堺市博物館 の展示はもちろん百舌鳥古墳群に関わるものばかりであるはずもなく、

むしろ大阪、堺と聞いて思い浮かべる商人の町として歴史にその名を刻んだあたりも

しっかり解説されているのですよね。


ところで、その「堺」という地名ですけれど、これは摂津国と和泉国の境界にあったからと。

ですが、そのような境目にある地域というのは他にもたくさんありましょうから、

その中で「堺と言えばここ」と思い浮かぶのはその独自性ある歴史の故でありましょうか。


元来、堺の北側に隣接する住吉(昔はこれを「すみのえ」と読んだそうですが)には

住吉津(すみのえのつ)という大きな港があったそうで、ここを目指して船がやってくる。

となれば、その南側にある堺の台地上に築かれた古墳群もその大きさを十分に

外来船にもアピールできたということになりましょうか。


住吉津の歴史あるところは、摂津国一之宮でもある住吉大社という、

航海安全の神様を祀る大きなお社があることからも窺えようかと。

住吉大社HPによりますれば、鎮座は神功皇后摂政11年(西暦211年)とありますから、

(その歴史的裏付けはともかくも)とにかく昔からの港として栄えたのでありますな。

で、その南側に位置する堺ですけれど、

室町時代の「廻船式目」なるものに「三津七湊」として、当時の大きな港が記されている中、

堺津として挙がっていますので、こちらはこちらで繁栄ぶりが窺えます。

ちなみに、「三津」は堺津のほかに、安濃津(今の三重県津市だそうで)と博多津ということで。


一方、なぜだか「三津七湊」には挙がっていませんが、

平清盛が修築して日宋貿易の拠点港していた兵庫津(現在の神戸港)は

その後の日明貿易でも拠点港とされていましたけれど、これが室町末期、

応仁の乱が災いして、その拠点機能が堺へと移されることになった。

堺のさらなる躍進はここから始まったようでありますよ。


後に、種子島に伝来した鉄砲の国産化にあたり、堺はその一大産地となったようで、

これも日本では得にくい火薬の原料を、商人ネットワークならではで入手できたからとか。

もっとも、そこには古墳時代以来の、渡来人由来による技術の伝承と磨きが

あったのではなかろうかと推測するところでもありますが。


そして、戦国期を通じた堺商人の活躍は歴史ドラマでもよくお目にかかるところですが、

アンテナの感度が高いが故でしょうか、大阪夏の陣では徳川に味方としたとして

豊臣方から町を焼き討ちされてしまうのですなあ。


それでも、堺の底力を侮れないと見たか、江戸幕府は

堺の町を直轄領の天領とし、堺奉行が置かれたりするようになるという。


そんな状況に陰りが見えだすのは、同じ幕府が行った鎖国政策でもあろうかと。

外国との貿易窓口が長崎に集約されたことは大きなダメージとなったものと思います。


また、かつては上町台地の北側を流れて海に注いでいた大和川の付け替え工事が

ダメを押したようでもありますね。洪水などの流域被害を繰り返していた大和川の

河口を別のところにもっていってしまったのですから、江戸でいえば

利根川東遷事業のようなものでしょうかね。


結果、大和川は現在のように、大阪市と堺市を分ける形で流れるようになったわけですが、

これが堺の港に土砂も堆積を生じさせ、港の機能低下を起こさせることになってしまったと。


そんなこんなの歴史があって、今は沿岸部が阪神工業地帯の一翼を担う

工業都市になってもいる堺の町。それでも一般に「堺」と聞けば今でも商人の町でしょうなあ。

堺市博物館では古墳ばかりでない堺の歴史をたどってみたわけですが、

館の外では再び古墳へと足を向けたのでありますよ。