また別の見た目の富士を拝んだしと煌めきの丘
をそそくさと後にしようとしたところ、
見晴らす崖から下りの尾根道に木製の階段が設えてあり、
どうやらそこには古墳群があるとの表示が。
こうなると気になるではありませんか。単に古墳ではなく、古墳群ですからねえ。
しかも開けた場所にあるならば、なるほどてなものですけれど、
煌めきの丘展望台からの景観からも想像に難くないように
急速に海に向かって切れ落ちているような地形の場所です。
そんな狭いところに…。
ですが、確かにありました。
こんもりと盛り上がった円墳がそこかしこ、所狭しとあるのですよ。
井田松江古墳群(「いだすんごうこふんぐん」と読むのだとか)であります。
それぞれに何号墳、何号墳と小さな看板が立ってましたが、20数カ所あったですかね。
その中でも大きいものと思われる18号墳が発掘の名残を留めているのか、
内部が見られるようになっておりました。
何でも6世紀の終わり頃に作られたもので、大きさは約11mの直径を持つ円墳ですが、
発掘に際しては。「横穴式石室内に大小2基の石棺が発見され、数体分の人骨や鉄刀、
銅釧(どうくしろ・腕輪)などの副葬品が出土」し、
その後の調査でも「銀象嵌を施した円頭大刀の柄頭などが出土」したことから
副葬品の豊かさから見て「井田の地を本拠に西伊豆一帯で活躍した有力な一族」の墓所と
考えられているそうです。
しかしまあ、何もこんな狭いところに群がってお墓を作らなくても…と思いますが、
よおく考えてみると古墳と言わず所謂お墓もかなり斜面を利用して作られてたりしますですね。
これはやっぱり平らな地面は生きてる人が住む用に使われて、
亡くなられた方はちと狭いところで我慢してもらおうということでもありましょうか。
その分、見晴らしはいいですから、お墓に入っても景色に飽きることはありませんよ的な
言い訳もしつつ。
何しろ井田の集落は先に見降ろしたとおりに小さなものですし、
古墳群のある急な斜面を下りきったところには明神池なる水面が見えてるんですが、
これも大瀬崎と同じような砂嘴として伸びていったものが
ついには入江の反対側にまで達して海を遮ってしまったと。
その後何年もかかって地面になっていったのでしょうけれど、
それが今の井田集落のあるあたりで明神池は切り離された海の名残なのでしょう、
すっかり淡水化してるそうですますが。
…と、話は人の手になる神秘である古墳から自然の大きな営みの神秘に移ってきたついでに、
やはり近くの解説板にあった「伊豆半島の生い立ち」にも触れておこうかと。
基本的なこととして、今の伊豆半島に相当する場所は本州からせり出してなかったそうな。
まずは2000万年から1000万年くらい前の頃(気の遠くなる昔ですね)、
当時は海だったところの深いところで火山活動が起こり、
それがやがて海面に顔を出すようになってくる。
それが200万年から100万年くらい前(ここまででもすでに相当の時間が経ってますが)には、
(こちらは現在進行形の小笠原諸島の新しい島が西之島と合体したように)
ある程度の陸地となっていたようですが、これが本州方向へと移動を開始、
本州と衝突することに(何やらインドがユーラシア大陸に合体したようなふうですね)。
もとは火山島だったわけで、その後も火山活動は続いたのでしょう、
東伊豆の北方から今の箱根あたりにかけての火山が段々一緒くたの大きな活動域になって、
噴出物が接着剤になったというべきか、伊豆半島はすっかり本州の一部になってしまった…と。
だいたい60万年から20万年くらい前の出来事だそうですよ。
スケールの大きな話だなと思いましたですね。
ただ、先程インド亜大陸の衝突に触れましたけれど、
その結果としてヒマラヤ山脈ができたと言われるようですので、
「こりゃあ、伊豆半島の衝突で富士山ができたか?」と瞬間的に思ったものの、
解説板にはいっさい触れてなかったので、富士山の成り立ちとは関わらないのでしょう。
ただ、この辺りの地殻の動きというのが、活発であったのだなぁと思います。
そして、影響は地震と言う形で今にも残っている…とは、やはりすごい話でありますね。