隠者の庵 -13ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

都会では障害者雇用の受け皿として特定子会社に入って本業とは関係のない農業をやらされたりする、とか言われているが、

こちらは田舎在住で周りの仕事なんて農業ばかりなのに、農業専門の作業所もなければ特定子会社がないから農業もやらせてくれない。

農福連携、なんて言葉もあるが田舎だからこそそんな作業所があるなんて聞かない。

こう、種や苗からいじって数年勉強すれば何とかなる、長期的にやる感じのないですか。

ないから家庭菜園を必死にいじっていろいろケッタイなものを植えたり跳ね品を大量生産したりしなければならないじゃないですか。

米はいろいろ難易度が高いし全部機械化された作業なんて出来る気配もないから、

野菜または果物を狙っていくしかないが果樹なんて植えたら庭には他の作物を植えられなくなる。

となれば野菜しかない。猫の額みたいな家庭菜園もいいが農業には農業にしかできない何かがある。

もっと広い土をいじって集約とか大規模とはいわなくても、多少でいいから何か農業の基礎基本を学習できればいいが、そんなものはない。

手作業で何かできるものとかないですか、と言っても枠自体がないからどうにもならない。

確かに趣味でパソコンをいじっているから、それなら枠もあるしそれをすればいいのだが、

枠が少ないとか後継者不足とか農業を軽んじている気がするし緑を見ても飽きないから、

健康のために農作方面に行きたいがハローワークも求人紙も作業所にもそんな気配はない。

田舎だからか。

土が一番近くの位置にあるのに土を触れることを仕事にできず、都会の土を遠ざけている人々は土をいじる仕事(作業)ができる。

これを矛盾と言わずして何と言おうか。

誠に遺憾である。

発達障害とか特に関係なく、嘘をついていることにとてつもなく罪悪感を覚えて、しかもそれがすぐに顔に出るので、

嘘なんて事実上つけないのと同じである。キレイなウソも全部白日の下にさらすだろう。

全部顔に出るから。

事実と異なることを喋ったりしていれば顔が次第にわかりやすく歪んでくるから、

ああ、こいつ何か隠しごとをしているな、というのは私のことである、すぐにわかる。

隠すことはあるけれどそれは言葉にも意識にも出ないように、何が何でも触れないようにしつこくやってやっと隠せる。

ウソをついてずる賢くやろうとか思ったことはあるけれども事実上不可能なことである。

何なら最初から考えていることを全部暴露した上でやった方が、何を考えているか全部理解できるからいいだろうと思う。

こいつ悪魔だ、と言われるのは空気を読めない行動とか暗黙の了解をぶち壊しながら進んでいくからであって、

悪だくみをしたり、ずるをしてやろうと企んでいるからではない。

悪だくみをしても全部ばれているようにあからさまだし隠しても何の意味もない。

ずるをしようとしても露骨だからばれる。変なことになる心配なんてない。はるか手前で速攻で阻止されるだろうから。

本当に不気味だ、と言われる時は、その辺のずるをするしないに関わらず沈黙して本当に何もしない時ぐらいだろう。

世間ではそれを完全緘黙という。

何をしたらいいか分からないときは本当に何も言わない。ずるをしようとかそんな余裕もない。

ただ世間の人々に対して理解不能と思っているだけである。

誠に遺憾である。

私は突発的なイベントを日常に含めたくない。プライベートな時間は文字通りプライベートである。

そして一人きりになってからがプライベートの始まりである。

そこに踏み込む人間はたとえ親であろうと容赦はしない。

自分が人のプライベートなんて踏み込む興味がまるでないから、自分の世界を思う存分満喫するし、他人の庭では一切安心できない。

まずどれに手を出していいかわからんものばかりの空間、特に人様の家の中なんて安心して存在できない。

まだスーパーの中に放り込まれて晩ご飯の献立を考えていた方が安心できる。商品は手に取れるからである。

変化を嫌がる、というか自分の権限というものがあって、それを何物にも発揮できる自分の部屋なら安心できるが、

権限のない他人様の家では固まってなるべく動かないようにするしかない。

間違っても他人の持ち物に触れたりしない。許可でもなければ何もしないだろう。

そしてそういうときに限って家の放し飼いにされている犬が飛んできて精神はパニックに陥るのである。

誠に遺憾である。

最近抗不安薬から精神安定剤に薬を変えて、精神は安定したが同じように眠くてかなわない。

一日二回だったのを一日三回に変わったのも万遍なく眠いのを後押ししているのだろうか。

とにかく眠い。眠いから薬を飲む時間をずらしたくなる。

一番寝たいのは夜しかないが実際夜はそんなに眠くない。

この際一日三回を昼後半夕食後(本当は眠くしたくないがここしかない)あとは就寝前とか、

とにかく眠くなる時間をずらして経過を見ながら何とかするしかない。

不安や心の不安定なのを抑えるに越したことはないが、その代償として万遍なく眠いとか、

それ仕事するな、車を運転するな、娯楽もなし、って言われているようなものですから。

誠に遺憾である。

『精神障害者をどう裁くか』という本もあったが、いつでもこの課題は人々の上に覆い被さる。

北九州の事件も、東大阪の事件も、その前にあった諸々の事件も、きっとこの後起きる事件も精神鑑定だの何だのと、

時間をかけてまで裁く必要があるのか、もう人が死んでるんで、というなら身も蓋もないが、

妙に精神鑑定にうるさいし、犯人なんて物的証拠でどうやっても間違えないし、鑑定のための時間も余計にかけているので、

罪人を裁くのにそんな手間暇なんて要るのか、という話が定期的に盛り上がってくる。

社会の不安を煽るような事件が頻発すればさらに余計に、である。

殺人や闇バイトの悪事から、何か些細な盗難事件まで何でもかんでも精神鑑定とか言っていたら時間が足りなくなる。

そもそも普通の診察をする精神医すら足りないし、精神医の娘の起こしたひどい殺人事件もまだ記憶に新しい。

もう精神医学って何なのとは思う人々が「精神科医が自分の子も治療できないで何が精神医学だ」とか言うのを聞いた覚えがある。

怪しさ満点の行動をとっていても自分の子でさえ拘束する自由もなければ、入院させたり施設に収容させる権利もない。

それは本当に人権と言える物か、という話もやはり定期的に出てくるものである。

人権に基づいてどこまでも自発的な判断に任されるもので、勝手に病院に押し込むわけにもいかず、

社会的に甚大な被害をもたらす事件が起きて、犠牲が取り返しのつかないことになってはじめて、

ようやく人を強制的に確保したり逮捕したりする必要な措置を行わせることができる。

隣組とか五人組とか監視システムを持ち出すわけではないが、あまりにも強制力のある行動のできるタイミングが遅いのではないか、とは思う。

まあもう診断済みの自分なんて鑑定もすでに終わっているので何かあったら粛々と手続きされるだけですが。

そうではない、病識もなく異様な行動を繰り返し人に迷惑をかける者に対して、権利の剥奪とはいかないまでも、

ある程度の施設を含む束縛がなければ、もう相互監視して、変なのを病院に送り込むのと引き換えに、

誰かが障害者を監禁したり障害者を殴ってわからせる傷害事件を起こして人質のように逮捕されなければならないのか。

そうしなければ不特定の誰かに危害が及ぶし、かといって大惨事と言えるような事件になってからでは遅すぎる。

果たして簡単に動いた結果人々を安易に扇動したりして無関係な人もなぎ倒すように巻き込まれたのでは救われない。

そして危なさそう、というよう精神医療に関わるべき人というのは百人に数人いるので、

そんな負担を誰が負担するのか。医者か。家族か。地域社会か。それとも警察や行政か。

まあその百人の内の数人が何らかの障害、という割合を単純に考えても、そこまで少なくもなければ多いとも言えない微妙なことになる。

しかし、紛れもなく自分はそこに入っているしそこから一生逃げられないから気が重くなる。

誠に遺憾である。

障害者というカテゴリーは、健常者というカテゴリーに比べたら重くて、そして逃げられない。

精神でも鬱とか症状は軽くなるものの完全に逃げ切れる訳でもない。再発とかに怯えたりしなければならない。

発達障害なんて一部を除いて薬で何ともならないから永続的なものだし、何かポジティブなものを探しても大抵デメリットとセットだし、

尖ったものを尖らせ過ぎた結果、他のことに関してはまるで駄目、とりあえず人間関係は最優先で駄目になるとか、

何を見つめたら人生ポジティブになるんですか、と滅入って一日を終えることになる。

その繰り返しであれば人生がどうして憂鬱を帯びたものにならないで済まされようか。

他の障害者と話をしても噛み合うことがほとんどないし、何なら物理的に噛み合ったりする。

専門以外の知識に関しては、まるで素人か素人未満になるので、

そもそも専門にする事柄、教養を他の人も身につけていなければもうお手上げである。

普通の人なら繰り出せる雑談のパターンも自分は発達障害があってかなり限られるし、何なら言葉の意味以外のことを求めたりしないので、

意に沿った質問に答えることもなかなか困難なことになる。

あまり話が通じないことが多ければ自然に隅っこに行って話しかけられないようにする。

話したくないのもあれば話すとボロが出るからということもある。下手しか打てないのを知っていて話しに入ろうと思うだろうか。

そりゃ本来は円滑に話ができるに越したことはないし出来るならやりたい。

しかしできないからこの体たらくであって、会話の感覚的な事柄がいまだにあまり理解できない。

別に無理やり話をしないでいいのなら、人が多ければ多いほど端っこの目立たない場所に行きたい。

人の数だけ何の話を振られるかわからない、と考えただけで鳥肌が立つ。

そんな自分が好きになれる、と思いますか。グダグダになることが多すぎて出家したくなる。

誠に遺憾である。

お菓子とかそろそろ量も行けなくなるから質で確保しておかなければならない。

いいお菓子、というかそもそもお菓子なんて量なんて確保すべきでもないし頻繁に食べれば生活習慣病の方を気にしなければならない。

飲み物は大半お茶を、プーアル茶とウーロン茶を自分で調合したり沸かしたりして淹れているが、

お菓子を自分で作ると好みを重視してカロリー調整とかを二の次にするし、一気に作るだけ作ってしまうから、自作は本当に太る。

一時期無発酵パンも焼いていたが水でこねただけの小麦粉の塊なのでお察し下さい。

ベーカリーのパンもすっかり高くなったがバターとか砂糖とか、あと味にこだわればどうしても高くなってしまうのが製菓というものである。

価格もカロリーも。

自分で作るとカロリーとか調整できると思ったのが甘い考えだった。

最初なんて砂糖の入れないただの小麦粉の塊のようなパンを焼いて当然ボソボソとしたことになり、

うどんでも打ったほうがよくね?などと思ったものである。

パンもこんなことになったし、甘酒も砂糖を控えめにしたらとても飲めるものじゃない酒粕を水で溶いただけの何か、になったので、

材料の出し惜しみはしてはならないと思いました。

しかしそれでは当然栄養というかカロリー過多になるのは致し方のないことである。

自分で使う小麦粉砂糖などの量に呆れ果てて、最終的にパン工場って凄くね?と思う。

なら日本人はご飯でも炊いていればいい、と思ったが米も高いのでそうも言ってられない。

やはり小麦粉もちゃんと使わなければ。

誠に遺憾である。

重ね重ね思うが本当にテレビとは要らぬ場所に入るし人の嫌がることはするし、

芸能レポーターは死滅したが、同じように人のあら探しばかりする、

ゴシップ記事のような浅はかな動画がYouTubeに見えてきたのでとりあえずブロックした。

好みの動画を探すのにゴミのような記事を見せるんじゃない。

よっぽど自分は芸能界が嫌らしい。

憶測を並べてありもしないこと、繋がっているようで全く繋がっていないことを勝手につなげて、

何でもかんでも言い立てたらプライバシーとか名誉毀損になるだろうに、どうしてもそれで飯を食わねばならないのか、

というとても暗澹とした気分になる。

人の噂で飯を食うなんて自分ならとても生きているかさえわからない。生きている気もしないだろう。

そんなことをするくらいなら山奥で霞でも食っていた方が遥かに安心できるだろう。

人の不平不満をあおっているぶんの返しはいずれ帰ってくるわけで、

それが怖いから、人をけしかけるなんてことはやろうと思っても怖じ気づいてできない。

近所の噂話ですらためらうレベルなのに一体人の間にいることの、何が平和なのか。

自分が過去にやらかしたことに追われているような感覚でいると、とてもこれから人の負の感情を積み重ねて生きていける気がしない。

誠に遺憾である。

今日は特に普通の恵方巻を食べて終わった。

イベントはたまに乗るくらいがいいのです。

はしゃぐほどでもないし、ノリノリになって本当にはしゃいだら後で感情的に取り返しのつかないことになりそうなので、

イベントだからと気を抜かずに自分の道を走らなければならない。

誠に遺憾である。

家に居るときは大抵自室にいて、食事と炊事入浴など必要なときに適宜そこに行くような生活をしているが、

ひきこもりみたいなのは特に否定する気はない。公共スペースは自分の場所ではない。自分の居場所でもない。

同居者である親は居間に常にいてそこで過ごしているが、いくら親しくても人に常に見られるなんて息が詰まらないのだろうか、

などと思って毎日眺めている。ああいうのは息を休める暇もないだろうと思っている。

少なくとも私には気の休まる時間はない。すべてがまんべんなくストレッサーである。

何故人は一人で過ごすことを尊重されないのか、自分が十数年一人暮らしをしていたからそういうリズムに慣れきったのもあるだろうが、

人と居るなんて気が落ち着くのか?と思っているから一人暮らしをしていた頃に人を家に入れたことなど数えるぐらいしかない。

いろいろ事情があって実家に戻ってきたが、実家だからこそ気の休まる時間は減っている。

朝から晩までパーソナルスペースを守りきることが私の充足であるし精神安定剤である。

一人暮らしというか、それ同然の生活ができなければ誰と暮らしても落ち着かないし、

自分の部屋は自分しか足を踏み入れない聖域でなければならない。

プライバシーもクソもないような感覚の同居人とかいたら、我慢ならずに福祉の施設や心療内科に訴えたりして、

強引にでも一人になって家庭のことはすべてぶん投げてでも精神の安定を確保しないといけない。

人と一緒に暮らしたり、何かをしたりするのは自分には家の外の仕事のようなことである。たとえ家の中で過ごしていたにせよ。

自宅なのに、あたかも自宅のようでない感覚を持つのであれば、そこは自分の領域ではない。

自分の手しか届かないコレクションや生活に誰かが手を出すなら誰でも追い出す。

もし家族が自分の部屋にみだりに入るようなことがあれば引っ越さなければいけなくなる。

自分が守られないと感じるからである。急に発作を起こして倒れたりでもしなければ家族の部屋には入らないし入る必要も無い。

なぜ親は自分の部屋からわざわざ出てくるのであろうか、と考える時点でもう人との感覚がズレているとは思っているが、

仕事も無いのになぜ自室からわざわざ出るのか、とプライバシー満載のパソコンを眺めながら思う。

誠に遺憾である。