世のため人のために生きるということはことごとく自己犠牲である。
仕事をすることも。自分の心を売り渡してお金をもらうようなものである。
障害者も何ら変わりはない。ただし労働にありつくにも、そこに定着するにもなかなか健常者を超える気合と努力が必要である。
それを怠ると環境の中に馴染めなくなったり、人からあれこれ言われたり、酷いときは短時間で逃げるように辞めていってしまう。
誰が悪いなんて短時間でなんて決して分かるような事ではないが、
健常者よりも沢山の精神を犠牲にしなければ定着もその場に留まることもできない。
しかし精神の器も小さい上に、精神的な負担は余計にかかるのでいずれ耐えきれなくなるときも来る。
遠い昔、社会に突っ込んで行って弾き返されてやさぐれているような見た目になった、障害者の昔の知り合いを何人か見かけた。
まるで普通の仕事になじめなかった自分の過去を見ているような気分になる。
本当に無理だったので今は作業所に通っているが、昔の普通の仕事をしていた頃は、定着も楽ではないし仕事も困難を極めるので、
どうしても最低賃金に食らいつかなければならないというのも理解できないまま仕事を辞めた。
普通の仕事をこなして普通に生きる。
それは本当に一人でできるのかと自問をすると、何回計算してもめちゃくちゃな解答が出てくる。
要は自力ではとてもできるものではない、と。
誰かの協力を得なければならないが、それが自分の障害にとって最も困難な事柄であると。
自己を粉にしても何も叶わないのなら、とことん自分の事だけに向き合ってやれ、興味関心も努力も何もかも。
身の丈を超えたことをやろうとして周囲を含めて大惨事になったのがこれまでの結果であり、自己犠牲の産物である。
身の丈を超えない、となるとこの小さい自分の背丈を超えないようなことしかできないが、
それが自分の精一杯の努力なら仕方のないことであろう。
誠に遺憾である。