さて、山梨県北杜市高根町の図書館に併設された「ほくと先人室」を見たわけですけれど、こちらが「室」であるのに対して、向かいにあるもう一つの展示室は「浅川伯教・巧兄弟資料館」と「館」の扱い。室の方がゆかりの先人たち42人を、いわば十把一絡げ的に取り上げていることに比べても、力の入りようが偲ばれようというものです。

 

 

ところでこの浅川兄弟、いったい何をした人たちであるか?ですけれど、伯教(のりたか)は「朝鮮陶磁史の研究にその生涯を捧げた兄」、巧は「朝鮮の山と民芸を愛し朝鮮人を愛した弟」ということであるようで。

 

時代は日韓併合(1910年)が行われてほどなくですな。まず兄・伯教が1913年、朝鮮半島に渡り、小学校の教員となるのですが、現地の人たちに対してなされていた皇民化教育に違和感を抱いた伯教は「国家間の親睦は芸術によって図るべき」と語っていたのだとか。政治による一方的な文化の押し付けは適切でないことを指摘しているのでありましょう。

 

さりながら、「芸術によって」とはいささか唐突にも思えますが、伯教自身、芸術家タイプで彫刻を手掛けたりしていたそうな。そして、そんな審美眼ある伯教の目にとまったのが朝鮮古陶磁、取り分け「白磁」の美しさであったということです。この歴史ある文化がどうも現地では顧みられていないことを知った伯教は、俄然この研究に邁進するのですなあ。

 

 

半島じゅうの窯跡700箇所あまりを訪ね歩いて陶片を収集、「制作時期や場所だけでなく、政治や大陸の影響までを読み取り、朝鮮陶磁器の歴史を体系づけ」るのに35年を費やしたのであると。

 

一方、兄から1年遅れて半島に渡った弟・巧は持てる技術を生かして現地の林業試験場に勤務することに。どうやら切ったら切りっぱなしのようになってしまっていた森林を、植林技術を伝えることで緑化再生させることに尽力したそうな。その傍ら、やはり朝鮮古陶磁や工芸品の数にも着目して、『朝鮮の膳』、『朝鮮陶磁名考』といった書物も著したということです。

 

そんな兄弟が揃って朝鮮半島の文化に目を向けた結果として、美術館の設立が目論まれることに。とはいえ、あるのは熱意だけ(?)と言う状態で形ができようはずもないと思うところながら、ここに協力な助っ人の存在があったのですね。

 

 

後に「民藝運動」を展開することになる柳宗悦は当時、雑誌『白樺』を通じてロダンなど西洋近代美術を紹介していたわけですけれど、彫刻をやっていた伯教が柳の手元にロダンの作品があると聞いて、これを見せてもらいに訪ねてきたそうなのですね。その際、手土産にと持参したのが朝鮮古陶磁でして、これを目にした柳はアジアの、さらには日本の民藝に関心を寄せるようになった…とは、民藝運動に助走を与えたのは浅川兄弟であったのですなあ。

 

ともあれ、かような関係から美術館構想は柳の賛同を得るところとなって、雑誌『白樺』を通じても寄付金が募られることに。「寄付者はおもに、白樺派関係者、キリスト教関係者で、延べ約200名」にのぼったそうな。『白樺』に掲載されたという、こちらの「寄付金報告」には画家の岸田劉生や陶芸家・河井寛次郎の名前も見えておりましたよ。寄付の宛先には柳と浅川巧の名前が記されています。

 

 

結果として、1924年(大正13年)4月、晴れて朝鮮民族美術館は開館に至ったのであると。常設展示品として、陶磁器はもとより、木工品、金工品、竹製品、紙縒製品、刺繍、屏風、祭器などなど実に多様でありまして、果てはおみくじや算盤、ものさし、漁具などもあったということです。

 

 

こうした取り組みは朝鮮半島の人たちが自分たちの文化を見つめ直すきっかけになったことでありましょう。例えば、伯教の窯跡調査にあたって通訳兼道案内として同行した池順鐸(チスンテク)という人は、後に自ら焼きもの作りを始め、高名な陶芸家となったそうですし。その作品たる白磁と青磁が寄贈されておりましたですよ。

 

 

ちなみに屋外には「浅川伯教・巧顕彰碑」が置かれていますが、どうも妙に新しいものだなと思えば、昨2021年に設置されたばかりのようで。

 

 

なんでも2021年は浅川巧の生誕130年かつ没後90年(ということは40年の短い生涯…)であったことから寄贈されたようですけれど、寄贈者の河正雄(ハジョンウン)は「在日韓国人の画家の作品を初めて韓国側に広く認識させた在日2世の美術コレクター」(Wikipediaによる)という方であるそうな。

 

同碑の説明文には「高校生の時に浅川巧を知った河氏は、巧のように生きたいと願い、韓日の有効に多大な貢献をされました」とありますが、こうしたことも浅川兄弟が撒いた種の、ひとつの結実ではなかろうかと思うところです。

 

いろいろあって、近くて遠い仲のようになったりもしている韓国と日本ですけれど、先に触れた伯教の言葉ではありませんが、突破口として文化交流の深まりはひとつのありようかもしれませんですね。