毎度ユニークな展示を企画してくれている21_21 DESIGN SIGHT では
「民藝」を扱った展覧会を開催中と聞き及んだものですから、出かけてみたのですね。
題して「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」展でありました。


「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」展@21_21 DESIGN SIGHT

確かに「民藝」と呼ばれる作品が多々展示されておりましたけれど、
その作品そのものを愛でるための展覧会というよりは、
「『民藝』ってなんだ…?」ということを考える機会になっていたのではないかと
個人的には思ったものでありますよ。


そも「民藝」とは?となりますと、
最初にこの言葉を使った柳宗悦がどう解しているかということになりますが、
柳曰く「『民藝』とは、一般民衆の生活に厚く交る工藝品を指していうのである」と。


そこから(個人的理解としてですが)「普段遣いの中の美」とか
そういったものでもあらんかと思ったりするわけですが、
以前、池袋西武で「民藝の系譜 」なる展示(実質的には展示即売会かと)を見て、
「一般民衆の生活に厚く交る工藝品」であるはずなのに花瓶ひとつが何十万円とは
とても普段遣いにできるはずもなく、仮に所得額によっては普段遣いでしょという人が
いるにもせよ、やはり「一般民衆の生活」との関わりが薄くなっている現実が
あるんでないかいね…と思ったりしたものです。


ですが、「普段遣い」の中に美を見出だすとして、いったん「美」として見出だされたものには、
「美しいのだから欲しい」という人が出てきましょうし、取引にあたっては付加価値が付く。
自然、値が上がることになるわけで、まあ、当然という側面もありましょう。


そんな思いを抱きつつ、今回の展示を見て回る中で今さらながらに思い至るのは
「民藝」というのは品物のことを言うのではないのではないかということなのですね。


こう言うと、すでにして「民藝」は「工藝品」であると言った柳宗悦の思うところと
ずれているのではいう気がする一方で、いやいや根っこのところでは似ているのではないか、
あるいは似ていないのであれば、それは「民藝」に対する考え方が必ずしも柳の思いを伝えずに
その後は独り歩き(特に商業的な側面で)してしまっているからなのではないかと
思ったりするところです。


ま、柳の思いと同じであるかどうかはともかく、「民藝」が品物のことではないと考えるとき、
それでは何かということになれば、それは「『美』の発見」なのではなかろうかと思うわけです。


「つくり手やその魅力を伝える人の暮らしのなかにこそ民藝の精神は宿っているのだ」
展示解説の中にはこのような言葉がありましたけれど、
「暮らしのなか」に民藝の精神は宿っているとして、
そのことを「発見」できなければ宿っていることにも気が付かない。


ですから、民藝運動は暮らしのなかに「美」を発見することであり、
「美」を発見するという気持ちのもちようであり、
それを楽しく、また豊かなことだと考える考え方なのではありませんでしょうか。


かつてパナソニックがCMで使っていた「ふだんプレミアム」という発想、
これは民藝を考えるときに近しさのあることと思ったものでありますよ。


展示の中には、こんな言葉もありました。曰く、
「民藝の仕事は『美』をつくることが主な目的ではなく、
 感謝の念を払うべき持続する『美』が結果としてあるのです」と。


つまりは「美しく」を意図しない中に
実は「美」があるということに気付くかどうかでありましょうね。


ここでふと思うのは、いささか畑違いながら音楽のことでして、
ジョン・ケージの「4分33秒」 が(作曲意図がどうかはともかくとして)
結果としてそこにある音の美に気付くかどうかを問うている点で
似たところがあるなあという気がしましたですよ。


ではありますが、普段の暮らしの中に是が非でも美を見出だしてやる!てなふうに
勢い込むことも「なんか違う」と感じるのであって、特段構えるでなく過ごす日々に
ほんのちょっとした発見があって、かすかにでも心が動く、
そんなことが折々にある生活は豊かなものであろうということなんじゃあないですかね。


柳宗悦と民藝運動に詳しい方からは「そんなんじゃない」とお叱りを受けるかもですが、
「気付くということ」に気付いたことは(「民藝」の本来を知ること以上に)
芸術と対峙した結果を享受したような気になる、そんな展覧会なのでありました。