ちょいと前、プラごみの話 をしましたときに締めくくりとして、

「リサイクルのための分別をすればそれでよいという問題でもなさそうなのが、

 難しいところですけれども」とは書いておきながら、

リサイクルそのもののことには余り触れておりませなんだ。

 

改めてこのことを思い出しましたのはカップ麺を食したときでありました。

と、ここで先に長いエクスキューズを申し上げておきますと、
このほど食したカップ麺はずいぶんと前に買い置きとして買っておいたものなのでして

 

これを食しても食さずともプラごみは生ずるところから、
せめてフードロス対策にはなりましょうし(と大げさに考えたわけでもありませんけれど)、
取り敢えず食したわけですが、食後のカップを見るとスープの残留物と思われるものが
カップの内周を輪のように彩っていることに気付きますですね。

 

毎度のことでかつては気にかけてみることもなかったところながら、この輪状に遺った跡は、

紛れもなくスープ成分がプラ容器に取り込まれてしまったものでありましょう。
タワシでごしごし擦って落ちるものではありませんので、

陶磁器の食器の表面についた落とせる汚れとは似て非なるものであるわけです。

 

藪から棒ですが、白い絵の具に黒い絵具を混ぜますと、白い色がぼやけますですね。
これを元々の白に戻さんと、後から白い絵の具を投入すればするほど白「らしく」なりますが、
黒絵の具の要素が無くなったわけではありませんから、限りなく白に近づくとしても、
決して元の白に戻ることはない。

 

この例えがまさにプラごみリサイクルの現状であるということです。
本来的なリサイクルの典型例としては、ガラス瓶入り飲料のガラス瓶でしょうか。
一度使った瓶を洗浄・消毒して、そのまま新たに飲料を詰めるガラス瓶として使用する。
これを延々と繰り返すことができると、これこそがリサイクルであると。

 

さりながら、PETボトルもリサイクルの名の下に回収されていますけれど、
PETボトルがPETボトルとして再利用されることはないのだそうですね。

なんとなれば、先ほど触れたカップ麺の容器ではありませんが、
何かしら詰めたものの残滓が必ず含まれてしまう。白絵の具に混ぜた黒絵の具のごとしで、
決して新品同様の状態には戻らないのであるというわけです。

 

ですので、リサイクルの名のもとに回収されたPETボトル(他のプラのリサイクルもでしょう)は
他のプラ製品(いかにも再利用されたふうな品物)になって蘇る?そうなんですが、
これも使われたところで結局はプラごみとなる運命にあるという。
決して循環はされない見掛け倒しのリサイクルであるのですなあ。

 

で、ごみと化したプラは燃やしても燃やし切れず、残りかすは決して自然分解もされず、
いつまでも残る。やがて劣化したものが細分化してマイクロ・プラスチック、
さらにはもはや肉眼では識別すらできないナノ・プラスチックとなって
自然界に広がっていく…と、いささかホラーめいた書きようにもなりましたが。

 

そんなわけで、こうしたことに気付きを与えられて今さらながらに
プラ容器、プラ包装の品物はなるべく買い控えるようにしようとは思ったり。
これを「買わない」と言い切れることができないのは、そう宣言してしまうと
おそらく日常生活が破綻してしまうと想像されるからでもあります。

 

野菜を新聞紙でくるんでくれる八百屋さん、
肉を必要な分だけ竹皮(のようなもの?)で包んでくれる肉屋さんなど
探せば全く無いとは言い切れはしないものの、なかなか探しようもないわけで。

 

されど、だからといって従来どおりに(何ごとも無かったかのように)
プラ包装の品を無造作に買い続けることにも抵抗が生じており、
一方で冷静に考えれば、世の中の大勢というのれんに対して

わずかな腕押しをしているにすぎないと思いもするものの、

まあ、それでも何もしないよりはいいかと。

 

所詮ひとりよがりな状況ながら、そんなこんなを書いたりすることで
「そういうこともあるのかな」と思う人がひとり、ふたり出るかもしれませんしね。
そのうちにプラ素材の製造にかかわるような人の中にも「今のままでいいのかな」と
取り敢えず疑問だけでも抱く人が出てこないとも限りませんし。

 

こんなことを先ごろ読んだ『プラスチックと歩む』の著者が聞いたら、

なんたること!とお叱りを受けるかもしれませんけどね。