隠者の庵 -12ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

SNSでコミュニケーションを取るということを想定していない、というか、人の見えないコミュニケーションを取ると怖くてたまらない。

投稿したいことはあるが人と話す気はない、みたいな偏った心理状態なのはわかっているが、かといって何をしたらいいか。

コミュニケーションの障害というのはそれほどに重大事項である。


別に人が見えている場所でもほぼ同じ事になるから人と関わる一歩を踏み出しにくい。

行けると思って突き進んだら取り返しのつかないことになってました、なんて何度あったことだろう。


箱根の宿に紹介された先でカレー蕎麦を頼んだら一時間程度待たされたあげく暴言を食らわせられ、

それについていろいろ話をしたら暴言増し増し、を喰らった配信者とか、

まあ私ならば精神が潰れていることだろう。まず立ち直れない。

人の踏み越えてはならない領域が何処だか全く分からないから苦労しているというのに、

人のことを逆撫でして逆鱗に触れるようなことを何かしら反省してひきこもりがちになる自分には出来ないことである。

で、そういう対人トラブルの話を聞くとさらに人の間に出て行くことが億劫になる。

人がつらい、とか希死念慮の前段階とか言われてもどうしようもない程度に、

積極的に触ってくる人々がとても面倒に思えてくるから、最初から接近しない。

自分のペースを守ろうとするならば近くに誰でも置いてはいけない。人が居るだけ阻害要因が増えて生きることが難しくなる。

誠に遺憾である。

どこかのバンドに加入して演奏行為を繰り広げた。

地元のライブを見に行ったら何故かトリを演奏するバンドに急に呼ばれて急に加入してということになり、

そこからバンドの演奏する曲を楽屋かどこかで必死で覚えた。時間はないし出来ることは多くない。

何回か夢が覚めかけたが、気がつけば夢の中に戻って、ステージできちんと演奏活動をしていた。

ある日楽器のケースの近くに昔でいう昔のオタクみたいな風貌の見知らぬ男性がいてボーッと自分の楽器や使用機材を眺めているものだから、

しびれを切らして若干切れ気味に声をかけたがどうもギターエフェクターを作っている人だった。

どうも興味を持つ間に紛れ込んだらしい。悪い人ではないから楽器の話をしたら、

横にいたギター担当と話が盛り上がって、次のライブ用の機材、ギターエフェクターを作ってくれることになった。

そして彼が作ったエフェクターを駆使したライブを繰り広げた後で何故か亡くなってしまった。

そういうのやられたら機材、エフェクターを変更しにくいじゃないですか。


このバンドに呼んだ本人のギター担当もどこかネジが外れているような人で、

細かく時間指定してぴっちり行動する割に、その予定が終わると飛び出して外で突拍子もない迷惑行為を繰り広げて、

その反省で細かな時間指定さらに細かくなり、やることも「ある曲の白鍵盤だけ演奏するのを二十二分繰り返す」

「ある曲を二倍の速度で演奏してから二分の一の速度で演奏する」など、

本当に訳のわからないことになっており、曲の打ち合わせすら難儀した。

そうこうしている内にライブハウスの今期一番最後の演奏会になり、いつものように機材を積んでライブハウスに向かい、

ギターの細かい注文を受けながら自分のベースを弾き倒した。

色々値上がりすると食べ物を買って楽しむような季節のイベントをこなすのもキツくなる。

たまに店に行くとまた値上がりしたのか、あるいは値上がりの予告の紙が貼ってあったりする。

量を減らさないで値上げするのか、袋の中身を減らして値上げをしない、実質の値上げとか、

表立ってやればいいのにコソコソと隠れてやるのはどうも有り難くない。

堂々と理由を説明して堂々と値上げにすれば、ああ企業努力でもどうにもならないのだとわかる。

理由も何もなく静かに小さくなるお菓子のようにおかしな話が続けば、

それならもう早くアナウンスしてくれ、なんでこっそりとしなければならないのか、そんなに値上げと言いたくないのか。

まあしばらく地を這うような値段でものを売っていたので値上がりに抵抗感が芽生えるのも不思議ではないだろう。

しかしインフレが起きれば普通は値上げをする。そこで給料を上げないからおかしなことになる。

値上げがどうしても先に来るから、あとでちゃんと賃金で釣り合いがとれればいいが、

今だとじゃんじゃん配ってもじゃんじゃん使ってくれとも言いにくい世の中だから困る。

それを上回る値上げが来たらたまったもんじゃないから。

誠に遺憾である。

これでも自分の所属している宗教の本はちゃんと取りそろえている。経典、と呼ばれるもので筆頭に挙げられる物は目も通した。

大体何も知らないで自分は何々を信じていますなんて私は怖くて言えない。

それが出来るのはきちんと経典に目を通したか、あるいは寺院に出向いて話を聴いて、

偈の一つでも暗誦できるようでなければ、本当に何の信徒なのかもわからない。

それでも一般的には「南無阿弥陀仏」と唱えていれば阿弥陀仏にすがることができたり、

「南無妙法蓮華経」と唱えれば法華経(正しい教えの白蓮)の功徳にあずかることができる。

しかしできることなら、当の開祖や先人の言葉に触れることが重要なのは言うまでもない。

それをしないで仏壇の前で手を合わせたとして、合掌がどういう意味なのか分かっていないことほど心苦しいことはない。

それで信徒などとは、私ならば、口が割れても言えない。

昔は識字率の関係もあって直接人に話を聞くしかなかったし、聞くことのできる場も制限されたので、

いざ何かをしようとしても、やりたいようにできるとは言えない。

しかるに今の世は少し辛抱をすれば自由に動けるし本や看板の字が全く読めない訳でもない。

やろうと思ってもできないものと、やれるし能力が無いわけでもないのにやらない、のとは大きな違いがある。

だからこそ自分は漢文でない現代語訳されたお経をかき集めたり、寺に出向いて寺の出した本を読んだり、

主に岩波文庫の本を買うという手段であれこれいろいろな手を尽くして経典は集めて読んだ。

さらに自分の宗派も飛び出して禅の本やキリスト教イスラム教、いろいろな神話まで集めた。

救いはないのか、となったらあらゆる手段と方法を通じて問題を解決しなければならない。

それでも自分が救われるなどとは考えない。集めた読んだという驕りがあるからである。今で言えばマウントとかいう表現になるだろう。

本を読んだから偉いなんてことは決してないが、そこまでやった自負への驕りは間違いなく存在する。消すことはできない。

結果として残っている読書歴など、記憶を失わない限り喪わせることは出来ない。

人と決定的に優れているものなど何もないのに優れているなんて思えば地獄に堕ちるだろう。

だが読まないと救われた気がしないものを読まないでは済まされない。

信仰というものの体感的なことについては個人の体験なのでどうすることも出来ないが、

一度は自分の宗派、というか概念的な宗教について触れておかねばならない。

その結果、ニーチェのように自分の文化の基盤にあるキリスト教を徹底的に批判、非難するようなことになっても、である。

読まなければ何が書いているのか分からない物を、果たして読まないで済まさせるのか。人生それでいいのかなどとか言いたくなる。

それが自分が宗教に対して疑問を抱いた始点からずれることなく存在している気持ちである。

信じている物が何か分かっていないのに信じるなんて、なんという恐怖か。慄きか。

真理とは個々人を孤独にする、とキルケゴールは言う。私は一人でいるから宗教の本という本質の中にある真理に触ろうと試みる時間がある。

人と触れ合えばそんな時間も確保できないかもしれない。しかし真理に向き合う時間も作れないとはなんという空虚か。

アイドルや芸能人という偶像と向き合う時間があるくらいなら本質と向き合ったらどうなの、などと昔から思っていることに大差はない。

宗教に向き合うというのは極論自分の内面と対話することである。私はそう思っている。

人と話したりする宗教よりは私は沈黙の中に静謐さを感じられる方がありがたい。

人の声というのは私にとっては神仏に手を差し伸べるときの障碍になるものである。

なぜ一人になって自分の中身と向き合わないのか。それをしないで誰を、何を信じられるのか。

本当に合わない信じないと言えるのは、その人にとって、今世間にある大半の経典に触れて水が合わなくなってからである。

何もしない、何も読まないで言える言葉ではない。

誠に遺憾である。

正直親がいなくなればごく簡単に生活保護一直線な気がする、と思う今日この頃。

毎回本当におんなじ事を思っていますが物価は上がるのに年金はさほどあがらないから仕方がない。

本来施設に放り込むか、地区で最も古い公営住宅に集められてつつましく暮らすのが最善なのだろう、

障害者こそ本来家庭ではなく障害の種類別に施設に集約化されて、毎日一定のことができるように環境が整えられるべきである。

家に固定されると何かしようと思っても人数の制約で何もできない事ばかりだから。それならせめて同じ障害のコミューンがあった方がいい。

あんまり家族に鎖をつけて振り回すことが家族の責任だとは思いたくない。そんな家族なら解散されるべきである。

これも同じ事を何回も書き出している。それ以外に結論が見当たらないからである。

発達障害でも都会に行けば変なニーズを満たす作業所や仕事があったりしますが、

田舎なので変わったものなどなく、むしろ普通のものさえ見当たらないという、

「暮らす」って何でしょうと毎回自問するような生活をしている。

都会にある作業所のホームページとかSNSのページを見ているとAIで何かを作って納品したり、ゲームのランカーになるのか、というような、

ゲーミング環境があってひたすらゲームをしたり動画編集をしたりする紹介ページがあって、

ガリガリパソコンを自作し自分で酷使している人間には願ったりの環境ではあるが、

物理的に行けないのでは全く意味が無いですよね、と思いながら過ごしている。

前の記事にしつこく書いたように畑と家しかないような田舎なので、障害者用に調整された畑仕事があればいいが、そんな甘いものは存在しない。

とにかく自分のニーズに関係なく田舎ですることがとことん限られていることを強いられているんだ!と集中線をつけて叫びたくなります。

静かなのは確かなので音に敏感な人にはありがたい環境ですが、あまりにも退屈なので、

テレワーク可でも無い限り退屈を持て余すことになるのは間違いない。

飯を食うにもチェーン店すらほぼない。顔を覚えられたらついでに奇怪なエピソードが付属してくる傾向のある自分にはきつい。

人がたくさん居ればカモフラージュできるが、田舎は人と人の直接のぶつかり合い、どつきあいがあるだけである。

都会なら人の中に隠れればそれほど山奥に行く必要は無い。自分を知らない人が隠してくれるからである。

しかし田舎ならば周りの人は自分を知っているか知らなくても顔は覚えられている可能性があるから人の中に紛れ込めない。

だからこそ自分を誰も知らない空間を欲せば誰も物理的にいない場所に行くしかなくなる。廃村にでも住めばいいんだろうか、とまで思う。

外に出れば出るほど変な人間と思われる人間には、知られる、覚えられることの怖さがある。

何があっても完全には無視してはくれないだろう。要注意人物という意味で。

自分と相手が相互に知り合いでないから隠れるところができるのである。

知らない人とたまたま視線があっても特にすることはないが、知ってる人と会えば何かをしなければならなくなってしまう。

誰が誰であるかを地域の誰でも知っていることほど恐ろしいことはない。

誰にも存在が知られているのならば指名手配されているのと同じ事である。常に見られて気分が落ち着かない。

それならば施設に監督されて、横のつながりが生じないようにするしかない。勝手にプライバシーを侵害されたら生きている気がしない。

誠に遺憾である。

都会では食べ物を配達する人々が増えている。

田舎?配達とかない。少なくとも組織的な配達とかない。

Uber Eatsとか見たこともないし多分今後もないだろう。田舎だからである。割に合わなくて何もない。

近所のマックが数十キロ先にあるとか、田舎は何もかもが遠くて配達するだけで面倒なお金になるし、

どう間違ってもタクシーには(資金的な意味で)乗れないから、

自力で、車で動いて店に出向くしかなくなる。そもそも店が出前に対応しているかも不明である。

不明なら自分で取りに行った方が早いし速い。都会では頻繁にある、渋滞も、人混みも、極悪な信号待ちもないから。

スクーターとか自転車で車の隙間を抜けなくても車がそんなにいないから問題ない。

そもそも店に人がいないし。田舎だから。

誠に遺憾である。

妙な孤島に放り込まれた。

島の真ん中に巨大な施設があって、それを囲むようにいろいろなレジャー施設が取り囲んでいる配置、と島の地図に描いてある。

この島は善意でレベルファイブの社長が組み立てたと噂されている。真偽は不明だが若干子供向けの施設が多い。

今居る真ん中の施設を出て橋を渡るとテニスを簡易化したような競技をしている人が結構いて、

「スポーツごとに施設が違うからやりたいスポーツで施設を探すといいですよ」と言われた。

仕方ないので来た道を戻って一回島の中に割り振られている自宅に帰る。

真ん中の施設の低い階には巨大なショッピングセンターがあって、食料、日常生活のために必要な物、あとはお土産が大量に売られていた。

自宅(?)は高い階にあるので店を眺めながら歩いたりしながら戻り、

部屋の中の荷物から卓球の道具を取り出して、もう一度地図を見て、卓球のやっている施設へ出向いていった。

到着するとそれなりに混んでいて、団体で場所を取って練習しているから入れる隙間がなかった。

仕方ないので練習パートナーと連絡をとり、日時を決めて施設の予約を取って帰ったが、

毎日夢見てるなら毎日同じ夢を見られた方が一緒に活動できるのに、などと、

妙にメタなことを考えながら帰路についた。

昨日は久しぶりに夜食を食べないで眠れた。

まあ食べているような体調でなかったからですが。

関節は力が入らないし、胃痛は定期的にするし、食欲も湧かないから夕方からは何も食べてない。

甘い飲み物を飲んで、飴を食べたくらいである。むしろいろいろ飲んだ薬の方が多かったのではないだろうか。

ただ、風邪というよりは食中毒にかかってだるいみたいなものなので、咳も出ないし喉も痛くないし鼻水も出ない。

何なら熱も出たが、胃がつらいので飯なんて食っている場合ではない。

風邪が五類になったら似たような症状の出る病気とかどうなるんでしょうね。

食中毒でも倦怠感、胃痛腹痛、体調不良はきっちり出るから、病院には行かねばならなくなるが、

風邪と紛らわしいとうかつに病院には行きにくくなる。

誠に遺憾である。

私は駅ビルの中にあるドラッグストアの横にワンルームを借りて生活していた。

家賃など細かいことは気にせずに。

上の階にはホテルとか分譲マンションとかも併設されていたがどうもここでないとダメらしい。

ちょっとした買い物をして駅ビル内にあるパソコン工房などを見たり、

とにかく便利であることが大事で音漏れとか目の前の店がまぶしいとか気にしていないようである。

更新の時期が来て、上の階の方でもっといい間取りで静かに家賃も安く住めます、とか言われたが、

いや、ここでお願いします、別に家賃高くていいですから、と言い放った。

そしてラーメンでも食べに行こうと勇猛果敢に家を飛び出していった。

都会では障害者雇用の受け皿として特定子会社に入って本業とは関係のない農業をやらされたりする、とか言われているが、

こちらは田舎在住で周りの仕事なんて農業ばかりなのに、農業専門の作業所もなければ特定子会社がないから農業もやらせてくれない。

農福連携、なんて言葉もあるが田舎だからこそそんな作業所があるなんて聞かない。

こう、種や苗からいじって数年勉強すれば何とかなる、長期的にやる感じのないですか。

ないから家庭菜園を必死にいじっていろいろケッタイなものを植えたり跳ね品を大量生産したりしなければならないじゃないですか。

米はいろいろ難易度が高いし全部機械化された作業なんて出来る気配もないから、

野菜または果物を狙っていくしかないが果樹なんて植えたら庭には他の作物を植えられなくなる。

となれば野菜しかない。猫の額みたいな家庭菜園もいいが農業には農業にしかできない何かがある。

もっと広い土をいじって集約とか大規模とはいわなくても、多少でいいから何か農業の基礎基本を学習できればいいが、そんなものはない。

手作業で何かできるものとかないですか、と言っても枠自体がないからどうにもならない。

確かに趣味でパソコンをいじっているから、それなら枠もあるしそれをすればいいのだが、

枠が少ないとか後継者不足とか農業を軽んじている気がするし緑を見ても飽きないから、

健康のために農作方面に行きたいがハローワークも求人紙も作業所にもそんな気配はない。

田舎だからか。

土が一番近くの位置にあるのに土を触れることを仕事にできず、都会の土を遠ざけている人々は土をいじる仕事(作業)ができる。

これを矛盾と言わずして何と言おうか。

誠に遺憾である。