……「役の痛み」のリアルな獲得を求めた結果。
一部の演技法では、身体や精神に負担をかけてしまうという問題を抱えるようになりました。
前回記事では、「本当に殴られる、眠らない、歯を抜く」などの、俳優の身体的な負担について具体例を挙げてお話ししました。
さて、今回は。
内面的な部分にフォーカスしながら、
「役になりきる必要はあるのか?」
「どこまでリアルに演じれば良いのか?」
という問題を考えてみたいと思います。
こうした、世界的な議論で真っ先に名前が挙げられるのが、アメリカの俳優であり演技指導者であるリー・ストラスバーグが開発した「メソッド演技法」にまつわる問題です。
(※僕のワークショップ "EQ-LAB" では、こうした精神的な負担の問題を避けるため、センソリーなど、ストラスバーグによるメソッドは用いていません。)
彼のメソッドの特徴は、"センソリー(センス・メモリー、感情の記憶)" という方法論に代表される「俳優自身の内面の掘り下げ」にあります。
これは、役作りの過程において、俳優自身が抱えるトラウマを掘り起こし、役が感じている痛みと同等の感覚を俳優自身も味わうというものです。
この「自己のトラウマを掘り起こす」ということが、今日、世界的にも非常に問題視されています。
つまり。
そうした演技法が「俳優自身を傷つけているのではないか?」ということ。
実際に、その後の精神疾患などで苦しい思いをしていたり、結果的に俳優人生を縮めることにもなりかねない、ということが考えられるからです。
前回記事でもご紹介した、映画『ダークナイト』のジョーカー役を演じたヒース・レジャーは。
この役作りの過程において、彼は(もともと、極度な "あがり症" であることを自身で告白はしていますが)、不眠症に陥ってしまい、そのために服用していた睡眠薬の副作用によって、映画の公開を待たずに亡くなっています。
過去には、マリリン・モンローやモンゴメリー・クリフトといった往年のスターたちも、ストラスバーグによるメソッド演技法を実践し、役作りの過程で自身のトラウマを掘り出した結果、情緒不安定となり、以後の役者人生に深刻な影響を及ぼしたと言われています。
▲ヒース・レジャー。右が2008年の映画『ダークナイト』 のジョーカー役の時。
▲1961年の映画『荒馬と女』より、マリリン・モンロー(中央)とモンゴメリー・クリフト(右)。
左は、『風と共に去りぬ』のレット・バトラー役でお馴染み、クラーク・ゲーブル。
「役になりきる」ということの議論については、ほかにも。
映画評論家の町山智浩さんがYouTubeでお話しされていた、こんな興味深いエピソードがあります。
イギリスの名優、アンソニー・ホプキンスは。
映画『ファーザー』で、認知症が進行していく老人の主人公を演じるにあたり、自身の父親を参考にしていたそうです。
ある日の撮影中、演技をしている時のこと。
ふと、机の上にあった老眼鏡を見たときに、自身の父親が実際に末期のアルツハイマーになった時のことが甦ってきて、「自分と父親の区別がつかなく」なり、もの凄い感情が押し寄せてきたのだとか。
それが、もし、"センソリー" を使ったメソッド演技法の俳優なら。
「ついに役が憑依した!」と、ここぞとばかりに感情的な演技を続けていたでしょう。
しかしアンソニー・ホプキンスは、撮影を中断しました。
その後、彼は部屋の隅に行き、ブワ〜っと泣いて感情を吐き出し切ってから、あらためて撮影に臨んだのだそうです……。
▲2020年の映画『ファーザー』。
アンソニー・ホプキンスはこの演技で、アカデミー主演男優賞を受賞しました。
想像してみてください。
自分と父親(他者)の区別がつかなくなる、という現象。
普通に考えたら、精神的な異常事態です。
アンソニー・ホプキンスは、この危険な状態と、そして「それはもはや演技ではない」という判断で、撮影を中断したのでしょう。
前回記事の喩えで言えば、「ライフルで撃ち抜かれた演技」ではなく、「本当にライフルで撃たれた痛み」を感じたのだと思います。
彼は、撮影を中断することで。
自分自身の心を守り、演技という芸術性を守ったのだと、僕は思っています。
▲そういえば、2008年の映画『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』では。
元々は「なりきり型」のメソッド演技俳優だったロバート・ダウニー・jr が、「"なりきり型" ゆえに、手術を受けてホンモノの黒人になりきろうとする白人俳優」という、もはやセルフパロディとも思える役を演じてましたね。
ちなみに、この映画のトム・クルーズも最高です(笑)
こうした「なりきり、憑依」の演技は、特にメソッド演技法が世界に広まって一世を風靡した1950〜60年代以降、素晴らしい演技だとして賞賛を浴びてきました。
そして、それを達成した俳優を「名優」と讃え、この役へのアプローチを美談として語りました。
ところが、その結果、数多くの俳優たちが精神的におかしくなっていくことが観察され。
「俳優の演技は、まず自分を守ってなんぼ」という、安全第一の考え方へとシフトしていきます。
さらに。
守るべきは、自分のことだけではありせん。
メソッド演技法が世界でも流行していった当時、日本にもそれを輸入しようとする動きはありました。
ところが、日本にメソッド演技法はあまり根付かず、むしろ当初から「危ない演技法」という嫌われ者の烙印を押されることになります。
この理由のひとつ。
やはり、センソリーから得られるエキセントリックな感情と「憑依」の演技により、俳優の演技に歯止めが効かなくなる。
ついには、現場で、共演者の首を「本当に」締めてしまった俳優が現れてしまったのだとか。
ちょっと待ってください。
台本に「首を絞める」と書いてあったからといって、本当に首を絞めますか……??
それこそ、「これは演技」なんです。
「本当に首を絞める」のと、「役を本当に生きること」は、違います。
実は僕自身も、そうした俳優さんによる "ちょっと困った現場" に出くわしたことがあります。
その俳優さんが、相手役と「言い争いをしている」シーンの演技の最中。
スタッフが立てた小さな物音に対して突然演技を中断し、「静かにしてもらえませんか!?」と、スタッフさんに対して怒り出したり。
演技が終わった後も、その興奮した気分を引きずっていて、めちゃくちゃ近寄り難かったり。
やはりその方は、ストラスバーグによる "センソリー" のメソッド演技法を訓練・実践されていたようです。
▲う〜ん、他人に迷惑をかけるのはちょっといただけないですねぇ…。
稽古場の雰囲気、かなり悪くなってました(汗)
ただ。
こうした「ライフルで自分を撃ち抜く」タイプの演技法を一方的に否定して、この議論に幕を引くつもりではないんです。
事実、これまでの映画史・演劇史の中で、メソッド俳優による素晴らしい演技が数多く披露されてきました。
僕自身、『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドや、70年代〜90年代初頭のロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノらの、メソッド演技法による迫真の演技に熱狂し。
さらには、(その当時の)ブラッド・ピット、ダニエル・デイ・ルイス、クリスチャン・ベールといった俳優たちの演技が、僕の "役を演じることへの憧れ" を育ててくれたと言っても過言ではありません。
▲小学校の頃に、映画『アンタッチャブル』(1987) のロバート・デ・ニーロ(アル・カポネ役)を見た時は、「この人、ホンモノの悪いおっさん」だとばかり思ってました。
▲それから少しして、メリル・ストリープと共演した『恋におちて』(1984) を見て、このスマートで優しそうな方がアル・カポネと同一人物だと知り、衝撃を受けました。
「こんな風に、いろんな役になりきれたら…」という思いが、僕の俳優人生に大きく影響しています。
最後に。
先日、演劇団体「新宿公社」の主宰・小林弘幸さんという方が開催した、イギリス演劇についてのオンライン講座を聴講しました。
その中で、イギリス大学の演劇学部の教授が述べられた、メソッド演技法についてのこんな意見が紹介されています。
「こうしたメソッド演技法は、
①俳優本人がその演技法を望んでいる
②演出家・監督に、それを扱う知識・技術がある
③現場に、それを適切に扱う環境(心理カウンセラーが常駐している、等)が整っている
という条件下であれば、効果的に扱うことは可能」
これは、非常に納得できる話ですし。
肯定的な立場から、この演技法が効果的か? どうすれば効果的に扱えるか? を考えることもまた、議論にとっては重要だと思います。
なお、こちらの内容が紹介された、新宿公社の小林弘幸さんのオンライン講座は、10/9までアーカイブ公開されています。
ロンドン大学演劇学部の授業内容をもとに、イギリスの演劇事情や、シェイクスピア作品など、参考になるお話をたくさんれていて、オススメですよ!!👇
……さぁ。
今回は、内面的な部分にフォーカスした事例を取り上げました。
演技もまた "芸術" であると捉えれば、その方法や考え方は多岐に渡って然るべきですし、対立する考え方があるのも自然なことでしょう。
ですから、こうした世界的な議論をもとに、自分なりの「演じるとは?」「役を生きるとは?」という答えを探究できたらと思います。
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