隠者の庵 -9ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

障害と呼ばれなかったら、自分など単なる超絶人間性に難アリとでも書かれて端に除けられて終わりだろう。

自力でどうにもならない人間性って何なのとは思うが実際そうとしか言いようがないから仕方がない。

現代社会が現代として過ぎる課程で現代に見合わない価値観や人間性、身体機能、それから知能、

その全てを障害として弾いて来たために人間性が洗練されていき、ますます正常な人間の範囲が狭められていく。

メンタルを崩すのが悪く、メンタルを崩させる人間に対しては大して言及もされないように。

どうしようもない人間がいるから退職代行サービスの検討をしなければならないのに、そうさせた人間の言動については吟味されない。

いつも何かを言われるのは崩した側の方である。


閑話休題。

とにかく人間性で言えば下劣ではないがあまりにも杓子定規で型にはめすぎるためつまらん人と言われたら否定しようがない。

趣味などの本題からかけ離れた話題を得意とするがマニアックなのが高じて場の空気を乱す。

話が脱線したらそのまま帰ってこない。

これでコミュニケーションに難がなくて一体何なのだろうか。

これに場の空気が読めない、人がどう思っているかわからないから自分の道を進む、などなどの難アリの難が極まったようなことをすれば、

そりゃ人間性に問題があると断じられても仕方がないだろう。

ところが社会性とか空気を読むというのは全部論理性ではないから、

感覚的、感情的なものが読めないとどこまでも論理性で解決するわけで、そんなことがうまく行くはずもない。

人の感情を全部棚に上げてデータ化された数字と言葉でしか判断しない、判断できないから場の空気なんて知ったことか!と言う。

当然不平不満は出るしこの人何考えてるのかと思われる。当然評価も下がる。

よりによって人と関わることを目的とした仕事に就いていたのでそれはもう大惨事であった。

上からは呆れられ下からは不平不満が渦巻き、何なら人と関わることをしない仕事はないですか、と診断前なら空気を読まず聞いていたことだろう。

その程度のことは空気を読めないからいとも簡単にやりかねない。

もっとも診断されて症状を自覚しても同じように地雷を踏みに行くから障害レベルなのですが。

感覚的なものが理解できないから理論で武装するしかない、というのを執拗に積み重ねた結果、

何も喋らない方がまだいいだろう、何をやってるのかと言われないためにも、

喋ったら最悪の結果になるからもう口は極力開かない、関係を深めたら節操がなくなるから人と関係を深めない、

という結論になって人との関わりを可能な限り落として生活している。

そうでないと私の人間性は保てない。

特に私生活に踏み込まれると脆いのでプライベートは人との距離感を保てない人には明かさない。

人と居るとゴタゴタになるなら人と関係を深めないでいいはずなのに、世間ではそれを孤立とか言う。

孤独になるような社会性しかないのにどうやって人と関係をもつというのか。

引っぱり出されてあれこれ文句を浴びせられた挙げ句、厄災とか言われる人の身にもなってほしい。

それが嫌だから孤立しているのに。

誠に遺憾である。

特に病気でも何でもないが特に書くことも浮かんで来ないし書くべきことも見つからない。

スランプと言えばそうかもしれないしそうでないかもしれない。

最近は処方される薬の副反応に軒並み「この薬を飲むと眠くなります」と書いてある薬ばかり飲んでいるので多分他の人よりは眠い生活を送っている。

その割に夜は眠れないし一番難易度が高いのが入眠であるから眠気が強いから眠れるとは限らない。

死ぬほど眠くても布団に入ると目が冴えるなんてよくあることである。

そんな生活を送っていると漫然と何も浮かばないようになり、ネタとかアイデアが浮かんで来なくなる時がやってくる。

退屈でも何でもなくとにかく動く気がなくなるのである。

呆然としながら、空とか壁とか何かを見つめるようなのは生きているかどうかもわからない。

生きる気も死ぬ気もしないというのは生きるとしてどのような状態であろうか。

誠に遺憾である。

誰でも小さな頃の夢というのは実現に向けて追いかけていくものだが、

自分の場合そこまで到達してから自分の障害が明らかになって、その症状が自分の夢を追い続けるために一番向いてない、

人と深く関わる仕事をしたいと思っているのにコミュニケーションに障害があればそんなことやらない方がはるかに幸せである。

不向きなものをもがき苦しみながら地を這って追いかけることほど、肉体精神的に負荷、負担がかかるものはない。それは儚い。

じゃあ夢を諦めて別にした方がよかったじゃないか、と言われそうだが、一途に夢を追いかけて周りが見えていないから、

自分が不向きな状態にあることすら気づけない、なので早期発見は大事なのです。

夢を追いかけるとか諦めるとかではなく、現実的に見て残っている能力に出来ることは何かを探し求めるようなことをしないと、

大抵のこと、仕事がコミュニケーション能力の不足で不向きになる現状の発達障害者に対する認識をちゃんとすりあわせていかねばならない。

言わば現実を知る、というやつである。

勉強だけが何とかなって試験やレポートやゼミも実力行使で何とかなるが、それ以外の対人関係を含む課外活動がどうにもならない、

ということを理解するのが十年か二十年は遅かったと思うのである。夢とか見ている場合ではない。

脳だけで夢でも見てろ、というような周りが全く見えてない状態だったから、軌道修正したり現実を知らせる誰かがいることは重要だが、

往々にして現実に深い人間関係がないので人がいないから見つけて貰うのも容易ではない。

人間関係がないから問題も見つからない、結果一人で行けるところまで行って帰ってこれなくなる。

所謂遭難、というやつである。

遭難したら探すにも手間がかかるし、後でなんでそんなことをしたのか、と問い詰められるのは確定である。

仕事なんて一生に関わることであるから、より一層慎重になるべきなのに、私は夢しかみていなかったのである。

そして夢をどこまでも追い求めて目の前にある深淵という名前の現実にある落とし穴にすら気がつけなかったのである。

一体現実とは何か。

誠に遺憾である。

最近配信サイトがらみの事件があってついでにお金の貸し借りとかの問題になっているが、

人にそんなに興味のない自分には何故に縁もゆかりもない人に投げ銭をしたり金を直接貸したりするのかがわからなくなる。

配信をしていること=信用、信頼であることにはならないことなど分かりきっているのに。

むしろ湯水のようにお金を使っている配信ばかりしているとか、見る限りでも人間関係が不審だとか、

何を信じたらいいんでしょうね。

湯水のように使えるお金なんてないからさっぱりわからない。

ここ最近の買い物で一番高いのは画像生成AIのために買った4070tisuper、それでも十万ちょいである。

七桁かかる買い物なんてしたこともない。

自分の車だって全部抜きで二十万くらいの車に乗って任意保健をつけてガタガタ言いながら五年くらい戦いつづけたのである。

これだと金銭感覚が欠けているのか最初からないのかも判別がつかない。

これから先一番高い買い物、というか支出が入院費用になりそうな気がしてならない。

そんな具合で社交費なんて無料である。

飲み会や会合、集会もない。冠婚葬祭もない。当然投げ銭もしない。作業所と家を往復する以外は極力自室で過ごしている。

交友関係を広げようという意欲も勇気もない。広げたら広げた分メンタルに怪我をする。

そんな人間が誰かの配信なんて見ると思いますか。人と居ることに楽しさをあまり感じないのだから人の話を聞いても同じように楽しくない。

少なくとも趣味が合うことがなければ私は本当に見るものもない上に話すことがない。何かを話す理由もない。

その余った時間を誰かがゲームの時間にしても私は口も挟まない。むしろ自分もゲームをやる。

誠に遺憾である。

物やお金を借りる気はない。

返せる気がないから、だけでなく返せるような状況ではないからである。

収入もおぼつかないのに何を返せるのだろうか。借りるということは返すこともワンセットで認識せねばならない。

ましてや完璧な消費者でもないのだから消費者金融でお金なんて借りてはならないのである。

一人で考えるとどうあがいても生活保護以下の水準の収入なんて、

全く返す当ても返す気もないのに金を借りて間違いなく自転車操業をするようなものである。

自分の身体も頭もお金がなくてもなんとかなるように組み立てていかなければならない。

なので頭を下げて金を借りたこともなければローンもろくに組んだこともない。まず組ませてもらえない。

酷いときはクレジットカードの審査も落ちた。ギリギリで駆け込むように何とか一枚作れたが二枚目に行ける気がしない。

やむを得ないから、という理由で作ったのはデビットカードである。

学生時代にはバイト収入なんてろくになくてもカードを作らされたのに、一人になってあれこれ自由になると今度は審査が通らない。

PayPayとか何なの、と思って過ごしている。やっとの思いでクレジットカードを作ったのにこれから何をさせられるんですか。

なおスマホでやってるゲームやアプリの課金は全部ギフトカードで、本体にクレジットカードや口座は紐づけしていない。ゲーム機もそうである。

お金が見えなくなって際限もなくなったときの自分が一番怖いからである。

お金がないなら出ていかないように心がけと心構えはしっかりしておかねばならない。

誠に遺憾である。

ちょっとした普通のSNSやちょっとした調べ物のためにごく普通のサイトを覗いていると、

大人向けみたいなギリギリの広告が頻繁に流れてくるから人前でうかつにスマホも覗けない。

要は成人向けサービスのチキンレースをやっている巻き添えを食らうようなことになる。

ごく普通の調べ物でそんなものを見なければならないとするならば「なんじゃこりゃあ!」と心の中で叫びながらネットを閲覧する羽目になる。

これならまだダイエットや美容やお金の節操のない広告の方が、まだ広告のカテゴリーで済ませられるだけ楽だとまで思えてくる。

セクシャリティな話は、グーグル検索をかけて最初に出てくるサイトの中のような、

ごく普通に見られる場所に置くべきものではない。こんなの別にフェミニストでなくても全速力で殴りにいきたくなる。

スマホの画面を下にスッと動かしたら成人向け広告並のそれっぽい何かがデカデカと画面に映されるとか何の拷問ですかと思うわけである。

サイト側でフィルタリングはしていると思うが、広告を出す側がフィルタリングをどうすり抜けるかという戦いに巻き込まれる、

ごくごくちょっと調べ物をするだけの普通のネットも危険であるということになる。

ただ酷いのは成人向け寸前の広告を見せられるだけではなく、それが不意に目に入ったときに誰が後にいるかわからない、ということである。

別に自分だけの部屋ならタスクキルするなりブラウザバックすればいいだろう。

人と居る場所で不意に後ろを誰かが通りかかる時にたまたま際どい広告が映し出されていれば人間的にも人生的にも平等に終わりである。

人前では調べ物なんてするな、ということなのだろうか。

この際AIにすべてお任せして、そういう人前で見るべきではない広告が勝手に排除されるような世の中にはならないのかなどと思う。

誠に遺憾である。

ここ最近の大きな話題にされるような、大都会でお金がらみで刺殺される女性(何故か話題になるのはそうなる)がやけに増えてきている。

昨日もあった。

大都会には金も集めるけど人数の比率的な意味で考えると人を刺すことに疑問を感じない人間も比例して増えていくということなのだろうか。

東京というか大都市って私にとって平和なところがないですね。まず人が多い時点で論外、などと、

メンタルをやられて波があって時折あらゆる人が鬱陶しくなるような人間は思うのである。

大都市に集約化するのも、やりすぎると単なるウサギ小屋と形容される小さな家に人間を強引に押し込めました、みたいな旗竿地とか、

騒音というか生活音まで騒音になりかねないような密集具合で家をギチギチに建てることは果たして正義なのですかと思う。

大都会の住宅なんて見ててとても健康そうには見えないんですもの。

横に狭いところに暮らすならまだ団地に住んだ方がいいんじゃない、縦より横に広いほうがゆとりがありますよ、等と思うのである。

で、よく東京の賃貸を内見するチャンネルで出てくるワンルームでもちょっと豪華なら家賃が六桁になるとか、

まあ障害者の基礎年金程度ならやっていけないからまず都会には住めない。住んでいるのは親の下にいるから何とか助かっているのである。

障害者というのは大抵親なき後を案じられるものだが発達障害も例外ではない。

ツッコミを入れられるような住宅でも家賃が年金をこえれば住めないし、たちまち生活保護だから都会になればなるほど追い出される可能性が増える。

まあ人の多い、多過ぎる世界なんて窮屈で仕方ないから私は住むべきではないと思う。

障害者はそれなりに集約化されるべき、なのが持論だが東京規模でギチギチに集めろとは言ってない。

少し隙間と物理的な空間を空けて、音がトラブルにならない程度に間隔を空けて、人と人が簡単に干渉しないようにして、

お互いが喧嘩にならないような空間を求めるだけでも都会では喧嘩になりそうで怖い。

ちょっと精神がトラブったら住めそうにない、と思うような家は普通の人が長期間住んでいいかも怪しいと思うのである。

そこに金になりそうなこと、お金がらみでのトラブル要素が増えれば、ますます人なんて住むべきではないだろうと思う。

田舎は田舎でしきたりとか暗黙の了解が多過ぎて困るが都会は都会なりの住みにくさがある。

自分にはその真ん中があればいいと思う。

誠に遺憾である。

何故か暗殺されるような気がして人の目を避けるように動き、

ふらふらと歩いている時にショッピングモールの中にある競馬場へと侵入した。

当然中の人に見つかりこっぴどく叱られて反省文を書かされその場に居合わせた騎手にも頭を下げて、

何とかお許しをいただき、別な出口から出るように促されてそのままモールの中にいた。

そのあと観衆に隠れるように競馬競走を見て人に隠れるように家に帰った。

最近分葱の根本にくっつくネギアブラムシを取るのに心血を注いでいるような気がしないでもない。

畑の雪がまだ溶けないから他にすることがないともいう。

雪が溶ければ一部植え替えたり急に忙しくなるがまだその時期ではない。

部屋の窓辺に置いてあるプランターを持ち上げて大抵本当に下の方にいるネギアブラムシをセロテープか何かで丁寧に取る。

ただそれだけだ。

それしかいないから。

もう少し暖かくなれば勝手に蝿とか羽のついた何かの虫が飛んでくるが、まだ来てない。

よってやるべき事は水やりとアンプルのチェック、それからネギアブラムシが集まって集合体恐怖症を起こさないように気を配るだけである。

まあ集合体なんて本当に見なくてもいいものですから。自然の起こす蓮コラなんて御勘弁願いたい。

ロマネスコとか上手に育ったらそれ自体が集合体みたいなものだからそれはそれで辛い。

誠に遺憾である。

承認欲求とか無いとは言わない。しかし何を承認されて、させて自己の欲求を満たせばいいのかは不明である。

大体のことにおいて感情の処理が演算に追いつかない現状にあっては、いかなる承認欲求も冷酷に弾き返されて帰って来る。

人との関わりで壁に正面衝突し弾き返されることが増えれば、自分のせいだが人を信じられなくなる、

人を信じられないということは人に何らかの理解や啓発を期待することが困難ということである。

信じられるのは自分しかない、というか障害を持っていることを加味した上で何かを考えるのは自分しかない。

他の人は「一般的な感情」があるから、最初から感情が欠落している人の思考は困難である。

協調性が無いように、自分のこだわりに間違いなく合うようにして、自分の言葉でちゃんと語る、とすれば、

それはどうしても自分がやるしかない。そしてそれを極力わかりやすく説明して理解していただくしかない。

それを飛ばして「もっと普通になれ」とか「人とちゃんと会話して」とか頭ごなしに話してくる人は私には信用できない人に映る。

なんでも合理的配慮をしてくれ、とは言わないし言いたくないが出来ないと自覚している事ばかり、命令形で「やれ」と言われるほど辛いものはない。

できないから悩んでいるのに。

そこが出来ないのに何を承認されればいいのか。何を認められればいいのか。何より先に「ちゃんと欠けていること」を認めていただきたい。

誠に遺憾である。