A Day In The Boy's Life -129ページ目

A Day In The Boy's Life

とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

人は何か制限されることを嫌うものですが、制限されている状態だからこそ、新たな気づきというものを得られて、そこから違う何かを得ることができるのではないかな、と思ったりします。

自由な時間、自由な環境、自由な表現。

何もかもが自由であることは素晴らしい!と思う反面、あまりその自由というものを活かしきれていない場合もあるのかな、と感じます。

そして、制限があるからこそ、それに対して反発する新たなアイデアも生まれるのではないかなと。



会社における制限


働く現場と言うのは何かと制限をされているものです。

場合によっては、ネットへのアクセスも厳重に制限されていたり、PCにインストールするソフトウェアやUSBで接続するデジタルデバイスなどなど、枚挙に暇は無いでしょう。

それは物理的な制限であったり、会社のルールなどといった論理的な制限であったりもします。


これができればもっと仕事が楽にできるのに、なんて愚痴をこぼす人も多いのではないでしょうか。

それは確かに、そうである場合もありますが、会社としてもそこにあるリスクヘッジをしている場合がほとんどなので、ある意味それは自分を助けるためのルールであったりもします。


自由の中に身をおいて、羽を存分に広げると際限なく何かをやろうとすることができる職場で、本当にその人の能力をはっきりできる人って、かなり自制が効いている人なのではないかと思います。

例えば、制限無くネットにつながる環境で仕事をしていると、いつの間にか仕事に関係の無いところで時間を使ってしまったり。

それも、自分を成長する一つの知識となる、というのは私自身もそう思ったりしているところもありますけど、会社の中で成果に結び付けるには長い時間がかかったり、それが具体的にどう結びつくんだ、と言うところはなかなか答えられなかったりもします。

なので、返って制限があることで仕事に集中できる環境を手に入れられたりもします。


一方で、普段家で使っている便利なツールが制限がかかっていた場合、それをすんなり諦めるのではなく、他に自分の要望をかなえるためのツールが無いか、他の方法で実現可能でないかと考えられたりもします。

ただ、多くは面倒になって他の方法と言うものを考えなかったり、それ以外には実現する方法が無いものと、どこかで決め付けてしまって、仕方なくルールに従ってしまうという人も多いのだと思います。



ネットにおける制限


一方で自由の象徴と捉えられる、ネットにおいても制限というものは、当然あったりします。

それは、法律によって禁止されているみたいな部分もありますけど、より技術的な制限であったり、まだネットで実現できていないことへの制限だったりもします。


数年前に流行ったWeb2.0というWebのパラダイムシフトも、それ以前と以降とではネットでできることというのは随分と違うものになってきています。

技術的には、それより前にも実現可能だったよ、と言うのもあるのですが、それ以前のWebの世界でこんなことがネットでできないのは不便であるという制限を取り払う動きをした人が、今の著名なWebサービスを作り上げたともいえるかと思います。

なので、その制限されていると言うことに気づくことができる人と、そうでない人というので運命が大きく変わってくるのかなと。


犯罪も一部ではその制限をかいくぐるために考えられてる部分もあります。

法の網目をくぐるとか。

そういうのは間違った知識の使い方であったりもしますが、制限の境界に気づいてその制限に引っかからないためのアイデアと言うのを考え付いた人がいるわけです。


制限と効くとネガティブな印象を受けたりもしますけど、受け取り方で随分と印象が変わってきますし、一方で目に見える制限があったり、もう一方で目に見えない制限があるもんなんだなと。

何もかも自由だ!という環境に身をおくことは、実はかなり不自由な場合もあるでしょう。

何を自由に使えばいいのかが見えにくいですし、これが俺の自由だと声高に叫んでも、実はものすごく狭い範囲でしか、表現や時間を使っていなかったと言う場合もあったりします。


制限があるからこそ気づくこと、制限が無いから見えにくいもの。

制限と言うのは、境界線を浮き彫りにしてくれるものですから、返って便利に使える場合もあるのだな、と感じたりします。

自由であるから、自由な表現ができるんだという場合だけでなく、制限があってその中で如何に自由な表現を行うか、と言うことも考えてみるべきことなんじゃないかなと思います。





Twitterをやっていて、そこでPOSTされる情報を見ていると、情報の質が高いということとと、情報の量は必ずしも比例しないんだな、という印象を受けます。

短い文章の中に凝縮された濃い話もありますし、例え一言二言でも受け手にとっては十分に意味のある言葉になりえます。


そもそも情報は、コミュニケーションをする上での伝達する要素の一つでしかないので、それが意味のあるものかどうかと言うのは受け手次第になってしまいます。

ある野球選手に関する話題は、野球に興味のある人にとっては有効かもしれませんが、そうでない人にとっては興味を持ってくれない場合のほうが多いでしょう。



受け手に伝わる一言のメッセージ


[Twitter] つぶやくか、つながるか 」にも書いたことですが、Twitterでちょっとした挨拶程度の言葉をもらっても、会話に相槌を打ってもらったような心地よさがあると感じます。

それは受け手にとって、意味のある言葉であるからであって、意味があるというのは自分へ向けられた会話上の視線や興味だからじゃないかと思います。


たとえ、「おはよう」の一言でも自分を気にしてくれたり、一瞬でも自分に向けられた興味をうれしく思えたりします。

これは、リアルの世界でも当然あることですが、リアルの世界の場合では変に自分が相手を意識してしまって上手く言葉を面と向かって受けられない場合もあったりします。

変なテレがあったり、相手のことを良くわかったりしている分、そこで変に身構えてしまったり。


ネットの世界では、ある種それを期待して行動するということが少ないんじゃないかと思います。

Twitterやってて、POSTする全ての言動にreplyが返ってくる事を期待しているとかなりしんどいでしょう。

というか、多分それはよっぽどの人気者であるか、万人にわかり、万人に反応しやすいPOSTをするか、と言う感じで、あまり一般的に考えられることじゃない気がします。

なので期待しない分、反応がもらえたときに余計にうれしかったりする。


そんな一言でも、十分に意味をもつこともあるんだなと言うことを良く感じます。



質の高い情報ってなんだろう


情報が受け手によって決まる以上、全ての人にとって質の高い情報っていうのはありえない気がします。

どんなに生活に密着したお得な情報であろうと、それを使わない人にとっては意味の無い情報になります。

例えそれが今必要の無いもので、将来的に必要になったとしても、判断基準は今でしかないですし、後で使うかもとはてブしておいても、要るってわかったときには忘れてたりもするので、多くの質の高い情報は活かされないままです。


ネット界隈で言われる質の高い情報っていうのは、専門性が高い情報っていう意味が多い気がしますが、そんな専門性の高い情報は、より受け手を選ぶ結果になります。

どんなに優秀な論文が手に入っても、それを活かそうとする人はごくわずかでしょうし、多くの人はその意味を捉えることもできません。


例え、タイムマシンの作り方がネットに公開されたとしても、科学者は喜んでそれを参考にして作り上げるかもしれませんけど、一般的な人にとって期待するのは、その情報を元に安価なタイムマシンが流通してくれることだと思います。

もちろん、質の高い情報がもたらす効果と言うのは、それを理解できる人だけに理解してもらうためのもの、というわけではありません。

その情報に興味を示し、学んでその専門性を持った人の数が広まっていくことや、そこからより良いものが生み出されるスパイラルが形成される可能性を持ってたりもします。



受け手の居場所と探し方


受け手がそれによって何かを感じるから、その情報っていうのは意味が出てきて、そうではない物はどんなに専門性が高くとも排除される可能性を持っています。

なので、Twitter上で交わされる挨拶や冷やかし、独り言程度の情報も受け手にとっては十分に意味のある情報になっているんだな、と感じます。

そんなものは必要とせず、ただただ専門性の高い情報ばかりを伝えたほうが良いとした場合、人間そんなに多様な言葉は必要ないのではないでしょうか。


知識を求めるために、より専門性の高い情報を必要とするなら、それをPOSTしてくれる人を求めればよいでしょうし、そうでないのなら自分の居心地の良い情報を発してくれる人を求めればよいのではないかなと。

情報が錯綜する今だからこそ、自分にとってより居心地の良い情報の源泉を見つけることが大事じゃないかなと感じます。


全ての人が専門家になる必要も無いでしょうし、質の高い情報から生まれたTwitterという優秀なWebサービスがもたらすものと言うのは、何もそういった専門性の高い発言をする場所というだけでなく、そこでつながった人たちのコミュニケーションをより柔軟にしてくれるためのツールであると思います。


今の自分にとって、良い情報の金鉱はTwitterであり、ブログであると感じています。




ユーザーの機嫌を損ねる行為10選 @ZDNet Japan


読めば大体わかるんだけど、ユーザーというのは一言で収められるような存在ではないと思います。

性格が人それぞれ違うというのがそのままサポート業務に影響が出てきますので、押しすぎてもダメだし、引きすぎると何を解決すればいいのかわからなくなる、といったことにもなってしまいます。



ユーザーのわがままと統制とのジレンマ


ユーザーは何かと求めてくる存在です。

家でできることが何で会社ではできないんだとか、前の会社ではこういうことをやれてたのにここではできないのは不便だとか、できるとわかっていることができないと知れば、何故だということを訴えてきます。


一方で情報システム部門では、より良い環境を提供する努めがあるものの、放置しておくと何をするかわからないユーザーとITの統制に追われます

自分たちでさえ、これができればもっと便利なのにな、と言うことを知ってはいるものの、様々な理由からそれを排除せざるを得ないと言う決断にいたることもしばしばです。

まぁ、仮にも社内のITを管理運営している部門に所属している人たちです。

何かにしろITの恩恵や利便性を普段から感じている部分もあるわけですから、それができないと決断する際の気持ちも察してくれよ、と内心思うこともあったりします。


以前に書いた「企業内のPCはセルフマネジメントの時代に? 」と言うことがどの企業でも当てはめられれば、情報システム部門の仕事は随分と楽になるでしょうが、現実的に考えてそれはかなり厳しいものだと思います。

そうでない場合、ユーザーは好き勝手に自分の環境を作り上げるものの、トラブルが起きるとヘルプデスクに頼るなど、そういうことを野放しにしていると情報システム部門の要員が忙殺されるリスクにもつながりかねません。

なので、統治するために色々な決まりを作って時には口うるさく言うことも出てきたりします。



お互いの存在を認識しあうこと


互いによりよい関係を築くためには、普段から双方が助け合う存在であるということを意識しあうことが大事かな、と思います。

それは、自分と言う個人だけじゃなくて、助けられる人と助ける組織とか。

あなたにとって私が必要だし、私にとってもあなた(またはその組織)が必要ですよ、と言うことをお互いが認識しあっておけば、いざ助けが必要と言ったときにも双方のよりよいところで折り合いをつけるように努力しようとするでしょう。


情報システム部門というのは、バックオフィスで直接的に会社の売上げなどには貢献はしない場合が多いものの、それを生み出す人たちを支える業務があるわけですし、一方で前衛で働く人たちもより効率的に仕事ができるようにITを支援してくれる人たちがいるほうが心強く思います。


変に、「僕たち情報システム部門はITを適切に使うように君らを監督、教育する義務があるんだよ」なんて態度を取っていたら、相手もトゲトゲした態度しか取ってきません。

そういったヘルプデスク業務を行う情報システム部門が官僚組織化してしまい、上の都合だけで勝手に制度を作ってユーザーに守らせようとした場合、反発を食らうことは必至です。


単に、こういう決まりができたから後は守ってくださいね、ではなくそれができた経緯やその決まりを作ることによって生まれる弊害の中から、ユーザーにとって大きくマイナスになる部分を如何にして小さくするか、ということを考慮して説明する義務もあるでしょう。


普段から互いの恩恵を感じられる関係を築いていたら、ユーザーも折れるところはちゃんと折れてくれたりもしますし、その中で最良の方法は何かと言うことをサポートする側も考えられるようになってくれたりします。

システムにバグが見つかれば、それを排除する行為は問題を洗い出して取り除くことに徹するわけですが、人と人との間にある問題は、そんな単純なロジックで成り立つものでもありません。


ITにおけるトラブルを単純に取り除くだけでなく、人と人との接し方にも十分な配慮とケアが必要になると感じます。

まぁ、ただ困ったちゃん(※)は除きますけどね。


情報システム部門ヘルプデスク担当者が地獄に叩き落したいユーザー