A Day In The Boy's Life -184ページ目

A Day In The Boy's Life

とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

グーグルの電卓機能が計算ミス @ CNET Japan


面白い。重箱の隅をつつくようにGoogleの電卓機能の粗を探していることではありません。

最後に書かれている


このことから、わたしは次のような結論に達した。最後の例では、Googleは計算をあきらめ、人を惑わせることがないよう、単なる検索結果を表示する。これはいわゆる正常な故障モードだ。誤った結果を表示するよりは、結果を表示しない方がましだ。電卓を使うような複雑な計算こそ、上記の例と違って誤りに気づきにくい、ということを考えると、これは特に重要なことだ。

というように無理な処理への対処をGoogleがきちんと行っている点に関してです。
数字なんて無限にあるわけですから、計算するするとしたらどこかでしきらないといけない。


卓上電卓でも計算できる桁数は、機械によって異なるものの限度があります。
じゃあ限度を越える場合にどうするかの対処を考えておくべきです。

(卓上電卓の場合、桁数を示す事自体が対処になっています)


この辺りについては、アプリケーションのバリデートによったりもします。

メッセージを出すとか、無視してしまうとか、または問題が起きないように予め制限してしまうとか。
よく考えたら当たり前なんですが、正常系だけに気を取られて異常系の対処に気が回らない事が多々あるものです。


利用者が普通に使えている分には何も感じないでしょうが、何か問題が発生した時の対処が適切でなければ、大きな不満を持つものです。

そんなの利用者側が悪いという意見も、開発側の立場から見ればあったりもするのですが、様々な面で不満を持たせないという心配りこそが、利用者の心をつかむコツだと感じます。





もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに @ はてな匿名ダイアリー


確かに自分も小学生の頃は、絵を描くにしろ作文書くにしろ、先生からあれこれ細かく指示された記憶はありません。

読書感想文を書けなんて課題も、読む本の種類なんかは指定されていないわけで、幼稚園が読むような絵本の感想文を書いたところで、先生からは「もっとレベルの高いものを読みなさい」と怒られるだけです。

でも、自分にあったレベルって何?って小学生なら思うでしょう。

でも、先生がこの本を読んで感想を書きなさいというのも、型にはまった教育で子供の自由な発想を殺す事になります。


この辺は大人の視点と子供の視点とで、あまりにも考えが乖離してしまっていることに気づきます。


□ 大人から見た視点

・ そんなの自分で考えろ

・ 自由に考える事で発想の幅を広げるんだ

・ それを見たときの素直な感想を表現しなさい

・ 考える事で成長できる

・ やり方教えるとその方法しか使わないでしょ?


でも、子供から見ると・・・


□ 子供から見た視点

・ どこまで自由なの?

・ 何を使って良いの?

・ 感想文って何?写生って何?自由課題って何?

・ A君の絵は評価された理由は何?

・ (後から)「あ~そういうことやってよかったんだぁ」


社会人になって、自分の経験のない課題が与えられたとしても、知人に尋ねるなり、ネット使って調べるなりの事はすぐにできて、そこからこういうものかという理解を得る事はできますが、小学生が得られる体験と使える道具の中で、与えられた課題を的確に理解する事はかなり難しい事です。


小学生の頭の中では、「何?何?何?」でクエスチョンがいっぱいです。

なので、少なくとも先生もちゃんと子供にフィードバックしてあげる必要があると思います。


・ 課題の意図をちゃんと伝えてあげる

・ どこがよかったか褒めてあげる

・ 何が悪かったかを教えてあげる

・ 他の子の作品を見せてあげる

・ 他の子の作品と比べてどうだったのか伝えてあげる


とかはちゃんと伝えてあげた方が良いと思います。

そこで初めて、「何?」の一つが子供の頭の中から消化されるでしょうから。


最初からテクニックをきめ細かく教える必要はないと思います。

少なくとも、ある課題を与えた時、その課題の取り組み方を知っている子と知らない子とで評価が違うのは、それまでのその子たちの教育や経験から来たもので、そのまま評価するに値する事だとは思います。

でも、知らない子をそのままにしておくと永遠に差が縮まらない。

だったら、知らない子にはちゃんと教えてあげるべきかと。

それで成長できた子は高評価につながるだろうし、そうではない子は成長していないという事になる。


テクニックを教えてもらえなかったからというのは、いい訳としてはよくわかることですが、それは大人になってから気づく視点であって、小学生の頃にはそういったことはほとんど気づいていません。

先生の評価でそうだったんだから、そうなんでしょ。という考えしか頭にないわけですから。


まぁ、少なくとも学校教育なんて千差万別で、自分が受けた教育の事をあれこれ言っても仕方がありません。

テクニックを均等に全小学生に教える事ができたとして、結局それってその枠からはみ出るような自由な発想というのはその時点で殺されてしまうでしょうから。

大人になってから生まれる自由な発想というのも不均等である事の一つの賜物ではないかと思ったりしています。




前回「エンジニアがデザインという言葉を口にすると冷ややかな目で見られるよね 」というエントリを書きました。

デザインというものは専門化がやるもので、その他の人は軽はずみに手を出してはいけない領域みたいな雰囲気があるということを伝えたかったのですが、一方でデザイン専門家以外の人も、自分には才能がないからと気後れしている部分もあったりするわけです。


ここで言う、才能という言葉は少し厄介です。

これを言ってしまうと何にも取り組めなくなってしまうわけですから。

確かに、何かの公式キャラクターをデザインしろとか、有名ブランドのHPをデザインするなんてことになると、それは専門家の中でもさらに才能がある人ということになりますが、そんな事が専門外の自分に頼まれる事はまずありません。

前回のエントリでもあったように、ちょっとしたWebページのデザインぐらいであればというのに、それは専門化が担当する領域だとみんな食ってかかってるようなところがあります。


しかし、デザインの専門家をやっている人は何も才能だけで仕事をしているわけではありませんし、そういう職につけたのもそれだけではないでしょう。

デザインを専門とする人も、それを生業とするための様々な知識を得てそうなったわけで、絵の上手い・下手というのは育った環境や体験などによって出てくる部分もあるかもしれませんが、それだけが決め手になっているわけではないはずです。

勉強したという要素に、何らかのコツを学んだという要素が見え隠れしているのであれば、その要素を吸収すれば誰でも「ある程度のレベル」というのは到達する事ができるはずです。


毎週土曜日にTVでやっている「賢コツ!! 」という番組で、アナウンサーの大塚さんが最初ドヘタな絵を描いているけど、その後に専門家のアドバイスを元に書いてみたら結構上手くかけているのを見ると、何事にも上手くなるためのちょっとしたコツというものがあるものだ、そしてそれは吸収できるものだということが感じられたりします。


例えばあるWebデザインの色を決めるといっても、こういうのもコツとか、こういう風にすれば無難に見せることができる知識というものが存在したりします。

多くの色を使わずに、ベースとなる色とサブになる色を計2色か3色ぐらいに抑えるとか、組み合わせでも濃い色と薄い色を組み合わせ共通性を持たせるとか。

このブログだってCSSを(ほんの)少しいじってみましたが、なんにでもあう、白を基調にする事で全体がまとまりやすいように配色しようと考えたりしました。

レイアウトだって同じで、ある程度の好まれるパターンというものが存在したりしますし。


今までは、それらのコツは知る人ぞ知るとか、専門学校に行かないと学べないとか、裏に隠れていることが多かったわけですが、ネットのおかげで誰でも幅広く求めれば得られるようになってきています。

一定のレベル以上のことをやってのけるには、経験や才能というものも必要になってくるかもしれませんが、そうではない「ある程度のレベル」であれば誰でも到達は可能だと思います。

そして、専門外の自分に求められるのは「ある程度のレベル」で十分カバーできる場合がほとんどです。


ですから、自分には才能が無いからと決めてかからずに、コツを学ぼうとする貪欲な姿勢が何よりも大事になってくるのではないでしょうか。