毎日新聞は2017年08月12日に、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場する江戸〜明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかったと報告した。
Yahooニュースは2020年08月13日に、江戸~明治時代に、現在のJR大阪駅北側再開発区域「うめきた」(大阪市北区)にあった「梅田墓(はか)」について、大阪市教委と市文化財協会は2020年08月13日に、発掘調査で1500体以上の埋葬人骨が出土したと発表した。
市内でこれほど多くの埋葬跡が一度に見つかるのは初めてで、全国的にも珍しいとしている。
庶民階級の墓とみられ、今後は骨を調べたりして葬送文化や生活環境などを詳しく分析するという。
https://time-az.com/main/detail/72632
梅田墓は、江戸時代初期に天満周辺にあった墓を現・大阪駅の南側付近に集めたのが始まりで、その後現在のうめきた南西部に再移転したとされる。
大阪に7カ所あった「大坂七墓」の一つで、近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」や「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」などにも登場する。
発掘調査はうめきた再開発事業に伴って始まり、2017年02~06月の調査では、墓地の南北端の石垣や約200体の埋葬人骨が見つかった。
2019年09月から始まった今回の調査では、北を上として逆L字のような形とみられる梅田墓の東半分を発掘し、東端の石垣を見つけた。
敷地内では亡くなった人が木おけや四角い木棺、かめ棺に入れて整然と土葬され、火葬後に埋葬したものもあった。
墓地内の北側は石垣で区切られて一段低くなっており、土をかけたりしただけの埋葬や、穴に何人もまとめて入れた埋葬例が複数あった。発掘担当者は「疫病で一度に亡くなった人などが埋葬された区画かもしれない」と推測している。
副葬品には数珠玉や六文銭のほか、キセルや土人形、二朱金などがあった。今回の発掘調査の結果、墓地は江戸時代の終わりごろから明治20年代までの19世紀に使われたものとみられるという。駅南側から現在地への移転は、これまで1680年代とされていたが、間に別の場所を挟んでいた可能性が出てきた。
明治20年(1897年)頃に有縁の墓石は各所に移転されており、今回見つかったものはその後に残された無縁の墓と考えられるという。
そうなると、捨てられた骨の可能性もあり、数だけは多いが、収集がつかず、調査も無駄になる可能性もある。
一連の発掘調査は8月末で終了予定。発掘現場は一般公開しないという。
これが重要な調査なら、浅草の大鳥神社で吉原の女郎が死んで捨てられた墓の調査の方が重要かもしれない。
いくつぐらいで死んだのか?病気はあったのかなど、調べると、大江戸博物館の重要な資料になる。
2017年08月の発掘調査の緯度、経度
34°42'02.2"N 135°29'25.4"E
または、
34.700617, 135.490383
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