経典のない生活とは本当に何か | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

これでも自分の所属している宗教の本はちゃんと取りそろえている。経典、と呼ばれるもので筆頭に挙げられる物は目も通した。

大体何も知らないで自分は何々を信じていますなんて私は怖くて言えない。

それが出来るのはきちんと経典に目を通したか、あるいは寺院に出向いて話を聴いて、

偈の一つでも暗誦できるようでなければ、本当に何の信徒なのかもわからない。

それでも一般的には「南無阿弥陀仏」と唱えていれば阿弥陀仏にすがることができたり、

「南無妙法蓮華経」と唱えれば法華経(正しい教えの白蓮)の功徳にあずかることができる。

しかしできることなら、当の開祖や先人の言葉に触れることが重要なのは言うまでもない。

それをしないで仏壇の前で手を合わせたとして、合掌がどういう意味なのか分かっていないことほど心苦しいことはない。

それで信徒などとは、私ならば、口が割れても言えない。

昔は識字率の関係もあって直接人に話を聞くしかなかったし、聞くことのできる場も制限されたので、

いざ何かをしようとしても、やりたいようにできるとは言えない。

しかるに今の世は少し辛抱をすれば自由に動けるし本や看板の字が全く読めない訳でもない。

やろうと思ってもできないものと、やれるし能力が無いわけでもないのにやらない、のとは大きな違いがある。

だからこそ自分は漢文でない現代語訳されたお経をかき集めたり、寺に出向いて寺の出した本を読んだり、

主に岩波文庫の本を買うという手段であれこれいろいろな手を尽くして経典は集めて読んだ。

さらに自分の宗派も飛び出して禅の本やキリスト教イスラム教、いろいろな神話まで集めた。

救いはないのか、となったらあらゆる手段と方法を通じて問題を解決しなければならない。

それでも自分が救われるなどとは考えない。集めた読んだという驕りがあるからである。今で言えばマウントとかいう表現になるだろう。

本を読んだから偉いなんてことは決してないが、そこまでやった自負への驕りは間違いなく存在する。消すことはできない。

結果として残っている読書歴など、記憶を失わない限り喪わせることは出来ない。

人と決定的に優れているものなど何もないのに優れているなんて思えば地獄に堕ちるだろう。

だが読まないと救われた気がしないものを読まないでは済まされない。

信仰というものの体感的なことについては個人の体験なのでどうすることも出来ないが、

一度は自分の宗派、というか概念的な宗教について触れておかねばならない。

その結果、ニーチェのように自分の文化の基盤にあるキリスト教を徹底的に批判、非難するようなことになっても、である。

読まなければ何が書いているのか分からない物を、果たして読まないで済まさせるのか。人生それでいいのかなどとか言いたくなる。

それが自分が宗教に対して疑問を抱いた始点からずれることなく存在している気持ちである。

信じている物が何か分かっていないのに信じるなんて、なんという恐怖か。慄きか。

真理とは個々人を孤独にする、とキルケゴールは言う。私は一人でいるから宗教の本という本質の中にある真理に触ろうと試みる時間がある。

人と触れ合えばそんな時間も確保できないかもしれない。しかし真理に向き合う時間も作れないとはなんという空虚か。

アイドルや芸能人という偶像と向き合う時間があるくらいなら本質と向き合ったらどうなの、などと昔から思っていることに大差はない。

宗教に向き合うというのは極論自分の内面と対話することである。私はそう思っている。

人と話したりする宗教よりは私は沈黙の中に静謐さを感じられる方がありがたい。

人の声というのは私にとっては神仏に手を差し伸べるときの障碍になるものである。

なぜ一人になって自分の中身と向き合わないのか。それをしないで誰を、何を信じられるのか。

本当に合わない信じないと言えるのは、その人にとって、今世間にある大半の経典に触れて水が合わなくなってからである。

何もしない、何も読まないで言える言葉ではない。

誠に遺憾である。