隠者の庵 -11ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私は自分が疑わしくて実際福祉センターに行って検査も問診も何もかも受けたら見事に発達障害者でしたよ、などということになった。

詳しく言えば自閉症スペクトラム(旧名アスペルガー症候群)と。

そういう物なんですよ、世の中。

逆に言えば誰かに疑わしいと思われても誰にも言われなかったから自分でハンドルを切って福祉センターに突っ込んで行った。

そうしないとどうして世の中とこんなに噛み合わないのか。また噛み合わないということが性格とかの可逆的な問題にされそうだと感じたので。

個人的にはすでに自力で何とかできない不可逆的な何かがあると感じているのに。

いつでも一人ならまあまあどうにかするが、集団では何をしてもどうあがいても上手くいかない、

いわゆる自己啓発の本も読んだし、セミナーではないが人付き合いの講習にも出た。

それでこの体たらくである。

何をやっても人間関係が上手くいかないどころか問題しか生まないのは努力で解決しない致命的な原因があるのではないかと。

それこそ「障害者」レベルにまで自分を落としていかないとこれからの荒波は乗り越えられないだろう、と。

日常生活でも普通に食らったら遭難して行方不明になるような人間関係の荒波ばかりやってくる。

自分を守るには最早制度に、福祉の制度に身を任せるしか自分を守る術がない、

それが心療内科に行って診断が出た頃に思っていたことである。

一回診断してからはもう少しだけ寄り道はしたけれども普通には働けないことを悟ったので、

大人しく生きることにした。自分自身も人によっては荒波であり津波であるから。

自分自身が救われない存在であるのに誰を救うなんて出来るだろう。うぬぼれも程々にしろ。

とでも強制的に思わないと、自意識があらぬ場所にはみ出して全員酷いことになる。

対人関係の障害というのは人前に出れば発動するから、人前に出て役割を求められた時点でもうアウトである。

ひきこもりだの何だのと罵られようが、出てはならない場所には本当に出てはならない。

人も何をするか分からないから恐ろしいが、自分も自分が何をするか分からないから怖い。

自分で制御できないものを誰かに制御させようなんてそんな身勝手なことを思えますか。

障害者だから控えめになるな、自分らしくなんて軽々に言う人もいるが、それは本当に発達障害の本物に触れてないからだと思う。

自分がバーッと弾けたら弾けたまんまなんですよ。誠に遺憾以外の何ものでもない。

本来知的に軽度の障害があったり、障害に至らなくてもグレーゾーンに該当する場合は、

一人で住んでいるような場合でないだろう、少なくともインターネットはやめろ、と自分なら言うし、電話なんて持たせたくない。

今や詐欺の入り口になっているスマホなんて仕組みがどうでアプリの流れも理解できないなら持つべきではないと思う。

昔の固定式の電話ならまだしも、個人に直接繋がるしついでに個人情報の山に繋がるスマホなんて昔の電話と重要性がまるで違う。

通話だけでなくソシャゲの課金とかLINEのスタンプとか、あとは勝手に支払いボタンを押して金が右から左にすり抜けていくか。

また、どんな電話にもいちいち応対して今から銀行で何万円払ってくださいと言われて、

ハイハイと言いながらお金をATMに振り込むのを黙って見ていろというのか。

今や電話の応対の善悪を判断できないというのは人を怒らせる損害よりも自分の損害が多くなって、

人権とか言うならばその人に電話を扱わせてお金を逃げさせるよりも制限した方がその人の為になる、

何なら何処かの施設が知的障害者の連絡とスマホ自体を総合的に管理すればいいのになどと思う。

そうでなければあれこれ設定して管理できる権限を制限した上でスマホを渡すか。

それが私があちこちの障害者施設や作業所を利用者として巡って思ったことである。

不幸か幸いか知らないが、私には発達障害はあっても知的な障害はない、

でも知的には何もなくてもそもそも人と応対するのが苦手なので電話はそもそもかけないし出ない。可能な限り無視する。

警戒心というか猜疑心というか不審なものには関わらない、という知能(?)がない場合、情報機器なんてどれも持たせてはならない。

隙間を制御できずにいつでも全開にしていれば、それは隙間ではなく単なる侵入経路である。

自分の滅びるきっかけになるような穴を放置しておきたくはないが、

その穴になる可能性のある隙間が、ちゃんと隙間だとわからなければ無謀なる無防備である。

今の世の中なら闇バイトでも詐欺師でもどうぞ入ってください、と丁重に中に案内されるようなものである。そんなもの滅びない方がおかしい。

だから本来知的に軽度であってもグレーゾーンであっても、決して一人にしてはならない、と思う状態であれば、

日常を管理するような福祉施設に入って情報機器については委任しなければならない。それか精神の障害者であれば精神病院に入るか。

つまり私のように知的には何もなくても、いずれ精神の偏りが看過できなくなれば、そのような施設に押し込まれるのは必然である。

むしろ強制的に隔離しなければならない。人権とかのんきに言ってられるか。

誠に遺憾である。

こう、暖かい地域だと分葱を九月くらいに植えて大体この時期まで野外に植えておいてそろそろ大きくなったねとか言うじゃないですか。

寒冷地の分葱は雪に埋まって生育どころではなくなるので、少し分けつした程度の小さな球根でも寒すぎて育たなくなるから、

本当に小さいまま雪が降る前くらいに掘り返して小さいまま分けて屋内のプランターか植木鉢に埋め直すじゃないですか。

今まで待ちましたよ。待ちましたがおおよそ一回も分けつしないで真っ直ぐ育ってくれました。

要するに球根の数だけ太陽に向かって曲がって伸びていくのです。

分けつしたのは一個か二個くらい、そうめん程度の細い葉っぱが一本伸びているくらいの悲惨な分けつ具合です。

なので分葱は分けつがすごいですね、と言われてもなんかピンと来ない。

球根の部分がなければ普通の葱にしか見えない。

まあ外は氷点下ですからね。生き物を育てようというのがそもそも無謀な話です。

寒いし暖かくすると灯油の代金でえらいことになるからそんなに室温も上げていられない。

なんでそんな場所で分葱なんて育てようと思ったのか、と言われても自分が寒冷地に住んでいるからとしか言いようがない。

おまけに「分葱の寒冷地での栽培はおすすめしません」とかネットに書かれる始末である。

ならなんでそんなものをその辺のホームセンターで売ってしまうのか。

その分葱の袋の裏の説明でも「寒冷地:植え時は八月後半、収穫十月十一月と翌年五月六月」と説明されているが、

冬は時々氷点下二桁まで行く土地で分葱が庭で生き延びられるのか不安で仕方がない。

あまりに不安だから大部分プランターに植えたが、多分一般的な分葱の育ち方はしてないだろう。

たとえ寒冷地の冬を野外で生き延びたとしても標準的な育ち方からすれば生育期間が短すぎる。

寒冷地はおとなしく寒冷地向けの植物でもやってろ、ということなのだろう。

耐寒性のある長葱は雪に埋まったままで存在している。生きているかは見えないが、大半は普通に生えてくることだろう。

寒さに強い浅葱は毎年雪に埋もれても、春になり雪が溶けたら何食わぬ顔して生えてくるから、もうそういうものだと思っているが、

分葱に関しては昨年始めたばかりなので展開が全く読めない。

とりあえず暖かい土地と同じようにプランターに植えても、今回ほとんど分けつしないで育ったことだけは確かである。

誠に遺憾である。

賭け事とか日常的に触れない人間には人が何故ギャンブルに手を出すのかを知らない。

最近スポーツ選手とかお笑い芸人がオンラインカジノに手を出して、

法律的な問題になっている(一部は常習性もなければ時効が成立しているからその人は果たして話題にする必要はあるのかとは思うが)。

馬券とかたまに買うが、推しの単勝と複勝を百円ずつ勝とうが負けようが買う物だと思っている。

言わばファンとして必然的な支出の範囲内である。

結構前にどこかの製紙会社のえらい人が直接カジノに何度も乗り込んで、すってんてんにされて帰ってきて大問題になったが、

この国にはカジノがないが直接カジノに行けなくても外国の、ネット上のオンラインカジノで「賭ける」という欲は満たされるものなのだろうか、

と、賭け事とかにほぼ興味の無い人間は思う。自分も競馬やオートレースは定期的に見ているがあくまでも走るのを見たいだけである。

何ならF1やインディカーのように何も賭けないでも見物するだけで満足できる。

韓国に旅行に行ったときに何故か旅行の行程にカジノが入っていたので巻き込まれるように入る羽目になったが、

特に英語とか韓国語も喋れないので賭けなんて成立する前にボコボコにされるだけのことだろう、と思って何もしなかった。

賭博というのはおおよそ胴元がキッチリ儲けないと場が永続的に保持できないから、参加者の大半はおとなしく負けなければならない。

まさか自分だけは負けない、なんてことは到底あり得ない。カジノの対戦相手、ディーラーは専門の訓練を積んだプロである。

素人がとても勝てる相手ではないのに無謀にも突っかかるのは本当に無謀、蛮勇とでも言うしかあるまい。

それは相手がオンラインでも同じことである。プロのプログラムにどうやって勝てるというのか。

素人の喧嘩自慢がプロの格闘家に突っ込んで行って勝てるなんて思わないが、カジノのプロなら勝てるとか何を夢見るのか。

その辺に置いてあるパチンコやパチスロの機械にすらけちょんけちょんにされているのに、他の何かなら勝てるとか思える気持ちがわからない。

株とか投資のおいしい話が無いように、賭博というのは、長期的にはトータルで賭けた側がボコボコにされるように出来ている。

カジノが火事のときに金が燃えるだけ燃えてしまった方がまだスッキリするかもしれない。

オンラインカジノを家事の片手間にやって勝とうなんてカジノが火事の時でもないとあり得ない。

誠に遺憾である。

基本的にコミュニケーションが頻繁に必要になるほど仕事が上手くいかなくなる確率が比例して上がっていくので、

何も話さなくていい一人で始められて終わらせられる仕事があればどれだけいいと思ったことだろう。

自営業やればいいじゃん、起業すればいいじゃん、などとはよく思いますが、

かといって一人でやる、今から一人で取り組んで完結出来る仕事なんて何があるのか、と煩悶する毎日でございます。

その商売の学習にしても人とは話さないといけないし、聞いただけで終わるなら大抵の人は商売が出来ているだろう。私の出る幕などない。

とにかく何をするにしてもコミュニケーションを挟まなければならないから、年貢を納めたら即帰ることが出来るという世の中でもない。

人と会話がかみ合わないとかいうのは、人と会話を強制することによっても傷が深まっていく。

会話というか、世間話すらかみ合わない。

コミュニケーションの障害だと言えば感覚的に話を合わせることが難しいし、共通の認識というものがどこにあるかも分かっていない。

IQが20違うと話が合わないという俗説をまともに信じるならば、元からあるコミュニケーションの障害に加えて、

IQが120後半の自分などどうあがいても話が合わないのが必然、むしろ当たり前の世界に住んでいるのではないか。

普通に鎌倉仏教の話がしたいと思っているがそんな話題を振る人は一人もいない。いつも私は虚空を見つめて禅定に入っているかのようである。

大体普通のことを考えて生きていないという自覚はあるのだからそこを合わせればいいだろう、とは思うが、

それを合わせたらこちらは生きている気がしない。誠に遺憾である。

何で自分が料理を作るのか、と聞かれたら、自分が作らないと自分の食べたい味にならないでしょう、どうして自分で作らないのか、と言いかねない。

老若男女関係なく同じ文言を使って話すことになるだろう。

人の料理に不満があるとかではなく単純に好みを突き詰めていくと自分以外に誰が自分の感覚的な問題を解決するのか?という話になる。

別に男女がどうとか男子厨房に立つべからず、といった文化的規範には一切関係ない。

やりたいからやる、の一言に尽きる。

ジェンダーとかポリコネとかは一切関係ない。

専門的なシェフや板前で無い限り家庭的な料理というものはどれでも誰でもビシッと決まるものではなく、

どうしても個人の好みが混じった家庭内の事情の最大公約数みたいな中途半端な料理ができあがる。

そして個人の好みはよく衝突する。豆腐は絹と木綿でぶつかるし、カレーは甘口と辛口でぶつかる。その他数えればきりがない。

あまりにも対立の種が多いと人になんて頼んでもどうしようもない、無力感に襲われる。

好みを合わせるのが面倒くさい時なんて雑に赤いきつねとかカップ焼きそばを人の前に置く。

それはそれで時折食べたくなるが、いつも食べていい物だとは思わない。

自分の好みなんて自分しか知らないのに他人に任せられるか、となると、自分でやるしかない。

調理に失敗してとても人に見せられないグロい料理が出来るときもあるが、そういうときはなおさら自分で食べるしかない。

失敗とかも含めて面白いと思うのが料理というものである。そうでなければ料理なんてやってない。

一生の食事の回数なんて本当に決まっているようなものなのに、人に味付けを全部やってもらうとか、私には信じられない。

どうして好みを突き詰めていかないのか。人の料理に文句を言うなら自分が言える権利がなければならない。

つまり自分で作れる技術がないと人に文句なんて言う権利も権限もない。単なる罵詈雑言である。誹謗中傷に過ぎない。

何もしないのに人の料理に文句をつけるとか、ほならね、自分で作ってみろ、と言いたくなる。

人に言われたくないから自分は自分で食べるものは自分で作る。作るしかない。自己責任というやつである。

出来ないのに怒るとかまず人にあるまじき行為である。べしょべしょのカレーが嫌なら自分で作る。私ならそうする。

そのために訓練もしたりレシピも調べたり実技訓練(当然失敗含む)をして自分の舌を自分で満たせるようにした。

自分の好みは自分で何とかしないと生きている気がしない。

誠に遺憾である。

もうホームセンターにも地下茎が売られるようになった今日この頃、皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


まあ庭の菜園の雪の方はまだ溶ける気配はありませんが。これが無くならないことには何もできないから、雪を融かせる設備のある人が羨ましい。

自然を強引にいじってまで家庭菜園はするものではないと思っているので、

早く暖かくはなってほしいけれども「汚物は消毒だー!」などと言いながら火炎放射器で雪を溶かすようなことはやらない。

大体ガソリンも灯油も酷い値段になっているので頑張れば頑張るほど財布に深刻なダメージがいく。

自力で気合の入ったことをやるとしても、完全に雪が溶けてからマルチや小さい温室を設置して雪が降る前に撤去するくらいが精一杯である。

冬も家の中で植物を育てたいが花にはそんなに興味がないし、同居人が虫がつくとか何とか文句を言い始めるため、

凍ったらダメになる野菜の種を屋内でプランターにまいて春まで低温で育てるのが関の山である。

もっともアブラムシとかもうすでにいるし、苔とか食べる小さな虫とか、何か知らん羽虫とかそろそろ出て来る時期である。

夏なんて家の中に植物を置いて無くても勝手に虫がわいてくるのに植物もくそもないと思うのは気のせいなのだろうか。

大体虫を呼びたくないなら仏花も造花にすべきである。生ゴミとかもう庭で燃やせないご時世だが、本来何かとまとめて燃やしてしまいたい。

それをごみ袋とか冷蔵庫に強制的に保管させる限り虫がわくことは避けられない。

生ゴミを庭に穴を掘って埋めて発酵させるにも時間がかかるし、なんなら嗅ぎつけた虫が余計にやってくる。

仕方ないので昨年末に米ぬかを撒き散らしたし、今年もマヴァンプをまいて特に臭いの出ないようにやるしかない。

有機農法とか簡単に言うが手間暇と時間と広大な面積と容積がかかる作業は狭い畑ではできない。農薬だけは極力使いたくないけれども。

菜園が狭いから増えたニラと水仙は接近して間違えそうになるし、既に一部花卉と野菜が混ざってしまっている。

私からすれば野菜とかもきちんと育てればちゃんと花が咲くと言いたいが、華やかな花を求める人にはそうではないらしい。

それは生物の真相を見ていない。

誠に遺憾である。

外は雪で埋まるから冬の間に園芸をしようとすれば強制的に屋内でプランター栽培になる。ガチでそれしかない。

外は三月下旬まで真っ白である。真っ白でなくなっても、土が凍っていれば植物なんて育てられない。

そんなこともあろうかと、昨年は多年生草本に力を入れて、一年草以外にも、

葱だの韮だのアスパラガスだの何だのととにかく氷点下でも枯れない植物を大幅増量した。

ただ冬にボーッとしていると生きる意味を失うからプランターを設置して、

暖かい地域なら冬を越せるような植物を家の中に植え替えた。

おかげで分葱はすっかり藪になった。

春植えの分葱は食べるが、向こうでは分葱は冬の間は収穫しないで球根を肥大化させて春に植え直す、と聞いてプランターもそのようにしたら、

皆太陽の方向に伸びて行ってめちゃくちゃ傾き、影になった部分にアブラムシとか住み着いた。

もうすぐ雪は解けるが根本から曲がった葱は直らない。土に植え替える際、一回曲がった場所を大幅に切らなければ根本から曲がったままである。

最初に伸びるときに四十五度曲がれば垂直に伸びることはほとんど期待できない。

しかも冬に保管してきた分葱の球根が室温の関係で芽が生えて伸びたのでやむなくプランターに植え直したが、

そんなことは考えていなかったのでプランターが過密になり葱の薮に拍車をかけている。

田舎にあるまじき過密具合である。

誠に遺憾である。

ここ最近は家から出ると路面が凍っていて簡単に曲がることもできないから困る。

玄関に炭酸飲料を置きっぱなしにしておいても気は抜けないし開けても泡が噴き出したりしないし、

松の木には氷がくっついていて緑と白が混じった表現しにくい色をしている。

ダイヤモンドダストみたいな粒子は空を飛んでいて晴れていてとても明るいが寒いので外に長時間いるわけにもいかない。

そんなことをすれば風邪をひく。

誠に遺憾である。

今日は寒い

 

 

 

 

 

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昔から人との関係を深めるように自分から動き出すことは稀だった気がする。

一人になる時間が確保できない人生とは何とも虚しいものである、

人と同じ空間にいて、至る所で理由もなく常に見られていなければならないなんて拷問でしかない。それは疲れる。

居間に二人以上でいるともう自室に帰っていいですか、と言いたくなる気分を必死にこらえて過ごすことになる。

ひとりでいる方が退屈しない。ひとりでしなければならないことは山のようにあるが二人でしなければならないことはない。

こんな事を言うから孤独死もやむを得ないものだと思って孤独死前提で過ごしている。

そのうち寝床にブルーシートでも引く必要が出てくることだろう。移動に支障を来すようになれば。

無理にパートナーを見つける利点は私には見当たらない。誇張でも何でもなくひとりになれない場所では目が半分くらい死んでいる。

虚空を見つめている、とも言われる。ひとりで考え事をしているときは大抵意識がここにない。ないものはない。

人と居る空間の大半が私にはどうしていいか見当たらない場所である。部屋にこもれないと精神的に死ぬ。

植物をずっと眺めているのは会話なんてしなくていいからである。

人を求めようともしていないから誰も来ないことを疑問にも思わない。むしろ不意に来たら困る。筋道はどこまでも一直線でありたい。

常に出家というか隠遁したいという願望が頭をよぎって止まらないのも、結局一人になれないから強制的にやってくれ、

都市部で一人暮らしをしていた時は山奥に行きたいなんて勝手なことを言い放っていたが、

十数年一人暮らしをしても人を呼んだ事なんて本当に数えるほどしかない。大抵が意図しない来客である。

白い目をして追い出せるなら追い出したくなる程度の。煩わしい業者とか何かの勧誘とか。

大抵の人は人と暮らすことに疑問を感じたりしないから、人と暮らすことに疑問を感じる人の気持ちはわかってもらえないだろう。

いや、本当に必要な時間以外で人と過ごすと息が詰まりそうになる。不安と恐れで何か押し潰されそうな感じがする。

そんなのが人間を求めようとするだろうか。そしてそれを障害と呼ばずして何であろうか。

誠に遺憾である。