隠者の庵 -11ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

基本的にコミュニケーションが頻繁に必要になるほど仕事が上手くいかなくなる確率が比例して上がっていくので、

何も話さなくていい一人で始められて終わらせられる仕事があればどれだけいいと思ったことだろう。

自営業やればいいじゃん、起業すればいいじゃん、などとはよく思いますが、

かといって一人でやる、今から一人で取り組んで完結出来る仕事なんて何があるのか、と煩悶する毎日でございます。

その商売の学習にしても人とは話さないといけないし、聞いただけで終わるなら大抵の人は商売が出来ているだろう。私の出る幕などない。

とにかく何をするにしてもコミュニケーションを挟まなければならないから、年貢を納めたら即帰ることが出来るという世の中でもない。

人と会話がかみ合わないとかいうのは、人と会話を強制することによっても傷が深まっていく。

会話というか、世間話すらかみ合わない。

コミュニケーションの障害だと言えば感覚的に話を合わせることが難しいし、共通の認識というものがどこにあるかも分かっていない。

IQが20違うと話が合わないという俗説をまともに信じるならば、元からあるコミュニケーションの障害に加えて、

IQが120後半の自分などどうあがいても話が合わないのが必然、むしろ当たり前の世界に住んでいるのではないか。

普通に鎌倉仏教の話がしたいと思っているがそんな話題を振る人は一人もいない。いつも私は虚空を見つめて禅定に入っているかのようである。

大体普通のことを考えて生きていないという自覚はあるのだからそこを合わせればいいだろう、とは思うが、

それを合わせたらこちらは生きている気がしない。誠に遺憾である。

何で自分が料理を作るのか、と聞かれたら、自分が作らないと自分の食べたい味にならないでしょう、どうして自分で作らないのか、と言いかねない。

老若男女関係なく同じ文言を使って話すことになるだろう。

人の料理に不満があるとかではなく単純に好みを突き詰めていくと自分以外に誰が自分の感覚的な問題を解決するのか?という話になる。

別に男女がどうとか男子厨房に立つべからず、といった文化的規範には一切関係ない。

やりたいからやる、の一言に尽きる。

ジェンダーとかポリコネとかは一切関係ない。

専門的なシェフや板前で無い限り家庭的な料理というものはどれでも誰でもビシッと決まるものではなく、

どうしても個人の好みが混じった家庭内の事情の最大公約数みたいな中途半端な料理ができあがる。

そして個人の好みはよく衝突する。豆腐は絹と木綿でぶつかるし、カレーは甘口と辛口でぶつかる。その他数えればきりがない。

あまりにも対立の種が多いと人になんて頼んでもどうしようもない、無力感に襲われる。

好みを合わせるのが面倒くさい時なんて雑に赤いきつねとかカップ焼きそばを人の前に置く。

それはそれで時折食べたくなるが、いつも食べていい物だとは思わない。

自分の好みなんて自分しか知らないのに他人に任せられるか、となると、自分でやるしかない。

調理に失敗してとても人に見せられないグロい料理が出来るときもあるが、そういうときはなおさら自分で食べるしかない。

失敗とかも含めて面白いと思うのが料理というものである。そうでなければ料理なんてやってない。

一生の食事の回数なんて本当に決まっているようなものなのに、人に味付けを全部やってもらうとか、私には信じられない。

どうして好みを突き詰めていかないのか。人の料理に文句を言うなら自分が言える権利がなければならない。

つまり自分で作れる技術がないと人に文句なんて言う権利も権限もない。単なる罵詈雑言である。誹謗中傷に過ぎない。

何もしないのに人の料理に文句をつけるとか、ほならね、自分で作ってみろ、と言いたくなる。

人に言われたくないから自分は自分で食べるものは自分で作る。作るしかない。自己責任というやつである。

出来ないのに怒るとかまず人にあるまじき行為である。べしょべしょのカレーが嫌なら自分で作る。私ならそうする。

そのために訓練もしたりレシピも調べたり実技訓練(当然失敗含む)をして自分の舌を自分で満たせるようにした。

自分の好みは自分で何とかしないと生きている気がしない。

誠に遺憾である。

もうホームセンターにも地下茎が売られるようになった今日この頃、皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


まあ庭の菜園の雪の方はまだ溶ける気配はありませんが。これが無くならないことには何もできないから、雪を融かせる設備のある人が羨ましい。

自然を強引にいじってまで家庭菜園はするものではないと思っているので、

早く暖かくはなってほしいけれども「汚物は消毒だー!」などと言いながら火炎放射器で雪を溶かすようなことはやらない。

大体ガソリンも灯油も酷い値段になっているので頑張れば頑張るほど財布に深刻なダメージがいく。

自力で気合の入ったことをやるとしても、完全に雪が溶けてからマルチや小さい温室を設置して雪が降る前に撤去するくらいが精一杯である。

冬も家の中で植物を育てたいが花にはそんなに興味がないし、同居人が虫がつくとか何とか文句を言い始めるため、

凍ったらダメになる野菜の種を屋内でプランターにまいて春まで低温で育てるのが関の山である。

もっともアブラムシとかもうすでにいるし、苔とか食べる小さな虫とか、何か知らん羽虫とかそろそろ出て来る時期である。

夏なんて家の中に植物を置いて無くても勝手に虫がわいてくるのに植物もくそもないと思うのは気のせいなのだろうか。

大体虫を呼びたくないなら仏花も造花にすべきである。生ゴミとかもう庭で燃やせないご時世だが、本来何かとまとめて燃やしてしまいたい。

それをごみ袋とか冷蔵庫に強制的に保管させる限り虫がわくことは避けられない。

生ゴミを庭に穴を掘って埋めて発酵させるにも時間がかかるし、なんなら嗅ぎつけた虫が余計にやってくる。

仕方ないので昨年末に米ぬかを撒き散らしたし、今年もマヴァンプをまいて特に臭いの出ないようにやるしかない。

有機農法とか簡単に言うが手間暇と時間と広大な面積と容積がかかる作業は狭い畑ではできない。農薬だけは極力使いたくないけれども。

菜園が狭いから増えたニラと水仙は接近して間違えそうになるし、既に一部花卉と野菜が混ざってしまっている。

私からすれば野菜とかもきちんと育てればちゃんと花が咲くと言いたいが、華やかな花を求める人にはそうではないらしい。

それは生物の真相を見ていない。

誠に遺憾である。

外は雪で埋まるから冬の間に園芸をしようとすれば強制的に屋内でプランター栽培になる。ガチでそれしかない。

外は三月下旬まで真っ白である。真っ白でなくなっても、土が凍っていれば植物なんて育てられない。

そんなこともあろうかと、昨年は多年生草本に力を入れて、一年草以外にも、

葱だの韮だのアスパラガスだの何だのととにかく氷点下でも枯れない植物を大幅増量した。

ただ冬にボーッとしていると生きる意味を失うからプランターを設置して、

暖かい地域なら冬を越せるような植物を家の中に植え替えた。

おかげで分葱はすっかり藪になった。

春植えの分葱は食べるが、向こうでは分葱は冬の間は収穫しないで球根を肥大化させて春に植え直す、と聞いてプランターもそのようにしたら、

皆太陽の方向に伸びて行ってめちゃくちゃ傾き、影になった部分にアブラムシとか住み着いた。

もうすぐ雪は解けるが根本から曲がった葱は直らない。土に植え替える際、一回曲がった場所を大幅に切らなければ根本から曲がったままである。

最初に伸びるときに四十五度曲がれば垂直に伸びることはほとんど期待できない。

しかも冬に保管してきた分葱の球根が室温の関係で芽が生えて伸びたのでやむなくプランターに植え直したが、

そんなことは考えていなかったのでプランターが過密になり葱の薮に拍車をかけている。

田舎にあるまじき過密具合である。

誠に遺憾である。

ここ最近は家から出ると路面が凍っていて簡単に曲がることもできないから困る。

玄関に炭酸飲料を置きっぱなしにしておいても気は抜けないし開けても泡が噴き出したりしないし、

松の木には氷がくっついていて緑と白が混じった表現しにくい色をしている。

ダイヤモンドダストみたいな粒子は空を飛んでいて晴れていてとても明るいが寒いので外に長時間いるわけにもいかない。

そんなことをすれば風邪をひく。

誠に遺憾である。

今日は寒い

 

 

 

 

 

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昔から人との関係を深めるように自分から動き出すことは稀だった気がする。

一人になる時間が確保できない人生とは何とも虚しいものである、

人と同じ空間にいて、至る所で理由もなく常に見られていなければならないなんて拷問でしかない。それは疲れる。

居間に二人以上でいるともう自室に帰っていいですか、と言いたくなる気分を必死にこらえて過ごすことになる。

ひとりでいる方が退屈しない。ひとりでしなければならないことは山のようにあるが二人でしなければならないことはない。

こんな事を言うから孤独死もやむを得ないものだと思って孤独死前提で過ごしている。

そのうち寝床にブルーシートでも引く必要が出てくることだろう。移動に支障を来すようになれば。

無理にパートナーを見つける利点は私には見当たらない。誇張でも何でもなくひとりになれない場所では目が半分くらい死んでいる。

虚空を見つめている、とも言われる。ひとりで考え事をしているときは大抵意識がここにない。ないものはない。

人と居る空間の大半が私にはどうしていいか見当たらない場所である。部屋にこもれないと精神的に死ぬ。

植物をずっと眺めているのは会話なんてしなくていいからである。

人を求めようともしていないから誰も来ないことを疑問にも思わない。むしろ不意に来たら困る。筋道はどこまでも一直線でありたい。

常に出家というか隠遁したいという願望が頭をよぎって止まらないのも、結局一人になれないから強制的にやってくれ、

都市部で一人暮らしをしていた時は山奥に行きたいなんて勝手なことを言い放っていたが、

十数年一人暮らしをしても人を呼んだ事なんて本当に数えるほどしかない。大抵が意図しない来客である。

白い目をして追い出せるなら追い出したくなる程度の。煩わしい業者とか何かの勧誘とか。

大抵の人は人と暮らすことに疑問を感じたりしないから、人と暮らすことに疑問を感じる人の気持ちはわかってもらえないだろう。

いや、本当に必要な時間以外で人と過ごすと息が詰まりそうになる。不安と恐れで何か押し潰されそうな感じがする。

そんなのが人間を求めようとするだろうか。そしてそれを障害と呼ばずして何であろうか。

誠に遺憾である。

SNSでコミュニケーションを取るということを想定していない、というか、人の見えないコミュニケーションを取ると怖くてたまらない。

投稿したいことはあるが人と話す気はない、みたいな偏った心理状態なのはわかっているが、かといって何をしたらいいか。

コミュニケーションの障害というのはそれほどに重大事項である。


別に人が見えている場所でもほぼ同じ事になるから人と関わる一歩を踏み出しにくい。

行けると思って突き進んだら取り返しのつかないことになってました、なんて何度あったことだろう。


箱根の宿に紹介された先でカレー蕎麦を頼んだら一時間程度待たされたあげく暴言を食らわせられ、

それについていろいろ話をしたら暴言増し増し、を喰らった配信者とか、

まあ私ならば精神が潰れていることだろう。まず立ち直れない。

人の踏み越えてはならない領域が何処だか全く分からないから苦労しているというのに、

人のことを逆撫でして逆鱗に触れるようなことを何かしら反省してひきこもりがちになる自分には出来ないことである。

で、そういう対人トラブルの話を聞くとさらに人の間に出て行くことが億劫になる。

人がつらい、とか希死念慮の前段階とか言われてもどうしようもない程度に、

積極的に触ってくる人々がとても面倒に思えてくるから、最初から接近しない。

自分のペースを守ろうとするならば近くに誰でも置いてはいけない。人が居るだけ阻害要因が増えて生きることが難しくなる。

誠に遺憾である。

どこかのバンドに加入して演奏行為を繰り広げた。

地元のライブを見に行ったら何故かトリを演奏するバンドに急に呼ばれて急に加入してということになり、

そこからバンドの演奏する曲を楽屋かどこかで必死で覚えた。時間はないし出来ることは多くない。

何回か夢が覚めかけたが、気がつけば夢の中に戻って、ステージできちんと演奏活動をしていた。

ある日楽器のケースの近くに昔でいう昔のオタクみたいな風貌の見知らぬ男性がいてボーッと自分の楽器や使用機材を眺めているものだから、

しびれを切らして若干切れ気味に声をかけたがどうもギターエフェクターを作っている人だった。

どうも興味を持つ間に紛れ込んだらしい。悪い人ではないから楽器の話をしたら、

横にいたギター担当と話が盛り上がって、次のライブ用の機材、ギターエフェクターを作ってくれることになった。

そして彼が作ったエフェクターを駆使したライブを繰り広げた後で何故か亡くなってしまった。

そういうのやられたら機材、エフェクターを変更しにくいじゃないですか。


このバンドに呼んだ本人のギター担当もどこかネジが外れているような人で、

細かく時間指定してぴっちり行動する割に、その予定が終わると飛び出して外で突拍子もない迷惑行為を繰り広げて、

その反省で細かな時間指定さらに細かくなり、やることも「ある曲の白鍵盤だけ演奏するのを二十二分繰り返す」

「ある曲を二倍の速度で演奏してから二分の一の速度で演奏する」など、

本当に訳のわからないことになっており、曲の打ち合わせすら難儀した。

そうこうしている内にライブハウスの今期一番最後の演奏会になり、いつものように機材を積んでライブハウスに向かい、

ギターの細かい注文を受けながら自分のベースを弾き倒した。

色々値上がりすると食べ物を買って楽しむような季節のイベントをこなすのもキツくなる。

たまに店に行くとまた値上がりしたのか、あるいは値上がりの予告の紙が貼ってあったりする。

量を減らさないで値上げするのか、袋の中身を減らして値上げをしない、実質の値上げとか、

表立ってやればいいのにコソコソと隠れてやるのはどうも有り難くない。

堂々と理由を説明して堂々と値上げにすれば、ああ企業努力でもどうにもならないのだとわかる。

理由も何もなく静かに小さくなるお菓子のようにおかしな話が続けば、

それならもう早くアナウンスしてくれ、なんでこっそりとしなければならないのか、そんなに値上げと言いたくないのか。

まあしばらく地を這うような値段でものを売っていたので値上がりに抵抗感が芽生えるのも不思議ではないだろう。

しかしインフレが起きれば普通は値上げをする。そこで給料を上げないからおかしなことになる。

値上げがどうしても先に来るから、あとでちゃんと賃金で釣り合いがとれればいいが、

今だとじゃんじゃん配ってもじゃんじゃん使ってくれとも言いにくい世の中だから困る。

それを上回る値上げが来たらたまったもんじゃないから。

誠に遺憾である。

これでも自分の所属している宗教の本はちゃんと取りそろえている。経典、と呼ばれるもので筆頭に挙げられる物は目も通した。

大体何も知らないで自分は何々を信じていますなんて私は怖くて言えない。

それが出来るのはきちんと経典に目を通したか、あるいは寺院に出向いて話を聴いて、

偈の一つでも暗誦できるようでなければ、本当に何の信徒なのかもわからない。

それでも一般的には「南無阿弥陀仏」と唱えていれば阿弥陀仏にすがることができたり、

「南無妙法蓮華経」と唱えれば法華経(正しい教えの白蓮)の功徳にあずかることができる。

しかしできることなら、当の開祖や先人の言葉に触れることが重要なのは言うまでもない。

それをしないで仏壇の前で手を合わせたとして、合掌がどういう意味なのか分かっていないことほど心苦しいことはない。

それで信徒などとは、私ならば、口が割れても言えない。

昔は識字率の関係もあって直接人に話を聞くしかなかったし、聞くことのできる場も制限されたので、

いざ何かをしようとしても、やりたいようにできるとは言えない。

しかるに今の世は少し辛抱をすれば自由に動けるし本や看板の字が全く読めない訳でもない。

やろうと思ってもできないものと、やれるし能力が無いわけでもないのにやらない、のとは大きな違いがある。

だからこそ自分は漢文でない現代語訳されたお経をかき集めたり、寺に出向いて寺の出した本を読んだり、

主に岩波文庫の本を買うという手段であれこれいろいろな手を尽くして経典は集めて読んだ。

さらに自分の宗派も飛び出して禅の本やキリスト教イスラム教、いろいろな神話まで集めた。

救いはないのか、となったらあらゆる手段と方法を通じて問題を解決しなければならない。

それでも自分が救われるなどとは考えない。集めた読んだという驕りがあるからである。今で言えばマウントとかいう表現になるだろう。

本を読んだから偉いなんてことは決してないが、そこまでやった自負への驕りは間違いなく存在する。消すことはできない。

結果として残っている読書歴など、記憶を失わない限り喪わせることは出来ない。

人と決定的に優れているものなど何もないのに優れているなんて思えば地獄に堕ちるだろう。

だが読まないと救われた気がしないものを読まないでは済まされない。

信仰というものの体感的なことについては個人の体験なのでどうすることも出来ないが、

一度は自分の宗派、というか概念的な宗教について触れておかねばならない。

その結果、ニーチェのように自分の文化の基盤にあるキリスト教を徹底的に批判、非難するようなことになっても、である。

読まなければ何が書いているのか分からない物を、果たして読まないで済まさせるのか。人生それでいいのかなどとか言いたくなる。

それが自分が宗教に対して疑問を抱いた始点からずれることなく存在している気持ちである。

信じている物が何か分かっていないのに信じるなんて、なんという恐怖か。慄きか。

真理とは個々人を孤独にする、とキルケゴールは言う。私は一人でいるから宗教の本という本質の中にある真理に触ろうと試みる時間がある。

人と触れ合えばそんな時間も確保できないかもしれない。しかし真理に向き合う時間も作れないとはなんという空虚か。

アイドルや芸能人という偶像と向き合う時間があるくらいなら本質と向き合ったらどうなの、などと昔から思っていることに大差はない。

宗教に向き合うというのは極論自分の内面と対話することである。私はそう思っている。

人と話したりする宗教よりは私は沈黙の中に静謐さを感じられる方がありがたい。

人の声というのは私にとっては神仏に手を差し伸べるときの障碍になるものである。

なぜ一人になって自分の中身と向き合わないのか。それをしないで誰を、何を信じられるのか。

本当に合わない信じないと言えるのは、その人にとって、今世間にある大半の経典に触れて水が合わなくなってからである。

何もしない、何も読まないで言える言葉ではない。

誠に遺憾である。