何で自分が料理を作るのか、と聞かれたら、自分が作らないと自分の食べたい味にならないでしょう、どうして自分で作らないのか、と言いかねない。
老若男女関係なく同じ文言を使って話すことになるだろう。
人の料理に不満があるとかではなく単純に好みを突き詰めていくと自分以外に誰が自分の感覚的な問題を解決するのか?という話になる。
別に男女がどうとか男子厨房に立つべからず、といった文化的規範には一切関係ない。
やりたいからやる、の一言に尽きる。
ジェンダーとかポリコネとかは一切関係ない。
専門的なシェフや板前で無い限り家庭的な料理というものはどれでも誰でもビシッと決まるものではなく、
どうしても個人の好みが混じった家庭内の事情の最大公約数みたいな中途半端な料理ができあがる。
そして個人の好みはよく衝突する。豆腐は絹と木綿でぶつかるし、カレーは甘口と辛口でぶつかる。その他数えればきりがない。
あまりにも対立の種が多いと人になんて頼んでもどうしようもない、無力感に襲われる。
好みを合わせるのが面倒くさい時なんて雑に赤いきつねとかカップ焼きそばを人の前に置く。
それはそれで時折食べたくなるが、いつも食べていい物だとは思わない。
自分の好みなんて自分しか知らないのに他人に任せられるか、となると、自分でやるしかない。
調理に失敗してとても人に見せられないグロい料理が出来るときもあるが、そういうときはなおさら自分で食べるしかない。
失敗とかも含めて面白いと思うのが料理というものである。そうでなければ料理なんてやってない。
一生の食事の回数なんて本当に決まっているようなものなのに、人に味付けを全部やってもらうとか、私には信じられない。
どうして好みを突き詰めていかないのか。人の料理に文句を言うなら自分が言える権利がなければならない。
つまり自分で作れる技術がないと人に文句なんて言う権利も権限もない。単なる罵詈雑言である。誹謗中傷に過ぎない。
何もしないのに人の料理に文句をつけるとか、ほならね、自分で作ってみろ、と言いたくなる。
人に言われたくないから自分は自分で食べるものは自分で作る。作るしかない。自己責任というやつである。
出来ないのに怒るとかまず人にあるまじき行為である。べしょべしょのカレーが嫌なら自分で作る。私ならそうする。
そのために訓練もしたりレシピも調べたり実技訓練(当然失敗含む)をして自分の舌を自分で満たせるようにした。
自分の好みは自分で何とかしないと生きている気がしない。
誠に遺憾である。