Lee 101J Cowboy Jacket レプリカ
NON STOCK製は中国レプリカブランドの中でもかなり良い作りだと思います。
届いた状態です。
リジットで届くのかと思いきや最初から縮めてあったので、すぐ着用出来ました。
これは42インチです。
フラッシャーとかオシャレですよ。
ボタンは5つです。
Lee Archivesからも出ていたと思いますが、あれってすぐ売り切れになってしまうんですよね。。。
結構な値段するのに。
ちなみにこれはブラックフライデーで、16,000円程でした。
ボタンは全て鉄製の月桂樹ボタンになります。
因みにポケット内にユニオンチケットはありませんでした。
本家Leeと同じ場所にタグがついています。
ジーンズ同様に、シンチバックは廃止され、リベットが打たれています。
大戦モデルが欲しい人にとって、ここがリベットなのかシンチなのかが重要ではないですかね。
UFOリベットになっていますが、鉄製ではなさそうです。
恐らく真鍮かも知れません。
しかしUFOリベットを使っている所は凄くいいですね。
もう1本、Levi's大戦モデルのレプリカを別のショップで注文して、サイズ交換してもらっているところなので、そちらも届き次第アップします。
外国で購入するとサイズ変更するにも大変です(笑)
返送したりで、一番最初の注文から2ヶ月は履けませんから(笑)
Lee Cowboy レプリカ 入手 大戦モデル
こちらもN&S OVERALL製になります。
まず目に入るのがアーキュエイトを逆さにしたステッチデザインです。
ここら辺もしっかりそのまま再現されています。
大戦モデルなので、シンチバックは無くなっています。
大戦末期になると政府が色々時制をかけたようです。
政府の戦時生産委員会が定めた規制の中に生地や糸の節約や、リベットやボタンの削減などがありました。
そうした規制に沿って作られたようです。
こちらもしっかりユニオンチケットが縫い付けられています。
そして、ポケット裏には隠し補強があります。
ここまで作りこんでいるのには驚きました。
ボタンは月桂樹が使用されています。
ウォッチポケットのリベットは省略されています。
リベットは、ちゃんとUFOリベットが打たれています。
凄いです。
こちらも青耳で、片側のみのラインになっています。
中国製でここまでやられてしまうとは。。。
次はCowboy Jacketです。
1936 Lee Cowboy レプリカデニム 入手
パッと見て「こりゃダメだよ」と思うのが普通ですが、アーキュエイト使っちゃってます。
このアーキュエイトステッチはLevi'sが商標を持っているので、レプリカといえど使用する事は出来ませんね。
それをやってしまうのが中国なのでしょうか。
1943年にLevi'sが商標を取得するまでは他ブランドでもこのアーキュエイトステッチが使用されたモデルが存在したようです。
少し太めな作りになっています。
生地も14oz以上あるのではというくらい分厚いです。
現行型とはポケットの形も違います。
ワイングラスのような形をしています。
日本製との違いの一つがこのシンチバックのピンです。
完全なる針なので、うっかりしていると指に刺さります。
日本のレプリカブランドも同じですが、ここまでしっかり作っています。
ボタンは銅製でしょうか。
現行のLeeよりも遥かにしっかりした作りです。
本家のボタンはカチャカチャ鳴りますから。
股下のリベットもちゃんと打たれています。
ブランド名も刻印されています。
リベットも銅製です。
なんとバックポケット内部にはユニオンチケットが縫い付けられていました。
中国恐るべし!
こういうのは自己満足になるのですが、作り込みが良いです。
ボタンホールが若干小さくて苦労します。
スレーキもしっかり分厚い物です。
青耳ですが、ラインは片側のみになります。
再現度が凄いです。
次は大戦モデルを紹介します。
遠くない未来の話 Part 1
2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現とあります。
これはメタバース構想の話もありますが、体が不自由な人でも自由にアバターを操作出来る世界になるという事です。
その為にはニューラリンク社が行っている脳インプラントが必須になります。
それとは他に「トランスヒューマニズム」という概念もあります。
要は人間と機械の融合です。
政府が掲げるムーンショット目標のイラストの中にも、既にロボット化した人間が描かれています。
手足が無くても、機械の手足があれば活動出来ます。
極端な話、首から上が人間であればいいのです。
これでヒューマノイドの完成です。
重くて持てないなど、そのような事はもうありません。
腰や膝が痛くなる事はもうありません。
意識は疲れますが、体は疲れません。
これに脳インプラントを施せば、他のアンドロイドも操作出来るようになります。
凄い世界になりますね。
脳からの信号をアウトプット出来るならば、インプットする事も可能になります。
今はまだ5G通信ですが、すぐに10G通信の時代が来ます。
10G通信が始まれば、テレパシーが使えるようになります。
そうです。
猿の惑星のアレです。
便利ですね。
今のスマートフォンも全て脳へ埋め込む時代になるかもしれません。
そしてエンタメとして生まれるのが、誰かの記憶を体験出来るサービスです。
値段は分かりませんが、あの歌手のあのステージでの記憶を体験や、あの俳優のあの舞台での記憶を体験。
それはまだ序の口で、あの偉人の人生を体験なんて事も出来るようになるでしょう。
記憶を売る事も出来るようになります。
フリマサイトでも売れるようになりそうですね。
さて、皆さんの記憶はお幾らになるでしょう。
「あなたの記憶買い取ります」
このような事が色々と出来るようになったらいよいよ記憶と意識のアップロードです。
まるでトランセンデンスの世界です。
僕が昔みた夢の話ですが、科学者達はみな「脳があればいい」といって、体を捨てるという夢を見ました。
その中ではコードに繋がれた脳だけが何かの液体の中に入っていました。
まるでドラゴンボールのメディカルマシンのようでしたね。
かなり昔の話で、今のように意識をサーバーにアップロードするなんて話も無かった時代です。
その夢の話が段々と現実に近付いている事に驚いています。
ヒトラーの予言では、人類は人類以外のものへ進化するとされています。
超人類です。
これはAIとの融合なのか何なのか。
しかし、全人類が今で言う超能力を使えるようになる日はそう遠くなさそうです。
ではまた。
死後の世界の話 ⑤
今回は少し飛躍的な話です。
皆様はこの世界は現実にあるものだと思いますか?
なぜそう思うのか、その根拠は何なのか。
そう言われると困りますよね。
毎朝目覚めて、顔を洗い歯を磨き、着替えて仕事へ出掛ける。
仕事から帰り食事をしてシャワーを浴び、歯を磨き就寝する。
どうですか?
まるでプログラムされたように日々が過ぎていきませんか?
全て自分で選択しているようなつもりでいますが、それら全て、私がこうして死後の世界についてブログを書いている事さえもプログラムされていたらどうでしょう?
そんな事は有り得ないと思うかも知れませんが、大抵の人間は毎日寝ます。
つまり毎日死と同じような経験を繰り返します。
そこで一日の出来事が脳へセーブされています。
そう思っているだけで、実は外部のサーバーとリンクしているかも知れません。
私たちの脳は実は外部サーバーに毎日アクセスして、情報のアップロードとダウンロードを繰り返しているとしたらとても面白いですよね。
こういう話があります。
ゲームの中のキャラクター達は、自分は実際に生きていて、自分自身で全てを選択していると感じているというのです。
しかし実際には私たちプレイヤーが動かしています。
とても面白い話です。
ゲームの中のキャラクターは、死ぬとまたコンティニューされ復活します。
しかし、そのキャラクター自身は自分が死んだ事すら気付いていません。
これを考えると、私達も毎日「死」を経験しているのかも知れません。
気付いていないだけで。
今頭にある記憶は実は新たにダウンロードされた記憶なのかも知れませんね。
例えば何か物を失くしたとして、その物というのは所有していたという記憶だけで実際にそこに存在しなかったという事もあるのです。
今現実にそこに存在しないのならば、その物は初めから存在しないのと同じ事なのです。
私達は実際に目で見て初めてそこにある存在を認識します。
一番分かりやすいのは、幽霊とされている存在です。
幽霊というのは見える人と見えない人がいます。
幽霊を実際に見るという人は、そこに幽霊という存在を認識出来ます。
しかし見えない人は、そこに幽霊が存在するという認識が出来ないので、幽霊は存在しないのです。
なので、幽霊が認識出来るようにプログラムされた記憶か、認識出来ないようにプログラムされた記憶か、人それぞれだという考え方も出来ます。
そうなると「死」というものが本当にあるのか無いのかは分かりません。
一度死んだ後はまた新たなキャラクターで再開しているのかも知れません。
死の淵をさまよったという人はそこでコンティニューされているのかも知れません。
ただ、大抵のキャラクター達はキャラクターを変更され、最初からやり直すという選択をされているのです。
死後の世界の話 ④
前回はこの世界が実は死後の世界なのではないかという話を書きました。
もし本当に神がいるならば、こんなに辛いはずがない。という事をよく聞きますが、この世界が魂の鍛錬の場であればそういう事も起きます。
神が試練を与えているともいいますが、前回も書いた通り、人生イージーモードの人というのは、前の人生でのポイントが高い人なのかも知れませんよね。
今の人生が辛いと思っている人は、それだけ前回の人生でのポイントが不足しているので、その不足分の鍛錬を積まなくてはならないのだとしたらどうでしょう。
ポイントとは新しい経験だと書きましたが、やはり人生は新鮮な経験をしてどんどん経験値を上げていかないと、いざ人生を終える時、いい経験をしたいい人生だったなとは思えません。
確かに、平凡だったけど幸せな人生だったなと思うことはあるかも知れませんが、色々な経験をして魂の成熟度を上げた方が幸せの種類も増えるはずです。
例えば、一人で経験出来る幸せは一人なら経験出来ますが、二人で経験出来る幸せは一人では経験出来ません。
それは家族にも言える事で、うちは息子が一人なのですが、仮に二人の子供がいたときの、兄弟喧嘩をするという経験は出来ません。
それは新しい経験になります。
やらずに終わる人生か、やって失敗する人生かを比べると、物事をやったという経験と、それに伴って失敗したという経験の2つを経験します。
どちらを選択するかは人それぞれですが、過去に選択した事柄はもう二度と変更する事は出来ません。
ですが、今から新たに始める事は出来ます。
物知りな人というのは、たくさん経験してたくさん学んで、たくさん失敗した人です。
何も経験なく何も学ばなく、失敗もした事がないという人よりもポイントは遥かに高いと私は思います。
ですので今生きている以上は、なるべく多くの事を経験した方が良いのです。
生きているというだけで日々経験ですが、どちらを選択するかは自分次第という事です。
死後の世界の話 ③
今回は少し具体的に死後の世界について考えます。
まず人間が死ぬというのは、この世界での生の終わりです。
ただこの世界での「死」というのはもしかすると、「死の終わり」つまり次は「生」になるのではと考えます。
今ここに生きる人々は大体の人が「生きている」と感じている事でしょう。
ただこの「生」の反対側を誰も見た事がないので、そう感じているのです。
この世界が別の世界での死後の世界であった場合はどうでしょう。
私たちは死後の世界で生きているという事になります。
こう考えてみましょう。
この世界は修行の場、もしくは魂の鍛錬の場で、それが終わる頃、人は初めて生まれる事が出来るという事です。
それは人それぞれであり、生前どのような人生を送ったかで今の世界の苦しさや大変さが決まるのではと考えるのはどうでしょう。
今考えられている死生観の真逆という事です。
つまり簡単な話、あの世とこの世が反対という事ですね。
表は裏であり、裏は表であると。
こういった言い方は良くないかも知れませんが、早くして亡くなる人は、その時点で魂が成熟したという事です。
私自身、人間は人間にしか生まれ変わらないと考えていますので、犬になったり猫になったりはしません。
ただ、どこの国に生まれるかは分かりません。
日本人という事に誇りを持っていますので、皆さんそうですが、日本人に生まれたという事は魂のレベルが非常に高いという事だと思います。
そう考えると、輪廻転生の考えですが、本当の「死」というものは存在しなく、「生」の次は「新たな生」という考え方も出来ますね。
死後の世界というのは実は新たな人生の始まりというわけです。
中々難しいですが、死んで終わりという事ではないという事になりますね。
ただ残念ながら、それは死んでみないと分からない事です。
父は私が生まれる以前の世界を知っています。
23歳の時の子供なので、私が生まれる以前の23年間を経験しています。
その23年分は父から聞いたりして記憶してきました。
私は父の死後、予定ではあと30年近くは生きる予定なので、父の経験出来なかった30年を経験する事になります。
もし仮に生まれ変わりなどが無く、家族みんなが違う世界で暮らしているならば、父が私にしてくれたように、私は思う存分父が経験出来なかった30年分の話をすると思います。
死後の世界の話 ②
前回は、現世での新しい経験が死後のポイントに繋がるという事を書きました。
今回も島田秀平さんの動画でのお話を少し。
死後、上に昇れるチャンスは一度きりなんだとか。
あの世からお迎えが来るらしいのですが、その時にこの世に残るという選択をしてしまうともう二度と上へ昇る事は出来ずに、この世を彷徨う事になってしまうそうです。
例えば子供の事が心配だとか、奥さんの事が心配だとか、そういった理由で残ってしまう人がいます。
最初はいいです。
ただ、その子供や奥さんもいずれは死にます。
そうして何年、何十年と彷徨ううちに、誰も自分の事を知らない世界になります。
そうなるともう何でこの世に残ったのかも分からなくなり、ただただ彷徨うだけの存在になってしまうのだとか。
そうして魂は、暗く湿った場所へ集まるそうです。
そしていずれその魂だけになった存在も消えて無くなってしまうのだとか。
生まれ変わる事も出来ず、完全に「無」になってしまうのです。
なので、死んだら無になるという考え方も間違えではないですね。
私は父に生前、絶対にこっちには残るなよと強く言い聞かせていました。
49日になったらさっさと上へ行けと。
なのでその考え方の中では父は既に居ない事でしょう。
今頃生まれ変わる準備をしている頃かなと。
死後の世界でも役所のような所があって、やはり順番待ちをするのでしょうか。
好きな漫画で「死役所」という漫画があります。
あの話はよく出来ています。
ドラマ化もされましたね。
それとやっぱり「スカイハイ」ですね。
あれも大好きで、漫画も持っています。
ドラマでは釈由美子さんが主人公でした。
人間は、自分の死を受け入れた時に初めて天へ昇れるのですね。
こういった考え方は非科学的なのですが、科学的な話の中でも最近は「死後の世界」が実在するのではないかといわれているそうです。
基本的に死というのは現世では別れという事もあり、悲しい事とされますが、実際の死後の世界はどのようなものなのでしょう。
それは凄く幸せで楽しい世界なのか。
誰にも分からないから色々な話があるのですね。
次回は少し具体的に考えてみます。
死後の世界の話 ①
富士山 本宮浅間大社 参拝 2024 パート2
いつものようにグーグルアースで見てみます。
鳥居の向こうに本殿が見えます。
アップにしてみます。
これは完全に千木が外削ぎですね。
そして鰹木も3本なので、やはり男神が祀られています。
どういうことなのかは分かりませんが、主祭神は木花咲耶姫では無いようです。
しかも、奥宮も立て替えられているようですので、立て替えでもそれを変えないというのは気になります。
富士山信仰がありますので、富士山そのものが御神体。
そして、その富士山を男神とした歴史があるのかも知れません。
瓊瓊杵や大山祇が主祭神というのも違うと思いますが、木花咲耶姫は主祭神ではないようです。
一体何が祀られているのか。
境内に戻りまして、本殿左側に三之宮があります。
ここには浅間第三御子神とあります。
第三御子神とは天津日子根命とされる事が多いようです。
本殿右側には浅間第七御子神が祀られています。
第七御子神とは、火火出見命とされる事が多いようです。
山幸彦です。
そしてこの神社には湧玉池があります。
その前に天神社があります。
藤原道真公ですね。
牛の象が道真公の方を向いて寝ています。
藤原道真と牛というのは少々関係があります。
道真公が亡くなった際、遺体を運ぶ牛車が途中で動かなくなったという話があるそうです。
このことから遺体をその場に埋葬する事になり、そしてその場所に現在の太宰府天満宮が建てられました。
この伝説により、牛は道真公の霊を鎮め、守る存在とされているようです。
また、牛は勤勉や忍耐の象徴とされます。
藤原道真が学問の神として崇敬されるようになった事で、牛もまた、学問に励む者を守護し、成功を助ける存在として信仰されるようになったという事です。
牛の像を撫でるとご利益があるとされ、特に頭を撫でる事で、学問が上達するなどという話もあるようです。
その隣、右側に水屋神社があります。
この日も外国人観光客が沢山いました。
鳴雷神が祀られています。
どうして水なのに鳴雷でしょう。
鳴雷は八雷神の一柱で、伊邪那美の死後に左足に成った神です。
雷神は皆、龍蛇の姿だといいます。
そう考えると、龍と水という関係性が成り立ちます。
この水屋神社の石垣沿いに湧水が出ています。
父に連れられて行っていた時はよくポリタンクに入れて水を戴いて来ていました。
懐かしいです。
よく車中泊しながら神社巡りをした事を覚えています。
ここの水でお湯を沸かしてカップ麺を食べたり。
そういう思い出が今を作っているのだと思います。
こちらが湧玉池です。
池には鯉もいて、昔はよくパンくずを食べさせました。
この湧玉池の水源は富士山の伏流水で、年間30万トンもの水が湧き出ているそうです。
名水百選にも選ばれており、水はとても綺麗です。
禊所がありました。
昔は富士山に登る前にここで禊をしたのでしょうか。
ここの水は湧水なのでかなり冷たいです。
ここから入水出来ます。
湧玉池の畔に小さな稲荷神社があります。
ここにはいつも鴨達がいます。
エサが豊富なのでしょうか。
たまに潜ってエサを探しています。
鳥は可愛いです。
とまあ、こんな紹介でしたが、よく行く神社ですので、また書くことがあると思います。
去年参拝へ行った時は土砂降りでした。
そしてその年の暮に父が亡くなりました。
神様というのは、人の死など穢れを嫌いますから、そういう事もあったのかも知れません。
神様も元は人間です。
神話にもありますが、殺し合いもして来ました。
神様をあまりスピリチュアルな対象で見ない方がいいです。
呪い殺すなどという事はないでしょうが、僕達も付き合う人を選ぶように、神達も人を選びます。
それこそ普段から信仰していれば別ですが、特定の日のみの神頼みや、都合の良い時のみ神頼みをするような人は、僕らの日常で見ると、自分の都合の良い時だけ連絡してくるような感じてすよね。
人間同士でもそういう人は相手にしませんよね。
同じですね。
無宗教が生んだ弊害です。
神様なんていないと言っても初詣には並んでも行くでしょうしね。
しかしながら、このブログを読んで下さる方の中には、そのような考えの人はいないと思います。
神社を調べてこのブログに辿り着いているわけですから。
中々行きづらい世の中ですが、これからも信仰心を忘れずに、父の教えも踏まえ、神道の勉強や謎解きに励みます。
ではまた。























































