先に中国映画の『ワンセカンド 永遠の24フレーム』を見て、チャン・イーモウ監督の映画愛が云々…と申しましたですが、インドの映画『エンドロールのつづき』の方はこれはもう、パン・ナリン監督自身の昔を振り返った、それこそインド版『ニュー・シネマ・パラダイス』でもあろうかと思ったものでありますよ。

 

 

インドの田舎町に暮らす少年サマイは一度だけ家族で出かけた映画を見、夢のような世界にすっかり幻惑されるのですな。さりながら、駅に停車する列車に売るチャイ作りをしている父親(ちなみに車両に声をかけて売りさばくのはサマイの仕事…)はうらぶれ感に苛まれているものの、もともとバラモン階級の出身であるという誇りだけを頼りに暮らしているふう。気位だけは高く、サマイが映画に魅了されたとみるや、映画のようなものに関わってはいけん!と息子に申し渡すのですな。

 

このあたり、人に芸能を見せるような商売が低い身分のものと考える風潮がかつてのインドにもあったということになりましょうか。日本でいえば、新内流しといった街頭芸を見るような感覚であるのかも。

 

ですが、映画に取りつかれたサマイは学校をさぼって映画館に潜り込み、たたき出されることがあってもくじけない。いつしか、映写技師と仲良しになって映画を見放題になるのですな。さらに、サマイの映画熱は冷めやらず、友達とつるんで映画作りまがいのような遊びを始めたり、さらには巡回上映用のストックフィルムを盗み出して、仲間内で映画上映会を開催するまでに。

 

もちろん、一切の機材は映写室の出入りで目にした機械を見よう見まねで手作りしたものなわけですが、子どもながらそこに傾ける情熱のほどが強く印象に残る部分ではなかろうかと。

 

思い返せば、ホームビデオといったものも発明されていない昭和のひと頃、友人の中にも8mmフィルムカメラ(おそらくは父親のものだったのでしょう)でもって映画作りのようなことをやっている連中がいましたっけ。

 

あいにくとその中から今日の大監督が誕生し…なんつうことはないですが、日本のどこかしらには同じようなことをしていた若者から、例えば「ぴあフィルムフェスティバル」(これ、まだ続いているのでしたか?!)などを通じて世に出、実際に映画監督になったような人たちもいたのでありましょうねえ。

 

最終的には熱意にほだされる形で父親もサマイの思いを受け止めて、映画作りの勉強ができるよう、町を送り出してやることに。現実にはその少年が後にこの映画を撮ることになる監督として活躍するようになるのですから、まあ、「好きこそものの上手なれ」を絵にかいたようなものでしょうか。ただ、子ども時代に好きだった何かしらがあったとして、それがその後の「上手」として名を成すに至るといった物語は、ごくごく少数にしか当てはまらないのが現実であるわけですが。

 

とはいえ、そういう事例は(失敗例に対してほんの僅かな数であったとしても)子供たちには夢を見る事例として知ってほしいように思いますですね。いつかの段階で、道はいくつにも枝分かれする将来が待ち受けるとしても。

ちょっくら足を延ばして、また信州・諏訪の美術館へ。昨秋にも訪ねてはおりますが、展示も変わっておりましょうし、季節も異なる。JR中央本線の上諏訪駅から歩くと少々かかるものですから、取り敢えず諏訪湖畔にある美術館にたどり着くと、まずは湖畔に出て木陰でひと息ついた次第ですが、湖の様相は季節でずいぶんと違うものであるなあと。

 

 

秋にはただただ、鏡のような湖面が広がるばかりだったのですけれど、夏はかくも水草(?)に覆われていようとは。ま、かるがも親子がすいすいというのも、季節感でありましょうかね。

 

と、しばし諏訪湖を眺めて休息ののち、初めに訪ねたのは北澤美術館でありますよ。折しも開催中の関西万博にあやかってか、『万国博覧会のガレ』という特別展が開かれておりました。ガラス工芸をメイン・コレクションとしている美術館らしいところですね。

 

 

展示されておりますのはエミール・ガレとともにドーム兄弟の手にもよるアール・ヌーヴォーの作品、そしてその後、アール・デコの時代を象徴するルネ・ラリックが少々といった具合で、これは同館の基本的な設えでもありましょう。

 

 

それでも今回は、万博との関わりを中心に解説されている点が興味深いところ。これを見ていきますと、なんだかガレは万博とともにあったのであるか…と思ったりしてものでありますよ。

 

ロンドンで開催された初の万国博覧会に遅れること4年、1855年に第1回目のパリ万博が開かれた際、エミール・ガレ(1846年生)は子供だったわけですが、このときは「高級ガラスと陶器の企画販売業を営」んでいた父シャルル・ガレがガラス&陶器部門に出品し、佳作を得ていたとか(ちなみにブランプリはバカラ)。その後も万博の度ごとにシャルルの出品・受賞は続いたようです。

 

そんな万博と縁ある事業を営む父親とともに、エミールが万博会場を目にしたのは1867年の第2回パリ万博だったそうで、このときにジャポニスムの風はエミールにも吹いたようですな。今さらですけれど、ガレのアール・ヌーヴォー作品として夙に知られる題材は草花や虫だったりすることからして、そもジャポニスムの影響なのであるかと思ったり。美人画で知られるあの喜多川歌麿にも『画本虫撰』(えほんむしえらみ)なんつうのがあるくらいですし。

 

 

で、こちらはエミール・ガレが自ら初めてエントリーしたという第3回パリ万博(1878年)の出品作品であると。父親に倣って万博での成功を夢見、またジャポニスムを吸収した独自作品というわけですな。ただそこにはさらにひと工夫あったのがガレたるところでしょうか。本作には「微量のコバルトで薄青色に発色させたガレ社オリジナルのガラス素地」が用いられているそうな。これを称して「月光色ガラス」とはネーミングの妙もあって大きな反響(ガラス部門と陶芸部門で銅メダル)を呼んだそうです。

 

 

続く第4回パリ万博(1889年)でもガレは大活躍。ガラス部門で初のグランプリ、陶芸では金メダル、(1884年頃から手掛け始めたという)家具部門でも銀メダルと受賞したそうな。さりながら、ガレの名前ではガラス工芸で知られるものの、陶芸作品もあったのであるか…と思うものの、そも父親が陶器も含めた事業を行っていたのですから、無縁のものではなかったのですな。

 

 

万博出品作とは記されていませんでしたけれど、ガレが伊万里風の意匠を取り入れて作ったもの。用途としてはインク壺なのだそうで。これもまたジャポニスムを意識しつつ独自性を出して一品かと。

 

ところで、万博での評価はその後の事業を左右する影響力があったことをよく知っていたガレは(といってガレだけではないのしょうけれど)、こんな出品案内のカードを作っていたということでありまして。

 

 

会場内のどのあたりに出展ブースがあるのかを告知していますので、体のいいチラシということになりまな。そんなこんなで思い至るところは、当時時の万国博覧会は今の見本市にも近いものであったかと。今さらですけれどね。

 

とまあ、万博を舞台に快進撃を続けるエミール・ガレに対してこの後ほどなく大きなライバルが出現。ドーム兄弟の登場となってくるところですけれど、ちと話が長くなってきましたので次回に続く…ということでご容赦を。

中東を取り巻く情勢は不穏というだけではとどまらない様相にありますけれど、何とかうまくやっていくことってできないものか…と思ったりするのは、どうやら遠くから目線以外の何物でもなかったようで。たまたま手にした『アーベド・サラーマの人生のある一日——パレスチナの物語』という一冊を読んで、パレスチナのことを何も知らなかったのであるなと、つくづく感じた次第でありますよ。

 

ヨルダン川西岸地区で園児たちの乗ったバスが燃えた。アーベドは息子を探して奔走する。占領とは何かを問う悲劇のノンフィクション。

本書の帯にはこうありまして、タイトルの「ある一日」とは長らくイスラエルの占領統治下にあるヨルダン川西岸地区で起こったバス事故の日を指すのですけれど、話は全く当の一日にとどまらないのですな。

 

子供をバスで送り出したパレスチナ人の親の一人がアーベド・サラーマなのですけれど、すべてが彼の視点で進むわけではないどころか、彼自身の生い立ちにも、そして事故に関わることになったパレスチナの人々、はたまたイスラエルの人々、それぞれの来し方なども振り返って、ヨルダン川西岸地区、ひいてはパレスチナのありようが浮き彫りにされていくわけです。

 

描かれるのは、イスラエスが占領し、当たり前のようにパレスチナ人が隅に追いやられ、様々な不都合を押し付けられ、それがどんどん拡大してきたようすが浮かび上がったきます。時々の戦闘状態は報道を通じても広く知らされていますけれど、長い年月をかけてじわじわとヨルダン川西岸地区を我が物化していくさまがつぶさに伝えられてきたと言い難い。

 

もっとも、知る心構えさえあれば、全く知ることができなかったわけではないのでしょうけれど、恥ずかしがらその目をおよそ持つことがなかったわけで…。

 

パレスチナの幼稚園児に多数の死傷者を出したバス事故自体は何とも悲惨な出来事ではありながら、その事故が生じ、被害が拡大してしまった背景には、イスラエルによるパレスチナ分断政策があるのであると。地区内にはイスラエルの入植地の治安を守るためでしょうか、分離壁がモザイク状に張り巡らされ、そこここに検問所が設けられている。

 

イスラエル側からはともかく、パレスチナ側から通り抜けるのは全くもって簡単なことではないのでして、地理的には分離壁を横断する形でパレスチナが救急車を通過させたくても、ことごとイスラエル側の許可が必要で、それには通常何日もかかるのであるとか。緊急の用を全くなさないのではなかろうかと。

 

さらにイスラエル側の緊急車両の方が現場には近いはずなのに、パレスチナ側の事故と知ってか、対応は至って緩慢なのですな。加えて、イスラエルの若者の中には事故の報に接して、「将来のテロリストが減った」と快哉を叫ぶつぶやきまでが駆け巡ったそうな。

 

ことの根深さを突き付けられる気がしたものでありますよ。何せある程度の年齢のいった(それこそホロコーストを自らか、家族の誰かが直接経験したというような)保守的な世代でなくして、若者が…というあたり、かつて根絶やしにされそうになったユダヤ人が今度はパレスチナ人を根絶やしにしようとしているのではないかという状況が、この先も続くと予見させられてしまうのですから。

 

長い長い歴史を通じて、人間はいろいろなことを学んできたはずですのに、今でもといいますか、この先の可能性としても、対立の構図といったものがなくならない、結局人間とはそういうものであるのか…と暗澹たる気持ちになってきますですね。

 

決してそういう面ばかりではないと思いたいところではありますけれど、あちらこちら(日本に限った話ではありませんが)で「〇〇ファースト」てな言葉が喧伝されて、つまりはファーストに値する対象とそうでない対象とを分離・分断して考えようとする風潮にあるような気も。

 

ほどなく行われる選挙では、SNSなどの言説に惑わされず冷静な投票行動を!といった呼びかけがニュースなどで言われていますけれど、それこそ角田光代の『方舟を燃やす』の話ではありませんが、「何を信じるのか」(何を信じて投票するのか)ということでは熟慮が必要だと言われなくてはならないご時世なのでしょうか。

 

イスラエル・パレスチナのことを思えば、負のスパイラルなんつうことでは表しきれないところはありますけれど、流れを変える術はあるのだと思いたい今日この頃でありますよ。

早くから暑い暑い日々が続くだけに、子供たちは「早く夏休みにならないかな」という思いを強めてもおりましょうかね。そんな折、記憶の奥底に埋もれていたものがふいと顔を覗かせたような次第。もっともその記憶の欠片が果たして本当の記憶であるのかもあいまいなのですけれどね。

 

昔々の夏休みの晩、小学校の校庭にわらわらと人が集まってくる催しが開催された(ような気がしている)。催しは映画の上映会、VODはおろかビデオ録画もない時代、映画を見る機会は映画館に行く以外にはありえなかっただけに、子どもも大人もこぞって集まったのではなかったかと。

 

といって何が上映されたものであるのかは全く記憶にない(だからこそ、記憶が嘘をついているのかもと思うわけですが、それはともかく)ですが、どんな内容、それが教育映画の類であってもニュース映画の類であっても、参加者はかなりの数に上ったことでありましょうね。映画のお楽しみを求めて。

 

とまあ、そんなことを思い出してしまったのはチャン・イーモウ監督作品の映画『ワンセカンド 永遠の24フレーム』を見ていたときのことでありまして。

 

 

話は1969年、文化大革命下にある中国ですので、そんなに懐かしい、楽しいてなことを言っておられるものでもないわけですが、そうであったとしても、一本のフィルムを次から次へと上映会場につないでいって、村々で順繰りに開催される映画会にはそれこそ村中の人たちが詰めかけてくるのですよね。時が時だけに、上映作品は共産主義プロパガンダを大衆受けするアクション映画で包み込んだらしき『英雄子女』(どうやら本当にある映画のようで)ですけれど、これを村人たちは心待ちにしているわけで。

 

「これはいい映画だ」と言う人がいるあたり、おそらくは何度も上映機会が巡ってきて、同じ映画であったも何度も見る。映画に接する機会が限られておればこそのことでしょう。かつて、映画館以外ではTVのロードショー番組(日本語吹替版であったのは当然のこと)で見るしかなかった昭和の子供も、同じ映画を放送のたびごとに何度も見てましたものねえ。『荒野の七人』などの西部劇やら、ショーン・コネリー主演時代の『007』初期作あたりはいったい何度見たことでありましょう。

 

と、我がことはともかくとして、本作の中では村に巡回してきた映画フィルムがあろうことか、砂まみれになってしまうというトラブルが発生(広大な砂漠の縁にある村が舞台なのが、本作の映像上のポイントでもありますね)、上映技師の指図のもとに村人総出でフィルムのクリーニング作業に邁進した結果、なんとか上映にこぎつける。そうまでしても、映画が見たいのですよねえ。

 

この映画の主人公は文化大革命のとばっちりで単なる喧嘩が原因で強制労働の科を受けるも、逃げ出してきた人物なのですから、現在の中国で言いたいことがストレートに言えるかは難しいような気がしますが、映画の主題はここまでに触れたような映画愛、映画オマージュではないとは言えましょう。そうではあっても、やっぱりこれはチャン・イーモウ監督の映画に対する愛情の顕れではなかろうかと。

 

ともあれ、そんなこんなに思いを馳せますと、映画というものが総体として質の低下が見られるとかそういうことでは全く無いだろうにも関わらず、かつてとは比べ物にならないほどお手軽なものになってしまいましたですねえ。お手軽に見られること自体は便利になったと言えましょうけれど、結果的に映画は消耗品になってもしまったような。まあ、個人的にもそういった消費形態に入り込んでしまっているともいえるのですけれど、この映画の砂漠シーンこそ大スクリーンでみるべきだったかもです。

ふと口を吐いて「この服、ちゃんと着れてる?」てな言葉が飛び出したのですな。刹那、「あいやあ、ら抜きを使ってしまった…」と独り言ちてしまった次第でありますよ。

 

予て(といってもはや何十年からにもなりましょうかね)「ら抜き言葉」の舌足らず感がどうしても気になってしまっており、先のひと言でも、照れ隠し的に問わず語りで「着られてる、か」と言い直したりする抵抗力は今でも持ち合わせておるところながら、世の中的にはすでにウイルスのように「ら抜きパンデミック」は定着してしまっておるようす。てなことを言っている口にもしっかり蔓延の手は及んでいたといえましょうか。

 

ともすると、もはや「ら抜き言葉って何?」てなことにもなってきているかもしれません(敢えてここで説明を試みようともおもいませんです、はい)し、無駄な抵抗を継続するのも単に時代の流れに逆らっているだけかもしれませんですね。言葉は常に移り変わっていくものでもありますし…。

 

と、そんなことを思い巡らしましたのも、今朝の新聞コラムで「ぎなた読み」という言葉が出てきまして、「ああ、そういう言い方をするのであったか」と(今さらながら)思ったのでありまして。文を読む際に区切りを間違えて、意味を取り違えることを指して「ぎなた読み」とは、この言葉自体は知らなかったもので(恥ずかしながら)。

「弁慶がなぎなたを持って」という一文を、本来「弁慶が、なぎなたを持って」と読むべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と読むように、句切りを誤って読むことに由来する。

Wikipediaに曰く「ぎなた読み」と呼ばれる由来はかようなことなわけで、昔から聞くことながら無理のある例ではなかろうかと。むしろ、他の例として挙がっていた「ここではきものをぬいでください」の方が取り違えの可能性のある例ですかね。曰く「ここで履き物を脱いでください」と読むのか、「ここで着物を脱いでください」と読むのか。

 

まあ、この「ぎなた読み」に少々引っ掛かりましたのはつい先日、夕方のニューズ番組の中で、昨今は同じ言い回しが世代間で異なる受け止め方になる事例が思い出されたからでもありまして。ひとつには「7時10分前集合」と聞いたとき、あなたなら何時に集合場所に行きますか?というものでして。

 

そも、7時10分前集合と聞いて、つまりは6時50分に集合すればいいのだあねと考えるのは、今では必ずしも共通認識ではないようなのですねえ。特に若い世代の間で「7時10分前集合」と聞くと「7時10分の少し前に行けばいいのね」と受け止められているのであると、いやはやです。古い世代はというか、旧来の受け止め方では当たり前のように「7時の10分前に集まるのだね」と考えたわけですが…。

 

ただ、これはよくよく考えてみる(までもないのですけれど)と、状況設定が舌足らずに過ぎるような。だいたい集まる時間を決める際には集まってその後に何かする理由があるでしょうから、例えば映画を見るとして上映開始が〇時だからその〇〇分前とかいうように。先に決まった時間があるのに先立ってと思えば、先の事例では7時に映画が始まるとしてその10分前とは自明になりますし、7時10分の少しまでは映画が始まってしまっているわけですしね。

 

もっとも、時間の決まった何かが控えていなくても待ち合わせをすることはありましょうけれど、その場合には7時10分という微妙な時間で待ち合わせることってあるのでしょうか。何事もデジタル化しているご時世だけに無いとはいえませんけれど、昭和な者になっては中途半端感ある時間設定をされると「なにそれ?!」という気がしてしまうところですが…。

 

もひとつ、先のニュース番組にで紹介されていたの方はもう「ぎなた読み」とは全く関わりないことになりますけれど、「1000円弱」とはいくらぐらい?という認識の仕方でありましたよ。

 

これも当然の受け止め方として、1000円に少々足りない額、つまり900円台後半くらいかなと想像するわけですが、どうやら異なる受け止め方が存在する。しかも、これには先の時間の例よりも年代間のばらつきではない個人差があるようで。

 

ある人たちの答えて曰く、「1200円くらいかな。1500円はいかないでしょう」と。こう考えるロジックはどうやら「1000円プラス若干の金額」ということにあるようで。どう発想するとそういう理屈に至るのかが、個人的には想像しかねるところながら、街頭でかように答える人たちが確かにいるという現実に、「ふ~ん」てなものでありましたですよ。

 

「ら抜き」に限らず、インターネット上の書き言葉、TVなどを通じて聞こえてくる話し言葉のあれこれに、都度都度「む?!」と思うことが多く、それをひとつひとつ挙げることはしませんが(時折、こぼすことはあります、笑)、その数はだんだんだんだん増えていっている。そのたびに「!」と感じていては、ストレスが溜まる一方なので、近ごろはできるだけスルーするようにしてますが、たまには今回のようなこぼしをしておかないと不健全なことにもなりかねない。ま、きわめて個人的なことと言わざるを得ない昨今なわけですが…(苦笑)。