SATANS KITTENS
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大甕神社 参拝 パート2

大甕神社 参拝ブログ パート2です。


本殿から降りたところに香香背男社があります。

写真は撮っていませんが、宿魂石というものがありまして、そこに香々背男が封じられているという話です。

ただ、宿魂石というのは一つではなく、大甕神社の境内にある岩山を指しているそうです。


という事は、本殿に行くまでに登ったあの岩山にも、香々背男の魂が封じ込まれているという事ですね。

この岩山は約5億年前のカンブリア紀の地層から成っているそうです。


大甕神社の創建は、社伝によると紀元前660年だといいます。

大甕神社そのもので香々背男の霊力を封じているという事ですね。

甕星香々背男という神は相当な力を持った神だという事が分かりますね。


こちらが香香背男社です。


日本書紀によると

「天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。

その時二神は、天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうかまずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせて頂きたいと言った」

となっています。


星神なので、屋根には2つの星があります。

星読みであったのか、はたまた星を神格化さた神なのか。。


色々な神様について、何かを神格化したものだという話があるのですが、やはり僕は「神」という存在は、実在した人物なのだと信じたいですね。



甕星香香背男社と書いてあります。


甕星の星という字は古代文字になっていました。

これが意味するものとは。。。

もし香々背男の力が解放された時は一体どうなってしまうのでしょう。


大甕神社にはオマイリマンがありました!


ビックリマンシールのようなものです。

またこんなもので金儲けして!!!


でも、めちゃくちゃ欲しいので、やります。

なんなら集めたいです。。。

チクショー!


家族みんなでやった結果、天照、須佐之男、大国主、八咫鏡が出ました(笑)

アマテルが出たのは凄いです。


因みに甕星香々背男はこのデザインです。

めちゃくちゃカッコいいですね。

なんか、月讀もそうですが、香々背男にも惹かれるんですよね。

なんなんですかね。。

まあ神社というのは、縁があっての参拝ですからね。

何かあったのでしょう。


ではまた。


大甕神社 参拝 パート1

神社参拝ブログ、今回は「大甕神社」です。
茨城県は日立市大みか町にあります。
この前のやりすぎ都市伝説にて、あばれる君が紹介していましたね。
最近は神道系もやってくれるので、楽しく拝見しています。
 
この神社が残念ながら父と行った最後の神社となってしまいました。
本人が行きたいと言っていたのでよかったです。
 

 

さて、駐車場から少し歩いて大鳥居があります。

マップではここにも車を停められると書いてあるのですが、そういう雰囲気ではなかったです。

 

楼門は新しく建てたものか建て直しなのか、出来たばかりで、この日も工事業者が入っていました。

 

まさかこれが最後になるなんて、思いもよりませんでした。

きっと歩くのもやっとだったのかと思います。

ガンが首にも転移していて、この直後から急激に容態が悪くなり首は動かせなくなりました。

神社参拝で何か失礼をしたのかなと、しきりに言っていました。

 

 由緒書きです。

主祭神 建葉槌命

地主神 甕星香々背男 またの名を天津甕星

とあります。

香々背男は天津神なのです。


建葉槌は武甕槌と経津主によって香々背男討伐に派遣された神ですね。

要は国を統一する時に、唯一従わなかったのが香々背男という事で、それを服従させたのが建葉槌だという事だと思います。


何らかの条件を出したのか、それとも力で捩じ伏せたのかは分かりませんが、最終的には香々背男も天孫族に屈したというわけです。


ただ面白いのが、香々背男も「天津甕星」という別名を持つところです。

この「天津」とは天や天界という意味であり、天津神であり、天津神とは高天原にいた神という意味があります。


という事は、武甕槌や経津主と同等に、高天原出身の神だったのではないかと考えています。

しかし、天津神である香々背男はなぜ葦原中国平定に最後まで反対したのでしょうか。


 

 本殿は岩山を登った所にあります。

父は足がダメだったので、自分とチビが登ってきました。

 

 更に上です。

こんな鎖に掴まらないと登れない場所です。

 

 やっと到着です。

しかしまたなんでこんな場所に。。。

 

 建葉槌命が祀られています。

 

 下に降りて拝殿です。

この日は他に二社を回ったので、長居は出来ませんでした。


パート2へ続く

父とガンと僕 memories 9 (マイクロプラスチックについて)

前立腺がんで父親を亡くした息子が書くブログ9回目です。

今回はマイクロプラスチックについてです。



マイクロプラスチック。

何だそれはという方もいらっしゃると思います。

簡単にいうと、ペットボトルやポリ袋など、プラスチック製品のゴミなどが海洋投棄される事により、年月をかけて細かく自然に粉砕され、5mm以下の粉状になったものと考えてください。



昨今、このマイクロプラスチックが問題になっていますが、本日ニュースでマイクロプラスチックよりも更に細かい「ナノプラスチック」と呼ばれる微粒子が複数の人の血液から検出されたと書いてありますた。


ナノプラスチックはその直径が1/1000ミリ以下の極めて小さなプラスチック粒子の事をいいます。

このうち一人を詳しく調べたところ、血液や腎臓、肝臓などからプラスチックに添加する紫外線吸収剤やポリ塩化ビフェニールという有害化学物質も見つかったそうです。

国内で検出されたのは初めてだといいます。


このようにプラスチックゴミの海洋投棄は世界中で行われていて、日本も例外ではありません。




(原文  This beached juvenile Sperm Whale was found off the coast of Spain. If it looks emaciated, it’s because it starved to death. In its stomach was 64 lbs of plastic, causing an infection. Our Oceans are drowning in a sea of plastic. We need to break our addiction.)


このマッコウクジラの稚魚はスペイン沖で発見された。 やせ細って見えるのは餓死したからだ。 胃の中には64ポンドのプラスチックがあり、感染症を引き起こしていた。 私たちの海はプラスチックの海に溺れている。 私たちは中毒を断ち切る必要がある。と書いてあります。

64ポンドというのは約30kgです。


食物連鎖により、いずれ人間の体内にもマイクロプラスチックやナノプラスチックといった微粒子が侵入します。

年間800万トンのプラスチックゴミが投棄され、最終的に海へ辿り着きます。

現時点で存在する海洋プラスチックは1億5,000万トンといわれています。

そこへ毎年800万トンがプラスされるわけです。


まず、自然によって粉砕されたプラスチックをプランクトンや小魚が食べ、それをまた大型の魚が食べ、最後には人間の胃袋へ入ります。

そして今回のように、血液に入って全身に行き渡るわけです。


これは、ゴミがどれくらいで自然分解するのかを表にしたものです。

平気でポイ捨てしている たばこの吸殻は1年半から10年かかります。

レジ袋であれば20年です。

そしてペットボトルでは400年もかかります。

釣り糸に関していえば約600年もかかるのです。


このマイクロプラスチック問題は、海洋放出されてしまう事が問題なので、正しく処理すればそこまでの問題にはならないと思います。

なんと言っても、ポイ捨てがいけないのです。


例えばレジ袋を有料にしてもストローを紙製にしても、人間の意識が変わらない限りあまり意味がありません。

例えばストローやスプーンやフォークを紙製は木製にすればまた違う問題が出てきます。

それも環境破壊の一部です。


2023年の記事では、中国で心臓移植を受ける患者から採取した検体を調べたところ、その心臓と周辺組織、血液などから9種類のマイクロプラスチックが検出されたそうです。

その直径は0.469ミリメートルだったといいます。


血液に乗って全身に送られるわけですから、心臓や脳にも入り込みます。

よって、心臓発作や脳卒中などが起きる原因にもなるのです。

今回のタイトルにある「ガン」とは直接の関係は無いかもしれませんが、病気を引き起こすリスクが跳ね上がります。


このような事をお伝えしたいのと、結局何が言いたいかというと、ゴミは正しく処理をしましょうという事です。

釣り糸に絡まったウミガメやイルカなどを見て「可哀想」と言っているうちはまだいいかも知れませんが、人間にも直接影響があるという事を是非頭に入れておいて下さい。



東国三社巡り 香取神宮 パート2

香取神宮 参拝 パート2です。


本殿裏にこなような物が。

立て看板を見ると「安倍晋三」の文字が!

そうです。

安倍元首相は香取神宮の奉賛会長なのです。

この「大和心」を題辞したのが安倍元首相です。

素晴らしいです。

やはり安倍さんはちゃんと分かっていました。

僕は今でも歴代最高の総理大臣だったと思っています。

CIAでしたが。


そして奥宮へ参拝します。


鳥居から少し歩いた先にあります。


こちらが香取神宮の奥宮です。

比較的小さい御社です。


ここは女千木なんです。

そして鰹木も4本です。

通常こちらには女神を祀ってあるはずです。


しかし、「経津主大神 荒御魂」と書かれています。

経津主は男神のはず。

武甕槌だとしても男神です。

という事は、こちらには本来何が祀られているのでしょう。

天照大神なのか、はたまた別の女神か。

不思議ですね。

神社ですから、神様を祀るのですから、そんなにいい加減なものは作らないと思います。

なので、こういった事があるとそれは祭神を変えてあるという事でしょう。


そして、香取神宮と鹿島神宮には共通したお祭りがあります。

12年に一度、利根川に船を出すお祭りだそうです。

元々は伊勢の式年遷宮に合わせて行っていたようです。

こちらは香取神宮です。



こちらが鹿島神宮のお祭りです。

どちらも船団を引き連れて行われます。

これは、武甕槌と経津主が葦原中国平定に向かった神話に等しいのかも知れません。

面白いです。


チビが剣道をやっているので、武の神である武甕槌大神の御守りです。

なんと言っても十拳剣にて葦原中国を平定してますからね。


鹿島神宮の御札も頂いて来ました。

神棚に祀ります。


こちらは鹿島神宮の御朱印です。

書き入れです。


こちらは鹿島神宮奥宮の御朱印です。

こちらももちろん書き入れです。


こちらは息栖神社です。

息栖神社も書き入れです。


香取神宮も書き入れでした。

素晴らしいです。

最近は書き置きばかりですが、こうして書き入れをして頂けると特別感があっていいですね。


ではまた次回。

東国三社巡り 香取神宮

東国三社巡り、最後は香取神宮です。
こちらは千葉県香取市にありますので、他の二社とは県を越えます。
全国の香取神社の総本社という事で、格式が高い神社です。
東国三社は比較的近い位置にありますので、一日でも十分回れます。

 

駐車場から二の鳥居まで商店街を歩きます。

こういう感じ良いですね。

参道商店街というそうです。

 

いつもの如く案内図を確認しないで参拝したので、全然分からない所に末社があったり、参拝出来ませんでした。

 

 

こちらが二の鳥居です。

朱色です。

一の鳥居は参道にありますが、もっとずっと離れたところにあります。

 

 

こちらが三の鳥居です。

どの鳥居も凄く大きいです。

 

鳥居をくぐると目の前に総門です。

 

 

由緒書きです。

この香取神宮には経津主神が祀られています。

後程書きますが、この経津主という神様は武甕槌と共に葦原中国平定へ向かったという神様で、この神も凄く興味深い神様です。

 

総門をくぐるとすぐ楼門があります。

こちらも朱色です。

 

楼門脇に手水舎があります。

こちらも朱色です。

 

楼門から真っ直ぐに拝殿があります。

 

拝殿も立派な造りです。

やはり天皇家ゆかりの神社だという事で、いたる所に菊花紋があります。

 

 

本殿をぐるりと一周する事が出来ます。

千木が高くて立派な男千木です。

鰹木は9本なので、男神を祀っているという事です。

 

こちらは神楽殿です。

ただし、実際には「祈祷殿」と書いてありました。

そもそも神楽といものの由来は「神座」が語源になっているとし、神座は「神の宿るところ」「招魂、鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫が人々の穢れを祓ったり、神懸かりをして人々と交流したりするなど、神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされているそうです。

これは、天岩戸隠れの時にアメノウズメが舞ったことが起源とされています。

日本最古のストリップですね。

 

 

本殿脇には匝瑳神社がありました。

こちらには磐筒男と磐筒女が祀られています。

磐筒男は古事記では「石筒之男」として登場しますが、磐筒女は登場しません。

神社を色々参拝していると、どうも日本書紀寄りの様に感じます。

古事記を基にした呼び名ではないですね。

この磐筒男という神は、「香取大神の親神」と書いてありますが、香取大神とは経津主なので、どちらも親神は伊邪那岐、伊邪那美になるはずです。

 

古事記には、「是に伊邪那岐命、御佩しませる十拳劒を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。」

 

つまり、伊邪那岐が迦具土の首をはねた際に剣先から飛び散った血が、神聖な岩の群れに飛び散って神が生まれ、その神の名が石折根折、そして石筒之男の三神だと書いてあります。

 

そして次に「次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。亦の名は豊布都神。」

とあります。

つまり、次は刀の根本の血が神聖な岩石の群れに飛び散って生まれたのが、甕速日、次に樋速日
次に武御雷之男で、この神のまたの名を、建布都神、またの名を、豊布都

 

????????????????????????

 

出てきました。

建布都神

 

香取神宮の主祭神は「経津主神」

同じ「フツ」です。

この事から、タケミカヅチとフツヌシは同一神だという話もあるのです。

そして、鹿島神宮には建御雷の剣で「韴霊剣 フツノミタマノツルギ」という刀があります。

 

この剣ですが、古事記によると神武東征の時、後の神武天皇であるイワレビコが苦戦を強いられていたとし

「ここに答へて白さく、『自ら降らずとも、専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし』とまをしき。この刀の名は佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す。」

 

とあります。

この刀が布都御魂(フツノミタマ)なのです。

こうした事から、建御雷の刀を神格化したのが「経津主神」だという考えもあります。

 

この二神の話は本当に興味深いです。

 

パート2へ続く

東国三社巡り 息栖神社 パート2

息栖神社参道 パート2です。


参道を戻り、境内を出ます。

少し歩くとありました。

一の鳥居です。


チビも汗だくでTシャツが濡れてしまう程の気温でした。

なんでこんな暑い日にと、少し後悔しました。

因みに一の鳥居の両側には井戸があります。

男瓶と女瓶というものがあり、こちら側が男瓶にあたります。



そして少し背の低い鳥居のこちら側が女瓶だといいます。

なんと、男瓶も女瓶も1,000年以上も水が湧き出ているそうです。


なんでも、この井戸は瓶が見えると良い事があるという話です。



近所の方なのか、管理をされている方なのか、色々と案内をして下さり、丁度この前掃除したばかりなんだよと言っていました。

それまではコケや汚れで瓶がよく見えなかったらしいのですが、掃除したからよく見えますよとの事で「きっと良い事がありますよ」と言っていました。


この瓶は真水が湧き出ているという事です。


常陸利根川は海に直結している川で、内海といわれる事もあるようで、海水ではないにしても恐らく汽水域だと思いますので、そこの一角から真水が湧き出るというのは不思議な事です。

しかし、これが川ですからね。

もう海のような大きさです。


色々教えてくれた方に言われて土手に上がりました。

ちょうど一直線に一の鳥居、二の鳥居、本殿と並びます。

そして、驚いた事が!



地面に埋まっています。

印が。

これは神様の通り道だという事らしいです。

こんなに興奮するのも中々ありません。


この様な感じに息栖神社へ向かっています。

しかし、矢印が一方方向ではなく、西へも延びていす。


グーグルアースで確認します。

一の鳥居から東に本殿がある事が確認出来ます。


更に引いてみます。

すると、息栖神社を上として、下には九州が現れました。


更に線で繋いでみると、ちょうど宮崎や鹿児島に繋がりました。

これは、、、、、


正しく天孫降臨です。

鹿島から鹿児島へ。

恐らく天孫族が最初に降り立ったのは鹿児島ではないかという話なのです。

※この話が正しいという訳ではなく、あくまで仮説の一つだという事にしてください。


こういう発見は本当に面白いです。

毎日毎日新しい発見があります。


次は香取神宮を書きます。


東国三社巡り 息栖神社


東国三社巡り 二社目は息栖神社です。


この息栖神社は、久那斗神(くなどのかみ)と天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)という神様を祀っていて、久那斗神は古事記では船戸神として登場します。


どちらも船の神様であり、鹿島立ちの際の船の神様という事なのであろうという事です。


東国三社のなかでも一番小さな神社なので、やはり蔑ろにされてしまうのですが、その考えは違うのです。

船の神様でもあるので、他の二社同様に非常に重要な神社であります。


大鳥居があります。

こちらは二の鳥居になります。

一の鳥居は後程。


案内図はこんな感じです。


境内に入ると灯篭がずらり。
その先に神門があります。


手水舎は新しそうでした。

建て直したのでしょうか。


ここが神門です。

色んな神社へ行きますが、これくらいが良いんだよなあと思います。


ちょうど茅の輪がありました。

夏越の大祓ですね。


拝殿です。

奥に本殿があります。

ちょうどいい規模です。

参拝客もそれ程いませんでした。


こちらが本殿。

ぐるりと裏へ行けます。

もちろん裏参りなんかしませんよ。

千木の確認です。

男千木でした。


鹿島神社と香取神社があります。


由緒書きです。

久那斗神とは、来な所、来てはならないという意味です。

これがまた謎が多き神様です。


参道を戻ります。

あまり書く事が無いと思いきや、息栖神社の凄い所はここからなんですよね。


参道を戻っていると、カエル様がぴょこんと座っていました。


パート2はもっと面白い事を書きます。


東国三社巡り 鹿島神宮 パート2

鹿島神宮 参拝 パート2です。


鹿園を過ぎて右側に熱田神社があります。

こちはには素盞嗚と櫛名田が祀られています。

一目惚れから始まった恋ですからね。


そしてこちらが奥宮です。

普通に大きいです。

そこらの神社の本殿と同じ規模です。

奥宮というとどこも、こじんまりしているのですけどね。


奥宮には建葉槌大神の「荒御魂」を祀っています。

これは一霊四魂というもので、人の心には四つの魂が宿っています。

荒御魂、和御魂、幸御霊、奇御魂です。

それぞれに意味があり、役割があります。


参拝客が多かったですが、中々参拝できないので、しっかりと祝詞をあげてきました。



奥宮から少し歩くと御手洗池があります。

ここは1日で40万リットル以上の湧き水があるそうです。

40万リットルですよ!?

昔は参拝の前にここで禊をしたそうです。

穢れを落とさないといけませんからね。

伊邪那岐も黄泉の国から戻った時にすぐさま禊をしましたね。

考えてみると酷い話なんですがね(笑)


陽の光がとてもいい感じでした。


大国社がありました。

こちはは大国主が祀られています。


ひっそりとしています。

まあ、東国ですから。


津東西社です。

こちらに祀られているのは、闇龗神と高龗神です。

この神様は、伊邪那岐が十拳剣で迦具土の首をはねた際に生まれたと書いてあるので、武甕槌と兄弟神という事になります。



そして須賀神社です。

こちらも素盞嗚を祀っています。


祝詞社です。

こちらは布刀玉を祀っています。

布刀玉は岩戸隠れの神話で登場しますね。


熊野神社です。

伊邪那岐、事解男、速玉男が祀られています、この神は伊邪那岐が伊邪那美との縁を切る為に吐いた唾から生まれた神様です。

伊邪那岐、酷いです。。。


そして稲荷神社もありました。

どこの神社でも稲荷は大体ありますね。

食べ物に困らないようにお願いしましょう。


後々気付きましたが、やはり見れていない所もあったようです。

いつもそうですが、境内図を確認しないからこうなります。

鹿島に祀られている武甕槌という神は、迦具土の血から生まれたとされる神様です。

こういう楼門の朱色も、迦具土の血の色だろうという話もあります。


次は息栖神社です。

東国三社巡り 鹿島神宮

※僕のブログは長い上に他の皆様のように装飾がないので読みづらいかも知れませんが、宜しくお願いします。
やり方が分からないので。
本を読むつもりで、何とかお願いします。

さて、東国に住まう者としては必ず参拝しなければいけないのが「東国三社」といわれる、鹿島、香取、息栖の三社です。
こちらの鹿島神宮は茨城県の鹿嶋市にあります。
常陸国一之宮です。


鹿島神宮に祀られている神様は武甕槌大神です。

武甕槌は天照大神に命じられて国譲りとして出雲を平定した神話で有名な神様です。

出土した骨などを調べても、刀で切られたような傷は一切無く、日本人というのは昔から戦いを避けてきたようで、今もハッキリとは分かっていない様ですが、どういう訳か、国を譲るという事が多々あったようです。

どうやら、勝ち目が無い戦いはしなかったようです。




駐車場に車を停め、いざ参拝!

大鳥居がそびえます。

こちらは二の鳥居ですね。

ちなみに一の鳥居は海の中です。


境内案内図です。


由緒書きもちゃんとあります。

最近は由緒書きがない神社も結構あるのですが、知りたい人にとっては良いですよね。

お年寄りなんかはインターネット使わない人もいますから。


参道を進むと楼門があります。


楼門の左手に手水舎があります。

立派な造りです。


そして楼門を過ぎてすぐに拝殿と本殿があります。

改修中でしたので、足場が組まれていました。

これ、案内図を見てもらえると分かるかと思うのですが、参道が西から東へ向かっているのに対して、本殿が北を向いているのです。


こんな感じに。

それも、参道の真ん中に位置します。

この鹿島神宮について書かれた「当社例伝記」という書物には


《開かずの御殿と曰(い)うは、奉拝殿の傍に御座(ま)す、是則(すなわ)ち正御殿なり。北向に御座す、本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其の御神躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の例法なり》(2)。

とかかれているそうです。

そして

社殿は北向き、神座(御神体)は東向きであり、しかも中央でなく南西の方に、おかれているのである。鹿島神宮の宮司であった東実氏は、この配置、内部構造は、出雲大社の内陣と共通するものだ、と述べる(3)。

という話ですが、内部構造が出雲大社と同じようになっていると。

確か出雲大社は御客座五神が南を向き、主祭神である大国主は西を向いていたはずです。

社殿は北向き、神座は東を向いていると武甕槌と大国主は背中合わせで鎮座しているという事になりますね。


そして諸説ありますが、この出雲大社の社殿の内部構造、実は鹿島神宮と同じように造らせたのだといいます。

背中合わせにて鎮座するという事は、何かから国を守っていると考えてもおかしくはないですね。


神道ってやっぱり面白いですよね。


そして摂社てして高房社に建葉槌が祀られています。


この「建葉槌」という神様は常陸国二之宮である静神社の主祭神として祀られています。

この建葉槌がまた面白くて、葦原中国平定の時に、武甕槌や経津主によって、これに従わなかった甕星香香背男という神を倒すために派遣されたという話があるのです。

この甕星香香背男という神についてはまた別の神社の時に書きますが、香香背男も天津甕星という別名から分かるように、「天津神」なんですよね。


もう何がなんだか面白くて仕方ないです。

何か改めて写真を見たら一筋の光が天から、、、(笑)


そしてここから奥宮へ続く参道になります。


木々が凄かったです。

やはり空気が変わりますね。


鹿園がありました。

鹿は神様の遣いとして大切にされているそうです。

国譲りのときに、鹿の神である天迦久神が天照大神の命を武甕槌神に伝える役割を担っていた事に由来するそうです。


そして鹿島神宮にもさざれ石があります。


さざれ石がどうやって出来るのか、どういう意味があるのかが彫られています。



パート2へ続く



筑波山神社 参拝 パート3(常陸国)

さて、パート3は参拝ブログというよりも、筑波山について書かせてください。

 

今の茨城県には「常陸国風土記」というものが残されています。

この風土記というのは、その土地の風土や産物、伝説などを記した書物だといいます。

この常陸国風土記に面白い事が書かれているのです。

 

現代語訳されたものを載せます。

 

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<神祖尊の伝説>


古老が言うには、昔 神祖尊(ミオヤノミコト)という神がいた(富士・筑波の2神の親神である)

この神が諸神の居処を巡行した際、駿河国の福慈岳(富士山)に到った時に日が暮れたので、福慈神(フジノカミ)に宿を乞うた。

その時、福慈神は「今は新嘗祭のために家内で物忌をしています。今日のところはどうかお帰り下さい」と言って断った。

これを恨んだ神祖尊は泣きながら「お前の親だというのに、どうして宿を貸さないのか。

お前の治める山は生きている限り、冬も夏も 雪が降り 霜が降りるほど 重ねて寒さが襲い、人が登らなくなって飲食物を供えなくなるだろう」と罵った。

それから神祖尊が筑波岳(つくばのやま)に登った時に また宿を乞うた。

その時、筑波神は「今夜は新嘗祭ではありますが、敢えて尊を断ることもないでしょう」と言い、敬い拝み謹んで饗した。

これに神祖尊は歓んで「愛しき我が胤(子孫)よ、高い神宮は天地に並び日月共々に人々が集い、飲食物も豊かで代々絶えること無く、日に日に栄えて 千秋万歳(永遠)に遊楽が尽きないだろう」と言った。

これによって、福慈岳(富士山)には常に雪が積もって登ることができないが、筑波岳(筑波山)には人々が集って歌舞・飲食などが行われることは、今に至るまで絶えたことはない。

そもそも筑波岳は高くて雲を突き抜けている。

西の峰の山頂は険しく、雄神(ヲノカミ)と呼ばれて人を登らせようとしない。

ただし、東の峰は四方に磐石(いわほ)はあるが、登る人はたくさんいる。

その側を流れる泉は冬も夏も絶えることはない。

この山の東の諸国の男女は、春の開花の時や 秋の紅葉の季節などに、一緒に飲食物を持って馬や徒歩で登り、この山で遊楽して憩う。

その時に歌われた歌には このようなものがある。

「筑波嶺に 逢はむと 言ひし子は 誰が言聞けばか 嶺逢はずけむ」

「筑波嶺に 廬りて 妻無しに 我が寢む夜ろは 早や明けぬ哉」

このように詠まれた歌はとても多く、すべて載せることはできない。

土地の諺に「筑波嶺の集ひに 妻問のたからを得ざれば 娘とせず」というものがある。

郡から西に10里のところに騰波江(とばのあふみ)がある(長さは2900歩、幅は1500歩である)。

東は筑波郡、南は毛野河、西・北には新治郡、東北には白壁郡がある。

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とあります。

面白いですよね。

富士山には雪が積もるのに、筑波山は、、、、、、、、

 

積もります(笑)

普通に積もります。

まあ、雪山!という感じではないですけどね。


それぞれの山を調べてみました。


まず筑波山なのですが、凡そ8,000万年前から6,000万年前にマグマが地下深部でゆっくり冷え固まって出来た岩石が、長い年月をかけて地殻変動によって隆起して出来た山だという事で、富士山のように噴火で出来た山ではないそうです。




一方富士山は、凡そ10万年前に誕生した比較的新しい山です。

富士山は噴火によって作られた山で、溶岩や火山灰が幾重にも積み重なって出来ました。

何度も何度も噴火を繰り返して今のような大きくそびえ立つ山になりました。


筑波山が8,000万年前なので、こちらは白亜紀に出来た山という事になります。

富士山の方は、10万年前なので旧石器時代中期です。

どちらも縄文時代以前に出来た山ですが、富士山は今よりも低い山だったのかなと思います。

ホモサピエンスとか、そういう時代ですよね。


そう考えると凄いですよね。

私たち今の人類よりも遥かに昔から存在するのです。


それはそれはどちらも凄いパワーを秘めているハズですね。

神道というのは縄文時代からの話ですから、このように歴史なんかを調べてみるのも面白いです。


神道=スピリチュアル云々より、日ユ同祖論のように、事実に基いた事を調べてみるのもいいですよ。




 

 

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