近隣の公共施設で文化・芸術講座が開催されたものですから、ちょいと聴講に。「民藝」への招待-柳宗悦が提唱した民藝の魅力-というタイトルの2回シリーズでして、第1回目は「柳宗悦と民藝運動―民藝とは何か―」というものでありましたよ。
民藝運動は柳宗悦が主導して、河井寛次郎や濱田庄司、バーナード・リーチといった陶芸関係者、染色家の芹沢銈介、版画家の棟方志功らとともに展開したわけですけれど、中心人物たる柳宗悦の生涯と折々の関心事について、改めてまとまった話を聞いてみれば、「なるほど、そうだったんだねえ」と思った次第です。
父親が貴族院議員であったことで、(華族ではないものの)初等科から学習院に学んだ柳ですけれど、そこでは教師に恵まれて該博な知識を蓄える一方、友人知己にもまた恵まれて、後に雑誌『白樺』を共に創刊することになる武者小路実篤や志賀直哉との出会いも学習院であったと。しかしまあ、明治から大正へと移り変わり頃、ある種、時の思潮をリードしたとも思われる『白樺』の創刊は明治43年(1910年)、学習院高等科を修了した柳が東京帝大哲学科に進学する頃合いという、そんな若い時期であったとは思いもよらず。
東大での専攻が示すとおりに、宗教哲学を志向した柳は西洋の哲学思想、ひいては西洋の美術動向を『白樺』に紹介していくことになりますが、誌上で彫刻家ロダンを紹介する際にそのことをわざわざロダンに手紙で知らせたりもしたのだとか。東洋の名もない若者たちが作る雑誌ながら、本人にどう響いたか、喜んだロダンは何と!自作の彫刻を返礼として送ってきたのだそうな。それが、今でも倉敷の大原美術館で見られるということでして、「白樺美術館より永久寄託」とされている作品がそれであると。
『白樺』同人が夢見た白樺美術館は結局に設立されることないままに終わりますけれど、山梨県にある清春白樺美術館は彼らの思いを受け継いだという面もあるわけですから、寄託先はここであってもいいのかなと思うところですが、この美術館が出来たのは1983年と些か遅きに失したのでしょう。遥かそれ以前の1936年、(すっかり関心が民藝に移っていた?)柳が日本民藝館を設立するにあたり、大原孫三郎(大原美術館創設者)から多大な財政援助を受けていたことが関わっているということでありますよ。
ところで、大原美術館寄託以前、ロダン作品は柳の手元預かりになっていた時期がありますが、ロダン見たさに柳を訪ねた浅川伯教の手土産が、それまでもっぱら西洋をむいていた柳の目を東洋に向けることになったとはまあ、思いがけぬ展開と言えましょうか。この辺りはしばらく前に訪ねた浅川伯教・巧兄弟資料館でも見聞したとおりですなあ。
ともあれ、浅川が手土産にして持ってきた朝鮮古陶磁に、「これは?!」と目を止めた柳は入れ込みに入れ込んで、1924年にはソウルに朝鮮民族美術館を設立するまでになるという。さりながら、朝鮮陶磁への入れ込みが美術館設立で一区切りとなる頃に、柳のところにはまた別の関心をそそるものが現れ出でることに。それが「木喰仏」であったということでありますよ。
忘れ去られ、埋もれてしまった木喰仏を求めて全国を巡った柳の訪ねる先は山村、寒村であったりして、そこで庶民の生活をさまざまに目にしたこともまた「民藝」の発見につながったのでもあるようです。でもって、改めて演題に立ち返って「民藝とは?」ですけれど、柳の言った「民衆的工藝」をかみ砕いて講師(今も全国巡回中の「民藝 MINGEI─美は暮らしのなかにある」展監修者)の示すところに曰く「無名の工人(個人作家ではない)が作り、一般民衆が日常で用いる器、衣類、品物」てなことになるようで。
日常遣いに見る「用の」を考えるときに、全くもって得心のいく説明と言えましょうけれど、その前提に立って大きく民藝運動なるものを見たときには(ことあるごとに言っているものの、やはり)疑問が残ったりもするのですなあ。そのあたりを講師の方に尋ねてみたりしましたけれど、長くなってきましたので、次回講座の振り返りの方で披瀝いたすといたしましょうか。