隠者の庵 -15ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

世のため人のために生きるということはことごとく自己犠牲である。

仕事をすることも。自分の心を売り渡してお金をもらうようなものである。

障害者も何ら変わりはない。ただし労働にありつくにも、そこに定着するにもなかなか健常者を超える気合と努力が必要である。

それを怠ると環境の中に馴染めなくなったり、人からあれこれ言われたり、酷いときは短時間で逃げるように辞めていってしまう。

誰が悪いなんて短時間でなんて決して分かるような事ではないが、

健常者よりも沢山の精神を犠牲にしなければ定着もその場に留まることもできない。

しかし精神の器も小さい上に、精神的な負担は余計にかかるのでいずれ耐えきれなくなるときも来る。

遠い昔、社会に突っ込んで行って弾き返されてやさぐれているような見た目になった、障害者の昔の知り合いを何人か見かけた。

まるで普通の仕事になじめなかった自分の過去を見ているような気分になる。

本当に無理だったので今は作業所に通っているが、昔の普通の仕事をしていた頃は、定着も楽ではないし仕事も困難を極めるので、

どうしても最低賃金に食らいつかなければならないというのも理解できないまま仕事を辞めた。

普通の仕事をこなして普通に生きる。

それは本当に一人でできるのかと自問をすると、何回計算してもめちゃくちゃな解答が出てくる。

要は自力ではとてもできるものではない、と。

誰かの協力を得なければならないが、それが自分の障害にとって最も困難な事柄であると。

自己を粉にしても何も叶わないのなら、とことん自分の事だけに向き合ってやれ、興味関心も努力も何もかも。

身の丈を超えたことをやろうとして周囲を含めて大惨事になったのがこれまでの結果であり、自己犠牲の産物である。

身の丈を超えない、となるとこの小さい自分の背丈を超えないようなことしかできないが、

それが自分の精一杯の努力なら仕方のないことであろう。

誠に遺憾である。

米の価格がどんどん高くなっているという話題が尽きない。

もう主食がパンとかパスタでも別に困らないんじゃないなどと思う今日この頃、

皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


米が高い高いというが、農家からすれば今までの米価格が安すぎたのであり、

肥料代も燃料代もバカにならないのに、米の価格だけ据え置きされたら米を植えるだけ損になってしまう。

他のものがきちんと値上げされているのに米だけ値上がりされないなんてそんな馬鹿なことにはならない。

それをすれば米農家なんてことごとく廃業である。値上げに対する忌避感が、全ての物に行き渡った結果、給料までインフレしないまま、

貨幣そのものに対する信頼感まで停滞することになってしまった。

明治時代の百円はとんでもない大金だが、今なら硬貨一枚、百円ショップで一品買えるような程度になっている。

もう銭なんて単位はコンビニとかで小数点以下の数字でしか見ない。

明治から昭和で円の価値が変わっているのに昭和から令和で変わらない訳がなかろう。

逆に平成でそんなに変わらなかった方が不思議な話なのである。

その過程で本来値上げするべきものが値上げされなかった結果が今の急激な値上げである。

時間をかけて緩やかにしておけばまだ突然、という印象はない。

それを何を思ったか意地でも据え置きして維持していたものが、

ロシアの戦争あたりから取り繕えなくなってきて、抑えていたものが急に噴き出すように全部にまで波及していった。

そして釣り合いがとれなくなって、バランスが崩れるようにあらゆる物が値上がりしていった。


もう日本人なら米だろう、という先入観から抜け出すべきなのかもしれない。

百円ショップでパスタでも買ってゆでて塩でもかけて食べれば飢え死にはしないだろう。

というかそうなる前に給料をどうして全体的に上げなかったのか。

誠に遺憾である。

最近は長生きなんてするもんじゃない、と言われる。

食事や通院、服薬に神経質なまでに気を配って配り尽くして生活に制限をかけてまで寿命を延ばす意味はあるのか。

もちろん長生きするに越したことはないが、健康寿命だのなんだのとうるさいから、

耳にたこができるくらいに健康健康と連呼されたら疲れるだろうと思う。

ダイエットが生きがいの人なんて世間でやかましくダイエットダイエットと言っているのにあまり聞いたことがない。

つまりダイエットとは苦役である。

毎日の大食いが過ぎて胃がつまったり、アル中になるほど飲んだりするのは論外だが、

一日のカロリー摂取量とか塩分とか糖分とかありとあらゆる数値を具体化してまで、何を生きてつかめるというのか。

病気にかかってしまえば嫌でも管理せざるを得なくなるのに。

糖尿病とか肝臓や腎臓をやられた人とかでもなければ時折羽目を外しておかないと、

食事すら苦役にされて、一日三度の楽しみさえ純粋に享受することができなくなってしまう。

それは生きているというより生かされているようなものである。

一日三度納豆とご飯と味噌汁でも食べて生きればよかろう、なんて今の世の中では言えた物ではない。

自分はご飯と漬物さえあればいい、と思う日は結構あるが、それは自分で漬物を作るからであり、

そうでもなければご飯と漬物だけなんてセルフネグレクトと言われても仕方がない。

虐待みたいな食事を繰り返してまで何を生きようとするのか、とダイエット食品の過度な広告を見ながら思う。

誠に遺憾である。

普段生活しているともう人と言い争うのすら面倒に感じてくる。ましてや物理的に解決の方法を求めたりしない。

孤立というか孤独を徹底的に楽しみたいなら人を寄せ付けるべきではない。

最低限のマナーを守り、最低限の人脈を確保し、最低限の支出で欲しいものだけピンポイントに買えば、

いくら収入が乏しくてもなんとかトントンでやっていけるだろう。

ダメなら生活保護に行くしかなくなってしまうが、贅沢をしなければそれなりに生きられはするだろう。

人と関わると社交費がかさむので「お金を出したくない」という理由で一人になってもいいだろう。

むしろ現実に人とのつながりがなく、ネット投稿で緩やかにそこにいる、がわかればいいのかもしれない。

緩やかであれば感情が交わったりしないし、金のやりとりもないし、まず自宅に突っ込んでこないからそれは維持する。

問題は現実に自分の目に見えている関係である。

パソコンの向こう側ではなく実際に動いたりこちらに来たりするものの関係である。

直接会うから直接話をしなければならず、物のやりとりもしなければならず、人が、人の存在が面倒という人間にはきつい。

しかし円形脱毛症になっているわけでもないし、メンタルがやられて手帳がある、なんて言うとさらに面倒になるから、

もう逃げられるなら本当に異次元にでも逃亡したくなるわけである。

誠に遺憾である。

周囲の人が居なくなったりしたら、これから先どうなるかもわからない。

でも居なくなれば自給自足さえ何とか出来れば特に困らない。

むしろ人が変にいたり、自分にとって理解不能の変なのがいる方が困る。

そして興味の無い話や汚い話(金とか芸能界とか人の悪口とか)を撒き散らかされても本当に困る。

本当に興味がないので答えようにも言葉が出てこないし話に乗ったら乗ったで後でどんな目に遭うかわからない。

なんかこう、もっと互いに無関心な距離感を保ったまま生きるというのはそんなに難しいことなのだろうかと思うのである。

別にSMAPの現状について何も関係もないし縁もゆかりもないから話を振られても返答に窮する。

悪ノリして酷い奴がいたもんですね、とでも思ってないのに乗っかればいいのか。

思ってないことを言うときが一番顔が歪むものだと私は思っている。

マスクを外さないから口の表情は見えないが目は見えないと困るので目でバレるだろう。

「何だよ一人で集中しているのに急に声なんてかけるな」と毎度毎度思っていることが。

静かでいる、ということは世の中に興味がない、わざわざ話すようなこともない、ということである。

そして自分の興味のある物事に関して同じように興味関心を抱いている人というのは実に少ない。

誠に遺憾である。

昨日昨年起きた宮崎の地震と大体同じ場所で震度5の地震が発生し、昨年と同様に南海トラフ地震対策について語り始めた。

定期的に起こると分かっているがだからといって的確に日時まで当てられない現代の地震予知がどうとか言うつもりはないが、

恐怖心を無駄に煽られるのも地震の記憶が身体のどこかに入念に刻まれているからだろう。

自分の居る地域は南海トラフとはさほど関係のない地域になるが、

東日本大震災の記憶が生々しくて困る。北海道では胆振東部地震で北海道ほぼ全域が二日間程度ブラックアウトしたように、

どこに居ようと地震からは逃れられない。

よりによって正月にひどい地震が来た能登半島地震の例もあるから、

どこに居ようと日本は地震の上に住んでいるようなものである。

特に冬に地震をぶつけられてライフラインが止まると、寒冷地では水が凍ったり暖房が付けられなくなったりして簡単に死に至る。

道路がつぶれて雪が積もればもう燃料も食料品も来なくなるかもしれない。

もうそうなったら絶望と死を意識しなければならなくなるだろう。

恐れるべきは南海トラフに限ったことではなく、火山性地震とかも平等に警戒すべきである。

蓄えはちゃんとしておかねばならないが今の家庭事情で炭とか運ばれても逆に屋内に燃やす場所がなくて困るかもしれない。

千羽鶴とか送ってもさらに何もすることがないので燃やすしかない。

誠に遺憾である。

何かの罰ゲームで持っているものをリサイクルショップで売るということとなった。それも三つの店で。

仕方ないので手持ちのCDやらDVDを持っていき、そのお金で新しい別の店で売るものを買って、というわけのわからないことをした。

あまり高く売れなかったので資金繰りが怪しくなりながら、色んな乗り物を乗り継ぎ三軒目に行くと、

売るものも怪しいので店員に呼び出されアレコレ聞かれる羽目になった。

事情が事情なので真面目に説明するわけにも行かず、出まかせを言いながら物を売り払って行った。

最終的に持っているものがみすぼらしくなったり何故かその辺の不良みたいな人に呼びかけられて「何やってんの」と言われたり、

基本酷い目にあった。コレクションは売ったから崩壊するし。

自分は家では長風呂派だが、特に水に浸れるなら何でもいいらしい。

最近はプールに出かけて年々悪化する股関節痛を何とか緩和しようとしている。

陸の上を歩くよりも水中を歩く方が確実に関節の痛みを感じないからである。

私の場合水に浸かると頭が集中モードに入って、水をかき分けて歩きながら、現在の様々な物事について考えを及ばせる。

今やっていること、文章の内容について、大したことがない時は大したことないものを丁重に考え、

それを水から出るまで繰り返す。まるで洗礼の中瞑想しているかのように。

そうやって感覚を研ぎ澄ませていると、宗教の洗礼に水を使ったり、信仰のために水に入っていくことを信仰の手段とするのは、

あながち間違いではないように思うのである。

半身水に浸かりながら、今年の新監督の阪神タイガースはどこまで行けるのだろうかとか、

他愛もない考えをすることもあるが、大体水に入っていない時よりは集中できる。

問題はプールで歩きながらやっとかないと確実に不審者にされてしまうことである。

温泉で湯の中をうろうろしながら天を仰いだり急に立ったり座ったりなんて出禁にされかねない。

誠に遺憾である。

これでも診断前とか人並みに仕事をして世のため人のために貢献しようという意欲で動いていた。

実際社会に出て自分の実力が根本的に足りないことと向いている方向性が違うことが嫌でもわかり、

最終的に心療内科に行って広汎性発達障害の診断を受けることになった。

簡単に言えば人のためになる、と言っても人のためになる自力が、実力がなければ他人をどうすることも出来ない、むしろ悪化させると。

何より人と関わる上で最重要課題の会話が人とすれ違う、かみ合わないようではとても人のためにはなれない。

努力して、とは言っても人のために、というよりは自分だけ何とかして何とか走りきるようなことになるので、

診断を受容して発達障害の専門書を読んで出来ることと出来ないことを分けた辺りから、

微妙にやさぐれはじめて、人の役に立たないようにしようという意欲に変わっていった。

人の役に立たない、というのは私の中では人との間に波風立てないように必死に努力する、ということである。

誰かをいきなりハンマーで殴りにいったり、刃物を振り回したり、というのとは違う。

それも確かに役には立っていないが、でかいことを起こせばそれにつられて警察や司法の人々を動かしてしまう。

(人との接点を減らして)人の役に立たないようにする、しようという意志が一番大事な意志である。

事件を起こせば人々から直に感情をぶつけられる。自分の意志とは関係なく。肉体的に、精神的に石つぶてをぶつけられるのは、

人の怒りを動かしている、怒りをぶつけることを娯楽にする人を動かしているという意味で、かえって人のためになってしまう場合がある。

「でくの坊と言われ、楽にもされず苦にもされない、そういうものに私はなりたい」と『雨ニモマケズ』にあるが、

いてもいなくても大した扱いを受けないようにしたい、そのために努力するのが人の役に立たないことである。

人を頼りにもしたくなければ、頼りにもされたくない。他人を頼ったりするのは、人に依存しているということである。

人と関わるのに障害があるのに人との関わりを前提にした関係を築いても自力では維持出来ない。相手に強い負担を強いることになる。

自分自身なら何とか維持できる、のが現状である以上、自分が振り回されて壊れないように、誰かから余計な用事を請われないするのが最も大事である。

人との接点を増やせばそれだけ摩擦が増え、関係図が複雑になり人との感情が読めない人間の仕事ではなくなる。

一致団結、なんてとても言っていられるような状態ではないのに世の中は人との繋がりを求めてそれを前提にしたがる。

世の中には人間関係が負担になる人とならない人がいて、その間に断崖がある。

この崖があれば飛び越えて来ないだろうと思っていたら人を求める人が勝手に飛び越えてくる。

何のためにわざわざ崖の向こう側にいるのか、人が負担だからそれっぽい位置に立っているのに。

誠に遺憾である。

何か女性問題でテレビに出られなくなった芸能人のスキャンダルがほぼ毎日新しい話題が出て散々な推移になって、

特に芸能人のスキャンダルとか浮ついた話に興味の無い自分としては食傷気味である。

毎日芸能人の話が出るたびにその他欄の隅の方に押しやれないかと思いながら過ごしている。


そんな生活レベルなのでテレビは見てない。正確に言えば芸能人の出るテレビは見ない。

見ているのは格技とかモータースポーツとか専門家のやる試合とか、トーク番組でも専門家の意見だけ聞いていたい。

ワイドショーのように専門家でもない人が急に出しゃばったり、芸能人の肩書きだけで変なことを言う人が出るたびにげんなりする。

実際すごくげんなりしたからこそテレビなんて見ない、となっているわけで、

どうせ芸能人を呼ぶにしても元プロとかその業界に精通している人を招き丁重な説明を求めるべきであるだろう。

間違っても素人など呼ぶべきではない。

適当に喚きちらすにも才能は要るわけで、それはアナウンサーがちゃんとやってくれるから、

素人ジャーナリストみたいなのが壇を埋めるとチャンネルを変えるかテレビ自体を消す。


しかしどんな栄華を極めた芸能人でも問題を起こせば出られなくなったり自粛したりする。

あらぬ噂をたてられたり、一言喋るごとに追い回される。SNSもお構いなしである。

昔ならプライバシーを無視した芸能ジャーナリストに家まで突撃されていたことだろう。

それを目にするたびに、十中八九無理だが有名にだけはなりたくないと思うわけである。

人に追い回されることを嫌がる人間を追い回すなんてパワハラか何かのハラスメントだろう。

どんなことをするかわからない人間の間で何かをできるのは尊敬に値するが、

それ以外のリスクを鑑みると抱えきれない物は抱えるべきではないと思う。

有名税って本当に怖いですね。

誠に遺憾である。