隠者の庵 -10ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

何か最近問題を起こした芸能人がどうあがいても「上杉謙信」としか見えなくなる今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


私は学校や部活動で歌とか音楽をやって来た代償として、他人に対する音楽の許容範囲がとてつもなく狭いという自覚がある。

クラシック系統の音楽を重点的にやってからハードロックに走ったので普通の道が走れていない。

前にも同じ事を書いたがポップスや歌謡曲が死ぬほど嫌いだからクラシックやメタルに走るのである。

それは日常生活でも何ら変わりはなく何の変哲も無いポップスをさらっと歌うカラオケボックスとかたまに虫唾が走る思いで眺めている。

聞くんじゃない。眺めるんだ。つまり敢えて意図的に聞きたくなくなる時の方が多い。

何人も居て何の変哲もない曲ばかり流されたら退屈でたまらない。歌詞の意味とか一々考えても仕方がない。

演歌なら四七抜き音階。ポップスならカノンコードとかありきたりなコード進行。

そのどれもが聞いていて拍手の一つもする気が起きなくなる代物である。なんなら私含めて全員が素人の歌大会なんて自己満足以外の何があるのか。

何ならもうずっと一人カラオケに収監されていた方がいいだろうと自分でも思う。

どうせ大したこともないなら自分の好きなジャンルをかき集めて一人で歌って終わりたい。

私の周りの人々には一切期待できない。普通の邦楽ポップスを死ぬほど聞かされるなんて窓の外のお空の向こうの方角を眺めた方がマシである。

大量生産されるポップスや歌謡曲を右から左に流すように歌って満足できるんですか。

私にはそれができない。しかし自分好みの選曲をすれば唖然とされたり耳を塞がれたりなんなら曲の途中で止められたりする。

そんなカラオケの環境なんて平和だと思えますか。

誠に遺憾である。

物を借りると借りているものを無くさないか、壊さないか、不慮の事故が起きたりしないかと気にもめるようになり、

物を貸しているとちゃんと貸す前の状態で戻ってくるのか気が気でないし、メンタルが不安に潰されそうになるから、

とても自分自身の精神が安定しているような状態ではなくなる。

よく若い頃はレンタルビデオとかレンタルCD、DVDとか利用できたと思う。昔は借りるしか手に入れる方法がなかったから仕方がなかったが。

今はよほどマイナーでなければ配信をみたりサブスクライブすればいいから、インディーズのレアな音源とか相当昔の作品でない限り、

見ようと思えば見られるし聞こうと思えば聞ける。わざわざレンタルして物が壊れることに怯える必要もなくなる。

一回数百円のレンタルでも自分なら大変な事のように感じてしまうので、

現金なんて畏れ多くてとても借りていられない。そもそもお金が急に大量に必要になるイベントを組まない。

貧乏ならもうそのように身体と精神を組み立て、趣味も同じくお金がなくてもどうにかなるジャンルに絞っておく。

読書とか音楽鑑賞とか詩作でもついでに出来ればとても有意義な時間の過ごし方だと思う。

お金なんて名前も書いてないから未知の世界に飛んでいってしまっても、それがどうした、みたいな顔をされたらどうしようもない。

借用書とか書面を用意するに越したことはないが基本金の切れ目が縁の切れ目である。

貸す金もないし。

私が知っている情報ならただで聞き放題であるがこんな偏屈なヲタクの話なんて聞く必要もなかろう。

共有できない自分のものが人の手元にあるまたはその逆、なんて事態が私にはとても耐えられない。

俺のものは俺のもの、お前のものはお前のもの、で終わらせられるならどれだけいいだろう。

だから人に自分のお金なんて渡したくない。もう常に「お金がないから貸せない」を言い訳にする。

誠に遺憾である。

めっちゃ一人になりたいじゃん。周りの人間の大半が俗物に見えてくるじゃん。何なのこの人たち、と絡んでくる人を見る度思うじゃん。

それで社会人になってもあれこれ叫いていたが、気がついたら目の前に障害者手帳があったとかそんな感じ、と言えば言い過ぎだが、

普通の人と会話が繋がらず、協調しながら行動するのが不可能ならそりゃ障害者手帳も配られるわ。


大体の不具合が社会人になって数年で嵐のように訪れてにっちもさっちも行かなくなったので、

もはや福祉の恩恵にあずかるしかない、という理由が上記の通りなので、

苦手な人間とそりが合わないではなく、人間とそりが合わないのである。

妥協するにしても何を妥協すればいいか、どこまで妥協していいのか、微塵も譲れないものは何か、

総合的に勘案して判断したら人付き合いなんて辛いからやってられない。速攻で山に篭れるなら篭りたいと事あるたびに思った。

世間は違和感だらけであるがその違和感は自分のこと、自分の内面のことであるから、決して他人のせいにはできない。

自分の心が軋んで音を立てているが同じ場所にいるのに他の人は全くもって平気である。この違いは一体何だろう。

となって内面を疑い出した結果まあ心に何か支障をきたす原因があるのだろう、どう足掻いても人とは合わない、

そうしてきつい仕事に諦めをつける、普通にもついでに諦めをつけて、心療内科を訪れて必要な検査と問診をしてこうなったのである。

結局「合わないものは合わない」という事実に何ら変わりはないが、障害という名前がついたことで無理強いされることは避けられるようになった。

別に誰とも話さなくても、好きで一人になっているのに、一人でいることを咎められ、

協調性や社会性がないとかいちいち文句を言われたのではたまらない。ついでに胃に穴があく。

そうやって人が突っ込んでくるから自分の平衡が崩れて行くのである。お互いプライベートに踏み込まなければ何も起こらないのに。

喧嘩になるようなことはしたくないが、イベントに出ればそうも言ってられないのでイベントにも出ない。妥協できないことが多すぎる。

とにかく一人にしてくれ、というのは山のように高く、海のように深く難しい事柄なのであろうか。

そこに放っておけばいいのに。

誠に遺憾である。

常識がないなんて何回言われたか知らない。

詳しくいうと社会性の障害になってしまうがとにかく常識はない。

何かをやらかしてから三十分後くらいに「しまった」と気づくがもう後の祭りである。

判断も、時間をかければ何とかなるが時間をかけられないとでたらめになる。

そして変なところに情熱を燃やす。大半は体感的に人の嫌がることをやる。悪い意味で。

いつも一人で仕事をやらせれば何とかなるのに、全権あればなおいい、などと訳のわからないことを考えながら作業をしていたししている。

物に対する細かな配慮はするが、人間に対する細かな配慮を欠く。コミュニケーションが細かく必要になればなるほど仕事が上手くいかなくなる。

臨機応変とは一番程遠い位置にいる。全部揺るぎないルーチンワーク、固定化された作業なら多少細かくても出来る。

しかし大雑把でも人と仕事の内容を日々細かくつめながら行う作業になると集団の和を乱す。

家庭菜園に生き甲斐のようなものを感じているのは一人で自分の畑を耕すからであって、

他人にやらせたりやらされたりすることもないから、あるいは成果を求められないからであって、

人が絡んだら即やる気をなくすだろう。あるいは気を利かせて人が畑に何かをやったら激怒して帰すだろう。


昔の中国の兵法家が人に縫い物を作るよう依頼したところ、ちょっと出来が立派に仕上がったので寸法通りに、指示通りにやらないからと怒った、

と言ったその通りの人間が自分である。人に頼んでやるなら寸分違わずやってもらわんと。

やらせるなら最初に言った指示で最初から最後まできっちり仕上がるようにしないと。

それが出来ないなら最初から指示なんて飛ばすんじゃない。

出来が貧相だから少し手を加えるとかいう常識なんて知るか。


臨機応変に出来ないとは、そういうことである。誠に遺憾である。

朝に病院の待合室でテレビがジェンダーがどうのとか、男らしさ女らしさとは性別役割の押し付けだとか何とか言っていた。

所謂「男のくせに」とか「女性だから許される」とか、ジェンダー平等ではない言い方である。

個人的には出来ることは誰でもやってほしいし無理強いはしたくないが、

出産だけは男性はどうにもならないから頭を下げてお願いしなければならないとして、

それ以外の生活において無闇に男が女がどうだのと言いふらすのはどうかと。

大学でガッチリジェンダー論を学習してそういう本も集めて回ったので、

男は仕事女は家庭などとは微塵も思わないが、ちょっと前までは実際そんなことを言ってる暇とかもなかった。

家事が簡単になって文字通り誰にも出来るようになったし、性別役割分業なんてもう形骸化したものだろう。

実際自分の作る料理に使う調味料は山ほどあるし、洗濯は着た服をそのまま洗濯機に入れて洗剤と漂白剤を入れればいい。

個人個人の嗜好が結果的に男性性や女性性を補強するのはある程度前世代の枠組みがあるから仕方のないことである。

その時代の求める道徳に性別役割がなければそれだけのことである。何をわざわざ制限する必要もあるだろうか。

私は普通に桜餅や菱餅が食べたい。

誠に遺憾である。

ハイ天井。

何もかも題名の通りです。

天井叩いたのはドゥラメンテ以来だぜ。つまり一年前と同じ事を繰り返しているのである。

だって池添軍団なら揃えたくなるじゃないですか。

カレンチャンとスイープトウショウはノリと勢いで何とかしました。

ドリームジャーニーは実装時引き損ねましたがチケットで交換しました。

デュランダルは満を持して天井まで用意して天井近くまで来ましたが強引に何とかしました。

ああ、次はブラストワンピースだ…


なお今回の新シナリオで必須と噂されているレジェンドの友人カードは未だに引けません。

というか個人的に友人カードについては大半その友人カードが必要になるシナリオが終わってからスッと出てくるまでが既定路線である。

要は友人カードを引けないディフェンスに定評のあるプレーヤーなのである。

無料ガチャの間になんかこぼれて他のSSRとか来ないかなと思ったが今のところ全く来ません。


こんな体たらくなので新シナリオで育てたキャラはメカウマ娘よりも、いや畑やUAFよりも何か能力が低いという始末である。

UFなんて久しぶりに見た。当然アーモンドアイには勝てないしアーモンドアイが出てくる条件もほとんどわからないので大半は出てこない。

どんだけアレな環境で私はゲームをプレイしているのでせう。

誠に遺憾である。


p.s.それから頑張って何とかサポカのアーモンドアイは出しました。2枚。

私は自分が疑わしくて実際福祉センターに行って検査も問診も何もかも受けたら見事に発達障害者でしたよ、などということになった。

詳しく言えば自閉症スペクトラム(旧名アスペルガー症候群)と。

そういう物なんですよ、世の中。

逆に言えば誰かに疑わしいと思われても誰にも言われなかったから自分でハンドルを切って福祉センターに突っ込んで行った。

そうしないとどうして世の中とこんなに噛み合わないのか。また噛み合わないということが性格とかの可逆的な問題にされそうだと感じたので。

個人的にはすでに自力で何とかできない不可逆的な何かがあると感じているのに。

いつでも一人ならまあまあどうにかするが、集団では何をしてもどうあがいても上手くいかない、

いわゆる自己啓発の本も読んだし、セミナーではないが人付き合いの講習にも出た。

それでこの体たらくである。

何をやっても人間関係が上手くいかないどころか問題しか生まないのは努力で解決しない致命的な原因があるのではないかと。

それこそ「障害者」レベルにまで自分を落としていかないとこれからの荒波は乗り越えられないだろう、と。

日常生活でも普通に食らったら遭難して行方不明になるような人間関係の荒波ばかりやってくる。

自分を守るには最早制度に、福祉の制度に身を任せるしか自分を守る術がない、

それが心療内科に行って診断が出た頃に思っていたことである。

一回診断してからはもう少しだけ寄り道はしたけれども普通には働けないことを悟ったので、

大人しく生きることにした。自分自身も人によっては荒波であり津波であるから。

自分自身が救われない存在であるのに誰を救うなんて出来るだろう。うぬぼれも程々にしろ。

とでも強制的に思わないと、自意識があらぬ場所にはみ出して全員酷いことになる。

対人関係の障害というのは人前に出れば発動するから、人前に出て役割を求められた時点でもうアウトである。

ひきこもりだの何だのと罵られようが、出てはならない場所には本当に出てはならない。

人も何をするか分からないから恐ろしいが、自分も自分が何をするか分からないから怖い。

自分で制御できないものを誰かに制御させようなんてそんな身勝手なことを思えますか。

障害者だから控えめになるな、自分らしくなんて軽々に言う人もいるが、それは本当に発達障害の本物に触れてないからだと思う。

自分がバーッと弾けたら弾けたまんまなんですよ。誠に遺憾以外の何ものでもない。

本来知的に軽度の障害があったり、障害に至らなくてもグレーゾーンに該当する場合は、

一人で住んでいるような場合でないだろう、少なくともインターネットはやめろ、と自分なら言うし、電話なんて持たせたくない。

今や詐欺の入り口になっているスマホなんて仕組みがどうでアプリの流れも理解できないなら持つべきではないと思う。

昔の固定式の電話ならまだしも、個人に直接繋がるしついでに個人情報の山に繋がるスマホなんて昔の電話と重要性がまるで違う。

通話だけでなくソシャゲの課金とかLINEのスタンプとか、あとは勝手に支払いボタンを押して金が右から左にすり抜けていくか。

また、どんな電話にもいちいち応対して今から銀行で何万円払ってくださいと言われて、

ハイハイと言いながらお金をATMに振り込むのを黙って見ていろというのか。

今や電話の応対の善悪を判断できないというのは人を怒らせる損害よりも自分の損害が多くなって、

人権とか言うならばその人に電話を扱わせてお金を逃げさせるよりも制限した方がその人の為になる、

何なら何処かの施設が知的障害者の連絡とスマホ自体を総合的に管理すればいいのになどと思う。

そうでなければあれこれ設定して管理できる権限を制限した上でスマホを渡すか。

それが私があちこちの障害者施設や作業所を利用者として巡って思ったことである。

不幸か幸いか知らないが、私には発達障害はあっても知的な障害はない、

でも知的には何もなくてもそもそも人と応対するのが苦手なので電話はそもそもかけないし出ない。可能な限り無視する。

警戒心というか猜疑心というか不審なものには関わらない、という知能(?)がない場合、情報機器なんてどれも持たせてはならない。

隙間を制御できずにいつでも全開にしていれば、それは隙間ではなく単なる侵入経路である。

自分の滅びるきっかけになるような穴を放置しておきたくはないが、

その穴になる可能性のある隙間が、ちゃんと隙間だとわからなければ無謀なる無防備である。

今の世の中なら闇バイトでも詐欺師でもどうぞ入ってください、と丁重に中に案内されるようなものである。そんなもの滅びない方がおかしい。

だから本来知的に軽度であってもグレーゾーンであっても、決して一人にしてはならない、と思う状態であれば、

日常を管理するような福祉施設に入って情報機器については委任しなければならない。それか精神の障害者であれば精神病院に入るか。

つまり私のように知的には何もなくても、いずれ精神の偏りが看過できなくなれば、そのような施設に押し込まれるのは必然である。

むしろ強制的に隔離しなければならない。人権とかのんきに言ってられるか。

誠に遺憾である。

こう、暖かい地域だと分葱を九月くらいに植えて大体この時期まで野外に植えておいてそろそろ大きくなったねとか言うじゃないですか。

寒冷地の分葱は雪に埋まって生育どころではなくなるので、少し分けつした程度の小さな球根でも寒すぎて育たなくなるから、

本当に小さいまま雪が降る前くらいに掘り返して小さいまま分けて屋内のプランターか植木鉢に埋め直すじゃないですか。

今まで待ちましたよ。待ちましたがおおよそ一回も分けつしないで真っ直ぐ育ってくれました。

要するに球根の数だけ太陽に向かって曲がって伸びていくのです。

分けつしたのは一個か二個くらい、そうめん程度の細い葉っぱが一本伸びているくらいの悲惨な分けつ具合です。

なので分葱は分けつがすごいですね、と言われてもなんかピンと来ない。

球根の部分がなければ普通の葱にしか見えない。

まあ外は氷点下ですからね。生き物を育てようというのがそもそも無謀な話です。

寒いし暖かくすると灯油の代金でえらいことになるからそんなに室温も上げていられない。

なんでそんな場所で分葱なんて育てようと思ったのか、と言われても自分が寒冷地に住んでいるからとしか言いようがない。

おまけに「分葱の寒冷地での栽培はおすすめしません」とかネットに書かれる始末である。

ならなんでそんなものをその辺のホームセンターで売ってしまうのか。

その分葱の袋の裏の説明でも「寒冷地:植え時は八月後半、収穫十月十一月と翌年五月六月」と説明されているが、

冬は時々氷点下二桁まで行く土地で分葱が庭で生き延びられるのか不安で仕方がない。

あまりに不安だから大部分プランターに植えたが、多分一般的な分葱の育ち方はしてないだろう。

たとえ寒冷地の冬を野外で生き延びたとしても標準的な育ち方からすれば生育期間が短すぎる。

寒冷地はおとなしく寒冷地向けの植物でもやってろ、ということなのだろう。

耐寒性のある長葱は雪に埋まったままで存在している。生きているかは見えないが、大半は普通に生えてくることだろう。

寒さに強い浅葱は毎年雪に埋もれても、春になり雪が溶けたら何食わぬ顔して生えてくるから、もうそういうものだと思っているが、

分葱に関しては昨年始めたばかりなので展開が全く読めない。

とりあえず暖かい土地と同じようにプランターに植えても、今回ほとんど分けつしないで育ったことだけは確かである。

誠に遺憾である。

賭け事とか日常的に触れない人間には人が何故ギャンブルに手を出すのかを知らない。

最近スポーツ選手とかお笑い芸人がオンラインカジノに手を出して、

法律的な問題になっている(一部は常習性もなければ時効が成立しているからその人は果たして話題にする必要はあるのかとは思うが)。

馬券とかたまに買うが、推しの単勝と複勝を百円ずつ勝とうが負けようが買う物だと思っている。

言わばファンとして必然的な支出の範囲内である。

結構前にどこかの製紙会社のえらい人が直接カジノに何度も乗り込んで、すってんてんにされて帰ってきて大問題になったが、

この国にはカジノがないが直接カジノに行けなくても外国の、ネット上のオンラインカジノで「賭ける」という欲は満たされるものなのだろうか、

と、賭け事とかにほぼ興味の無い人間は思う。自分も競馬やオートレースは定期的に見ているがあくまでも走るのを見たいだけである。

何ならF1やインディカーのように何も賭けないでも見物するだけで満足できる。

韓国に旅行に行ったときに何故か旅行の行程にカジノが入っていたので巻き込まれるように入る羽目になったが、

特に英語とか韓国語も喋れないので賭けなんて成立する前にボコボコにされるだけのことだろう、と思って何もしなかった。

賭博というのはおおよそ胴元がキッチリ儲けないと場が永続的に保持できないから、参加者の大半はおとなしく負けなければならない。

まさか自分だけは負けない、なんてことは到底あり得ない。カジノの対戦相手、ディーラーは専門の訓練を積んだプロである。

素人がとても勝てる相手ではないのに無謀にも突っかかるのは本当に無謀、蛮勇とでも言うしかあるまい。

それは相手がオンラインでも同じことである。プロのプログラムにどうやって勝てるというのか。

素人の喧嘩自慢がプロの格闘家に突っ込んで行って勝てるなんて思わないが、カジノのプロなら勝てるとか何を夢見るのか。

その辺に置いてあるパチンコやパチスロの機械にすらけちょんけちょんにされているのに、他の何かなら勝てるとか思える気持ちがわからない。

株とか投資のおいしい話が無いように、賭博というのは、長期的にはトータルで賭けた側がボコボコにされるように出来ている。

カジノが火事のときに金が燃えるだけ燃えてしまった方がまだスッキリするかもしれない。

オンラインカジノを家事の片手間にやって勝とうなんてカジノが火事の時でもないとあり得ない。

誠に遺憾である。