東京・新宿に今年2014年10月29日に開館といいますから、

まあできたてほやほや感があろうかと。


何せ新宿中村屋のビルになるとなれば、

できたてのパンや中華まんに擬えたくもなるところでして、
その名も「中村屋サロン美術館」でありますよ。


中村屋サロン美術館

開催中であったのは、

開館記念展の「中村屋サロン-ここで生まれた、ここから生まれた-」というもの。


基本的にパン屋であった中村屋が、いつの間にやら友が友を呼び、

相互が友になって若き芸術家の輪を広げるサロンともなっていたということなんですが、

中村屋サロンに気付かされたのは、はていつだったか。


東京国立近代美術館の常設展示室にある中村彝の「エロシェンコ像」であったか、
はたまた一昨年に安曇野で尋ねた碌山美術館でのことであったか、
まあ、両方であったような気がします。


まあ、何しろ芸術家(その卵や見習いも含めてですが)で中村屋に寄りついた第1号が

荻原碌山であったそうでし、中村彝は中村屋の店の裏にあったというアトリエを

使っていたといいますから。


そも中村屋の創業者である相馬愛蔵と碌山とは共に郷里が安曇野であって、
そうした関係から碌山が東京に出て来た際には新宿の店に寄りつくてなことになったようす。


その碌山が留学したりする中でできた仲間たちがそれぞれに中村屋に立ち寄り、
立ち寄った者はまた別の者を紹介して…となるわけですね。


顔ぶれを拾ってみれば、

戸張孤雁、柳敬助、高村光太郎、中村不折、斎藤与里、會津八一など多士済々。

展示のあれこれを見ておりますと、集まる場所としてのサロンのみならず、
若者のサークル活動みたいな展開があったのだろうと偲ばれるところでありますよ。


例えば、荻原守衛が「碌山」と号することにした理由というのが、
仲良しの斎藤与里との間でお互いを夏目漱石 「二百十日」の登場人物に見立てて、
「碌さん」「圭さん」と呼び合っていたことが始まりなのだとか。


それと、展示は先の中村彝作品とは別の「エロシェンコ像」がありましたですが、
これを描いた鶴田吾郎はエロシェンコをモデルにした肖像画でもって中村彝と競いあい、
同時に帝展(1920年)に出したそうな。


結果は中村作品が一等で、これには及ばないながらも鶴田作品も帝展初入選を果たしたという。
互いに切磋琢磨する仲間たちといったところでありましょうか。


もっとも、必ずしも一本立ちしていない発展途上の芸術家たちにとっては、
芸術的な刺激以上に、もしかするとおこぼれに預かれるかもしれない中村屋の

食品の方にこそ惹かれていたかもしれませんですが…。


ところで、中村彝は相馬家の長女をモデルによく描いていたそうで、
フライヤーの右側に配された「小女」(少女の誤字ではありませんです)などもその一つですが、
時には裸婦像を描かせることも厭うところがなかったりしたところから、
「そりゃ、何でも行き過ぎ!」と引き離されたそうな。


でもって、その長女が嫁いだ先というのが、
何とインドの独立運動家で日本に亡命していたラス・ビハリ・ボースであったというのですね。


後に名物となる中村屋カレーパンの中身をもたらしたのは、この娘婿であったわけですが、
開明的(当時としてですが)なだけに芸術家とも大いに交わったとは思うものの、
いやはや国際的な感覚のあったと言えましょうか。


それだけに中村屋の企業史の方にも興味のそそられるところとなる展示であったような。
あ、ちなみに中村屋の看板文字を中村不折や會津八一が書いていたりするようでありますよ。