隠者の庵 -13ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

障害者というカテゴリーは、健常者というカテゴリーに比べたら重くて、そして逃げられない。

精神でも鬱とか症状は軽くなるものの完全に逃げ切れる訳でもない。再発とかに怯えたりしなければならない。

発達障害なんて一部を除いて薬で何ともならないから永続的なものだし、何かポジティブなものを探しても大抵デメリットとセットだし、

尖ったものを尖らせ過ぎた結果、他のことに関してはまるで駄目、とりあえず人間関係は最優先で駄目になるとか、

何を見つめたら人生ポジティブになるんですか、と滅入って一日を終えることになる。

その繰り返しであれば人生がどうして憂鬱を帯びたものにならないで済まされようか。

他の障害者と話をしても噛み合うことがほとんどないし、何なら物理的に噛み合ったりする。

専門以外の知識に関しては、まるで素人か素人未満になるので、

そもそも専門にする事柄、教養を他の人も身につけていなければもうお手上げである。

普通の人なら繰り出せる雑談のパターンも自分は発達障害があってかなり限られるし、何なら言葉の意味以外のことを求めたりしないので、

意に沿った質問に答えることもなかなか困難なことになる。

あまり話が通じないことが多ければ自然に隅っこに行って話しかけられないようにする。

話したくないのもあれば話すとボロが出るからということもある。下手しか打てないのを知っていて話しに入ろうと思うだろうか。

そりゃ本来は円滑に話ができるに越したことはないし出来るならやりたい。

しかしできないからこの体たらくであって、会話の感覚的な事柄がいまだにあまり理解できない。

別に無理やり話をしないでいいのなら、人が多ければ多いほど端っこの目立たない場所に行きたい。

人の数だけ何の話を振られるかわからない、と考えただけで鳥肌が立つ。

そんな自分が好きになれる、と思いますか。グダグダになることが多すぎて出家したくなる。

誠に遺憾である。

お菓子とかそろそろ量も行けなくなるから質で確保しておかなければならない。

いいお菓子、というかそもそもお菓子なんて量なんて確保すべきでもないし頻繁に食べれば生活習慣病の方を気にしなければならない。

飲み物は大半お茶を、プーアル茶とウーロン茶を自分で調合したり沸かしたりして淹れているが、

お菓子を自分で作ると好みを重視してカロリー調整とかを二の次にするし、一気に作るだけ作ってしまうから、自作は本当に太る。

一時期無発酵パンも焼いていたが水でこねただけの小麦粉の塊なのでお察し下さい。

ベーカリーのパンもすっかり高くなったがバターとか砂糖とか、あと味にこだわればどうしても高くなってしまうのが製菓というものである。

価格もカロリーも。

自分で作るとカロリーとか調整できると思ったのが甘い考えだった。

最初なんて砂糖の入れないただの小麦粉の塊のようなパンを焼いて当然ボソボソとしたことになり、

うどんでも打ったほうがよくね?などと思ったものである。

パンもこんなことになったし、甘酒も砂糖を控えめにしたらとても飲めるものじゃない酒粕を水で溶いただけの何か、になったので、

材料の出し惜しみはしてはならないと思いました。

しかしそれでは当然栄養というかカロリー過多になるのは致し方のないことである。

自分で使う小麦粉砂糖などの量に呆れ果てて、最終的にパン工場って凄くね?と思う。

なら日本人はご飯でも炊いていればいい、と思ったが米も高いのでそうも言ってられない。

やはり小麦粉もちゃんと使わなければ。

誠に遺憾である。

重ね重ね思うが本当にテレビとは要らぬ場所に入るし人の嫌がることはするし、

芸能レポーターは死滅したが、同じように人のあら探しばかりする、

ゴシップ記事のような浅はかな動画がYouTubeに見えてきたのでとりあえずブロックした。

好みの動画を探すのにゴミのような記事を見せるんじゃない。

よっぽど自分は芸能界が嫌らしい。

憶測を並べてありもしないこと、繋がっているようで全く繋がっていないことを勝手につなげて、

何でもかんでも言い立てたらプライバシーとか名誉毀損になるだろうに、どうしてもそれで飯を食わねばならないのか、

というとても暗澹とした気分になる。

人の噂で飯を食うなんて自分ならとても生きているかさえわからない。生きている気もしないだろう。

そんなことをするくらいなら山奥で霞でも食っていた方が遥かに安心できるだろう。

人の不平不満をあおっているぶんの返しはいずれ帰ってくるわけで、

それが怖いから、人をけしかけるなんてことはやろうと思っても怖じ気づいてできない。

近所の噂話ですらためらうレベルなのに一体人の間にいることの、何が平和なのか。

自分が過去にやらかしたことに追われているような感覚でいると、とてもこれから人の負の感情を積み重ねて生きていける気がしない。

誠に遺憾である。

今日は特に普通の恵方巻を食べて終わった。

イベントはたまに乗るくらいがいいのです。

はしゃぐほどでもないし、ノリノリになって本当にはしゃいだら後で感情的に取り返しのつかないことになりそうなので、

イベントだからと気を抜かずに自分の道を走らなければならない。

誠に遺憾である。

家に居るときは大抵自室にいて、食事と炊事入浴など必要なときに適宜そこに行くような生活をしているが、

ひきこもりみたいなのは特に否定する気はない。公共スペースは自分の場所ではない。自分の居場所でもない。

同居者である親は居間に常にいてそこで過ごしているが、いくら親しくても人に常に見られるなんて息が詰まらないのだろうか、

などと思って毎日眺めている。ああいうのは息を休める暇もないだろうと思っている。

少なくとも私には気の休まる時間はない。すべてがまんべんなくストレッサーである。

何故人は一人で過ごすことを尊重されないのか、自分が十数年一人暮らしをしていたからそういうリズムに慣れきったのもあるだろうが、

人と居るなんて気が落ち着くのか?と思っているから一人暮らしをしていた頃に人を家に入れたことなど数えるぐらいしかない。

いろいろ事情があって実家に戻ってきたが、実家だからこそ気の休まる時間は減っている。

朝から晩までパーソナルスペースを守りきることが私の充足であるし精神安定剤である。

一人暮らしというか、それ同然の生活ができなければ誰と暮らしても落ち着かないし、

自分の部屋は自分しか足を踏み入れない聖域でなければならない。

プライバシーもクソもないような感覚の同居人とかいたら、我慢ならずに福祉の施設や心療内科に訴えたりして、

強引にでも一人になって家庭のことはすべてぶん投げてでも精神の安定を確保しないといけない。

人と一緒に暮らしたり、何かをしたりするのは自分には家の外の仕事のようなことである。たとえ家の中で過ごしていたにせよ。

自宅なのに、あたかも自宅のようでない感覚を持つのであれば、そこは自分の領域ではない。

自分の手しか届かないコレクションや生活に誰かが手を出すなら誰でも追い出す。

もし家族が自分の部屋にみだりに入るようなことがあれば引っ越さなければいけなくなる。

自分が守られないと感じるからである。急に発作を起こして倒れたりでもしなければ家族の部屋には入らないし入る必要も無い。

なぜ親は自分の部屋からわざわざ出てくるのであろうか、と考える時点でもう人との感覚がズレているとは思っているが、

仕事も無いのになぜ自室からわざわざ出るのか、とプライバシー満載のパソコンを眺めながら思う。

誠に遺憾である。

昔に福祉の資格の研修でグループホームやデイサービスに行ったことがあるが、

その日のレクリエーションで適当な音楽でもかけることを何だか不快に思った。

心が加齢で衰えていれば激高し何かを振り回しているかもしれない。とにかくブチ切れるだろう。

特に注意もせず「この人々の生きている時代に合わせた選曲」をしようものなら。

それは傾向であって好みではない。単に被せるカテゴリーが被っただけのことであって、個人の嗜好に応じたものではない。

人の数だけ嗜好があって、多数決で常に決められるようであれば、

私のように洋楽のパンクやメタルやハードロックを聴いたりクラシック音楽を愛好する人間はポップスや歌謡曲の数の暴力に押し切られる。

そもそもあちこちで無思慮に流されるポップスの流れが嫌で、はみ出すようにメタルやクラシック音楽に逃げたのが私の過去である。

よりによって一番忌み嫌っている音楽を聞かされるなんてリラックスでも何でもない。苦役か修行か拷問の類である。

聴きたくもない音楽を聞かされるなんて暴力的な行為の最たるものである。何なら何も音楽がない方がありがたいとか言いかねない。

スーパーとかレストランとか居酒屋とかも同じように無思慮に音楽を流されるなら同じように不快になる。

場所は選べない上に曲も選べないなんて、何のために生きているかさえわからない。

音楽は聴くだけのものではない、精神であり生命である、その人の魂である。

昔にやっていた障害者雇用のバイト先のスピーカーから延々と同じ苦手な音楽が流されてメンタルをやられかけて、

「音楽どうにかなりませんか?」なんて直訴する人間はそんなにいないだろうが、

そこまで重篤でなくても誰もが多少なりとも音楽に対して何らかのこだわりをもっているのだろうと思いたいし、

人の前で自分の好きな音楽を無思慮に人に聞かせる人間にだけはなりたくない。

それこそ「人の嫌がることはしない」の最たるものだと自分は思うのである。

そういう意味で好みが多様化して分散するのは必然であるし、誰でも好む音楽なんてないと私は言いたくなる。

誠に遺憾である。

人と深く関われば何らかのトラブルが普通の人より起きやすい以上、趣味を増やすにしても、

たくさんの人々とワイワイガヤガヤやるようなものを選んでしまうと、人の数だけトラブルを起こしに行くようなもので、

ちっともメンタルが安定しないし、不安になるし、自分が本当に出来ないことについてあれこれ気に揉められないのに揉めなければいけない。

これは不合理である。

集団で行動するなら自分には引率みたいなガイドというかメンターが確実に必要になる。特に人が集まるイベントや打ち上げなどは。

本来なら飲み会などの不定期に集団で集まるイベントには確実に出ない方が、お互いのためになるのだが、

これを言うと大体空気が読めないと言われる。空気が読めないから出たくないのに出ないこと自体も空気が読めないのである。

やることもやらないことも空気が読めないのなら逃げ場なんてないから、人の集まる物事は最初から参加しないようになってしまう。

結局、一人でやる趣味が合う、というかそうしなければならなくなる。マイペースが乱れるともう周囲も乱すから一人が推奨される。

結果昔の出家人みたいに寺の庵でも結ぶように、自室にひきこもったりしなければならなくなる。精神の安定とはそこまでして求めないといけない。

大体趣味がお経や哲学書を読んだり俳句や短歌を諳んじたりクラシック音楽を聴くことなのだから、一人でもできるし、

田舎だから俳句や短歌の結社もないから、どうあがいても一人でやるしかなくなる。

結社で障害のカミングアウトなんて、岩を持ち込んで人の輪の中にぶん投げるようなものだと思っている。

せめて言うなら一番先にしなければ、隠しごとをしているようでとても自分の気分が悪くなる。

後ろめたさがどんどん増えていくと、人の間に出て行くのが億劫になる。自分がまた何かやらかしはしないだろうかと。

人の輪の中に入る能力がなければそのようにするしかない。それは出家のようであり、山の奥に庵を結んで隠れ住むようでもある。

それで一番精神が落ち着くのだからそうしなければいけない。人の輪の中はどうあがいてもストレッサーである。

和気藹々と出来ない人間にはそのような居場所を求めるしか解決の道はない。

騒がしいことを逃れることが、空気を読めないと罵られなければいいのだが、そんな時代はいつ来るのだろうか。

誠に遺憾である。

文春は訳のわからない訂正記事は出すわフジテレビの記者会見で我先もと自分の言いたいことしか質問しない似非みたいなジャーナリストとか、

人間の嫌な部分だけ見せられてほとほと人間が嫌になる。

そんなにジャーナリストやマスメディアというのは人間の不備を突かなければやっていけないのですか。

火のない所に捏造で一から煙を立てる商売でもやってるんですか。

みんな揃って訳のわからないことを言い出したり主導権争いを始めたり、人の裏を突くような意地の悪い質問を飛ばしたり、

何でも人を出し抜かなければならない世の中なんて居ても居心地は良くないだろうに、何故そのような世界を構築するのか理解に苦しむ。

一番肝心な「引退した例の芸能人は結局フジテレビ絡みで何をしたのか」だけ話から奇麗に取り外されているから、

全員翠富士から肩透かしを食らったようにすってんと転んで、転ばされた名誉の回復をしているかのようである。

芸能人絡みの肝心なことが隠されているから、因果関係も何もつかめず、フジテレビの上の人は責任をとったけれどその責任って何なのか?となる。

この事の推移が分かるためには、かの記者会見の全文を見直して、全文を文字起こしでもしなければならないのかという暗澹とした気分になる。

前はあっさり目に終わらせたのに今回はコッテリと重複ばかりで不要なカットすべき質疑応答のトッピングも込みである。

盛り沢山過ぎて、本当に最初に言ったような人の不備を探したがる人くらいしか、もうついてこれないだろう。

何あの骨太というか何時終わるかもわからないし一番トップの人がこない会見。

簡潔過ぎるのも駄目だが、やっぱりグダグダと長引かせるのはもっとよくない。

長くすることで煙に巻くことを狙ったのか、などと思いたくもなる。

誠に遺憾である。

フジテレビって結局どうなるのでしょう。

一月末にでっかい砲弾をぶち込んで来て現在進行形で未だに情報の整理が追いつかない。

誠に遺憾である。

1月に思うこと

 

 

 

 

 

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なぜかホームセンターに割引き本が売られていて、『アスペルガーだと思ったら読む本』というのが置いてあるが、

もうなってるから特にいらないや、と思った今日この頃、皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


感情の処理が適切でないがために色々な人間関係のトラブルを抱えてどうしようもなかった自分の過去を鑑みるに、

自分の内側から良くしていく、礼節をわきまえて節度ある行動を心掛ける、にしても、

とても行儀正しいがすごく杓子定規で型にはまったような動きしかしなくなる。柔軟性なんてどこかに置き忘れてしまった。

しかし突発的に危機に陥ったり想定外のことになると、全体的に固まったり、口調が乱れたり、敬語が崩壊するから大変である。

これらの危機的状況は精神が安定していようと、抗不安薬で不安を抑えても脳の作用で出るものであるから抑えても抑えきれない。

発達障害が「障害」であるのは、想定外の事態で自分も周囲も大変なことになって日常生活に支障を来すから「障害」なのである。

しかし頭の中のことは訓練を積んだにしても限度というものがある。訓練より重い負荷がかかれば地が出てしまう。

かと言って重い訓練で定期的に継続的に負荷を精神にかけたら、それこそ何のために生きているのか理解できなくなる。


身体の障害で麻痺を起こして歩けなかったり、四肢が欠損していたり、また視覚や聴覚に障害があった場合、

完全に能力を補完するものでなくとも、車椅子や歩行補助の器具、白杖や補聴器、手話などの障害を補う手段が存在する。

発達障害にはそういうものはない。足りない成分を薬で補うとか、あっても今はADHDの多動を抑えるコンサータがあるだけで、

自閉症スペクトラムには現在症状自体を改善する薬というものはない。

ちょっと昔に何か見つかるかも、という話もあったが、今その話を聞かないということは、上手くいかなかったということである。

そういうことで身体障害者の補助具の立場に相当する何物も存在しない。足が無いのに足で歩けとか言われているようなものである。

SSTなどの訓練や心理療法を受けるにしても受けられる場所も時間も限られていて、

もし継続的にトレーニングを受けるとなれば大都市に定期的に通うだけで田舎の民はお金がすっ飛ぶ。

個人的な努力でも移動コストや経費等の限度というものが常に高くそびえて壁になっている。田舎に住んでいたらそもそも何も取り組めない。

療法や訓練のために家族から引き離されるとしたら何に心理的充足を求めれば良いのか。そんな状態で療法なんて受けても癒されるのか。訓練に値する精神状態を確保できるのか。


なので、今はやりのAIに会話を補助してもらうことで、足りない感情的処理や言葉以外の意味を補助できるようにならないか、

今は頼りなくてもいずれそうならないか、そうなってもらえないか、と甘い希望を抱くのである。

自閉症スペクトラム症の程度もあるが、百人居れば数人いるようなものを障害の一言で済ませることができるのか。

グレーゾーンを含めれば更に危うくなる人々も増えるのに障害と聞いたら別世界の出来事、なんて思うような少ない割合でもない。

それだけコミュニケーションに障害、あるいはグレーの人々がいれば、そこを補助する器具の開発も進められるべきである。

車椅子も杖も矯正器具も何だって使える物なら使いたい。それだけ心理療法までに至る門が狭く遠いものだからである。

ある人に発達障害の疑いがあって検査を依頼しようと心療内科に問い合わせても、

初診を受けるだけなのに何ヶ月も待つようなものをきちんと診察して取りこぼしがないとは言えない。

自力ではどうにもならないがどうにかしなければならないのも現実である。

福祉に繋がるのは必須としてもコミュニケーションに不備があれば、自分のことも、症状も、今の不利益の具体的な内容についても、

福祉の現場で正しく伝えられないのだから、そこを補助してきちんと福祉に繋がることができるようにするためのノウハウが必要になる。

会話に障害があるのならば会話を補助する器具を頼れる必要がある。保護者やヘルパーがいればいいが、いつもいつまでもいるわけではない。

ある程度は自力でなんとかする、しなければならないわけで、その時のための自分だけで動かせる補助具が求められるのである。

問題はAIが会話を補助してくれるという、理想的状況になるまで何年かかるかさっぱりわからない事ですが。

誠に遺憾である。