ジュディ・コリンズ(Judy Collins/出生名:Judith Marjorie Collins/1939年5月1日~)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。
1939年5月1日、ジュディス・マージョリー・コリンズは、アメリカ合衆国ワシントン州シアトルで5人兄弟の長女として生まれ、そこで10年間を過ごした。父親は盲目の歌手、ピアニスト、ラジオ番組の司会者であった。
1949年、父がコロラド州デンバーで職を得たため、一家は同地に引っ越した。
コリンズはクラシック・ピアノをアントニア・ブリコに師事した。
13歳でコリンズはモーツァルトの「2台のピアノのための協奏曲」を演奏してデビューした。
ブリコは当時も後にも、コリンズがフォーク・ソングに興味を持ち始めたことを軽視していたため、ピアノのレッスンを中断するという難しい決断を迫られた。数年後、国際的に知られるようになったコリンズは、デンバーでのコンサートにブリコを招待した。演奏後に二人が会った時、ブリコはコリンズの両手を手に取り、彼女の指を悲しそうに見つめながら、「リトル・ジュディ、あなたは本当にいろいろなところに行けたのに」と言ったと伝えられている。さらに後になって、コリンズはブリコ自身が若い頃にジャズやラグタイムのピアノを弾いて生計を立てていたことを知った("Singing Lessons" 71-72頁)。
幼少期、コリンズは父親を通じて多くのプロのミュージシャンと出会う幸運に恵まれた。しかし、彼女の興味を掻き立てたのはウディ・ガスリーやピート・シーガーの音楽、そして1960年代初頭のフォークリバイバルの伝統的な曲であり、彼女の中に歌詞への愛を呼び覚ました。
ピアノの神童としてデビューしてから3年後、彼女はギターを弾くようになっていた。デンバーのイースト・ハイスクールを卒業後、フォーク・アーティストとして初めて公の場に登場したのは、コロラド州ボルダーのマイケルズ・パブとデンバーのフォーク・クラブ「エクソダス」だった。コリンズの音楽は夫が教えていたコネチカット大学で人気を博した。彼女はパーティーや大学のラジオ局でデビッド・グリスマンやトム・アザリアン(Tom Azarian)とともに演奏した。 やがて彼女はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに移り住み、ガーデのフォーク・シティ等のクラブで演奏した後、エレクトラ・レコードと契約して35年間に渡って活動を続けた。
1961年、22歳の時に、1stアルバム『A Maid of Constant Sorrow』でデビュー。最初は、伝統的なフォークソングや他人が書いた曲、特にトム・パクストン、フィル・オクス、ボブ・ディラン等の当時のプロテスト・ソングライターの曲を歌っていた。彼女はディランの“ミスター・タンブリン・マン”やピート・シーガーの“ターン・ターン・ターン”など、当時の重要な曲をカヴァーして録音した。
コリンズはまた、無名のミュージシャンの知名度向上に貢献した。例えば、彼女は長年にわたり親交を深めたカナダの詩人レナード・コーエンや、エリック・アンダーセン、フレッド・ニール、イアン・タイソン、ジョニ・ミッチェル、ランディ・ニューマン、ロビン・ウィリアムソン、リチャード・ファリーニャなどのシンガーソングライターの曲も、彼らが国民的な評価を得るずっと前に録音している。
1964年3月、アルバム『Judy Collins 3』を発売、“ターン・ターン・ターン”(Turn! Turn! Turn!)を収録。米音楽誌『ビルボード』の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)に126位で初めてチャート・インした。
1965年、アルバム『Fifth Album』を発表、全米69位。
1966年11月、アルバム『In My Life』を発表、全米46位。それまでのコリンズは最初の数枚のアルバムにおいてギターを基盤にしたストレートなフォークソングで構成していたが、本作では、ビートルズ、レナード・コーエン、ジャック・ブレル、クルト・ヴァイルなどの多様なソースからの作品を含むようになり、彼女は音楽性の幅を広げ始めた。ここからは、コーエンの詩集『Parasites of Heaven』をカヴァーしたリード・シングル"Suzanne"の他、"Hard Lovin' Loser"が『ビルボード』誌の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)97位を記録。マーク・エイブラムソンがプロデュース、ジョシュア・リフキンがアレンジを担当し、多くの楽曲に豊かなオーケストレーションを加えた本アルバムはフォーク・アーティストとしての大きな出発点となり、コリンズのその後の10年間の活動の道筋を示した。
1967年10月、再びエイブラムソンがプロデュースし、リフキンが編曲を担当したアルバム『Wildflowers』で、コリンズは "Since You've Asked" を皮切りに自作曲を録音し始めた。自己最高位となる全米5位を獲得した本アルバムはまた、コリンズにジョニ・ミッチェルの“青春の光と影”(Both Sides, Now)が1968年12月に全米8位を記録する大ヒットとグラミー賞をもたらした。
1968年、映画『The Subject Was Roses』では、“時の流れを誰が知る” (Who Knows Where the Time Goes?) と "Albatross"の2曲がフィーチャーされている。
11月、アルバム『Who Knows Where the Time Goes』を発表、全米29位・RIAAゴールドを獲得した。デヴィッド・アンダールがプロデュースし、当時交際していた「クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング」のスティーヴン・スティルスがバックアップ・ギターで参加している。なお、彼のCSNでの名曲“組曲: 青い眼のジュディ”のインスピレーションの源はコリンズだった。同アルバムには、メロウなカントリー・サウンドでイアン・タイソンの "Someday Soon"がカットされ全米55位になった他、英国のシンガーソングライター、サンディ・デニーが書いたタイトル曲“Who Knows Where the Time Goes”などを収録。また、自作の "My Father" やレナード・コーエンの“バード・オン・ザ・ワイヤー”の初めてのカヴァーも収録している。
1969年、コンピレーション・アルバム『Recollections』を発表、全米29位。
4月、ジョニ・ミッチェルが作詞作曲した"チェルシーの朝"(Chelsea Morning)を『Recollections』からシングル・カット、全米78位・AC25位に達した。
1970年、キリスト教の伝統的な賛美歌“アメイジング・グレイス”(Amazing Grace)が全米15位・AC5位・全米5位を記録。
11月、アルバム『Whales & Nightingales』を発売、全米15位・全英16位・RIAAゴールドを記録した。“アメイジング・グレイス”、“Farewell to Tarwathie”収録。
’70年代になると、コリンズはアート・ソングのシンガー、フォーク・シンガーとして確固たる評判を得ており、自作曲でも目立ち始めるようになる。
1972年5月、ベスト・アルバム『Colors of the Day: The Best of Judy Collins』を発売、全米37位を記録し、自身初のRIAAプラチナ・ディスク認定を受けた。
1973根n1月、アルバム『True Stories and Other Dreams』を発表、全米27位。ここからは、"Cook With Honey"が全米32位・AC10位・全英54位、"Secret Gardens"が全米122位になった。
1975年3月17日、アルバム『ジュディの宝物』 (Judith)を発表、全米17位・全英7位をマーク、RIAAプラチナ・ディスク認定を受けた。本アルバムからはジョーン・バエズの "A Song for David"が全米36位・AC8位・全英6位を記録。また、アルバムには"Born to the Breed" などの自作曲が含まれている。
1976年8月、アルバム『Bread and Roses』を発売、全英25位。ここからは、"Special Delivery"をカットした。
1977年、スティーヴン・ソンドハイムのブロードウェイ・バラード“Send in the Clowins”が全米19位・AC15位。この曲は、その後1977年にもチャートに27週連続でランクインし、コリンズはグラミー賞の最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞(女性部門)にノミネートされた他、ソンドハイムもソング・オブ・ザ・イヤー賞(グラミー賞)にもノミネートされた。
1978年1月に放送された『ザ・マペット・ショー』にゲスト出演し、 "Leather-Winged Bat"、"I Know An Old Lady who Swallowed a Fly"(ハエを飲み込んだ老婦人を知っている)、"Do Re Mi"、 "Send in the Clowns".を歌った。
また、『セサミ・ストリート』にも何度か出演しており、何でもマペットの漁師たちとのコーラスで“漁師の歌”を披露したり、ビフやサリーとのトリオで「イエス」という言葉を使った歌を歌ったり、現代ミュージカルのおとぎ話のスキット“悲しきプリンセス”にまで出演している。
同年、最初の回顧録『Trust Your Heart』が出版。
1979年2月、アルバム『Hard Times for Lovers』を発表、カバー・スリーブでヌード写真を披露し話題になった。全米54位。タイトル・トラック"Hard Times For Lovers"が全米66位・AC16位になった。
1980年、アルバム『Running for My Life』を発売、全米142位。
1982年、アルバム『Times of Our Lives』を発売、全米190位。
1983年に放送されたアニメスペシャル『エルフの魔法』(The Magic of Herself the Elf)」の音楽や、ランキン・バスのテレビ映画『The Wind in the Willows』の主題歌も担当している。
1984年、アルバム『Home Again』を発表。
1985年、アルバム『Amazing Grace』を発表、全英34位。
1990年、アルバム『Fires of Eden』をコロムビア・レコードから発売。本アルバムからキット・ヘインとマーク・ゴールデンバーグが書いたタイトル・トラック"Fires of Eden"をカット、AC31位を記録した。発売当時コリンズは同曲をジョニー・カーソン出演の『ザ・トゥナイト・ショー』やジョーン・リバーズ出演の『ザ・ジョーン・リバーズ・ショー』等でライヴ演奏している。また、彼女をフィーチャーしたMVも公開された。その後、シェールが1991年のアルバム『Love Hurts』で "Fires of Eden" をカヴァーした。アルバム『Fires of Eden』には他に、"The Blizzard"、"Home Before Dark"や、ホリーズの "The Air That I Breath" のカヴァー等がある。
1995年、小説『Shameless』を出版。
マネージャーのキャサリン・デポールの助けを借りてワイルドフラワー・レコードを設立する。レコードの売り上げはかつてのようなものではないが、彼女は今でも米国、欧州、豪州、ニュージーランドでレコーディングやツアーを行っている。
1993年、ビル・クリントン大統領の第一回就任式に出演し、“アメイジング・グレイス”と“チェルシーの朝”を歌唱。なお、クリントン夫妻は、娘のチェルシーを“チェルシーの朝”にちなんで命名したと語っている。
2003年、2作目の回顧録『Sanity and Grace』を出版、本書では息子クラークの1992年1月の死について語っている。
2006年、エリオット・スピッツァーのCMで "This Little Light of Mine" を歌った。
2007年7月17日、ビートルズの曲のカヴァー・アルバム『Judy Collins Sings Lennon and McCartney』を発表。
同年、第7回インディペンデント・ミュージック・アワードの審査員を務めたコリンズは、以降も第9~14回において審査員として出演し、若いミュージシャンのキャリアを大きく支援した。
2008年、ショーン・コルヴィン、ルーファス・ウェインライト、クリッシー・ハインドなど様々なアーティストが、トリビュート・アルバム『Born to the Breed』で彼女の楽曲をカヴァーしている。
5月18日、プラット・インスティテュートから名誉博士号を授与された。
2010年、ニューポート・フォーク・フェスティバルでエイミー・スピースの曲 "The Weight of the World" を歌った。
2012年7月、豪州のSBSテレビ番組『RocKwiz』にゲスト出演した。
2015年、アルバム『Strangers Again』をリリース、約33年ぶりに全米アルバム・チャートに顔を出し、77位を記録した。
2017年9月22日、アルバム『Everybody Knows』を発表、全米195位に入った。
2019年6月25日、『ニューヨーク・タイムズ』誌は、2008年のユニバーサル・スタジオでの火災で素材が焼失したとされる数百人のアーティストの中にジュディ・コリンズをリストアップした。
11月29日、アルバム『Winter Stories』を発表、ノルウェーで25位に入った。
2022年2月25日、アルバム『Spellbound』を発表。
(参照)
Wikipedia「ジュディ・コリンズ」「Judy Collins」
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