバーの「やる気」に火をつけることだと

 思うのです。(p.102)

 ⇒やる気のスイッチは本人にしか押せない

 

メモ『仕事は初速が9割 』越川 慎司 (クロスメディア・パブリッシング 2023.12)
【満足度】★★

【概要・所感】 著者のコンサル会社でAI分析した結果、仕事の初速を上げることが成果につながることがわかった。そこで本書が紹介するのは「スピード感のある仕事」を実現している人たちの「成功ルール」、つまり実際の習慣。資料作成、メール、会議など作業別の初速を上げるテクニックを紹介。目新しいことは書いてなかったですが、自分用にいくつかメモ。

【ポイント】

*「成功or失敗」の二元論ではなく、いくつもの失敗を積み重ねた先に成功がある(p.12)

 ⇒小さな行動実験を繰り返して失敗によって得た学びをもとに行動を修正していく

*どんな小さなことでもいいから、とにかく何かを始めることによって、モチベーションが

 高まります。(p.53)

 ⇒モチベーションが高まってから仕事をするのではなく、作業興奮によって高まる。

*とりあえず「2分」だけ作業してみる(p.119)

 ⇒人間の脳は小さな数字で示されると「その作業は行動ハードルが低い」とイメージする

  ex.1分だけアンケート・2ヶ月だけジム

資料というのは、それを作成することが目的ではなく、作った資料で「相手をどう動かすか?」

 が一番の目的(p.152)

5月に読んだ本は4冊(図書館本2冊・購入2冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

本『楽園のカンヴァス』原田 マハ(新潮文庫 2014.7 )
【満足度】★★★

【概要・所感】アート・ミステリー小説。MoMAのキュレーターのティム・ブラウンと日本の美術館の元研究員である早川織江を中心に物語は展開していきます。二人は伝説的なコレクターから「アンリ・ルソーの“夢”という作品」の真贋を判定するよう依頼されます。判定の条件は提示された日記を7日間かけて読み解くこと。二人は日記を通じて、ルソーと彼を支えた人々、そして若き日のピカソにも触れながら、絵画に隠された衝撃の真実へと近づいていきます。史実を土台に原田マハお得意の絶妙のフィクションが織り交ぜられ、とても面白かったです。そしてアンリ・ルソーの作品が観たくなりました。

 

クリップ『素晴らしき世界 ~もう一度旅へ』吉田 修一(集英社文庫 2023.10)
【満足度】★★

【概要・所感】 15年にわたり続いたANAの機内誌『翼の王国』に連載していたエッセイ。「ぼくたちがコロナを知らなかったころ」に続き、2019年2月から2021年3月までの26編を文庫化。

【ポイント】

*誰かに話を聞いてもらう。ただ、それだけのことがこれほど人を幸福な気持ちにするのだと

 改めて気づかされる。(p.73 「人生初のトークショー」)

 

クリップ『機嫌のいいチームをつくる』吉井 理人(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2024.7
【満足度】★★

【概要・所感】千葉ロッテの元監督・吉井氏が2022年秋に監督を引き受けた時点から監督としてシーズンを送った1年と少しの体験を元に心理的安全性を高めるコミュニケーション術などリーダー向けに書かれています。否、ロッテの選手・将来のコーチ陣向けに書いたものかも? 吉井氏が最も影響を受けたのは栗山監督とありましたが、確かに似た方向性の話が多く、セオリー通りの内容でした。
【ポイント】

*決めるのは監督だ。コーチが意見を言っても、採用されるかどうかはわからない。それでも

 意見を言うところまではコーチの権利と義務だ。(p.76)

選手はあたかも自分ひとりの力でうまくなったと思ってくれた方がいい。=中略= 理想は

 あくまで選手自身が気づき、選手の主体性でやることだ。(p.110~111)

 

本『「好き」を言語化する技術』三宅 香帆(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2024.7)
【満足度】★

【概要・所感】2023年刊行本を新書化。“推し”の語り方について“やばい”しか出てこない人が若い人に多いですが、それは語彙力が足りないというより、自分の言葉を作る技術がないからだと本書では論じています。“推し”に限らず、映画やアートの感想でも言語化しておかないと、すぐに忘れてしまいますよね。そこには「自分がどう感じたか」を言語化することで解像度が上がるとことを示しています。「自分を主語にすること」「観察(比較・具体化・細分化)」などのテクニックを紹介。個人的には「SNS等で他人の感想を見る前に、自分の感想をメモする」は意外に重要かもしれないと思った次第。(批評に正しいも正しくものない) 第二章の「推しを語る前の準備」以外は、「話す・SNSで発信・文章」そして「例文」と結局、同じ話ばかりで、そこはもったいなかったです。

【ポイント】

*伝わる文章というのは、書き手が「伝わるように工夫している」(p.41)

*推しの魅力を言語化するとき、=中略= 必要なのは、「細分化」です。(p.76)

 ⇒良かった点や違和感を覚えた点を細分化する(感想のオリジナリティは細かさに宿る)

4月に読んだ本は4冊(図書館本3冊・購入1冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

クリップ『ぼくたちがコロナを知らなかったころ』吉田修一(集英社文庫 2023/8)
【満足度】★★

【概要・所感】 ANAの機内誌『翼の王国』に連載していたエッセイで、コロナ前の2016年11月から2019年9月までの27編を文庫化。小説『悪人』や『怒り』、『国宝』などとは違い、気軽に読めます。昔ほど名言はないけど、小説同様に旅の情景が浮かんできたり、その場面に一緒にいたような気にさせてくれる1冊。

 

本『仕事のできる人がやっている 減らす習慣』中村 一也(フォレスト出版 2024.1)
【満足度】★★

【概要・所感】著者はデータサイエンスが専門のコンサル。過去に比べて労働時間は減っているのに仕事を早く終わらせてもやるべきことはなくなりません。仕事を速くするのではなく、減らすという考え方が重要になってきます。本書では、仕事のパフォーマンスを低下させている要因をムダな考え事・ムダな作業・自分のターン・メール・ミスの5つとして定義し、それぞれの減らし方のノウハウが記載されています。業務を効率化するのはいいとして、その後(要は目的)の方が大事だということも心に留めておきたい。

【ポイント】

スキマ時間の活用を徹底していくと、私たちは「常に忙しい状態」になってしまう(p.30)

 ⇒あえて予定を埋めず自分の意志で活動を停止する_戦略的小休止@ジュリエット・ファント

*幸福になることで、仕事の効率が上がる(p.37)

*重要度の高い仕事に取り組めたか?(p.43)

 ⇒緊急度の高い仕事は良い仕事をしたと錯覚させてしまう

*本当に大事なことを先にスケジュールに組み込むべきだ(p.49)

 ⇒最初に大きな石を入れなければ大きな石は決して瓶には入らない。

  先に砂や水を入れると大きな石は入らない

いかなる成果もあげられない人のほうがよく働いている@ドラッカー

 ⇒ひたすら受け身の予定をこなして時間を費やしている

*生産性の高い一日を送るためには、決断の回数も少ない方が良い(p.55)

 ⇒悩むのをやめる。

*「書く」「口に出す」などして、頭の中から自分の考えを外に出すことで、はじめて思考は整理

 される(p.60)

*言語化には再現性が高まるというメリットがあります。再現性が高まるということは、自分の

 今後にとって有益なだけでなく、他者に技術を伝えることができる(p.63)

 ⇒自分は天才ではない。なぜならどうしてヒットを打てるか説明できるからです@イチロー

*暗記するよりも理解することを心がけたほうが、記憶に残りやすい(p.70)

*緊急度と影響度で優先順位を検討(p.82)

*なぜマルチタスクで生産性が落ちるのか。=中略= 理解しやすいのは「ながら運転」「ながら

 スマホ」です(p.103)

 ⇒時間があるからこそ、意思決定にとって重要ではないささいな情報まで気にしてしまい、

  意思決定の精度が落ちた

*仕事を減らしたいと思うなら、仕事の方向性を他人に決めさせてはいけません。(p.117)

 ⇒自分で方向性を決めて、それを承諾させる。仮説を持ち、人に認めてもらって本当の答。

*過去の成果を学ばない・利用しないという場合、過去の人たちがすでに解決した問題を、もう

 一度自力で解く必要に迫られます。(p.137)

 ⇒「車輪の再発明をするな」

*仕事における悩みというのは、突き詰めると知識やスキルで解決できることが多い(p.172)

 ⇒であれば、今の自分の知識・スキルでは解決できないとスパツと諦める。

  悩むことで時間を浪費するのではなく、知識を習得するなど前向きに時間を使う

複数人でのチェックの効果は、ミスが「減る」なのです。つまり、「ミスがゼロになる対策では

 ない」(p.222)

 ⇒注意力でミスを防ぐことはできない。ミスが起きない仕組みづくり

 

メモ『聴く監督』吉井 理人(KADOKAWA 2024.3)
【満足度】★

【概要・所感】著者はWBC投手コーチと千葉ロッテ監督の吉井氏。「聴く」こと自体について言及している部分はかなり少なく、主にWBCでの投手起用などの裏話や千葉ロッテ監督就任1年目(2023年シーズン)の回顧録といった内容。監督としてコーチや選手たちに対してどう関わっていこうとしたかのコミュニケーション論は世の管理職にも大いに参考になるかと。また千葉ロッテファンは野球読み物として是非読んでおいた方が良い1冊。 

 

メモ『スキル』高瀬 敦也(クロスメディア・パブリッシング 2023.10)
【満足度】★

【概要・所感】 著者は「有吉の夏休み」や「逃走中」を企画した元フジテレビプロデューサー・高瀬氏。すでに自分が持っているスキル(ビジネス上のスキルではなく、人間関係をうまくうまく回すなども含む)をどう組み合わせ、どう使いこなすかという戦略について書かれてありましたが、あまり刺さりませんでした。

3月に読んだ本は5冊(図書館本4冊・購入1冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少


<お気に入り順>

クリップ『知的戦闘力を高める 独学の技法』山口 周 (日経ビジネス人文庫 2024.8)
【満足度】★★

【概要・所感】2017年刊行の著書の文庫本。AIの発達が目覚ましい今日この頃、他と差別化するには「知識」を武器化して使いこなせるかがカギになります。氏は、巷の本がインプットの論点に偏り過ぎと喝破し、その独学のプロセスを「①戦略 ②インプット ③抽象化・構造化 ④ストック」という4つに定義し、全体として捉える考え方を取っています。例によってリベラルアーツこそもっとも長く使える武器と推奨されており、本の紹介リストも。

【ポイント】

*いわば「知識」から「知恵」にするためには、こういった生情報を抽象化して「示唆」や「洞察」を

 引き出すことが必要(p.54)

 ⇒「○○ではないか?」という仮説でもいいので、「問い」がインプットの感度を高める

*「自分が持っているもの」を活かそうとせず、「自分が欲しいもの」を追求してしまう。(p.74)

 ⇒その人の本当の強みは本人にとっては「できて当たり前、知ってて当たり前」のことが多い

*「アウトプットが必要になったとき」というのは、もう「舞台に立て」と言われているわけです

 から、そこで勉強しているようでは、どうしても付け焼刃的な知識の表面的なインプットに

 ならざるを得ません。(p.108)

*質問というのは、わかっていないから生まれるのではなく、わかっているからこそ生まれる

 (p.147)

*なぜメモが大事かというと、メモが癖になると、“感じること”も癖になるからだ。人より

 秀でた存在に不可欠な条件は、人より余計に感じることである。(p.151 野村克也)

*アイデアの質にもっとも大きな影響を与えるのは、アイデアの量だ(p.192)

リベラルアーツとは、コミュニケーション効率を一気に高める(p.237)

 ⇒複雑な背景説明なしに状況の理解を共有することができる

 

メモ『侍ジャパンヘッドコーチの最強の組織をつくるすごい思考法』白井 一幸(アチーブメント出版 2023.7 ) 
【満足度】★★
【概要・所感】
2023年WBC侍ジャパンのヘッドコーチ白井氏による組織論・人材育成論です。栗山監督も白井氏も急にスポットライトが当たった風ですが、実は日ハムのコーチ時代からやっていることは一貫していて、WBCの結束力にしても、一人一人が作り出したチームビルディングの結果であることがよくわかります。

【ポイント】

*役割責任とは、全員がそれぞれリーダーシップを発揮すること(p.23)

 ⇒試合に出ている、出ていないは関係なく自分にできることは何か?を考えて行動する

*わたしはよく価値質問をします。「これを実現したら何が起こる?あなたは組織からどんな

 評価をされる?組織にどんなプラスの影響がある?」(p.**)

 

本『勘違いが人を動かす』エヴァ・ファン・デン・ブルック(ダイヤモンド社 2023.10)
【満足度】★★
【概要・所感】2021年にオランダで刊行された「ハウスフライ効果」の邦訳版。副題は教養としての行動経済学入門。経済学においては人間=理性的と考えられていましたが、実際は「勘違い」に支配されています。我々の行動は思いもよらない何かに影響されているので、そのメカニズムを認め、不合理さを前提に行動することで、自分の行動や人を動かすことについて定義し直すという内容。本書は脳が持つ認知バイアスについての様々な知見から日常生活に役立つヒントが満載です。
【ポイント】

大量の情報は注意の欠乏をもたらす(p.104 ハーバート・サイモン)

*何もしないことは、「簡単な何かをすること」よりもさらに楽だ。(p.122)

*脳は自分の知らないこと(ギャップ)を見つけると、それを埋めようとして好奇心を起こす

 (p.141)

 ⇒全然知らないことと既に何でも知っていることには興味は示さない

何かを決断する際、私たちはたいてい後悔を過度に大きく見積もっている(p.166)

変化を強調するだけで、嘘をつかずに効果的に規範を望ましい方向に導ける(p.203)

 ⇒「減らしている」より「減らし始めた

*曖昧な事実でも、「皆さんもご存じのように」というフレーズで始めると信憑性が高まる。

 (p.222)

*人は何度も誘惑に耐えると、意志力が尽きてしまう。これは、前頭葉のエネルギーが枯渇して

 しまうからだと考えられている。(p.247)

*大切な決断はなるべく1日の早い段階で行う(p.252)

 ⇒決断疲れ。午後になると裁判官の判決が厳しくなる傾向があることがわかっている。

*同僚に協力してもらうには、相手に共感を抱かせるほうがいい。(p.300)

 ⇒「我々」という同じ集団に属していると人は「イエス」と言う

 

本『こうやって頭のなかを言語化する。』荒木 俊哉(PHP研究所 2024.12 )
【満足度】★★

【概要・所感】本書によれば、言語化は才能ではなく、練習で身につくスキルです。語彙力もさることながら、そもそも言いたいことがわかっていないという点を見える化するというのが本書のキモで、結局のところ「言語化ノート術」という話になっています。

【ポイント】

*言語化力のベースは「聞く力」にある(p.18)

思考とは自問自答(p.45)

*「できごと→感じたこと」の順番で問いかけていくことが、言語化につながる聞き方のコツ

 (p.93)

 例)自分の会社名を口にするときはどんなとき?⇒その時、なにか感じることはある?

自分が体験した「できごと+感じたこと」に対して、いつも「それは、なぜだろう?」と問いを

 立てて =中略= 自分なりの「結論」や今後の「行動」を言語化しておく。(p.223)

 

メモ『新幹線全史』竹内 正浩(NHK出版新書 2023.9) 
満足度】★★
【概要・所感】
新幹線の路線の成り立ちに焦点を当てた1冊。鉄道史はもちろん政治、経済、技術の三軸から、特に政治と新幹線の関係は詳しく書かれています。当初の輸送量増大ではなく、その高速性に着眼して新幹線を誘致すれば地方が発展するという政治家たちの思惑も絡み、国土開発を行う目的に変わったというのも興味深い考察です。
【ポイント】

*(満州)事変勃発以降、大都市圏の郊外には次々と軍需工場が新設され、鉄道による工員の

 通勤が増加していく。(p.25)

 ⇒輸送力増強の抜本的な解決策として急浮上したのが「新幹線」いわゆる「弾丸列車」構想

*戦前の計画では、東京~下関間のうち、東京~姫路間を昭和24年度に開業する予定だった。 

 (p.86)

 ⇒暫定では第十師団司令部の所在地である姫路(新姫路)が新幹線の終端駅になる予定だった

*兵庫県内の新幹線駅の多さは、いわば、新幹線夜行寝台列車構想の置き土産(p.88)

*「山陽、東北、上越各新幹線の新駅建設は、私が総裁となってから、交渉の矢面に立ったが、

 嫌な仕事だった。交渉といっても、大部分はさまざまなルートで持ち込まれる案の断り役

 だからである」(p.101 磯崎叡国鉄総裁)

大陸に向けて出征する陸軍の拠点が広島の宇品にあった関係で、鉄道が広島にあるのとない

 のでは、兵站に雲泥の差があった。(p.104)

*小倉~博多間の線形も複雑である。=中略= この細かな曲線が生じた原因は、筑豊炭田の

 旧坑道や鉱害地域などが錯綜していたため(p.115)

*新幹線とは、名目上はあくまで既存の鉄道幹線の線路増設という位置づけで、建設にあたって

 新たな法律を必要としなかった。(p.136)

*鉄道新線の建設の是非や鉄道政策全般を左右する重要な諮問会議として、戦前の日本には

 「鉄道会議」なる存在があった。鉄道会議を主宰する議長には大正期まで陸軍の参謀次長が

 代々就任していた。=中略= 陸軍が実質的な主導権を握っていた。有事における鉄道と軍事 

 (兵站)の関係が密接だったことを示す好例(p.138)

*野放図な新幹線の拡大に警鐘を鳴らしていたのが、ほかならぬ国鉄総裁の石田禮助だった。 

 (p.145)

 ⇒輸送力に適合した輸送需要が第一。独立採算経営の国鉄では新たな新幹線建設は困難。

創成期の鉄道は市街地に停車場が開設できなかった。とりわけ、江戸時代に密集地が形成

 されていた城下町ではその傾向が顕著だった。=中略= 旧江戸城下に鉄道を敷設することが

 難しかったため、市街地南の外れも新橋停車場を設けたのである。(p.192)

*磯崎叡(注:国鉄総裁)は =中略= 岐阜羽島と浦佐は新幹線に夜行列車を運転した場合の

 退避駅だったと明言している。(p.235)

2月に読んだ本は4冊(図書館本4冊)でした。
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<満足度>★★★ 感動 ★★ 面白い ★ 収穫少

 

<お気に入り順>

本『推し、燃ゆ』宇佐見 りん(河出書房新社 2020.9)
【満足度】★★★

【概要・所感】 史上3番目の若さで芥川賞受賞した宇佐見りんの2作目の小説。重力ピエロの「春が2階から落ちてきた」よろしく冒頭の「推しが燃えた。」で掴まれました! 推しを応援する女の子がどこかで生きづらさを抱えている現代の話ですが「推し=背骨」とか比喩や心情の描写がいちいち純文学的ですごく好き。おそらく今年読んだ本でベスト5には入ってくる予感です。

【ポイント】

*坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれ

 までいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。(p.29)

*あたしは推しは存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだから

 とやかく言わないでほしい。(p.62)

 

本『脳が一生忘れないインプット術』星 友啓(あさ出版 2024.6)
【満足度】★★

【概要・所感】著者はスタンフォード大学のオンライン学校の校長。最新の脳科学や心理学に裏打ちされ、科学的に効果が確認されている効果の高いインプットの方法が学べます。従来のメジャーな勉強法である「読み返し・ハイライト(マーカー)・書き写し」は、各単体では記憶定着には効果が低いとのこと。一方で、「読む前の目的設定やプレビュー、読みながら手書きメモ、ストップ&ゴー(読むのをやめて内容を頭の中で振り返る)、読んだ後にキーワードテスト、箇条書きで目次を作る」等々の、こういった脳に負荷をかける仕組みを作ることが一生忘れないインプット術として有効のようです。
【ポイント】

*最高のインプットには、最高のやる気の維持が大切(p.7)

*「心の音読」は、=中略= 効果的な「読むインプット」に必要な脳のメカニズム(p.36)

*私たちの脳は、勉強やインプットを「快感」と感じるようにできている(p.64)

 ⇒時間を割いてでも目的設定やプレビューをすることで集中力と記憶力の環境を整える

「聞く」だけで情報をインプットしようとするとワーキングメモリーがパンクしてしまうものの

 、「見る」も使ってインプットをすると、情報処理の負荷が「聞く」と「見る」とに分散できて、

 ワーキングメモリーをより効果的に使うことができる(p.94) 

*リトリーバル(p.123)

 「うーん、なんだっけ?」と自分の頭だけを使って思い出してみることで記憶の効果が高まる

*人間のモチベーションのベースは、人とのつながり(関係性)、自分が何かできるという感覚

 (有能感)、それから、自分が決断したことを自分の意思に沿ってやっているという感覚(

 自立性)である。(p.151)

 ⇒報酬系が活性化されるとドーパミンが分泌される=モチベーションの源泉

 

本『いますぐできる実践行動経済学』大竹 文雄(東京書籍 2024.6
【満足度】

【概要・所感】阪大教授の著者が早稲田塾で高校生向けに行ったオンライン講義を書籍化。感染症、創作落語、ラグビー日本代表、風疹抗体検査をテーマにして行動経済学をわかりやすく解説し、実際の生活や活動に活用するための実践編となっています。アダム・スミスの「国富論」、囚人のジレンマ、サンクコスト、コンコルド効果、参照点、現状維持バイアス、ナッジなど行動経済学お馴染の理論の紹介が多数出てきます。復習で読みましたが、初学者向け。
【ポイント

「現状維持バイアス」があることを理解できれば、迷ったときは「変化」を選ぶ(p.133)

 ⇒迷うのは価値が同じと思い込んでいるからであり、「現状維持バイアス」を割り引く

 

本『島津氏』新名 一仁(PHP新書 2024.10)
【満足度】

【概要・所感】本書は、薩摩を治めていた島津氏の展開を扱っています。鎌倉期に源頼朝の御家人となった島津家の初代忠久から、戦国期の義久・義弘(関ヶ原に参戦した豊久はほとんど取り上げられず・・・)を経て、幕末の重豪、斉興、斉彬、そして明治の久光の代まで解説。島津氏は好きな大名でしたが、本書は読むにはちょっとマニアック過ぎました。ちなみに島津義弘といえば、麿赤兒のイメージですw

【ポイント】

*忠久は比企氏の縁者であったため、同年九月、島津荘の所職や守護職を剥奪されてしまう。

 (p.28)

*父・義久による関ヶ原合戦での敗戦、そして叔父・義久による戦後処理問題、それらを解決

 したのが、家久 =中略= 島津家の安定を導いた。(p.120)

*千厳園は光久の命によって築かれた(p.158)

*なお、江戸時代には公式に「藩」という呼称はない。例えば、領地判物は「島津家所領」とされて

 いた。「藩」の呼称は、明治二年の版籍奉還から明治四年の廃藩置県までの二年間である。

 (p.255)