志賀直哉の『和解』だったと思いますけれど、こんな一節がありましたですね。
自分は汽車が北千住を出る頃から、Mの買って来たロダンの本の挿画を見だした。…暫くすると段々に惹き込まれて行った。自分はロダンの持つ永遠性を沁々と感じた。
私小説と言えるものだけに、作中の自分は志賀自身。
「汽車が北千住を出る頃から…」という部分は、
常磐線に乗って我孫子にあった自宅に戻る車中であったのでしょう。
「Mが買って来た…」と出てくる友人の「M」も、やはり一時我孫子に住まっていた
武者小路実篤のことかと。白樺派の仲間ですものね。
雑誌『白樺』は明治の末から大正期にかけてヨーロッパの文化や新思潮を
積極的に日本に紹介する役割も担ったわけですが、やはりロダンにも目を向けていたわけで。
そうしたところを実作に生かした芸術家たちの作品は東京・新宿の中村屋サロン美術館で、
解説を頼りに当時のサロンのようすを思い浮かべながら見ることができますけれど、
新しく勢いのある作品紹介に触れて、自らも新しい勢いを漲らせて作品作りにとりくんだ、
そんなようすを想像したりできますですよ。
とまあ、かようなことを思い出したのも、ロダンを主人公とする映画を見たからでして。
「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」という作品です。
確かにロダンは弟子のカミーユ・クローデルと愛憎こもごもの仲にだったわけで、
そこから邦題は付けられたのでしょうけれど、このタイトルだとカミーユの存在もまた
ロダンにとって永遠であるかのようになってしまいますし、映画のストーリーとしても
カミーユとの時間は長いですが、後には全く出てこなくなるので、どうかなあ…と。
本来の「Rodin」だけでは、そのまま邦題にしくにいと考えて
おまけの言葉を連ねたのでしょうけれど、結構長い時間を描くにあたっては
やはり不釣りあいなタイトルでは…と、映画を見た当初は考えたものです。
さりながら、映画を見たのと前後して群馬県立近代美術館の展示室でロダン作品に遭遇するに及び、
ちと考えてしまった…と言いますのは、確かに映画ではいわゆる痴情のもつれ?からカミーユはアトリエを去り、
その後は全く姿を現さないわけですが、ロダンとしてはやはりカミーユが気になってもいたような。
愛人への思いの名残なのか、認めた弟子への気がかりなのか、そのあたりは判然とせず、
むしろ渾然一体だったのかもしれませんけれど、アトリエに来るたびにロダンはじわっとカミーユを思い出したかも。
そうなりますと、「カミーユと永遠のアトリエ」という言葉は反って的を射たもののようにも思われてきたわけです。
タイトルをつける側でそのように考えていたかは分かりませんけれど。
とまれ、そんなふうに思い返す契機となった、美術館で見た作品がこちら、
タイトルは「彫刻家とミューズ」となっておりましたなあ。
「ミューズは今、彫刻家の頭にアイデアを入れているところ」とは解説シートにあった説明書きですけれど、
彫刻家(これはロダン自身でしょうなあ)の表情を見れば尋常ならざるようすであると思い至るところかと。
あたかも苦悩、悶絶しているかのようですから。
カミーユとの別離は1890年で、この作品は1895年から97年頃にかけてつくられたのだとか。
ロダンにとってのカミーユの存在がどのようなものであったのか、想像してあまりあるような気がする。
その一方で、両者の関係をそんな、あまりにも分かりやすい形で作品に表すものであろうかとも。
ミューズとは時にファム・ファタルでもあると思ったりしますけれど、
芸術家とミューズ(ファム・ファタル)とはとかく分かちがたい縁で結ばれているような気もしますので、
我が身に擬える部分が無いことは無いでしょうけれど、この彫像に見る「芸術家とミューズ」の姿は
ある意味、普遍性あるものとして受け止められるものなのかもしれませんですね。
ま、映画を通じてロダンの、というよりも彫刻の作品を眺める目がいくらか変わったかもしれません。
そういう効果?はあったかなと思っておりますよ。