隠者の庵 -14ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

雪はそんなに多くないし晴れてるし寒冷地のくせに最高気温がプラスになる日もあるので、

今から雪まつりをする場所は作りかけの雪像とか一部溶けるんじゃないのとか思う。

来週になれば雪像はなんとかなりそうな気温になるが、節分に雪まつりをするような場所はちょっと大変なのではないか。

部屋の中のプランターにくっつけてある温度計は、戸を締め切っていて暖房の風が入らないにも関わらず、日当たり良好ならたまに三十度を超える。

晴れていて雪もそんなに降らないし、なんなら師走に降った雪だけ残っているような感じだから、積雪もそんなに多くない。

そもそも雪まつりなんてできるのか。やらなくてもいいから米配ってくれ。

誠に遺憾である。

これでも「悪名は無名に勝る」とでもいうのかと、最近のフジテレビの扱いを見ると思う。

もうここでも何度も言ったからそろそろしつこいと思われても仕方がないが。


有名になる税金というのは、こっそりひっそりと目立たないように暮らすよりもはるかに金額が高くなる。

何かあれば家に詰め寄られるし、訳の分からないことを聞いてくるレポーターに追い回されるし、

何でもないこちらから見れば縁もゆかりもない不審者に声かけをされることを危惧しなければならないし、

顔が売れるというのは犯罪者もそうだが芸能人にとってもはるかに悪影響である。

しかし顔を売らなければ商売はできないのが芸能人のつらいところである。

毎年定期的にやってる文芸賞の受賞者なんて特に顔を出してもすぐに忘れ去られるし、

本業のためには自分の本や掲載紙やウィキにのる写真以外ない方がいい。

変に目を付けられたらかなわないから。

そういう意味でエキストラでもテレビの媒体に出ようとするのは怖くないのか、と思う。


まあ出たい人はコストを出れば出ればいいし、出たくない人だけ、たとえ偶然でも写されないようにすればいい。

街角で何かの撮影をしていたら無意識にでも意識的にでも避けるのが自分の習性になっている。

たとえ一般人が同じ観光地にしてたまたま撮影の視界に入るだけでも避けたいと思う。

それは自分もそうで写真を撮るときには誰も視界に入らないように心掛ける。あとからプライバシーの侵害とか言われたらかなわないから。

無意識にでも人を勝手に写さないようにだけは常に心がけておきたいものである。

何がきっかけでプライバシーが喪失するかわからないから。

誠に遺憾である。

個人的にはホラーは架空の世界の話だけでお腹いっぱいである。

特に突然人を驚かせておしまいのジャンプスケアには一番嫌悪感がある。

ホラーといっても徐々に後ろから迫り来るようなものとか、文章が少しずつ乱れて電波になっていくのとか、

とにかくグロくなくて突然でないものを頼みます、

と言いたくなるわけである。

あまりにも訳がわからないので生成AIに頑張ってもらってグロ画像を生成して耐性をつける、などという、

端から見たらなんでそんな方法なの、という方法で何とかしようなどと考えている。どうしてそんなので解決を図るのか理解に苦しむだろう。

だって突然やって来るのが一番怖いですもの。

突発的なものはそれは人を驚かせるだろうが、中身が伴わなければ突発的なだけである。

怖いのではなく突然来るのに驚いただけであり、そのもの自体が恐怖とかホラーとかいうわけとは限らない。

本当につまらないものでも突然来れば驚くに決まっているのである。

そこに気色悪いグロいものを加えても恐怖とかにはなれどもこのストーリーを深読みするとか、いろいろな繋がりを推測する、にはならない。

単なる驚愕と恐怖と突然死のリスクがあるだけである。そんな安易なホラーなんてホラである。

誠に遺憾である。

女性問題でテレビ局や芸能界が揺れに揺れているのだが、そこまで女性問題が個人にとって深刻になる意味がよく分からない。

何せ自分には女性問題というか恋愛経験の一つもないから、アセクシャルや無欲ではないが完全に別世界の出来事であるかのように思っている。

人と勝手に繋げられたり急に人を紹介してもらうとか怖くね?縁もゆかりもないんだぜ?となる。

権力も手にしたことがないから権力を笠に着たこともないし、権力なんてあったら自分が何を振り回すかわからんから怖いし、

割と自分のノリと勢いが自分で恐ろしく感じる時もあるので、使い回したらきっとろくなことにならないような装置は金輪際使わない。

普段欲まみれな体験をしたことが無い奴が急に多大なやったことのない欲望通りの経験に触れると、情報に押し流されたり依存したりする。

そしてそれが得られなくなると渇望し、禁断症状がでて人の扱い方も含めて悪化する。

行動がエスカレートしてまずいことが起きてもなんか勝手になかったようにされると、

いざ一大事が起きたときには綻びが大きすぎて取り繕うこともできなくなる。

で、色々な場所を巻き込んで大騒ぎになって取りかえしのつかないことになると。

その渦中の人が引退を発表したが、いくら守秘義務があるといってもあまりにも何も言わなさすぎではないか。

説明責任とかあって簡単に暴露はできないのはわかるがもう後は逃げ隠れするように生きるしかない。

どうしようもないから関係者に色々聞くしかないのだが、答えを濁したり、どうしても歯切れが悪い感じになったり、

質疑応答にはまったく反応したりしないから、結局毎度いつものように煙に巻かれるしかないのか、と思う。

マスメディアも政治と金もスキャンダルに触れた芸能人もそこの歯切れが悪くなるし、何なら悪いことをしましたと言うことしか期待されないから、

変な受け答えをしてもどんどんキレている人々の怒りが蓄積されるだけだから沈黙して鎮火を狙うしかなくなってしまう。

答えれば答えるほどドツボにはまる。抜け出せなくなる。怒りが怒りを呼んで一塊になる。

そうなると誰が何をするかわからないから、身を隠すか、動きもしない地蔵にでもなるしかなくなってしまうのである。

誰の責任にも問題にも触れず、隠れるよう逃げるように引退とか、やらかす前にやらかしたらこうなると考えもしなかったのだろうか。

つくづく権力に巻き込まれた者は悲惨である。

誠に遺憾である。

ここ最近、田舎の中の田舎の我が町にもなんか大きなトランクケースを運びつつ歩く旅行者、

多分雰囲気でなんとなくうちの国の人じゃないんだろう、と見た目で推測できる旅行者を見かける。

だってここ観光地としてのウリなんて何もないし。あるとしたら腐るほどある雪しかないが、本当に雪だけしかないので、

そんなものを見て何になるのか、雪が積もるのを見るだけでがっくりと疲れるものを、と思う。

地元民なら逆に避けるというか何もないので寄り付く手段もない、冬とか特に雪で埋まるから見るものが特になくなる。

ぶっちゃけろくな産業も観光地も何もないのでマジで何しにここに来たの、と半分不審者みたいな目で見ざるを得ない。

本当に観光資源も何もない単なる過疎地の住宅地に来られても一体どう扱えというのですか。

ここではない観光地としてそれなりに資源のある町ではある並木道が勝手に観光地にされたりして、

下手に人が集まれば集まった分だけ交通を遮断したりするような撮影なんかを始めてしまうので、

生活あがったりである。変に人が勝手に集まるなんてそこを生活の場にしている人間にすれば恐怖でしかない。

最終的にその観光の目玉であった並木を伐採して人を追い払うようなことになってしまったわけで、

生活のおまけで観光があるのに生きるための仕事の邪魔になるなんて文字通り邪魔でしかない。

というか本当にここ何もないですよ。何もないから田舎なのだ、というしかない何の変哲も無い田舎。

ちゃんとした街のスーパーでも行って買い物でもすればいいのに、もっといい物が食べられますよ、と田舎の民は思うのである。

誠に遺憾である。

イスラム教では偶像崇拝は厳しく禁じられ、アラー(唯一神)はともかく、預言者であるマホメットの絵を描くことも出来ない。

宗教を説明するためぎりぎりセーフのラインで身体は描くとしても、顔だけは何をどうしても描いてはならない。

すべては偶像崇拝や個人崇拝を禁止するため、それは真の信仰ではないからである。

マホメットの発言録『ハディース』は法典としてまとめられて、聖典の『クルアーン』とほぼ同じ扱いを受ける。

偶像よりも何を言ったか伝えたか、言葉と行いが何よりも重要なのである。

キリスト教もイエスキリストはユダヤ教の流れで偶像を叩き壊していたが、

途中でユダに裏切られて処刑されたため、その辺の戒律が曖昧になったせいか、

その後の世界への布教の都合上、イコンやイエスキリストの像はどこでも作られ、処刑に使用された十字架はシンボルにされ、

最終的に仏陀とまとめてギャグ漫画にされてしまった。

元のユダヤ教なんて神の代わりに金の子牛の像を作って拝んだら神の怒りに触れてその辺の民衆ごと根絶されたりするような裁きの神なのに。

ついでにキリスト教を散々嫌ったニーチェもその偶像と同じような寓話を『ツァラトゥストラはこう言った』で展開している。

基本偶像崇拝、特定の個人崇拝というのは慣れてくると人々を堕落させるものである。

自分で考えられる頭を放棄して、お偉い他人の言っている、やっていることにお任せして、悪くなればその偶像に責任をおっ被せようとするので。


そういう個人というか上位の人の崇拝というのは大抵部外者からみればどこをどう信じたらいいのかという形で残る。

社会主義のレーニンやスターリンの一種の神格化、北朝鮮の金日成金正日金正恩の肖像画が国内のあらゆる場所に貼ってあるのとか、

その他中東やアフリカの独裁政権の国家元首の扱いとか見ていれば嫌というほどわかる。

肖像画の自然に貼られたものと強引に貼られたものの違いなんて、そこを通り過ぎる人々の反応を見ればやがて明らかになるだろう。

支配と信仰の手段として偶像は嫌というほど使われる。何ならアイドルなんて直訳したら偶像である。

芸能界なんて偶像の写真集とかライブで偶像を壊れるまで動かしたりとか、きな臭い話題には今でも事欠かなくて困る。

偶像という割にはこき使われている気がしないでもないが、崇められるには崇められるだけのことをしなければならないのである。

崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう。


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誠に遺憾である。

自分の聴いている音楽がクラシック中心なので普通の人と音楽の話をしてもまず話が通じない。

妥協しろ、と言われても一体何を妥協しろというのか。それを変えるなんてとんでもない。

あなたは醤油ラーメンが好きだったけど明日からは味噌ラーメンだけ食え、と言われて素直に賛成できるだろうか。

阪神ファンが明日から巨人を応援しろと言われるようなものである。それは死に等しい。

音楽の嗜好とか簡単に変えられるものではない。色々なものを見聞きしてこの結論に至ったのに、話が合わないのも当然ではないか。

嗜好がクラシックに至った経緯も「その当時のポップスに死ぬほど嫌気がさした」からなので基本的にポップスに関していい思い出はない。

ギターやベースも弾くがあくまでもパンクロックの話であって、純正なるポップスについては死んだような顔をしながら弾くだろう。

というか実際に福祉施設のバンドで後ろで死にそうな顔をしながらポップスを弾いた。あれ確実に不満がありますねという顔でベースを弾き通した。

手は抜かないので本気でやるが、顔だけ奇麗に死んでいるという、確実に「音楽の方向性の違い」で一悶着ある奴である。

障害の都合上嘘をついても言葉や表情ですぐにバレるので実際には嘘なんてついていない。つけないと言った方が正しい。

隠しごとなんてしたらもう隠していることがすぐにわかる表情をするから好みについて話すとすぐ顔に出る。

音楽でも、美術や文芸やその他芸術に関する全てのことについて同じである。

何でもすぐ顔に出るから諦めたらそもそも話をすること自体を却下する。

クラシック音楽の話をすればホイホイついていくのは目に見えているが、誰も話を振らないから、回りからはあの人何だろうという目で見られる。

それ私のツボにハマる話題になってないだけですから、というくらいツボにハマると始末におえないくらいにはうるさくなる。

よって他人の評価は「言いたいことも言わない」か「とてもうるさくやかましい」の両極端である。

前者は私の琴線に触れず、後者は私の琴線を掠めただけの話である。

クラシックって本当に話を振られないので一体誰が興味を持つんでしょうかね。

リサイクルショップに急に並ぶ見たことのないクラシックのCDの山が増えたのを見ると、

「嗚呼、また愛好家が一人亡くなったか、あるいは身辺整理か終活をしたのか」と悲しい気分になる。

だが自分の周りにはクラシックのクの字も何も知らない、音源も集めない人々ばかりである。

一人で道を追い求めて、なんて言われるが誰もついてこないものを一体どうすればいいのか。

クラシック音楽の勧誘なんてとても通じるものでもないし、無理やり聴かせても欠伸か居眠りでもされるのが関の山である。

誠に遺憾である。

まあスキャンダルに興味の無い人間でも毎日うるさくしつこく話を聞かされれば嫌でも聞こえる訳でございまして。

金と女性との話が盛大に炎上して記者会見のやりとりも拍車をかけてもう燃えるだけ燃えてしまえ、となっている体たらくで、

スポンサーも続々撤退してるし、ACのコマーシャルがまた頻繁に流されるのだろう。

最近は本当にテレビなんて見ないしスキャンダルにも関心はないが、

そうなったのもテレビ局が少なく民放のチャンネルが増えないしどこも同じようなことしかしない、見せないから、の結果である。

どこを流しても我が物顔で暴れまわる固定されたコメンテーターとか、ひな壇に芸人を並べてトークするだけとか、

YouTubeに行って直に見ればいいようなYouTube動画の転載にリアクションを加えただけの番組とか、飽きたというかそもそも面白くない。

少しマイナーなスポーツになると、途端に塩反応になって、有料チャンネルでも探さないと見つからないような現状で民放に何を期待するか。

特に地上波でF1も放映しなくなったし、プロレスの中継もしないし、

民放のテレビに映るスポーツなんて本当に何が残ってるの、というような体たらくに何を期待するか。

政治と金の話もいつまでも尽きないし、同じ事を何度も繰り返されるので疲れた。

人の怒りを煽るスキャンダルにも話題が事欠かなくて人間に愛想を尽かしたくなるのは、

大体人権を無視した昭和の芸能リポーターと週刊誌とひな壇という井戸端会議のせいである。

人間の興味の無いことをこれでもかとぶちまけるスキャンダルを嗅ぎ回る連中には開いた口もふさがらないが、

仁義にもとる行為を延々と繰り返して自浄作用もないならこの際滅んでしまえ、と思いたくもなる。

でも競馬の中継だけは潰れないでほしいものである。

誠に遺憾である。

世のため人のために生きるということはことごとく自己犠牲である。

仕事をすることも。自分の心を売り渡してお金をもらうようなものである。

障害者も何ら変わりはない。ただし労働にありつくにも、そこに定着するにもなかなか健常者を超える気合と努力が必要である。

それを怠ると環境の中に馴染めなくなったり、人からあれこれ言われたり、酷いときは短時間で逃げるように辞めていってしまう。

誰が悪いなんて短時間でなんて決して分かるような事ではないが、

健常者よりも沢山の精神を犠牲にしなければ定着もその場に留まることもできない。

しかし精神の器も小さい上に、精神的な負担は余計にかかるのでいずれ耐えきれなくなるときも来る。

遠い昔、社会に突っ込んで行って弾き返されてやさぐれているような見た目になった、障害者の昔の知り合いを何人か見かけた。

まるで普通の仕事になじめなかった自分の過去を見ているような気分になる。

本当に無理だったので今は作業所に通っているが、昔の普通の仕事をしていた頃は、定着も楽ではないし仕事も困難を極めるので、

どうしても最低賃金に食らいつかなければならないというのも理解できないまま仕事を辞めた。

普通の仕事をこなして普通に生きる。

それは本当に一人でできるのかと自問をすると、何回計算してもめちゃくちゃな解答が出てくる。

要は自力ではとてもできるものではない、と。

誰かの協力を得なければならないが、それが自分の障害にとって最も困難な事柄であると。

自己を粉にしても何も叶わないのなら、とことん自分の事だけに向き合ってやれ、興味関心も努力も何もかも。

身の丈を超えたことをやろうとして周囲を含めて大惨事になったのがこれまでの結果であり、自己犠牲の産物である。

身の丈を超えない、となるとこの小さい自分の背丈を超えないようなことしかできないが、

それが自分の精一杯の努力なら仕方のないことであろう。

誠に遺憾である。

米の価格がどんどん高くなっているという話題が尽きない。

もう主食がパンとかパスタでも別に困らないんじゃないなどと思う今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


米が高い高いというが、農家からすれば今までの米価格が安すぎたのであり、

肥料代も燃料代もバカにならないのに、米の価格だけ据え置きされたら米を植えるだけ損になってしまう。

他のものがきちんと値上げされているのに米だけ値上がりされないなんてそんな馬鹿なことにはならない。

それをすれば米農家なんてことごとく廃業である。値上げに対する忌避感が、全ての物に行き渡った結果、給料までインフレしないまま、

貨幣そのものに対する信頼感まで停滞することになってしまった。

明治時代の百円はとんでもない大金だが、今なら硬貨一枚、百円ショップで一品買えるような程度になっている。

もう銭なんて単位はコンビニとかで小数点以下の数字でしか見ない。

明治から昭和で円の価値が変わっているのに昭和から令和で変わらない訳がなかろう。

逆に平成でそんなに変わらなかった方が不思議な話なのである。

その過程で本来値上げするべきものが値上げされなかった結果が今の急激な値上げである。

時間をかけて緩やかにしておけばまだ突然、という印象はない。

それを何を思ったか意地でも据え置きして維持していたものが、

ロシアの戦争あたりから取り繕えなくなってきて、抑えていたものが急に噴き出すように全部にまで波及していった。

そして釣り合いがとれなくなって、バランスが崩れるようにあらゆる物が値上がりしていった。


もう日本人なら米だろう、という先入観から抜け出すべきなのかもしれない。

百円ショップでパスタでも買ってゆでて塩でもかけて食べれば飢え死にはしないだろう。

というかそうなる前に給料をどうして全体的に上げなかったのか。

誠に遺憾である。