浄水シャワー 脂漏性皮膚炎
今回はこちらです。
takagiから発売されている「Miz-e」です。
これは何かといいますと、書いてある通り、浄水シャワーです。
これはシャワーのフィルターです。
2個セットになっていますが、1個で約4,000Lの浄水が可能だそうです。
なので、2個なら8,000Lですね。
タカギの計算では、1日8分出しっぱなしで64L使用した場合、約2ヶ月使えるそうです。
64Lなら×62日で3,968Lですね。
100%ではありませんが、50%以上の塩素を除去する能力があるようです。
本体はこんな感じ。
もう2年くらい使用しているのでメッキが剥がれてきました。
交換は簡単で、ヘッド部分をクルクル回すとカバーが外れるので、新しいフィルターと交換するだけです。
これは新品のフィルターですが、暫く使っているとフィルター部分が変色してきます。
本当なら変色する前に交換した方がいいと思います。
暫くフィルター交換をさぼってしまい、肌がボロボロになってきました。
たかが50%ですが、塩素が除去されていないお湯はチクチクピリピリと肌に刺激を与えます。
これは体感しないと分からないと思いますが、毎日塩素に曝されていると体が適応してしまいます。
一度でも浄水されたお湯を浴びるとその違いがハッキリ分かるようになります。
日本では法令によって残留塩素濃度が定められています。
水道法施行規則の第17条3項に記載されています。
抜粋/
給水栓における水が、遊離残留塩素を0.1mg/l(結合残留塩素の場合は、0.4mg/l)以上保持するように塩素消毒をすること。ただし、供給する水が病原生物に著しく汚染されるおそれがある場合又は病原生物に汚染されたことを疑わせるような生物若しくは物質を多量に含むおそれがある場合の給水栓における水の遊離残留塩素は、0.2mg/l(結合残留塩素の場合は、1.5mg/l)以上とする。
ここで注目して頂きたいのが、遊離残留塩素を0.1m/l以上保持する事とあります。
更に、水が汚染されているおそれがある場合には、0.2mg/l以上とする。とあります。
下限値は定められているのですが、上限値が定められていません。
因みに遊離残留塩素とは次の通りです。
上限値がないので、残留塩素は地域によって様々です。
これは少し古いものですが、県別の残留塩素一覧です。
低いところでは0.3程ですが、僕が住む埼玉県では1.5mg/Lなので、全国1位ですね。
全く嬉しくない1位です。
嫁ちゃんは静岡出身なので、こっちの水は臭くて飲めないと言っています。
僕ら休み時間とか普通にガブ飲みしてましたけど(笑)
そりゃそうですよね。
静岡の残留塩素濃度は0.4mg/Lですから、埼玉県は約4倍近いです。
残留塩素が人体へ及ぼす影響です。
①呼吸器系への影響
僕は喘息持ちなので、これは厄介です。
②皮膚への影響
肌が乾燥してしまいます。
そしてアレルギー反応が起きます。
脂漏性皮膚炎の人はこういう刺激にも要注意なのです。
③消化器系への影響
癌になるのもこういう影響が少なからずあるはずです。
飲水に関してはトリハロメタンも除去可能な浄水器をオススメします。(また次回にでも)
そもそも塩素って何なのよって方も大勢いらっしゃいますよね。
塩素というのは、食塩水をイオン交換膜法によって電気分解して作られます。
塩素分子を水に加えて反応させると、次亜塩素酸と次亜塩素酸イオンという物質になります。
分子状の次亜塩素酸は非常に強い酸化剤であり、細菌の細胞膜を破壊し、細胞内の酵素や核酸を酸化することで細菌を殺す効果があります。
次亜塩素酸イオンも酸化力がありますが、次亜塩素酸よりも弱い為、主に補助的な役割をするそうです。
細菌を殺すという事は有難いですが、微量の残留塩素でも肌の常在菌を死滅させてしまう恐れがあるという事も考えられますね。
それに肌の油分も落としてしまうので、バリアがなくなってしまいますね。
考えてみてください。
例えば海に入ったあとにそのままでいると、髪はガチガチになり、皮膚はピリピリしませんか?
塩分というのは体の刺激になってしまいます。
フィルターを交換した途端に肌の調子は良くなりました。
同じ石鹸を使っていますが、フィルターを交換する前はベタ付きがありました。
フィルターを交換したあとは髪も体もサラサラです。
これが残留塩素除去の力です。
50%の除去能力でもここまで変化があるので、残留塩素濃度0.3mg/Lの地域で使用したら殆ど残留塩素は無くなりますね。
自分の体ですから、面倒くさがらないで色々試してみる事です。
ではまた。
オイル漏れ止め実験
こちらが現在使用しているペンズオイルのハイマイレージです。
現在は漏れは止まっていて滲み程度になっています。
このオイルは多走行車専用のオイルです。
特殊添加剤配合という事で、シールに対してどのような作用が働くのかを実験します。
このような漏れ止め剤などは、オイル漏れが発生したからとりあえず入れるという方が殆どだと思います。
ゴムを膨張させて柔軟性を持たせる物だという事をご存知の方もいるとは思いますが、果たして本当にゴムが膨張するのかを見た方はあまりいないのではないでしょうか。
今回も使用するのは、余っていた新品のブレーキピストンシールです。
こちらを1ヶ月程オイルに漬け込みます。
計量カップにオイルを少量入れ、そこへピストンシールを入れます。
この段階ではもちろん2つとも同じサイズです。
漬けてから1ヶ月半程経ちました。
どうでしょう。
左が新品のシール、右がペンズオイルに漬け込んだシールです。
明らかに拡大しています。
一回り以上拡大していました。
リスローンの時は丁度一回り程拡大しましたが、今回はそれを上回ります。
サイズを測ってみましょう。
新品は57.3mmでした。
もちろん硬さもあります。
そしてペンズオイルに漬け込んだシールはというと、、、なんと73.4mmにまで拡大していました。
拡大率は約128%(1.28倍)でした。
凄いですね。
もちろん柔軟性もあり、ブヨブヨとまではいきませんが、引っ張るとそれなりに伸びました。
こちらはリスローン メインシールリペアにて実験したものです。
67.1mmで拡大率117%でした。
ペンズオイルはリスローンと比べても11%も拡大しました。
ただし、顕微鏡などで見たわけではないので、表面がどのようになっているのかは分かりません。
実際に3つを並べて見ます。
やはりペンズオイルがリスローンよりも拡大している事が分かります。
柔軟性に関してもペンズオイルはリスローンよりも柔らかくなっていました。
それぞれ表面がどのようになっているのかを顕微鏡で観察したら面白そうですね。
次回は一般的な化学合成油にて実験をしてみたいと思います。
人穴浅間神社 富士講遺跡
道路側にある鳥居です。
晴れていればここから富士山が望めます。
一の鳥居からすぐの所に駐車場と社務所があります。
そしてまたすぐの所に二の鳥居があります。
反対側から見た感じです。
鳥居の奥が駐車場です。
右側に見えるのが社務所になっています。
階段を上がっていくと碑塔群があります。
この碑塔というのは、富士講の人達によって建てられた、先達の供養碑や大願成就や登拝を記念した石碑なんだとか。
その数なんと200基以上。
お墓のような形をしていて、富士講の所在地やシンボルマーク、先達の名前などが刻まれているようです。
主に関東地方の富士講が建てたものらしいので、もしかすると丸岩講の碑塔もあるかも知れません。
こちらが社殿になっています。
昔はこんなに綺麗ではなかったです。
現在の社殿はなんでも、平成13年に建てられたそうです。
という事は、平成13年以前から参拝していなかったという事ですね。
やっぱり、呼ばれてしまうんですよね。
こちらが人穴洞窟です。
昔はこのような柵は無く、普通に入れたと思ったのですが。
まあ、昔といっても30年も前の話ですが。。。
うちは家族で参拝へ行った際には必ず洞窟まで入っていました。
嫁ちゃん曰く、地元では幽霊が出るなど、心霊スポット?的な存在だそうで、地元の人間は人穴なんか行かないよと言っていました。
ただ、小学校の校外学習か何かで洞窟には入った事があるそうです。
やはり心霊スポットなどの事実があると中を荒らされたり、遊び半分で来る馬鹿者がいるのでしょうか。
本当に日本人の質が落ちたものです。
この洞窟内は聖域です。
この洞窟は、溶岩石によって造られていますが、富士山の噴火にて溶岩が流れ出て、その表面が冷やされて固まり、内部の固まらなかった溶岩だけが外に流れ出た事で出来た洞窟(洞穴 どうけつ)だといいます。
説明が書かれた物も設置されていました。
こちらも昔は無かったと思います。
富士講の開祖とされた長谷川角行という人物が、戦国時代終わりから江戸時代の初めに人穴で厳しい修行を積み、悟りを開いた後、106歳の時に人穴にて亡くなったといわれているそうです。
その後に弟子達によって富士山信仰が「富士講」という組織として発展していったとされています。
平安時代には、富士山を御神体として拝むというより、富士山にて実際に厳しい修行を積み、霊力を手に入れようとする修験者がいたそうです。
それから時が経ち、江戸時代に富士講として組織され、登拝によって家族の安全や幸せが約束されるという考えが生まれたようです。
うちの嫁ちゃんは、学校で富士山に手紙を出すというような事をやったそうです。
そういう事を考えても地元の人達にとって「富士山」とは自然に信仰の対象となっているのかと思います。
洞窟の内部はこのようになっています。
中は真っ暗なので、よくライトを持って入ったものです。
しかし父はインターネットも普及していない時代によくこんな場所を調べあげたものだなと思います。
人穴洞窟を遥か上空から見てみると、富士山の方へ向いています。
富士山から流れ出た溶岩が作った洞穴なので、当然ですが。
そこへ修行に入ったのですね。
更に引いていくと、、、、
多少はズレますが、江戸を通って、鹿島や香取の方向へ延びています。
直線上で見れば、東京湾を通って銚子の方へ抜けますね。
ただ、方向がそっち向きだという事です。
日本の始まり地ですからね。
面白いです。
これが自然が造ったものです。
そこで修行を積んだというのは、富士山信仰以外にも何かあったのかも知れませんね。
こういう事を書くと、直線上でもないし全然違うだろと食い付いてくる輩もいますが、そういう人はそういう考えでいいです。
分かってくれなくていいんです。
ちゃんと御朱印も頂いて来ました。
ちゃんとお参り出来て良かったです。
これも父が亡くなる前に見せれたので、良かったと思います。
ではでは。
僕と富士山の不思議なご縁 パート2
富士山との不思議なご縁は更に続きました。
パート1で書いた、妻との縁結びも富士山のご縁でしたが、そもそも生まれた時から縁があったようです。
春日部の総鎮守である春日部八幡神社。
越谷から春日部に引越し、ご挨拶へ行かなければと何度か参拝していますが全然気付かず、つい先日いつものように参拝していた時に気付いてしまいました。
春日部八幡神社は、裏側に浅間さま、つまり木花咲耶姫が祀られています。
これは普通に参拝すると分からない場所かも知れません。
いつもと同じように参拝をしていたところ、、、
二合目やら三合目やらという石碑を見つけました。
なんでいつもは気が付かなかったのか。
○合目というと、さては富士山か?と思い、辺りをキョロキョロと散策していると、
あれ?
やっぱりこれは富士山じゃないか?と。
鳥居にもマークがあります。
山と岩という文字が彫られています。
粕壁丸岩元講社とあります。
調べてみるとら丸岩講というのは江戸時代に盛んになった富士講の組織だといい、岩槻を中心に越谷や春日部など色々なところに広がったそうです。
富士講とは、富士山信仰です。
江戸時代に成立した民衆信仰で、拝みと富士登山を行う講社だといいます。
そしてこの山は富士塚、富士山を模して造営された山の事です。
要は富士山を遥拝出来るという事です。
まさか春日部にも富士山があったなんて。。
ここが登山道入り口です。
階段になっているので、それ程大変ではないです。
しかしこの階段が1段ずつ高くて疲れます。
先の鳥居が頂上です。
山頂です。
奥に石碑があります。
「不弐大神」とあります。
「不弐」というのは「不二」
富士山とはその昔、二つと無い山の意味として「不二山」
と呼ばれていたそうです。
なのでやはりこれは富士山信仰の証です。
石碑の裏にも文字が彫られていますが、少し読みづらいです。
父は元々、春日部にいました。
というのも、ばあちゃんの家が春日部でした。
なので僕の本籍は春日部でした。
それが越谷に引っ越して、また春日部に戻りました。
春日部にも何かしらの縁があると思っていましたが、こうい事だったんですね。
そもそもは富士山にご縁があったようです。
どうしてそうなのかは、これからの人生をかけて解明していこうと思います。
何か使命があるのか、そういう事もありますからね。
これは元旦に春日部から見た富士山です。
その昔は高い建物も無く、普通に見えたのでしょうね。
有難い事です。
ではでは。
僕と富士山の不思議なご縁 パート1
僕は、富士山とは何か不思議な縁で結ばれているようです。
そう言いますのも、父が神仏を信仰し始めてから、気付いたら静岡や山梨の方面の神社にはよく連れて行かれていました。
特に駿河国一之宮である、富士山本宮浅間大社には毎年参拝に行っていました。
立派な神社なんです。
浅間大社は木花咲耶姫が主祭神となっています。
木花咲耶は瓊瓊杵の妻になられた神様ですね。
なので、瓊瓊杵尊も祀られています。
初詣には毎年参拝していました。
それの何がご縁なのか、、、
結論から言いますと、僕の妻は富士宮出身なのです。
しかも、浅間大社のすぐ近くに住んでいました。
これは偶然なのか必然なのか。
それはそれは妻もよく参拝へ行っていた神社だったのです。
もしかすると幼き日の二人は、ここで木花咲耶姫によって縁結びをされたのかも知れません。
もちろんお互い既に出会っていたのかも知れないということです。
例えば出店で並んでいる時に、妻も自分の後ろに並んでいた可能性もゼロでは無いという事ですね。
そう考えたら凄く面白いですよね。
出会わなければいけなかった二人なんですね。
お互いに一度失敗していますので、遠回りしてまた出会ったような感じですね(笑)
大人になってからは浅間大社へはあまり行かなくなり、暫く経っていたので、呼ばれてしまったのかも知れません。
と、不思議な縁があるよねという話なんですが、先日地元の総鎮守である春日部八幡神社へ行った時に発見してしまったのです。。。
パート2へつづく
多氣山不動尊 大火渡り祭 パート2
最初の矢を放つのに失敗した時や、伊東住職が途中で引っ掛かって転んでしまった時に、笑ったり、「あ~ら失敗しちゃった」「今度は失敗しないで出来るかしら」などという声が聞こえてきました。
とても残念でした。
あの中を走るのがどれだけ危険な事か。
僕も本当に何年も火渡りには行っていませんでしたが、こんなに熱かったっけと思う程、辺りが熱かったです。
地面はもう熱くはないのですが。
父が山伏の時は優先的に最初に歩かされたので、その時は流石に熱かったのを覚えています。。。
人の失敗を笑う人間にはなりたくないなとつくづく思いますね。
今回、本当に久しぶりに火渡りに行きましたが、自分の中で何か感じるものがありました。
やはりあの父の息子なんだなと。
父は最終的には法螺貝職人のような事をしていましたが、父が使っていた法螺貝は一つ形見として持っていようと思います。
多気山不動尊 火渡り祭 パート1
早く着いてしまったので、本堂をお参り。
母も自分も膝が悪いので、この階段結構大変でした。
本堂は立派な造りでしたね。
そして本堂から少し歩きまして、普段は駐車場か何かで使われている場所が会場となっていました。
高尾山と比べると小規模でしたが、これくらいがよく見えていいです。
多氣山持宝院の伊東永人住職です。
こんな事言っていいのか分かりませんが、やはり伊東住職は他の方とは全然違って、人の良さといいますか、お釈迦様ではないですけど、全てを受け入れて下さるようなオーラがありましたね。
僕が人に対してこう思う事は稀です。
こちらは持宝院 長老の 伊東永峯氏でしょうか。
こちらは高尾山薬王院の現在の貫首である佐藤秀仁僧正です。
この佐藤僧正、父が山伏時代の知り合いのようで、佐藤くん佐藤くんと話していました。
佐藤くん偉くなっちゃったと、期待していました。
高尾山の体制が変わってしまったか何かで、色々あったようで、父は山伏をやめてしまったというような話をチラッと聞いた事がありましたので、この佐藤秀仁僧正には期待していたのだと思います。
これは父が山伏をやっていた時です。
もう30年近く前になりますね。
前から3人目です。
父のFacebookに自分で載せていた写真です。
これがいつなのかは分からないですが、ほんの数年前だと思います。
きっとまだまだやりたかったのだと思います。
葬儀の時は山伏の装束で送りました。
火が入りました。
炎はあっという間に大きくなります。
とてつもなく熱いです。
iphoneが熱々になってしまいました。
均して道を作っています。
パート2は動画を載せます。
大甕神社 参拝 パート2
本殿から降りたところに香香背男社があります。
写真は撮っていませんが、宿魂石というものがありまして、そこに香々背男が封じられているという話です。
ただ、宿魂石というのは一つではなく、大甕神社の境内にある岩山を指しているそうです。
という事は、本殿に行くまでに登ったあの岩山にも、香々背男の魂が封じ込まれているという事ですね。
この岩山は約5億年前のカンブリア紀の地層から成っているそうです。
大甕神社の創建は、社伝によると紀元前660年だといいます。
大甕神社そのもので香々背男の霊力を封じているという事ですね。
甕星香々背男という神は相当な力を持った神だという事が分かりますね。
こちらが香香背男社です。
日本書紀によると
「天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。
その時二神は、天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうかまずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせて頂きたいと言った」
となっています。
星神なので、屋根には2つの星があります。
星読みであったのか、はたまた星を神格化さた神なのか。。
色々な神様について、何かを神格化したものだという話があるのですが、やはり僕は「神」という存在は、実在した人物なのだと信じたいですね。
甕星香香背男社と書いてあります。
甕星の星という字は古代文字になっていました。
これが意味するものとは。。。
もし香々背男の力が解放された時は一体どうなってしまうのでしょう。
大甕神社にはオマイリマンがありました!
ビックリマンシールのようなものです。
またこんなもので金儲けして!!!
でも、めちゃくちゃ欲しいので、やります。
なんなら集めたいです。。。
チクショー!
家族みんなでやった結果、天照、須佐之男、大国主、八咫鏡が出ました(笑)
アマテルが出たのは凄いです。
因みに甕星香々背男はこのデザインです。
めちゃくちゃカッコいいですね。
なんか、月讀もそうですが、香々背男にも惹かれるんですよね。
なんなんですかね。。
まあ神社というのは、縁があっての参拝ですからね。
何かあったのでしょう。
ではまた。
大甕神社 参拝 パート1
さて、駐車場から少し歩いて大鳥居があります。
マップではここにも車を停められると書いてあるのですが、そういう雰囲気ではなかったです。
楼門は新しく建てたものか建て直しなのか、出来たばかりで、この日も工事業者が入っていました。
まさかこれが最後になるなんて、思いもよりませんでした。
きっと歩くのもやっとだったのかと思います。
ガンが首にも転移していて、この直後から急激に容態が悪くなり首は動かせなくなりました。
神社参拝で何か失礼をしたのかなと、しきりに言っていました。
由緒書きです。
主祭神 建葉槌命
地主神 甕星香々背男 またの名を天津甕星
とあります。
香々背男は天津神なのです。
建葉槌は武甕槌と経津主によって香々背男討伐に派遣された神ですね。
要は国を統一する時に、唯一従わなかったのが香々背男という事で、それを服従させたのが建葉槌だという事だと思います。
何らかの条件を出したのか、それとも力で捩じ伏せたのかは分かりませんが、最終的には香々背男も天孫族に屈したというわけです。
ただ面白いのが、香々背男も「天津甕星」という別名を持つところです。
この「天津」とは天や天界という意味であり、天津神であり、天津神とは高天原にいた神という意味があります。
という事は、武甕槌や経津主と同等に、高天原出身の神だったのではないかと考えています。
しかし、天津神である香々背男はなぜ葦原中国平定に最後まで反対したのでしょうか。
本殿は岩山を登った所にあります。
父は足がダメだったので、自分とチビが登ってきました。
更に上です。
こんな鎖に掴まらないと登れない場所です。
やっと到着です。
しかしまたなんでこんな場所に。。。
建葉槌命が祀られています。
下に降りて拝殿です。
この日は他に二社を回ったので、長居は出来ませんでした。
パート2へ続く