毎年8月はTV番組に戦争関連が多いと申しましたですが、近隣市の郷土資料館などでも関連する展示が行われておりますなあ。取り分け軍都と言われ、旧日本軍の施設が多くあった多摩地域(今も名残として在日米軍基地やら自衛隊駐屯地がありますが)はなおのことかと。そんな流れにあっては、近隣図書館でも戦争に思いを馳せるような書籍をコーナー展示してあったりもするようで。と、タイトルに「ふ~ん」と思って借りてきた一冊がこちらでありますよ。

 

 

『戦争とミステリー作家 なぜ私は「東条英機の後輩」になったのか』、トラベルミステリーを量産した作家・西村京太郎は戦争に行っていたのであったか…てなふうに思ったわけですが、このタイトル、そして帯に「戦後80年」「アメリカはこの国の何を変えたのか?」「軍国少年が見た日本人の戦争観」と並ぶところを見れば、「ああ、戦争を回顧して、西村なりの考えが記されているのだな」と受け止めてしまう。

 

つまりはまるまる一冊、戦争ものと思うところが、これが大間違い。ちと「戦後80年」に寄りかかって売らんかなという姿勢で、読者をミスリードするのではありませんですかね。

 

そも本書の元は、作者が亡くなる2022年の2年半ほど前、自らの人生を振り返ってぽつりぽつりと書き継いだような新聞連載コラムであって、昭和5年(1930年)生まれの西村がさまざまな思い出と印象を綴る中では当然に戦争の話も出てきますけれど、決してそればかりではない。むしろ東京生まれながら20年ほど住まって暮らした京都の印象を語っているところにもかなり紙幅を費やしていたりしますし。

 

前半部ではなるほど、庶民の肌感覚で戦争について触れていて、次々と舞い込む「大勝利」の方に快哉を叫ぶ軍国少年でもあったと振り返っていますが、大変な競争率の中で陸軍幼年学校に合格し、入学(これをもって東条英機の後輩と言っているのですな。それ以外の関わりは全くありませんですね)したのは、偏に腹いっぱい食いたいところでもあったようで。ある程度の軍国少年ぶりはおそらくそこここに見られた姿だったでしょうし(もちろん善し悪しは別ですが)、それが当時の世相で、「勝つとも思わなかったが、負けるとも思わなかった。延々と戦争が続くだけだと…」と庶民は受け止めていたのでもあろうかと。

 

これまた善し悪しは別ですが、西村は戦後の貧窮状況を思い返して、占領したのアメリカで良かったと述懐しておりましたな。米本土はほとんど無傷(風船爆弾による被害などがありましたけれど)だったアメリカは戦後世界中のどこよりも豊かであって、日本の占領政策に際しても(余剰物とはいえ)小麦などをばんばん送ってくれていた。

 

これがもし、ソ連によって占領されていたならば…と西村は思う。独ソ戦によって消耗著しい状況にあったソ連が日本を占領していたならば、支援物資をもたらすどころか、ありとあらゆるものを日本から奪い去っていったろうと、まあ、そういうことなわけですね。

 

てなぐあいに戦争関係の記述も確かにありますが、戦後、ふいと思い立って作家を志し、数々の文学賞に応募するも芳しい結果が出ない。それでもめげずに投稿を続け、掲載されることはありつつも、どうにも売れない。それでも次々と作品をものしていくようすからは、湯河原の西村京太郎記念館に立ち寄ったときに感じたもの書き職人の姿を思い浮かべたものでありますよ。

 

ともあれ、だんだんと世に知られるようになって初めてもらったファンレターを、送ってきたのがなんと!後の盟友・山村美紗であったようで。ひょんなことから京都住まいとなった西村が、独自の文化慣習に戸惑いを隠せない中、あれこれの助言を与えたのもまた山村美紗であったそうな。

 

それにしても京都というところ、観光で数日滞在するくらいならば、おもてなし精神が発揮されるのか、「ああ、京都、いいとこだったね」で済むものの、これが住む、暮らすとなりますと、ずいぶんと話が違ってくるようですなあ。本書で触れているように「京都には日本人と京都人がいる」てなくらいですしね。いかにもやっかいそうな気が…。

 

ということで、当初の思い込みとは異なる内容ではありましたけれど、取り分け最後の京都のことなどは「そうなんだねえ、やっぱり敬して近づかずのスタンスでいこう」と思ってしまいましたですよ。西村自身は、病気の温泉治療の関係で神奈川県の湯河原に住まいを移しますが、それでも京都住まいを懐かしんでいたようではありますが。

 

と、タイトルで触れた「ペンネームは東京生まれの長男だから」というのは京太郎の名付けの元のお話(苗字の方は知り合いから借りてきたと)。最初はそういうつもりでいたのでしょうけれど、後から振り返って「京太郎」の「京」は「京都」にも通ずと、自ら納得していたかもしれませんですね。

…ということで、『ポップ・アート 時代を変えた4人』展@山梨県立美術館の展示を振り返ってまいります。ここで言う「時代を変えた4人」とはアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズのことなわけですが、まずは知名度の点で最も有名なウォーホルのことを(展示構成ではリキテンスタインが先に来てましたけれど…)。

 

 

ウォーホルの作品で誰しも思い浮かぶのはキャンベルのスープ缶ではなかろうかと。大量生産大量消費の時代風潮をスープ缶に託した風刺と理解されるところでして、上のフライヤーの左上に配されたマリリン・モンローの肖像も、映画女優と言う存在が大量生産大量消費の風潮を表すものであると受け止められたのでありましょうね。

 

たくさんのキャンベルスープ缶が並ぶ作品では、ラベルに書かれた文字の違い、つまりは缶の中身の違いが同じように見えて同じでない、バリエーションを提示することになっていたりしますが、マリリン(その他の人物肖像)の絵の方は配色をさまざまに変えてバリエーションを生み出したりしている。同じであるのか、違うものなのか、見方次第とも言えましょうが、見る側を揺さぶるところが、大袈裟に言えばアートたる由縁のひとつなのかもしれません。

 

元来、カーネギー工科大で学士号(芸術)を得るも専攻はデザイン系であったというウォーホル、作品はデザインであると言われればすっと入ってきますし、その制作意図に含みがあると聞けばアート然とも見えるわけですね。

 

作品の多くが複製可能なメディアで作られている点でも非常に商業的な側面と親和性が高いわけですが、例えば「シルクスクリーン」の技法を説明する展示解説に、インクのシミや版の擦れなどの点で同一のものを作れないものなのだと言われれば、まあ、そうでもあろうなあと。ただ、そこを根拠に一点ものと言いたかったわけでもないでしょうけれど、作品としての価値は一点ものであること、あるいは希少性によって高まることは事実ですねえ。

 

さりながらウォーホルの考えるところは、そんな俗人が考えるところからはもそっと先を行っているのですかね。版画的技法で作られた作品をよくよく見れば一点ごとに違いがある(それが希少性を生む)ところながら、当の本人は「機械になりたい」てな発言をしたのであるとか。むしろ商業的な大量生産物に求められているような(一点ごとの違いがあってはならない)均一性、均質性を機械は実現するからということでしょう。

 

まあ、キャンベルのスープ缶は近所のスーパーに行けばいくらでも目にすることができる、ありきたり極まりないものでありながら、それを「ポップ」としてこの上なくありが違った当時の世相。ニューヨーク五番街にある百貨店ボンウィット・テラーでは通りに面したショーウィンドウをウォーホルのスープ缶が飾ったりも。それが百貨店らしくプレタポルテの最新ファッションとして、スープ缶模様をあしらったドレスという形で。もはや社会現象のような状況だったわけですなあ。

 

そんな1960年代から半世紀以上経った今、ウォーホルはポップアートの旗手という看板は不動のものとなっていて、オークションなどの市場で作品は高額で取引されるのが当たり前ともなっている。近しいところでは今年2025年春に開館した鳥取県立美術館がウォーホルの立体作品「ブリロ・ボックス」5個を3億円で購入したことが話題になったりもしましたですね。

 

5個まとめてというあたり、ウォーホルの意図した(であろう)大量生産大量消費を展示で示すべく…てなふうに美術館側では考えたようなのですが、制作当時のウォーホルの意図はもはや夙に知られたところとなっていて、3億円という価格の作品実物をつぶさに見なければ大量消費の風刺に思いを馳せることができないわけでもなかろうにと思ったり。

 

その点、制作意図とは別に、結構金儲けの才のあった?ウォーホルの術中に絡めとられ続けているような気がしたものです。「自分の作品ながら、あらら、こんなに大量消費してくれて…」と、ウォーホルの冷笑が浮かんでしまったも。

 

確かにアート作品は「現物を目の当たりにすると、違うよねえ」とはよく聞くところであり、自身もそんなふうに思うことはたびたびあるわけですが、ウォーホルの場合には(その全てが、とは言わないものの)作品そのものよりも、作品制作の意図が伝わることが美術展としては求められるところなのでは…と思ったりもしたものなのでありました。

毎年のことですけれど、8月は戦争に思いを馳せる月とも言えましょうか。先の戦争が終結して80年とは、当時を記憶する人はかなり少なくなってきているのでは。「新しい戦前」という言葉を生んだタモリでさえ、80年前の生まれなわけで。

 

ただ、戦争の記憶にまつわるTV番組が増えるのも毎年のことですなあ。先日もNHKで『映像の世紀 高精細スペシャル』という3回続きの番組がありまして、これはもっぱら欧州大戦の話ではあるも、テヘラン会談の駆け引きなどを思えば、世界大戦の一翼に日本があってしまったことを思わずにはおれないわけですね。

 

英米をはじめ連合国軍はナチスに欧州大陸から押い出されたままになっており、正面切って独軍と対峙しているのはソ連軍だけではないかと不平を募らすスターリン、欧州大陸への再上陸に気乗りせず独ソの消耗戦をむしろ望ましいとみているチャーチル、一方で対日戦にソ連を引き込みたいルーズベルトはチャーチルをなだめて大陸への再上陸を約束するといった駆け引きには、日本軍の存在が影を落としているわけで。

 

これによって、後のノルマンディー上陸作戦は実行に移されることになりますが、先の番組の中では連合国軍最高司令官のアイゼンハワーがこの作戦展開に際して「5万人の兵員の犠牲」を覚悟していたてなことが紹介されていたような。

 

5つの上陸地点でそれぞれ被害の軽重はあるも、結果として想定を遥かに下回る損害(2000人とか…)で済んだことが伝わるわけですが、5万人とか2千人とか、これった単なる数字ではない、人の命であるのになあと思ったものです。

 

これに加え、上陸に先立って連合国軍は海岸近辺の村や町に爆撃を繰り返したのであるとも。上陸地点を独軍から推測されないように、ノルマンディー地方から離れた地点まで含めて空爆し、その被害は民間人にも及んだというのですね。

 

それが戦争だから…と言えばその通りなのでしょうけれど、そういうものであるとするならば、どう考えてもやってはいけないことだろうと思わずにはいられない。人の命を単に数として、平然と見積もったりする状況があっていいはずもないですよね。

 

とまあ、そんな今さらわざわざ口に出して言うこともないこと(それでいて、タモリをして「新しい戦前」と言わしめる空気は確かにあり…)ではありますが、そうした折も折、『オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体』という映画を見たのでありますよ。

 

 

話は、ノルマンディー上陸作戦に先立つシチリア上陸の前夜、やはり上陸地点をナチに気取られたくない英国側では「ミンスミート作戦」を立案実行したという史実に基づく内容でありました。

…「オペレーション・ミンスミート」と命名されたその作戦は、「イギリス軍がギリシャ上陸を計画している」という偽造文書を持たせた死体を地中海に流し、ヒトラーを騙し討ちにするというものだった。(映画.comの解説・あらすじより)

この作戦のことは戦後長らく秘匿されたということでして、その理由のひとつには死体を利用したということにもありましょうかね。もはや生きてはいないにもせよ、他の生き物と異なって「死」にも尊厳を意識するのが人間でしょうから。

 

映画の中でも、身元不明として作戦に利用(?)されることになった遺体を巡って、作戦決行目前に現れた近親者に対して、遺体がどうされるのかも伝えられないことに、実行側にもいささかの逡巡が見られたような。それも、戦争に勝つため、御国のためといったような理屈で抑え込まれるのですけれど。

 

そのことには見ている側としても砂を噛むようなじゃりっと感が残るわけでして、それはやはり人の死を特別なものとして受け止める(くどいですが他の生物ににありませんですね)人間だからということがありましょう。

 

死者に対してさえそうなのですから、ましてや生きている一人一人を単に数として見るような(その状況下においてそれを仕方がないとさせてしまうような)戦争という状況は、それにどんな大義を被せようともあってはならないことですし、準備をすること自体にも危うさはあろうかと。

 

かようなことは長年の平和ボケ以外の何物でもないと見る向きもありましょうけれど、ボケるくらいに平和であったのであれば、それに越したことはないわけで、それが長く続くことこそを考えたいものではなかろうかと思ったりしておりますよ。

甲府に出かけて山梨県立美術館の展示を見てきた…と言いつつ、うっかりと話は美術館のある芸術の森公園のところで止まってしまっておりました…。改めて現在の特別展『ポップ・アート 時代を変えた4人』の振り返りでありますよ。

 

 

時代を変えた4人として名前が挙がっているは、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズといった面々、いずれ劣らぬポップアートの旗手たちということになりましょうけれど、彼らをまとめて本展では「The FAB4(Fabulous four)」と呼んでおりましたな。

 

元来、「The FAB4」とはビートルズの4人を指すとは夙に知られたところらしい(知りませんでした…)のでして、ポップアートが華麗に花開いた時代がまさしくビートルズの時代に重なることから擬えたものであるようで。

 

ただ時代の空気は、単に「ポップカルチャー」といういささか浮かれた雰囲気の言葉が想像させる以上に、公民権運動や反戦運動、それと結びついたヒッピー文化が示した思潮とも大きく関わっていることを表しているのでしたか。

 

このあたり、しばらく前にNHKで放送されていた『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』を思い出したりも。ま、番組自体は1950年代から21世紀の始まりまでを広くカバーしていたわけですが…。

 

と、ここでちとフライヤーにあるポップアートの紹介文を見ておくといたしましょうか。

1960年代、アメリカなどを中心に発展した芸術動向、「ポップ・アート」。大量生産された商品、広告やコミック、著名人のポートレートなどをモチーフに、現代生活や大衆文化テーマとした作品は色鮮やかに、そして時には社会風刺的に表され、その後の芸術の方向性を大きく変えました。

ひとまとめに言ってしまうとこのようなことになるわけですが、例えばビートルズとローリングストーンズの音楽は、出てきた背景となる空気に共通性があるものの、やっぱり当然に異なるものであるように、ポップアートとして括られる作品群もまた作家の個性によって大きく異なるものでありますね。

 

ポップアートは「内省的で自己中心的な抽象表現主義へのアンチテーゼ」として捉えられるものの、「未来派やシュルレアリスムのような」、創作活動の底流を成す宣言があったわけではありませんので、それぞれ個性の赴くままとなるのは当然かと。時代を包む空気を共有していることこそがポップアートのまとまりといえばまとまりなのでしょう。

 

というところで、ウォーホルに始まる展示を見ていくわけですが、ここから触れだすと長くなってしまいそうですので、あれこれ感じたあたりのことはまた次の機会に。

 

ちなみに、展覧会の最後の方では「FAB 4」に加えて「another 4」とでもいうべき、「ロバート・インディアナ、ジェームズ・ローゼンクイスト、トム・ウェッセルマン、ジム・ダインも合わせて紹介」されておりました。先の4人に比べると、一般的な知名度ではやや劣りましょうけれど、筆頭のロバート・インディアナはニューヨークの街角で見られる「LOVE」の文字をデザインした造形が代表作で、「ああ、あれね!」となろうかと(東京の西新宿にもありますし)。

 

これを見るだけで、ポップアートがいわゆる(芸術的な)アートと(商業的でもある)デザインとの垣根をまたいでいることが想像されますですよね。とまあ、そんなポップアートのお話、また次に続くということで。

昨年以来「令和の米騒動」などという言葉が聞かれるようになっているご時世だけに、今年2025年3月刊行とは時事ネタ寄りの話かも…と思いつつも図書館で借りてきた『政治の米・経済の米・文化の米』なる一冊。実は副題に「稲と米で読む日本史」とあるとおりに、縄文から弥生へ、日本に稲作が定着するあたりから始まる、稲と米でたどる日本史の本でありました。興味深いところは多々あれど、読了まで妙に時間がかかってしまったのは、日本史知らずの故でもありましょうかね。

 

 

ともあれ、日本の政治経済、そして文化にも米という存在が常に大きく関わってきたことはよおく分かりました。ヤマト政権の大王が世俗的に政治を司る王であったともに、稲作の豊穣祈願にも関わる祭祀の王でもあったのですから、さもありなむ。ですが、政治にしても経済にしても、そのままその後の天皇に続いていく大王家が握り続けていたわけではないことは、歴史を見れば明らかなれど、そこに稲作、米の関わりがどうあったかを示唆してくれるわけでして。

 

そんな中で、ちと時代はずずいと下りますけれど、武士の台頭というのも、班田収授法以来、あたかも私有化されたような土地の自立性が増して、土地土地の収穫物を武装して守る存在が大きなものになっていったから…とつながっていくのは、日本史の授業を用語や年号の暗記だけで済ませてきた者にとっては、今頃になって「そうだったんだねえ」と思ったり。

 

ちなみにWikipediaの項目「班田収授法」には「班給を受け耕作する者は収穫物の中から田租を税として国へ収納し、残りは自らの食料とした」とありまして、この頃に自らの食料とした「残り」というのが、どれほどあったのかとも。歴史的に農民はすべての人が生きていく糧を生産しているにもかかわらず、どの時代も決して厚遇されることはなかったように思えますし。

 

取り分け、石高制が厳格になっていた江戸期、幕藩体制の時代には、トップに立った徳川家康からして「百姓は生かさぬように殺さぬように」と言ったとかいう話もあったりする(諸説あるようですな)。ですから、都市部の人々、お江戸の侍も町人も農民の上がりとしての米を食うことで生活していた(もちろん食えない人もいたでしょうけれど)一方で、農民の方は年貢を搾り取られた上に残ったとしても、最大の換金作物である米は生活必需品を贖うために売却し、自らは米以外のものを食してしのいでいたのであると。

 

しかも、その構図(生産者自身が米以外の者を食す)は明治になっても大正になっても、昭和の線前期まで(程度の差はありましょうものの)続いていたことが、本書所載の聞き取り調査結果で示されておりましたよ。

 

で、戦後の食糧事情が著しく悪化したのは徴兵によって生産者が減ったこともありましょうし、敗戦後に外地から復員する、あるいは引き上げてくる人たちがたくさんいたことで必要量が増大したこともありましょう。そこへ手を差し伸べたのがアメリカで、麦やら畜産品やらを持ち込んでくれたことには感謝しなくてはならないでしょうけれど、結局のところ、学校給食ではパンと牛乳(脱脂粉乳)が定着することで、日本の食生活が多様化した、つまりは将来的な米需要の減少を招くことになったとは、当時の政策では見通せないことだったようですよね。

 

実際に米をたくさん作らねばという政策がとられて、例えば戦後12年を経た昭和32年(1957年)、秋田県の八郎潟干拓事業が開始される。1964年に新しくできた土地が大潟村となって、米増産の担い手の入植を促したりしていったわけで。

 

それが、先行きの読み違えか、国では1970年に減反政策に転じるのですから、やっぱり農民は翻弄され続けのような気がしますですよね。以来半世紀あまり減反の方向性で来たのを、俄かに転換するといっても現実は難しいでしょうなあ。相手は植物という生き物であって、そこには馴染む土地が必要なわけですから、一時止めた工場の生産ラインを再稼働するてなことよりもずっと難しいのではなかろうかと思うところです。

 

思い出されるのは昨年訪ねた山形県で歯抜け状態のように水田と畑がまだら模様を描いているようすでありましょうか。乗っていたタクシーの運転手さん曰く「減反で、蕎麦や豆を作っている」ということでしたが、長い時間をかけて蕎麦や豆に馴染む土壌にしてきたのを、また米にとは即座にいかないでしょうしねえ。

 

まあ、ひたすらに米を消費するばかりの者がとやかく言えた義理ではありませんですが、ここまでの間で本書にある稲作や米にまつわる文化的な側面にちいとも触れてこなかったものの、今やかなり薄れつつあるとはいえ、長い歴史の中で培われた文化を振り返っても、日本という国はずいぶんと遠いところ(?)

に来てしまったのであるなあ…とも。

 

んじゃあ、いっそ農業をやるか!てな話ではないにせよ、あれこれ考えどころのある一冊でありましたですよ。