ということで、信州諏訪のサンリツ服部美術館を訪ねて、もうひとつの展示室で開催されている『響き合う陶磁器の色 三彩と五彩』展を覗くことに。いささか門外漢ながら、中国陶磁の世界ですなあ。

 

 

ま、どの程度の門外漢かと申しますれば、展覧会タイトルにある「三彩」というのは有名な「唐三彩」のことであるか?そして「五彩」とは寡聞にして聞いたことがない…という程度ですのでね。その程度のところで感じた印象と気付きを備忘に努めておこうかと。


そも唐三彩というもの、7世紀末から8世紀前半となれば中国は唐王朝の時代…とは当然でしょうけれど、長らく日本では大陸由来の品々を唐物(読みは「からもの」ですが)として珍重するも、その「唐」は要するに中国を指していたてなことがあるもので。ま、ここで「唐三彩」は正しく唐王朝の時代のやきものであったと。

 

「白化粧を施した後に色釉と透明釉を掛けて焼成することで、より鮮明な色を生み出してい」るということですが、解説を見る限り、どうやら三彩と言って「三色に塗り分けられている」てなことではないようですな。フライヤーの一番下に配された画像が、唐の時代、8世紀の「三彩荷葉鳥文三足盤」ということながら、どう見ても三色にとどまらない色合いを呈しておりますし、その上に見える馬の像も同時期に作られた「三彩馬」だそうですし。

 

では、五彩と言われる方はといえば、単純に五色を使っているものというわけでもなく、また色数が多いということを言っているのでもなさそうでありますね。フライヤーの右上にあるのが17世紀、明代の「五彩楊柳観音図平鉢」ですけれど、色数から言ったら下の三彩の方が多いようですものね。

 

年代的には技法として三彩の発展系に五彩があるものと思われますが、決定的な違いはむしろ絵付けの方法の違いのようで。五彩の方は「素地に透明釉を掛けて焼成した後、さまざまな色の上絵具で文様を描いて焼き付けた」ものということですのでね。

 

日本では取り分け(早い話が門外漢でも)景徳鎮の窯がよく知られていて、赤を基調としたものは「赤絵」、さらに金彩を加えると「金襴手」と呼んで珍重された由。ただ、フライヤー右上の五彩作品は景徳鎮窯ではなくして、もそっと南、漳州窯(現在の福建省)の産であるそうな。

 

日本では景徳鎮との区分けのためか「呉洲赤絵」と呼ばれたそうですけれど、近くの港町、汕頭からヨーロッパに向けても盛んに輸出されたことから、彼の地では輸出港の名をとって「スワトウ・ウェア」と呼ばれるようです。あたかも有田焼が伊万里港から出荷されたが故に「伊万里焼」として知られるが如しではありませんか。

 

ともあれ、世界中に出回ることになったやきものだからでしょうか、フライヤーの鉢ひとつとっても、一目で「ああ、チャイナな…」という印象が残ります。こう言ってはなんですが、昭和の時代の中華そばのどんぶりの色合いを思い出すといっては語弊があるかもですが…。

 

詳しいわけでもないのに興味本位で常滑に行ってみたり、美濃焼やら瀬戸焼やらの土地土地を訪ねたりはするも、中国陶磁の方のことも少しずつ吸収しつつ過程にある今日この頃と言えるかもしれませんです、はい。

信州諏訪湖畔に2つの美術館を訪ねたのですけれど、ひとつは先に特別展『万国博覧会のガレ」を見た北澤美術館、そしてもうひとつはこれから話の出てまいりますサンリツ服部美術館。で、この2つの美術館というのが、湖畔の周回道路に面して隣あっている、間には路地がひとつあるだけなのですな。

 

そんな立地ながら、北澤の方はガラス工芸と現代日本画、サンリツの方は西洋近代絵画と茶道具てな具合にコレクションの棲み分けがなされている、見事なくらいに。訪ねる方はそのバリエーションが楽しめて何ともラッキーな気がしますですよ。

 

で、北澤の方のメインコレクションであるガラス工芸を堪能した後、同館所蔵の現代日本画の展示室も当然に眺めてきましたですが、「北澤コレクション名品展 夏」と銘打った展示は、暑い暑い夏に一服の涼をもたらすもので、ほっとひと息つくのに最適な空間でありました。

 

「魁夷の青」とも言われるだけに東山魁夷の『白夜』には冷涼な空気感が漂うのはもとより、これに対して「元宋の赤」と言われた奥田元宋の作品は、昨秋ここの美術館で見た紅葉の景色に感嘆したものでしたけれど、夏のイメージとしてピックアップされた『晨輝』もまた心惹かれるところでありましたよ。よほどポストカードを買おうかと思うも、どうしても現物の色が印刷には出ないのですよねえ…。

 

とまあ、岩絵具が見せるきらきらも清水のほとばしりのようであるなと日本画を堪能したその足で、今度はお隣のサンリツ服部美術館へ。こちらはこちらで西洋近代絵画のコレクションから「水のある風景」と題した展示が行われておりました。

 

 

こちらの方も暑い夏に因んで水のイメージをふんだんに。ではありますが、先に日本画を見て涼感を得たのに比べますと、やはり油絵はいささかの暑苦しさを伴ってもしまうような。元々、さほど暑くない?ヨーロッパで作られた油絵の技法だけに、寒いところで暖かさをありがたがるところもあったでしょうからねえ。もっとも、昨今のヨーロッパの夏も侮れないものがあるようですが…。

 

ともあれ、アルベール・マルケやキース・ヴァン・ドンゲン、そしてラウル・デュフィといった有名どころと、ここでしか出会えない邂逅があるのも楽しみですけれど、白い画面が特徴的なジャン・フサロ、以前たましん美術館で「!」と思ったポール・アイズピリの作品などは、予期せぬ出会いがしらといった感じ。これもまた楽しからずやではありませんでしょうかね。

 

というところで、サンリツ服部美術館ではもう一つの展示室では茶道具ならぬ、中国陶磁の展示があったのですけれど、そのお話はまた次回にということで。

 


 

 

と、お話の途中ではございますが、毎度毎度の父親通院介助に出向きますので明日(7/18)はお休みを…って、通院の付き添いはこの間行ったばかりでは?とも。そうなんですが、実はその折、ドクターが体調不良(医者の不養生といってはなんですが…)で休診となってしまい、通院予約が先延べされてしまったという…。ま、経緯はともかく、また明後日(7/19)にお目にかかりたく。ではでは。

 

ミューザ川崎のランチタイムコンサートに行ってまいりました。湿気が多く、時折ざざぁと激しい雨が降ってくるような鬱陶しいお天気の下でしたですが、フルートとオーボエのデュオ(にピアノ伴奏)という清涼感ある響きの中に身を置いて、しばし忘我の境に。といって、お隣の席の方のようにぐっすりお休み状態とはなりませんでしたが(笑)。

 

 

ともあれ、木管楽器で主役級のフルートとオーボエのデュオとは、相変わらず取り合わせの妙が感じられる企画であるなと思うところ。で、テーマは「珠玉のオペラ」とあって有名どころのオペラ作品、ロッシーニ『ウィリアム・テル』、ビゼーの『カルメン』、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』、そしてヴェルディの『リゴレット』から夙に知られたメロディーをアレンジした演奏の数々、何とも言えず楽しいものでありました。

 

取り分けピアノを伴わずに本当の二重奏で演奏された『ドン・ジョヴァンニ』の曲では、時折ファゴットくらい入ってほしいような…と思ってしまったりもしましたですが、モーツァルトの時代とその後のロッシーニ、ビゼー、ヴェルディの時代とで、本来の曲を演奏するオーケストラの厚みに違いを想像させるようなところがあったのもまた一興でありましたよ。

 

プログラム・ノートでは今回のデュオ・アレンジがどういった背景によるものなのかはものをすべて窺い知ることができませんでしたが、『リゴレット幻想曲』がドップラーの手によるもので自らのヴィルトゥオジティを披露する意図があったであろう一方で、モーツァルトあたりは特に宮廷やサロンの仲間内で音楽を演奏する楽しみのためにあるアレンジであろうかと思ったり。

 

モーツァルトの頃はもっぱら宮廷やら貴族たちのサロンが音楽演奏の場としてあって、さすがにオペラ全曲をサロンで再現するのは難しいにもせよ、それぞれに得意の楽器を持ち寄ってできる範囲で演奏を楽しむ形があったでしょうし。音楽は自由学芸のひとつとして、歌唱や楽器演奏は貴人の嗜みでもあったわけですしね。

 

これがモーツァルトの後、ベートヴェン以降の時代になってきますと市民階級の台頭があって、ブルジョワたちも(あるいはそうでなくとも)貴族のサロンを真似るかのように音楽演奏の楽しみが広がっていきますですね。宮廷やら貴族やらとの関わりが決して濃くはないであろうシューベルトも、仲間内で集っては演奏を楽しんだことがシューべルティアーデとして、今では音楽祭の名称になっていたりしますし。

 

当然に仲間内がそれぞれに持ち寄った楽器で演奏するとなれば、時に特異な編成になることもあるわけで、歌曲で有名な『鱒』のメロディーを使ったピアノ五重奏曲では珍しくもコントラバス・パートがあったりするわけで。

 

と、いささか余談に流れてしまいましたですが、ピアノのようにたくさんの音を一人で出せる楽器はともかくとも、基本的には単音を奏でる楽器の場合、それを一人で演奏していても楽しくはあるのでしょうけれど、どうしても他の誰かと合奏したくなるのは、何につけ楽器をやる人たちの思いでもありましょう。そうした需要に有名曲のアレンジは応えてきたのでもあろうかと思ったものでありますよ。

 

ま、今回は仲間内の合奏というのでなくして、完全に演奏する側と聴く側とが分かれた演奏会形式であるものの、演奏することの楽しみをふいと思い出させられた気も。たぶん押し入れの奥にあるであろう楽器のひとつも取り出してみますかねえ…という気分。ま、ともするとジャイアンのリサイタルのように迷惑を振りまくだけの結果に陥るかもしれませんが…(笑)。

ちょいと前、先月末のEテレ『古典芸能への招待』で取り上げられた『仮名手本忠臣蔵』の大序を見ていて、「そうだったなあ、赤穂浪士の話は室町時代、足利の世の話に移し替えられていたのだっけ」なんつうことをうすぼんやりと思い返しておったりしたところで、こんな一冊を手にとったのでありますよ。題して『足利の血脈』と。

 

本書は、戦国を語る上で欠かせない「足利氏」をテーマに、7名の歴史時代作家が書き下ろした短篇小説を収録したアンソロジー。…これまで戦国史を語る上で、メインで書かれることがなかった「足利氏」を軸に、この時代の画期となる出来事を時系列で描いていくことによって、“もう一つの戦国史”が浮かび上がる。

版元・PHP研究所HPにはかような本書紹介がありまして、7人の書き手によってともすると室町時代を通観するような仕上がりでもあるか?と思えば、実は文字通りの「もう一つの戦国史」であったと。なんとなれば、話の中心は関東、要するに鎌倉公方、古河公方(加えて堀越公方、小弓公方も)の物語だったのでして。

 

どうやらそもそもがプロジェクトものとして企画された一冊のようでして、企画協力に挙がる栃木県さくら市は最終的に小弓公方系の足利家が江戸時代を通じて領した喜連川藩の所在地であり、巻末にはご丁寧にも「喜連川足利氏を訪ねて-栃木県さくら市歴史散歩」なる一文まで添えられているという。町おこし本といってもいいのかもです。

 

そんな経緯からは当然なのか、歴代の関東公方が大活躍…かと思えば、これまでにも数多の本を読んできましたように、室町期の関東情勢は複雑怪奇なものですので、そこに一本筋を通す役割は喜連川の地を本貫とするさくら一族なる忍びの衆になっている。ひたすらに古河公方に寄り添う影の存在として。

 

ですが、栃木県に忍者の里があったのであるか?という点では「栃木県 忍者」で検索しても、日光江戸村のアトラクションしか出てこないので、おそらくは本書用に作られた存在なのかもですね。ですので、そうした影の存在が歴史の所々に顔を覗かせて引き起こされる事々は、結果として歴史の一面を語るようでいて、思い切りのフィクションなのでしょう。そんな話だったら面白いてなところで作った筋立てで。

 

ですので足利義輝弑逆やら織田信長謀殺やらになってきますと、「よくまあ、作ったな」という以上に「やりすぎじゃね?」感もあるところながら、始まりの古河公方誕生から最後の喜連川藩誕生まで時系列でて歴史の流れを押さえていく7編、それぞれに面白く読ませてもらった次第ではありました。

 

ただ、残念ながら本書を読んで「どれどれ、栃木県さくら市の歴史探訪に行ってみようか」とまでなるのはよほどの好事家か日本史に深入りしている人ではなかろうかと。さくら市の町おこし的な根っこの趣旨に適うかどうかは微妙な気がしたものではありますよ。

信州の諏訪湖畔にある北澤美術館を訪ねて、特別展『万国博覧会のガレ』を見てきたという話の続きになります。パリ万博の開催ごとに作品を出品し、高い評価を得てきたエミール・ガレですけれど、フランス以外の開催にまで出張っていくことはなかったのでしょうか、そのあたり特段の説明はされておりませんでしたけれど…。

 

ガレがガラス部門でグランプリを得た1889年パリ万博の次に開催地となったのはアメリカ、シカゴの博覧会でしたですね。で、ガレの出品しなかった1893年のシカゴ万博で「国際舞台に初登場」を飾ったのがドーム兄弟であったと。

 

 

これはシカゴ万博出品モデルのひとつということですが、ずいぶんと渋い作品のような気も。ドーム兄弟は元よりガラス工場を持っていたものの、「1891年に、新たに装飾工芸ガラスを制作する部門を設置した」(Wikipedia)そうですから、ガレに比べるとかなり後発ではありますけれど。

 

さりながら、シカゴに続くブリュッセル万博(1897年)ではガラス部門で金賞を受賞するほどに評価が高まってきており、装飾性と個性を磨いたドーム兄弟はブリュッセルでも不参加だったガレをやきもきさせる存在になっていたのかもしれません。ちなみにこちらは1895年作の扁壺『ロレーヌ公ルネⅡ世』、ガレもドーム兄弟もロレーヌ愛が強いですなあ。

 

 

ともあれ万博を通じてガラス工芸界は競争激化の様相となるわけながら、ガレももちろん黙ってはおらないのでして、「1900年に開催される次の万博に備え、…誰にも真似のできない高度な技法」を生み出していったとか。例えばガラスの象嵌装飾「マルケットリー」(1898年特許取得)はそうした技法のひとつだそうで。

 

 

「熔けたガラスの表面に、あらかじめ文様の形に整えた色ガラス片を埋め込み、再び過熱して素地にならし込む装飾法」ということでして、そのマルケットリーで作られたこの「オダマキ文台付花瓶」は1900年パリ万博の出品モデルであるということです(ブロンズ製の台座もガレ作と)。

 

それにしても、「万博でグランプリを獲得した者は、次からは審査員となるのが通例」だったとなれば、ガレは1900年パリ万博では審査員に回ってもおかしくなかったところ、新しい技法をもって挑戦したのには、(展示解説にはありませんが)やはりドーム兄弟とのライバル心があったのではないですかね。

 

間違いなくドーム兄弟は出品してくるであろうところ、ガレが審査員として高評価を与えるのも癪ですし、逆に評価を低めるようなことがあるとそれはそれで批判されたりもしましょうし。だからといって、勝敗ある場へ参戦して、先達のガレが負けるわけにもいかない。実に難しい状況の中、結果としてはガレ、ドーム兄弟ともどもグランプリ獲得なったようで。

 

 

ドーム兄弟の方もこんな清々しい作品を出品したのですから、双方痛み分けの同時グランプリもむべなるかな。されど、ガレの内心は微妙だったかもしれませんですねえ。なにしろ、「準備につき込んだ膨大な費用を回収できず心労が重な」たともいいますし。

 

そして、「1900年万博の賑わいが過ぎ去る頃からガレは病におかされ、療養の末に、1904年9月23日ナンシーで58歳の生涯を閉じ」ることになってしまったとは、ガレにはもう次に万博は無かったわけで、つくづくパリ万博と共に歩んだ生涯だったような。

 

時を経て改めてパリで博覧会が開かれたのは1925年、別名「アール・デコ博覧会」とも称されるだけに、ガラス工芸はルネ・ラリックの時代へと移っていたのであろうかと、しみじみ思うところでありますよ。