昨年以来「令和の米騒動」などという言葉が聞かれるようになっているご時世だけに、今年2025年3月刊行とは時事ネタ寄りの話かも…と思いつつも図書館で借りてきた『政治の米・経済の米・文化の米』なる一冊。実は副題に「稲と米で読む日本史」とあるとおりに、縄文から弥生へ、日本に稲作が定着するあたりから始まる、稲と米でたどる日本史の本でありました。興味深いところは多々あれど、読了まで妙に時間がかかってしまったのは、日本史知らずの故でもありましょうかね。

 

 

ともあれ、日本の政治経済、そして文化にも米という存在が常に大きく関わってきたことはよおく分かりました。ヤマト政権の大王が世俗的に政治を司る王であったともに、稲作の豊穣祈願にも関わる祭祀の王でもあったのですから、さもありなむ。ですが、政治にしても経済にしても、そのままその後の天皇に続いていく大王家が握り続けていたわけではないことは、歴史を見れば明らかなれど、そこに稲作、米の関わりがどうあったかを示唆してくれるわけでして。

 

そんな中で、ちと時代はずずいと下りますけれど、武士の台頭というのも、班田収授法以来、あたかも私有化されたような土地の自立性が増して、土地土地の収穫物を武装して守る存在が大きなものになっていったから…とつながっていくのは、日本史の授業を用語や年号の暗記だけで済ませてきた者にとっては、今頃になって「そうだったんだねえ」と思ったり。

 

ちなみにWikipediaの項目「班田収授法」には「班給を受け耕作する者は収穫物の中から田租を税として国へ収納し、残りは自らの食料とした」とありまして、この頃に自らの食料とした「残り」というのが、どれほどあったのかとも。歴史的に農民はすべての人が生きていく糧を生産しているにもかかわらず、どの時代も決して厚遇されることはなかったように思えますし。

 

取り分け、石高制が厳格になっていた江戸期、幕藩体制の時代には、トップに立った徳川家康からして「百姓は生かさぬように殺さぬように」と言ったとかいう話もあったりする(諸説あるようですな)。ですから、都市部の人々、お江戸の侍も町人も農民の上がりとしての米を食うことで生活していた(もちろん食えない人もいたでしょうけれど)一方で、農民の方は年貢を搾り取られた上に残ったとしても、最大の換金作物である米は生活必需品を贖うために売却し、自らは米以外のものを食してしのいでいたのであると。

 

しかも、その構図(生産者自身が米以外の者を食す)は明治になっても大正になっても、昭和の線前期まで(程度の差はありましょうものの)続いていたことが、本書所載の聞き取り調査結果で示されておりましたよ。

 

で、戦後の食糧事情が著しく悪化したのは徴兵によって生産者が減ったこともありましょうし、敗戦後に外地から復員する、あるいは引き上げてくる人たちがたくさんいたことで必要量が増大したこともありましょう。そこへ手を差し伸べたのがアメリカで、麦やら畜産品やらを持ち込んでくれたことには感謝しなくてはならないでしょうけれど、結局のところ、学校給食ではパンと牛乳(脱脂粉乳)が定着することで、日本の食生活が多様化した、つまりは将来的な米需要の減少を招くことになったとは、当時の政策では見通せないことだったようですよね。

 

実際に米をたくさん作らねばという政策がとられて、例えば戦後12年を経た昭和32年(1957年)、秋田県の八郎潟干拓事業が開始される。1964年に新しくできた土地が大潟村となって、米増産の担い手の入植を促したりしていったわけで。

 

それが、先行きの読み違えか、国では1970年に減反政策に転じるのですから、やっぱり農民は翻弄され続けのような気がしますですよね。以来半世紀あまり減反の方向性で来たのを、俄かに転換するといっても現実は難しいでしょうなあ。相手は植物という生き物であって、そこには馴染む土地が必要なわけですから、一時止めた工場の生産ラインを再稼働するてなことよりもずっと難しいのではなかろうかと思うところです。

 

思い出されるのは昨年訪ねた山形県で歯抜け状態のように水田と畑がまだら模様を描いているようすでありましょうか。乗っていたタクシーの運転手さん曰く「減反で、蕎麦や豆を作っている」ということでしたが、長い時間をかけて蕎麦や豆に馴染む土壌にしてきたのを、また米にとは即座にいかないでしょうしねえ。

 

まあ、ひたすらに米を消費するばかりの者がとやかく言えた義理ではありませんですが、ここまでの間で本書にある稲作や米にまつわる文化的な側面にちいとも触れてこなかったものの、今やかなり薄れつつあるとはいえ、長い歴史の中で培われた文化を振り返っても、日本という国はずいぶんと遠いところ(?)

に来てしまったのであるなあ…とも。

 

んじゃあ、いっそ農業をやるか!てな話ではないにせよ、あれこれ考えどころのある一冊でありましたですよ。

ちとお休みが長引いてしまいましたですが、両親は老人にありがちな「エアコンなんて必要ない」てな思いにとらわれることなしにガンガン冷やして、いつも以上に元気に過ごしておりました。取り敢えず何より。

 

と、それはともかくとして、帰宅後にまた録画が溜まったTV番組などをちょこちょこ見ておりました中、Eテレ『サイエンスZERO』で取り上げていた「球状コンクリーション」なるものに「!?」となったのですなあ。

 

海の中で死んだ生物の有機物が周囲の物質と化合して、球体状のカプセルのようなものにくるまれてしまう。これが非常に硬いものであるらしく、地盤の隆起などによって海中から陸上に出てくると、廻りの土壌は浸食やら風化やらで削られるものの、球状コンクリーションの部分だけ丸いままその姿を晒すことになるのだそうで。ですので、割って中を見れば、元々の有機物を出した生物の化石が入っている…となれば、天然のタイムカプセルということになろうかと。

 

長い間、球状コンクリーションの出来る仕組みが分かっていなかったところ、ついにこれが解き明かされた…というのが、番組の紹介点のひとつですね。詳しいことは番組でコメントしていた名古屋大学・吉田英一教授の研究室HPにありますので、ご興味があればどうぞ。

 

ところで、世界中で発見されるという球状コンクリーション、おそらくは日本でも見られる場所があるのであるかと思えば、結構あちこちで見られるような。ちなみに最大級のものは日本にあって、中にはクジラの化石が入っているとか…。ジオパークになっている秋田県、男鹿半島では鵜ノ崎海岸というところに丸い岩がごろごろしているそうですので、機会があれば、見てみたいものですな。

 

とまあ、科学の知見、新発見が伝えられた一方で、番組ではコンクリーションの性質を応用した研究を「人類の課題を解決!?」てな触れ込みで紹介もしておりましたですが、これには「うむむ…」と。要するに、頑丈なだけに「放射性廃棄物の封じ込め」ができるんでないのということなのでありますよ。

 

東日本大震災で甚大な被害を受けた福島第一原発のことを、世の中は風化させる速度がやたらに早いのは原発の再稼働ありきなのかと思うところですけれど、実際にはほんのちょっとデブリ取り出しでさえ何年も掛かっているのですよね。

 

一朝事が起これば、もはや人間の手出しの叶わぬことが起こると分かっているのに、核のゴミ処理=放射性廃棄物の封じ込めができれば人類の課題が解決するかのように伝えるありようには、どうしたって「うむむ…」となってしまうわけで。

 

封じ込めた上で地下深くに埋めるのだということですけどね、思い出すのは喫煙者にマナーを促すJTの広告だったりします。結局、こういうことなんでないのですかねえと。

 

 

自然にできる球状コンクリーションを割ると中からは昔々遥か昔の生物の化石が出てくるということですけれど、後々遥かの後の人類(がいるのかどうかは分かりませんが)が「なにやら地中深くに筒状のコンクリーションがたくさん埋まっている」と発掘したらば、出てきたのは大量の放射線でした…てなことになったりしないという保証は誰にもできないことでしょうに…。

2009年とあってはもう16年も経ってしまっておりましたか…。古楽アンサンブル「コントラポント」の名を目にして、「一度聴いたことがあったなあ」と思い出したわけですが、そんなに経っていようとは。

 

ともあれ、そのアンサンブルによる演奏会が比較的近所のJR中央線・武蔵小金井駅前のホールで開催されることを知り、出かけていったのでありました。

 

 

16年前の演奏会@トッパンホールは12月24日の開催で、「17世紀パリのクリスマス」を再現するような内容だったものですから、心持ちがほっこりあたたかになったことを記憶しておりますが、今回のプログラムはマルカントワーヌ・シャルパンティエの作品を集めて「聖母被昇天のミサ」を再現するような構成でありましたよ。聖母被昇天の祝日とは8月15日、奇しくもお盆と同時期であったとは。

 

会場の小金井宮地楽器ホールがきっちり冷房が効いているから…ということばかりではなしに、暑い最中に行われた演奏会、前回は冬場でほっこりだったですが、今度は心持ちが清々しくなるような演奏でありましたよ。

 

日本にも古楽アンサンブルは多々あって、取り分け「バッハ・コレギウム・ジャパン」といった有名どころが知られるわけですが、そうした大どころとは一線を画す地味さ?を感じるコントラポントながら、さほどに大きなホールでない空間(今回は578席、トッパンホールよりちと大きい規模)で奏でられる響きは都心のトッパンホールで、地味ならぬ滋味豊かなものだったのですよね。

 

近代の大オーケストラによる爆演もそれはそれで心躍るものではありますけれど、異常な気象状況に苛まれる毎日に心身をじわじわと蝕まれているような気のする頃合い、古雅な音色が癒しに通する、いい体験であったと思っておりますよ。

 

それにしても、プログラム・ノートには曲目にしても歌詞にしても詳しく記載があって、どこをどうとってもキリスト教の祝祭ミサであるわけでして、本来はキリスト者にこそ受け止められる内容なのでしょうが、そうした信仰心やら宗教感から離れた者であっても「癒し」を享受できるというのは、偏に音楽の力なのであろうと改めて。

 

近代になってきますと、楽器の用法なども変化していった結果、宗教的な意図でもって作られる音楽作品も非常に大がかりなものになってきますけれど、そうなる以前のバロック期、このあたりにこそ渇いた体にすっと、あるいはじわっと染み入るような音楽世界があるような気がします。酷暑となった夏には打ってつけなのかもしれませんですよ。

 

演奏を堪能した帰りがけ、外にでれば夕方となっても相変わらずの暑さについ、「ふう…」とひと息、吐息をついてしまいますが、この吐息がわずかながらも涼やかになっていた。そんな演奏会なのでありました。

 


 

という具合に酷暑が続いており、東京でも最高気温予想に38℃てな数字が見受けれる日々がありますので、ちと老親の慰問(?)に出かけてまいります。ま、世の中的にお盆休みも近いですのでね。てなことで明日(8/5)から数日(2~3日ですかね)、お休みを頂戴いたしたく存じます。どうぞ、皆さまも熱中症にお気をつけてお過ごしくださいまし。ではまた。

さてと、今回の甲府行きのメインイベント、山梨県立美術館の展示を見に辿り着いたわけですが、もひとつついでのお話を。

 

 

美術館の入口前には彫刻作品が見えておりますけれど、実はこの美術館(と県立文学館も)のある場所は「芸術の森公園」と言われて、園内あちこちに彫刻作品が置かれてあるという。美術館にはたびたび(文学館にも少々)立ち寄ったことがありながら、園内を見て回ったことがありませんでしたので、思い立ったこの時にということで。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル 『ケンタウロス』(1914年)

 

まずは美術館前を飾るブールデルの『ケンタウロス』。大いにロダンの影響を受けたと聞けば、「筋骨のあたりに…?」と思ったりするものの、瀕死状態の場面とあって胴が伸びあがり、首が極端に傾いたあたり、写実を超えた再現を目指したようにも思えるところかと。で、最初にブールデルが登場しましたように、この公園内の彫刻はかなり有名どころの作品が並んでいるようでありますよ。

 

ヘンリー・ムーア『四つに分かれた横たわる人体』(1972-73年)

 

これはもそっと入口近くにあって美術館の顔のようになっている作品ですな。ムーアは横たわる人体をさまざまに造形して、一見したところでは「ん?人体?」と思うも、だんだんと想像が追い付いてくるようなところがありますので、分かりやすい方なのかもですねえ。

 

アンリ・シャピュ『ミレーとルソーの記念碑』(1884年)

 

ムーアの像の左裏手あたりにちょっとした木立がありまして、その中にひっそりとあるのがこのレリーフ。ジャン=フランソワ・ミレーのコレクションで知られる美術館だけに、ミレーとやはりバルビゾン派のテオドール・ルソーが並んだ記念碑の存在はなるほどですが、元々は「フォンテーヌブローの森の開発計画に反対し、自然保護運動をしたミレーとルソーの功績を称え作られたもの」(と同じブロンズ型から鋳造されたもの)だそうありますよ。

 

フェルナンド・ボテロ 『リトル・バード』(1988年)

 

ボテロという名のとおり?絵画も彫刻もぼってりふくよかに作ってしまう作者にかかればリトル・バードもこのように。取り分け子供向け遊具と間違われやすいのか、「作品にのぼらないで下さい」という注意書きが反って登りたくさせるような気も(笑)。

 

アリスティード・マイヨール『裸のフローラ』(1911年)

 

マイヨールの造形はその顔付きで「あ!マイヨール?」と思ったりしますですね。ボテロの後に見ると、人体の美をそのままに写し取ろうとしている…と思うも、もしろフローラをボテロが作ったらばどんな?という余計な想像が湧いてしまい…。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル『叙事詩』(1917年)

 

もうひとつのブールデルは文学館の前に。『叙事詩』というタイトルから場所が選ばれたのでありましょう。ブールデル作品は結構激しい一面を見せるよねえと思うも、「ポーランドの自由と独立を目指して生涯をささげた詩人ミスキエヴィッチの記念碑の一部」であると知れば宜なるなかなと。

 

オーギュスト・ロダン『クロード・ロラン』(1880-1892年)

 

17世紀に神話画風のタイトルの下、実は風景画を描いてしまったという画家クロード・ロランの姿ということですけれど、ちとモダンに過ぎるような気も。まあ、風景画のステイタスがまだ低い時代に挑戦者であったとは言えましょうから、そのあたりの表出ですかね。

 

…てな具合にあれこれ見て回りましたですが、さほどに広い園内でないものの、作品は他にもまだあって…。とはいえ、折からの日差しの強さが芝生の照り返しで弥増して、暑いの何の!この公園は四季折々に花々を愛でる場所ともなっているようながら、どうにもサルスベリばかりが目に付く季節では、園内を回るのも適当な時季ではなかったようでありました。いやはや。

 

NHKドラマ10で『舟を編む』を見ておりますが、「紙の辞書は今の時代に必要か」と考えを巡らす場面がありましたですね。時代の流れの速さによる修正加筆、はたまた誤植が生じたりした時の訂正などに即応できない紙媒体はデジタルに敵わない…という面は確かにあろうかと。

 

ただ、そうした流れに反論するように、紙の辞書を編集していたその時、その時の言葉のようす、載っていれば新語であっても一般化したのであるなとか、まだ載ってなければ一部の流行にすぎないのかとか、あるいは語釈そのものも「その時にはそう理解されていた」という軌跡が残せるのだといったような話がありました。

 

確かにそっち方面のことも大事でないとは言いませんですが、そうなってくると、紙媒体発行時を生きる人たちのために「言葉の大海原を渡る舟を編む」というのとはちと目的がズレてしまっているようにも思えたり。

 

ではありますが、人々が辿った軌跡を残すという作業(これを一営利企業がやるという判断は別として)、なるほど後々に歴史を知る手がかりになることもあるのだなと、このほど覗いた展示を見ていて思ったものでありましたよ。

 

 

立ち寄りましたのは東京・国分寺市にある東京都公文書館。夏企画展として開催中の「江戸の地誌・絵図~その系譜をたどる」を覗いたわけですが、「系譜をたどる」という部分、これは必ずしも一つの出版物の改訂経過をたどるのではないものの、年代の異なる地図・地誌を参照することで、経年変化をたどることができるのですよね。本来ではないにせよ、辞書の改版にも結果として同じことが言えるような気がしたものです。

 

『寛永九年江戸図 内題;武州豊島郡江戸庄図』(1632年)

 

『寛文十年江戸絵図(新版江戸大絵図)』(1670年)

 

『分間江戸大絵図(新板江戸大絵図)』(1676年)

 

こちらは江戸時代初期、お江戸の市中を描いた地図を年代順に3種並べたものでして、地図だけに細かいところを見てしまいたくなる(が、画像ではちいとも判別できない…)ところながら、差し当たり目を留めるべきは、江戸の町がどんどん拡大していっていることと作図の緻密さが増して行っていることでしょうか。

 

一番上は、いかにも手書きで作った地図という感じである上に、お城などが立体的なイラストで表示されている。こうした地図の作り方は今でもあるでしょうけれど、地図の正確さに頼る実用性とは別の意図で作られるのではなかろうかと。

 

それが44年後の一番下を見る限り、これはどうしたって地図そのものですよねえ。こうした経年変化は、(この時代ではありえませんが)常に上書き改訂が行われていたならば、知ることができない情報なわけです…てなふうに考えたり。

 

ちなみに一番下の精巧な地図を描いたのは遠近道印(おちこちどういん)という、人を食った名前の絵図師であると。当時「開発の進んでいた江戸東部…本所・深川を図の左下、江戸湾海上に組み込むという新機軸を見せてい」たりと、なかなか工夫に富んだことをしている。広げたときに収まりのいい形にしている一方で、「図中の○印・△印を合わせると接合できるという仕掛け」(切り取ればぴったり合わせることができる)も施しているそうな。

 

 

さらにこの遠近道印、大型地図を方形に収まりよく配置したものの、狭い場所では広げて見られない、繰り返し広げると折り目の部分が傷んでしまうてなことが気になったらしく、「自ら製作した図の正確さはそのままに、地図帳に仕立てるという画期的な発明を」も手掛けたのであると(上の画像の真ん中上)。惜しむらくは頁ごとに東西南北がまちまちであったことで、重版出来には至らなかったそうですが…。

 

ただ地図帳の発想は、全体像を把握するよりもむしろ細かい地域の情報を参照するものとして、後の「切絵図」に繋がっていったのでもあろうかと。

 

『東都番町図 全(内題:番町絵図)』(1755年)

 

こちらが切絵図の始まりとされるものですけれど、番町という地域を切り取ることが選ばれたのはもっぱら実用本位の故であるようで。「旗本屋敷が建ち並ぶ番町は、江戸屈指の道に迷いやすい街区」だったそうですのでね。今ならばスマホでマップを見ながら「あっちかぁ、こっちかぁ」とやるところを、江戸期の人たちは切絵図片手に目的地にたどり着いたのでありましょう。

 

ということで、地図は不案内な町を歩く際に欠くべからざる携帯品となっていった一方で、花のお江戸に出てくる人たちへの情報提供として「名所案内」(要するにガイドブックのようなものですな)も刊行されていたとか。

 

 

「江戸最古の絵入り名所案内的地誌と評価されている」という『江戸名所記』(1662年)は、「江戸御城・日本橋・東叡山から始まりけ、計80箇所の名所を挙げてい」るそうな。これが京都の版元から出されたのも徳川の世となった時代のなせるところでしょうかね。

 

 

地誌の方では天保五年(1834年)に刊行された「『江戸名所図会』において集大成を見」たとされるようですが、これに対し「編さん開始から足かけ40年をかけて行われた精緻な調査と考証、挿絵の高い写実性」と説明があったのを見て、「ああ、辞書編纂みたいだ」と思ったものでありますよ。ということで、ドラマ『舟を編む』を思い出しながら、興味深く見てきた展示なのでありました。