隠者の庵 -16ページ目

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

中学受験とかないしやってもとても不合理(受験のある学校の最寄りで片道一時間以上)、

電車は一時間に一度来ればいい方、なので親が送迎するしかない、往復二時間くらいで、

高校だと体力もついたり寮もあったりで、それでも私立の高校の推薦や受験を希望する人も出てくるが、

基本的に中学受験とかは無縁の地域だった。今もそうだろう。

無難というか地元の公立に進む以外に選択肢がない。無理矢理作るなら引っ越すしかない。

ある同級生が行きたい高校に行くために家族ぐるみで合格した高校の近くに引っ越したときはそこまでするのか、と、

自分を含めた同級生たちでわずかながらでも引っ越しを手伝ったときに思ったものである。

当然自分は地元の公立の進学校に進学しました。お試しで先述の同級生と同じ高校を受けて受かっていたが金や手間がないと言われたから。

別な高校に推薦で進んだ人は朝の七時前に着く電車に乗らないと間に合わないので、

それより早く起きて準備をしていることだったことだろう。自分にはとても耐えられない。

タイパとか考えたら劣悪以外の何ものでもないだろう。そこまでして何が得られるのかとかついつい考えてしまう。

なお地元と言っても自分も同じように一時間に一度来ればいい方の電車に毎回乗って高校まで通ってましたが。

その程度に田舎なので、定員割れの高校はボコボコ出てくるし併合になったり高校自体が無くなったり若い頃と比べても激変していると思う。

過疎というのはそういうものです。

誠に遺憾である。

転売とか天敵みたいなところですね、などと思いながら似たような仕事をしていた時があった。

ひと箱いくら、で買い付けた服や雑貨や、どこかの業者の質流れか処分品の山の中からめぼしいものを探したり、

自分の足で二束三文になっているパーツを探して買いあさってくっつけてセットにしたり、

そういうせどり、というか古式ゆかしき買い付け業者ならまだ見つからない物を見つける楽しみとかでやってるのだろう、とか思うが、

新品や限定品や希少品に群がりついて値段をつり上げるだけの転売ヤーには憎悪だけ出てくる。

新型コロナの時にマスクが手に入らず五枚のマスクを新品がくるまで汚れようが付けていた(つけないと職場に入れない)という出来事があったので。

生活を送る上で必要不可欠なものやレア価値があるというだけで物を買い占める不届き者とかこの国では憎まれてもしょうがないだろう。

不当な利益を求めるのは賎業のやることである、という意識が強いので。


こう、雑に積み上げた段ボールの中に腐るほど入っているCDやDVDの中を洗いざらい調べ上げてシリーズ物のセットを組み上げたり、

なんか界隈を知らない人が詰めたんだろう、と思うような意外な良作や名盤を見つけたり、

サメ映画やゾンビ映画などのいわゆるB級映画やZ級映画を発掘してツッコミをいれるような楽しさが分からない人とは、

たとえ同業であったとしても旨い酒は飲めないだろうと思う。むしろ私自身の良識に合わせて適切に喧嘩をして帰るだろう。

生活必需品とか新発売のもの、初回限定版を転売の対象とする輩とは思想信条的に無理なのでやっていけない。

趣味がリサイクルショップ巡礼、ついでに何かジャンクの山からいい物が見つかればいい、という自分とは決してすれ違わないと確信しているから。

誠に遺憾である。

特に好きで障害者になったわけでもないのに、障害に負けるなとか世間では言われる。

成人してから生まれつきの障害が見つかった場合なんてどうすればいいのか。基礎基本の教育が何とかなる時期はとうに過ぎ去っている。

残されたのはメンタルの傷と不具合と世間との反りの合わなさでつもりにつもったメランコリックな気分である。

あまりにも多くの人と短時間にあう会合や式典とかあれば、前向きに休むことを検討しなければならない。

その自由もなければとても生きている気はしない。障害に勝つとか負けるとかいう話ではない。

合わないことを強引に進めても貰った傷が深くなるばかりである。特に障害のない人が障害のもつ弱点に深く突っ込んでくる場合には。

だから好きで障害者になったわけじゃない。気がついたらそうなっていた。どんな気持ちですか、と言われても分からん、と答える。

障害があってもあるとみなされない時期と、診断された後の時期は、意識に関わらず平等に障害が存在するが、価値観は根底から変わる。

いわゆる病識、というものであるが、あってもなくてももがいていることには何ら変わりはない。

むしろ適切な指導も何もないのを強引に乗り切った場合、困難を力業で乗り越えた反動で背負った傷は余計に増えているだろう。

障害が影響して仕事が出来なくても、診断されなければ困難と見なされないが、診断名がつかないから何とかなるわけでもなく、

診断を受けなければ自身の障害に対する意識や障害が自分にあることを前提にした考え方には決して至らない。

むしろ当たり前とか普通と言われるものがどれだけ当たり前ではなく、普通でもない、わかるけれどぼんやりとしかわからない、

勝手にわかった気分になるしかない、という物事がどれだけ多かったことか。

世界と自分とのズレは明らかに不利益なのに、それを不利益とみなしてはならないのか。

実力上負けて当然な物を負けることも許されないのか。凹んでもいられないのか。

合理的配慮はそういう場所にこそ必要な物であると思う。

誠に遺憾である。

冬というのは何もかも狭くて困る。

寒冷地では「冬季うつ」という言葉があるように真っ白でメンタルまで何もかも雪に埋まるようでは何もすることがない。

本当に何もかも埋まって狭まってやるべき事も見失うからである。

もう近所は強い雪が降り道路の広さが半分になったり視界確保ができなかったり、

車で近所を巡るだけでも楽ではない。既にぶつけた車が路肩に停まっているのも日常である。それでさらに道が狭くなって通りにくくて仕方がない。

もう動くな、と言わんばかりの気候だが、それでも日常は普通に動かされる。でも雪がすさまじい制限をかけてくる。

あまりの雪の多さに退屈したり運動不足を解消するために雪まつりがあるのだろうとは思うが、

基本人のいる場所に集まらない人間は人が集まれば集まるほど憂鬱になるので、

冬でも雪の中でも何とかなる場所に出かけて個人で運動不足を解消しなければならない。

自分の場合具体的には一人で温水プールに行って泳いだり歩いたりする。

一人なのはチームを組むとメンタルが弱いからあれこれ言われてボコボコになるからである。

冬季うつ解消も結局ある程度自力で何とかしなければならないのである。

ずっと窓から雪しかない外を見ていれば気が滅入るのは明白であるから、人の目につかないように運動しておく。

あとは心療内科に定期的に行ってメンタルのチェックを怠らないようにしたり、冬だけでも薬を強くして何とかする。

冬そのものが生への意欲を失わせるため、個人だけで何ともならないこと出てくるからである。

暖かくなるまで辛抱すればいいがそれまでは最低限メンタルケアはしなければならない。

まったく生きるのも楽じゃない。

この時ばっかりは雪のない地域がかなりうらやましくなる。

誠に遺憾である。

やっと正月も終わる。

この年末年始というイベントは毎年あるが毎年だんだん分からなくなってくる。

することがないからである。特に仕事をするというわけでもなく、イベントに乗っかることも特に必須ではない。

毎日を同じように流したい人間は特にすることがなくなり、部屋に籠もっていつも通りパソコンをいじる以外に何もない。

特番なんて見なくなって何年経つだろう。歌番組とか音楽の方向性の違いで人とは見られない。

特に芸能界に興味はないからテレビをつけても何も面白くない。

イベントはイベントでもカーレースとか格闘技なら喜んで見に行くだろうが、

金がないのかコンプライアンス遵守なのか家庭のテレビには映らない。有料放送で見るしかない。

正直作業所や普通の仕事みたいにルーチンワークでもしていた方が気が楽ではある。

ずっと家に居るというのも気が重いが田舎なので特に出かける場所もない。

休みだと言われているから休むだけの話である。

家には休みなので休んでいる人がいるから余計に疲れる。

誠に遺憾である。

私が病院に「発達障害かどうか検査して下さい」と殴り込みをかけるように病院に駆け込んだのも今や昔の話であるが、

当時はもう会う人会う人との会話もコミュニケーションも上手くいかず当然仕事もガタガタだったので、

発達障害に詳しい人に話を聞きに行ったら病院に行って調べるべきと言われたので、

近くの心療内科に走り込んで発達障害について聞いて支援センターでちゃんとした検査を受けて、結果は自閉症スペクトラム、

当時の表現ならば広汎性発達障害又はアスペルガー症候群と診断されたものである。

知的には障害はないがそれでも人の感情は調べても理解できず、読み間違え、場面に不適切な行動を繰り返したあげく、

無能なのが嫌でも明らかになってどん詰まりに辿り着いてしまったから白黒つけるしかない、という切羽詰まった結果である。

実際出来ることはコミュニケーション以外、なのだが世の中はコミュニケーションの比重が大きいために必然的に取り残されやすい。

自分の世界にひきこもって文章を書いているが、外に出るならば遠慮無い言論にさらされるし、なんなら誹謗中傷に激突するだろう。

たとえSNSの意味をなさなかったとしても安全地帯は保ちつつ自己表現する場所がないといけない。

結果ブログを書き殴っておきながら誰もフォローしないといういびつな構造になっているわけである。

リアルな生活でも人の噂とか愚痴とか聞くとメンタルのテンションが下がっていくのがわかる。

そういうのを抜きにして話を構成出来ないのかこの人々はなどと思って過ごしている。

お蔭様で通っている場所ではこの人何も好みを話したりしないんですけど、となる。何を考えているかわからないと思われているかもしれない。

世の中の趣味や動向について興味はあるが、近くの人間の関係に興味が無い、という何のために生きているのか、という構造になっている。

人間力が低くて他人の好き嫌いの話で盛り上がるなんて出来ない人間が、安易に人の好き嫌いを言えば言質を取られたのも同然だと思っている。

それなら何も喋らない方がいい、感情的なことばかり話していたら本当に疲れてくたくたになる。

メンタル的に地獄絵図である。人との付き合いを減らさなければ乗り越えられないのに世の中は人との付き合いを広げるアプリが山盛りである。

当然使えば使うほど余計に疲れる。疲れないのは自分と向き合っている時だけ、と言っても過言ではないかもしれない。

どうもあんまり失敗が続いたので人との関わりに対して相当抵抗が出来てしまっているようである。

それならそれで生きられる仕事があればいいがそう簡単には見つからない。

一人で出来る仕事はさほど多くない。物書きなんて溢れていて割り込むのも気が引ける。

佐村河内守みたいに自分の名前を出さない誰かの作品だけ貸してなんとかできる人に何かを提出して、

自分は裏でこっそりと「あれは自分が書いたものだ」などとひとりごつ位でいい。

自分が書いたと言えばそれをネタにして世間と立ち回らなければならなくなるから、これを回避する意味でも書くところだけに専念したい。

厄介なファンレターとか誹謗中傷は健常者にも平等に飛んで行くがメンタルをやられた人間に耐えきれるはずがない。

などと供述していずれは盾の役割をする人を立てて隠れてしまいたくなる。とても人道的ではない。

誠に遺憾である。

タイトルからいきなりロシア語の不穏なアドベンチャーゲームをやらされた。

主人公も二人いて片方は日本人、片方はロシア内の小さな国の人、で、

進めていけば専門用語がちりばめられた膨大な書類をとにかく読んで、会議や組織の打ち合わせに出席してデータを漁り、

二人の居る国でのテロ行為を止めるのが目的であることがわかった。

なお失敗すれば住んでいる土地が消し飛んで小さな島になる、というオチが待っている。

片方止めるのに成功してももう片方も止めなければ片方が遠慮なく島になる。

そして主人公に文句を言われて終わる。

なんという理不尽をプレイヤーに強要するのか、なんとも不合理なゲームシステムに、

朝起きたときには疲れ果てていた。

やっぱり推理ゲームは面白い。

2023年の年末が潰れた原因である

「The Case of the Golden Idol」の続編「The Rise of Golden Idol」が出ました。

そして2024年の年末が潰れました。

 

舞台は前作からおよそ二百年後の現代(1900年代後半、パソコンなどの出始めのころ)、

ゲームシステムはおよそ前回と同一、誰が何をしたか(人名や物などが入る欄)を正しく埋める。

なお総当たりというちゃちな真似は通用しないのも前作を踏襲している。

今作は最初から日本語に対応している。

前作は日本語が初期の頃には無かった(今はある)から、

グーグル翻訳にかけたりだの有志のパッチをインストールする必要があったが、

気がついたら前作も日本語に対応したので(なおレビューにあるとおり若干の誤記ありなので注意)

この際復習がてらやり直してみるのもいいだろうと思う。

 

で、こっそり前作の国とか一作目で暴れ回ったヤツの名前とかが出てくるので、

前作未履修でも何とかなるが、前作をやっておけばよりいっそう流れが分かる。

当然猛威を振るった「黄金像」の内容も手を替え品を替え展開されるわけである。

いきなりは出てきませんが、気がついたらすっと出てくる。

 

要は「一作目が気に入っていれば買い」である。DLCも前作同様追加予定である。

今回は全部入り(配信は後ほどのシーズンパス扱い)で

一回買っておけば何かのついでに配信される予定なので買ってゆっくり待つのがいいだろうと思う。

私は即断で買いましたが。

 

しかし相変わらず登場人物が何かとうさんくさい(褒め言葉)

死人と悪人が盛りだくさんなのも前作と同様である。

 

ここ最近推理ゲームを年末に買って年末が潰れるのが恒例行事と化している。

誠に遺憾である。

何を思ったか家族総出でどこか遠い街の競馬場に出かけていた。

とは言っても誰も馬券を買わずに中の飲食店やらコンビニやらグッズの店とかを適当に探して歩いていた。

そういう自分も途中で疲れたので競馬場内の食堂(レストランという雰囲気ではない)で、

妙な赤いご飯と肉と何か(本当に何かとしか言いようがない)大きなバケツみたいな形をしたどんぶりを頼んで食べていた。

そこからさらにもう少し滞在したあと、メインレースを見終わったのか、

車に乗って帰った。

自分は自分を自力で福祉というパイプに繋げたので最悪飢え死にはしないだろう。

簡単に餓死しても困るが、それは人口が減って福祉サービスが人口規模に応じて切り捨てられてからの話であるし、

そうなったとしても老年に突っ込んだ時期の話であるので速かれ遅かれ死ぬだろう。

健康寿命が尽きて足が動かんとか頭が認知症とか生きていても大して価値はあるまい。

障害者となってまでさらに老いて恥を余計に晒すなら死んだ方がマシである。要するに長生きすべきではない人間である。

身体が動く内はまだ福祉の施設が暇にならない程度に社会を回す義務があるが、動けなくなれば何を主張できるか。

そこまでして生きなければならない目的も果たす役割も失っているのに生きるなんて、ただ生きている以外の何物でもあるまい。


都市部ではホームレスが増えたり減ったりしているが、私の住んでいる田舎町の人口規模ではとてもその辺では生きられない。

そして寒冷地なので夏は何とかなるとしても冬はどうにもならない。

まず冬で凍死するのが関の山である。

モンゴルで失業して家を失った人々がマンホールの下、地下に住むというドキュメンタリーがあったが、

日本でそんなことをすれば即水に流されて死ぬだけである。そもそも暖房を確保できなければ死ぬだけである。

田舎なのでその辺に空き家があふれているが、家を買う金もないし、公営住宅に入れば自治会や町内会がうるさくなるし、

一人で他人との接触がないようにしながら生ききるというのは難しいものである。

最悪障害年金で賄いきれなくなれば、生活保護に繋げられるように手はずは整えたつもり(あくまでつもり)なので、死ぬべき時に死ぬだけである。

誠に遺憾である。