イスラム教では偶像崇拝は厳しく禁じられ、アラー(唯一神)はともかく、預言者であるマホメットの絵を描くことも出来ない。
宗教を説明するためぎりぎりセーフのラインで身体は描くとしても、顔だけは何をどうしても描いてはならない。
すべては偶像崇拝や個人崇拝を禁止するため、それは真の信仰ではないからである。
マホメットの発言録『ハディース』は法典としてまとめられて、聖典の『クルアーン』とほぼ同じ扱いを受ける。
偶像よりも何を言ったか伝えたか、言葉と行いが何よりも重要なのである。
キリスト教もイエスキリストはユダヤ教の流れで偶像を叩き壊していたが、
途中でユダに裏切られて処刑されたため、その辺の戒律が曖昧になったせいか、
その後の世界への布教の都合上、イコンやイエスキリストの像はどこでも作られ、処刑に使用された十字架はシンボルにされ、
最終的に仏陀とまとめてギャグ漫画にされてしまった。
元のユダヤ教なんて神の代わりに金の子牛の像を作って拝んだら神の怒りに触れてその辺の民衆ごと根絶されたりするような裁きの神なのに。
ついでにキリスト教を散々嫌ったニーチェもその偶像と同じような寓話を『ツァラトゥストラはこう言った』で展開している。
基本偶像崇拝、特定の個人崇拝というのは慣れてくると人々を堕落させるものである。
自分で考えられる頭を放棄して、お偉い他人の言っている、やっていることにお任せして、悪くなればその偶像に責任をおっ被せようとするので。
そういう個人というか上位の人の崇拝というのは大抵部外者からみればどこをどう信じたらいいのかという形で残る。
社会主義のレーニンやスターリンの一種の神格化、北朝鮮の金日成金正日金正恩の肖像画が国内のあらゆる場所に貼ってあるのとか、
その他中東やアフリカの独裁政権の国家元首の扱いとか見ていれば嫌というほどわかる。
肖像画の自然に貼られたものと強引に貼られたものの違いなんて、そこを通り過ぎる人々の反応を見ればやがて明らかになるだろう。
支配と信仰の手段として偶像は嫌というほど使われる。何ならアイドルなんて直訳したら偶像である。
芸能界なんて偶像の写真集とかライブで偶像を壊れるまで動かしたりとか、きな臭い話題には今でも事欠かなくて困る。
偶像という割にはこき使われている気がしないでもないが、崇められるには崇められるだけのことをしなければならないのである。
崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう崇めましょう。
目
目目
灬
誠に遺憾である。