年度の変わり目で、しばらく忙しくしており、なかなか記事をアップできませんでした……。
そして。
3ヶ月レギュラークラスの4月〜6月期も無事にスタートし、少し落ち着くかと思ったら……。
先週末から、まさかの
胃腸炎!!
もぅ、ほんとに死ぬかと思うくらい辛かったぁ……
そんな地獄のような日々から、ようやく復活し。
本日、映画を一本、観てまいりました。
それは。
イギリスの舞台を映画館で観られるというシリーズ「ナショナル・シアター・ライブ」の新作!!
今回は、今年の1月にロンドンの劇場で上演された『るつぼ』です!!
『るつぼ』は、アメリカの劇作家アーサー・ミラーによる、1953年の作品。
1692年、マサチューセッツ州セイラムの町を舞台に繰り広げられる、「魔女狩り」を題材とした物語です。
▲『セールスマンの死』などでもご存知、劇作家アーサー・ミラーさん(左)。
そして、お隣は……マリリン・モンロー!!
お二人は、1956年から61年の間、ご夫婦でした。
さて。
この作品には、元となる "実話" が存在しています。
実際に、1692年の同じ場所において、「セイラム魔女裁判」なるものが行われていて。
『るつぼ』の登場人物たちもまた、その時に実在しています。
劇作家アーサー・ミラーは、この「魔女狩り」事件を元に、1953年に『るつぼ』を発表するわけですけれども。
その背景には、当時の、アメリカ合衆国を中心としたある社会情勢が大きく関係していると考えられます。
それが、いわゆる「赤狩り」。
第二次大戦後に、アメリカをはじめとした西側諸国で行われた「共産党員とそのシンパ(同調者、支持者)の追放」という運動です。
……読んで字のごとく。
この「赤狩り」というのは、「魔女狩り」が語源。
アーサー・ミラーが『るつぼ』を書いた1950年代は、まさに、アメリカにおける「赤狩り」、すなわち「マッカーシズム」(反共産主義運動)の真っ只中です。
まるで、『るつぼ』の登場人物たちが魔女やその手先を次々と告発していったように、当時のアメリカでも、共産党員やシンパを告発する連鎖が巻き起こり。
その波は、映画の都ハリウッドにまで及んでゆきます。
そして、この連鎖は。
やはり『るつぼ』に描かれているのと同じように。
相手が無実であろうとなかろうと、我が身を救うためには誰かを告発せざるを得ないという、魔の連鎖を作り出してゆきます。
当時のハリウッドにおける「赤狩り」については。
ロバート・デ・ニーロが主演した、1991年の映画『真実の瞬間』などでも描かれています。
……が。
僕が個人的に、ハリウッドの「赤狩り」を描いた映画といって思い出すのは。
マーロン・ブランド主演による、1954年の映画『波止場』です。
『波止場』を撮ったエリア・カザン監督は、1952年に、共産党員として疑いをかけられてしまいます。
そして彼は。
その嫌疑を否定し、ハリウッドで仕事を続けるためにも、共産主義思想の疑いのある者として、友人の俳優や作家、監督ら11人を告発するのです。
その結果。
エリア・カザン監督は、ハリウッドにおいて「仲間を売った裏切り者」というレッテルを貼られてしまいます。
そこから2年後に『波止場』が公開されます。
この映画は、「赤狩り」を描いたものではありませんが。
劇中、主人公は波止場を仕切るギャングたちを告発するも、労働者たちから「仲間を売った裏切り者」のレッテルを貼られ、仕事を失うという、まるで「赤狩り」を思わせるような物語が展開する様子は、エリア・カザン自身の赤狩りの経験や、裏切り者だと背を向けられたことへのリプライズだと思えてしまうのです。
▲映画『波止場』。
主人公のテリーは、ギャングたちを告発したことにより、波止場の労働者たちから「仲間を売った裏切り者」と四面楚歌を喰らうハメになります……。
ちなみに、エリア・カザン監督は。
もともと、リー・ストラスバーグらと共に「アクターズ・スタジオ」を創設しています。
リー・ストラスバーグといえば。
スタニスラフスキー・システムをアメリカに取り入れ、「メソッド演技法」を創り出した人物ですね。
ストラスバーグがこの演技法を創り出すに至った劇団「グループ・シアター」には、エリア・カザンも俳優として参加していました。
グループ・シアターには、彼らのほか、ステラ・アドラーやサンフォード・マイズナーもいて、共にスタニスラフスキーの理論を研究していました。
▲『ゴッドファーザー PART II』に出演していた時の、リー・ストラスバーグ。
フランシス・フォード・コッポラ監督は、「この人だけには演技指導なんてできない…」と、ビビってたそうです(笑)
エリア・カザン監督は、その後……。
1998年のアカデミー賞において、映画界に対しての長年の功労を讃える「名誉賞」を受賞します。
しかし、通常なら会場の全員がスタンディングで讃える、この賞の受賞のとき。
会場にいる、一部の映画人やハリウッド・スターたちは、立ち上がることもせず、あるいは拍手もしなかったという異例の出来事が起こります。
赤狩りで「仲間を売った」という彼の行為を批判する人たちが、彼を讃えることを拒絶したのです。
その授賞式を、僕は、自宅の衛星放送で見ていました。
老人となったエリア・カザン監督に批判の眼差しを向けるスターたちが画面に映し出されるという異様な光景を、今でもよく覚えています。
▲その時の、エリア・カザン。
▲そして、客席……。
恐ろしいのは。
本当に共産主義思想かどうか、ということなど、もはや関係なく。
自らが生きてゆくためには仲間を告発しなくてはならないという、狂った世界。
アーサー・ミラーが『るつぼ』を書く背景にあったのは、そうした1950年代のアメリカが抱えていた社会問題であったであろうことは、想像に難くありません。
本当に、魔女なのか?
問題は、そこからどんどん逸れてゆき。
セイラムの町という小さなコミュニティーにおいて、仲間同士を告発し合うという展開へとなだれ込んでゆく。
現代の我々が、この物語を見るということには。
そもそも最初から「魔女なんていない」という視点で、セイラムに住まう人々の顛末を観察するという面白さがあります。
……まぁ、もちろん。
今のような科学の発達もない1692年当時の人々は、魔女を信じていたかもしれません。
でも、実際のところは、どうなのでしょう??
元々の、中世ヨーロッパでの魔女裁判は、この頃はすでに無くなっていますし。
実は、『るつぼ』のトップシーンにおいて、この物語の核心を紐解くヒントがいくつも語られています。
そのうちのひとつが、「うちの娘だけは魔女のせいじゃない」と連呼するパリス牧師のセリフです。
この物語とその登場人物たちは、ハナから「魔女なんていないことを分かっている」という出発点に立っていることが、暗示されているようにも思えるのです。
▲『るつぼ』の元ネタとなった、1692年の「セイラム魔女裁判」。
自分自身はもちろんのこと、魔女なんてものは、本当はどこにもいない。
もしかしたら、皆も分かっているのに、そのことは誰も口に出さず、ただただ仲間を告発するという負の連鎖を繋いでいくだけ……。
そんな風に、実体のないもの、幻、虚構を、真実であるかのように「信じ」、振る舞い続ける。
……実はこれ、人類が進化してきたプロセスにおいて、非常に重要なことなんですね。
「実体のないものを集団で信じる」という能力があったからこそ、人類のコミュニティーは栄え、あらゆる面でその規模を拡大してくることに成功しました。
例えば「宗教」や「会社」といったものが、それです。
現在。
人類のコミュニティーや社会は、近年、インターネットの普及によって物理的な制約から解放され。
ついに、「バーチャル」という無限大の広がりの可能性を獲得しています。
こうやって、人類が新天地へと進出・拡大してゆく時。
そこには必ず、実体のないものを集団で信じる(まるで、実在するかのように「ふるまう」)ということが起きるのです。
……いかがでしょうか。
お手元のスマートフォンの中には、虚構の魔女がいくつも潜んでいませんか?
ネットで繋がった誰かとの間にはコミュニティーが存在し、そこで語られていることに「実体」はないと心の奥底では分かり切っていながら、実在するように「ふるまい」続け。
そして、誰かが誰かを「魔女だ、共産党員だ」と告発し、こぞって糾弾し。
やがてその告発は、次なる告発へと連鎖していく。
ありもしないものを、ありもしないと分かっていながら、あるかのように「ふるまい」ながら。
それでも。
そうやって人類は、コミュニティーを形成し、経済や社会を発展させ、地球上の絶対王者へと上り詰めてきた。
これからも、その進歩は続いてゆく。
人類が進歩・拡大し続ける以上、その矛盾から、我々は逃れることはできないのかもしれませんね。
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