ピート・シーガー(Pete Seeger/出生名:Peter Seeger/1919年5月3日~2014年1月27日)は、アメリカ合衆国のフォーク歌手、シンガーソングライター。

 

 


1919年5月3日、ピーター・シーガーはニューヨーク市のミッドタウン・マンハッタンにあるフランス病院で出生。両親は1918年から1920年まで、ニューヨーク州パターソンで彼の祖父母と一緒に住んでいた。父チャールズ・ルイス・シーガー・ジュニア(Charles Louis Seeger, Jr./1886年12月14日-1979年2月7日)は作曲家であり、民族音楽学の先駆者としてアメリカのフォーク音楽や非西洋圏の音楽について研究していた。母コンスタンス・ド・クリヴァ・エドソンはクラシック音楽のヴァイオリン奏者で、教師でもあった。両親はシーガーが7歳の時に離婚。継母ルース・クロフォード=シーガー(Ruth Crawford Seeger/本名:Ruth Porter Crawford/1901年7月3日-1953年11月18日)は、20世紀を代表するアメリカ合衆国の作曲家の一人。

彼はコネチカット州エイヴォンの寄宿学校「エイヴォン・オールド・ファームズ」(Avon Old Farms)に学び、ルイス・オーガスト・ジョナス財団が主催する国際的な奨学金付きの夏期合宿プログラム「キャンプ・ライジング・サン」の参加者に選ばれた。

 

プロの音楽家であった両親は楽器の演奏を強いることはなかったが、ピート少年はウクレレに魅せられ、級友を楽しませるために演奏を披露するようになっていった。それが後の聴衆を惹き付ける術の基礎となった。

1936年、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの農場移転プログラムに携わっていた父とともに旅をした際、ノースカロライナ州アッシュヴィルの「マウンテン・ダンスとフォークの祭り」でピート少年は5弦バンジョーを初めて聴き、人生が大きく変わった。その後4年間、彼はこの楽器の熟達のためにほとんどの時間を費やす。

最初に公の場で行った演奏は、当時叔母が校長を務めていたダルトンスクールで、生徒にフォーク曲を歌わせる歌唱指導をすることであった。


ピートはハーバード大学の教養課程にあたるハーバード・カレッジに部分的な奨学金を得て進学した。彼はジャーナリストを目指しつつ、芸術の学科も受講していた。だが、ラディカルな政治活動とフォーク音楽にのめり込んでいったために成績が悪化し、奨学金を停止。このため、1938年にはカレッジを中退してしまった。


退学後の夏、革命後のメキシコで展開された地方教育運動の影響を受けたラディカルな旅回り人形劇団「ザ・バガボンド・パペッティアーズ」(The Vagabond Puppeteers)の巡業に参加した後、ワシントンD.C.で父の友人アラン・ローマックスの助手として、アメリカ議会図書館「民衆文化アーカイブ」 (Archive of Folk Culture)で働き始めた。彼の仕事は、商業的な「レイス」ミュージック、「ヒルビリー」ミュージック(と当時呼ばれていた音楽)から、伝統的なフォーク音楽を代表するものとして最もふさわしい録音を選ぶことだった。この事業は米州連合(現:米州機構)の音楽部門が資金を出していたが、その部門代表は父チャールズ・シーガーが1938-1953年に務めていた。

ピートのフォーク歌手としての活動を後押ししたローマックスは、自分がニコラス・レイと毎週放送していたCBSのラジオ番組『Back Where I Come From』(1940-1941年)に、ジョシュ・ホワイト(Josh White/1914年2月11日-1969年9月5日)、バール・アイヴス(Burl Ives/1909年6月14日-1995年4月14日)、レッドベリー(Leadbelly /1888年1月23日-1949年12月6日)、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie/1912年7月14日-1967年10月3日)らとともにピートをレギュラー出演させた。ちなみに、ピートがガスリーと最初に会ったのは1940年3月、ウィル・ギア主催の移住を余儀なくされた労働者のための慈善コンサート「怒りの葡萄」においてであった。
『Back Where I Come From』は、人種を超えて出演者が出ていたという点で当時としてはユニークな番組であり、1941年3月に大統領夫人エレノア・ルーズベルトの主催でホワイトハウスにおいて行われた「アメリア兵士のための夕べ」で、彼らが陸軍長官、財務長官、海軍長官などの高官を前に演奏したことはニュースになった。戦時中、ピートはノーマン・コーウィン(英語版)の全国ラジオ放送でも演奏していた。

シーガーは自身の声を「スプリット・テナー」(アルトとテナーの中間)と称していた。

 


1941年、シーガーは、ミラード・ランペル(Millard Lampell/1919年1月23日–1997年10月3日)、アーカンソー州の歌手で活動家であったリー・ヘイズ (Lee Hays/1914-1981年)とともに「アルマナック・シンガーズ」(The Almanac Singers)を結成。彼等は世相を主題とし、労働組合運動、人種や宗教の融和、その他の進歩的な主張を推し進める、「歌う新聞」として機能するグループだった。メンバーは時々で入れ替わり、ウディ・ガスリー、ベス・ローマックス・ハウズ(Bess Lomax Hawes/1921年1月21日–2009年11月27日)、ボールドウィン・"ブッチ"・ハウズ、シス・カニンガム(Sis Cunningham /1909年2月19日–2004年6月27)、ジョシュ・ホワイト、サム・ゲイリー(Sam Gary/1917年2月19日–1986年7月20日)らが参加。当時21歳のシーガーは、過激なテーマを歌うアルマナック・シンガーズの一員として活動する際、政府の仕事に就いていた父親に配慮して「ピート・バウアーズ」という芸名を名乗っていた。

アルマナックスは複数レーベルで78回転SP盤のアルバム(SP盤をまとめたもの)を録音。『Songs for John Doe』 (Almanac Records/1941年5月発売)、『トーキング・ユニオン』(Talking Union/Keynote/1941年)、水夫が作業中に歌うはやし唄を集めた『Deep Sea Chanteys and Whaling Ballads』 (General/1941年)、開拓者の歌等を集めた『Sod Buster Ballads』 (General/1941年) 等が発売された。

 

 

 

 

 

なお、後に反戦歌で知られるピート・シーガーだが、第二次世界大戦に関してはヒトラーに対する非難から参戦への支持を表明しており、フランクリン・ルーズベルトの戦争への取り組みを支持するアルマナックスのアルバム『Dear Mr. President』(Keynote/1942年)の表題曲はシーガーのソロである。

 

 

1950年、アルマナックスは「ウィーバーズ」(The Weavers)に再編、グループ名は、労働者のストライキを描いたゲルハルト・ハウプトマン1892年の戯曲『織工』(「もはや我慢ならない、どうにでもなれ!」という台詞がある)から採られた。既に本名を名乗っていたピート・シーガーの他、アルマナックス創設メンバーのリー・ヘイズ、ロニー・ギルバート (Ronnie Gilbert/1926年9月7日–2015年6月6日)、フレッド・ヘラマン(Fred Hellerman /1927年5月13日–2016年9月1日) 、後に加わったフランク・ハミルトン (Frank Hamilton/1934年8月3日-) 、エリック・ダーリング (Erik Darling/1933年9月25日–2008年8月3日)、バーニー・クローズ (Bernie Krause/1938年12月8日–)がメンバーであった。

1950年代の赤狩りの雰囲気の中で、ウィーバーズのレパートリーはアルマナックスに比べ時事的色彩は強くはなく、進歩的なメッセージは間接的な言い回しの中に表現されていたが、それがなおさらメッセージを力強いものにしたともいえる。

ウィーバーズは、フォーマルな格好をしなかったアルマナックスとは異なり、しばしばタキシードを着て演奏し、マネージャーは政治的な場所での演奏をさせなかった。このため陳腐な弦楽合奏やコーラス付きの編曲がヒット曲に施されることになり、また彼らが一時的にせよかなりの経済的成功を収めたことで、ウィーバーズは一部の進歩的な人々から政治的な妥協と見なされて批判された。これは皮肉なジレンマだったが、シーガーはじめウィーバーズのメンバーたちは、できる限り幅広い聴衆に自分たちの音楽とメッセージを伝えるためにはこうした手段も正当化されると感じていた。

ウィーバーズの一連のヒットは、“オールド・スモーキー” (On top of Old Smokey)、レッドベリーの代表的ワルツ“おやすみアイリーン” (Goodnight, Irene)で始まった。“おやすみアイリーン”は1950年に13週間チャート首位に立ち、数多くのポップ歌手にカヴァーされ、B面にはイスラエルの歌“ツェーナ・ツェーナ” (Tzena, Tzena)が収められていた。この他のヒット曲には、ウディ・ガスリー作“So Long It's Been Good to Know You”、ヘイズとシーガーとレッドベリーの共作“ワインよりも甘いキス” (Kisses Sweeter Than Wine)、南アフリカのズールーの歌で「ライオン」と称されたズールーの王シャカのことを歌った“ライオンは寝ている” (Wimoweh)等がある。

 

 

 

 

 


1953年、ウィーバーズの活動は人気の絶頂に突然休止。ブラックリストによりレコードをかけないようラジオ局に圧力がかかり、公演予定は全部キャンセルされたのである。

 

1955年、しかし間もなく彼らは復帰、再結成公演がカーネギー・ホールを満員にし、さらに再結成ツアーが行われ、そこからマール・トラヴィス(Merle Travis/1917年11月29日–1983年10月20日)作の“16トン” (Sixteen Tons)がヒット、さらにコンサートの演奏を収めたアルバムもヒットした。

 

 

もともと奴隷制度の時代に遡る「ガラ人」の黒人霊歌“クンバヤ” (Kumbaya)も、1959年にピート・シーガーとウィーバーズが取り上げて広く知られるようになり、ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプファイアの定番となった。

 


1950年代後半、ウィーバーズを、賞賛の意味を込めて、直接模倣した「キングストン・トリオ」(The Kingston Trio)が登場、レパートリーの多くをカヴァーしたが、それはボタンダウンのシャツに象徴されるように、折り目正しい、物議をかもさない、主流派の大学生風の若者たちによるものだった。キングストン・トリオも『ビルボード』誌のチャートでヒットを連発し、さらに模倣者を生み出すことによって、1960年代の商業的に成功したフォーク・リバイバルへの地ならしをすることになった。

このように成功を収めていたウィーバーズをシーガーは脱退する。その理由は、他の3人のメンバーがタバコの広告ジングルの演奏に同意したためだった、と述べている。

 

1950年代後半、シーガーは、メキシコ起源で、自ら「12弦ギターの王」と称したレッドベリーでお馴染みの12弦ギターにも取り組んだ。シーガーの特注ギターはサウンド・ホールが三角形で、他のギターと一目で区別できるものだった。彼は約28インチ(70cm)と弦を長めにし、バンジョーでも好んで用いたカポタストを使用。6弦は通常より全音分(長2度)下げるドロップDチューニングからさらに下げて、通常より全音2つ分(長3度)下げられ、とてもヘヴィな太い弦を、サムピックやフィンガーピックを使って弾いていた。

 

ブラックリストに載って活動が制約されていた1950年代末から1960年代はじめの時期に、シーガーは金を稼ぐために音楽教師として各地の学校や、サマーキャンプで演奏したり、大学キャンパスを巡業して回ったりしていた。シーガーはまた、多い時には年に5枚のアルバムをモー・アッシュのフォークウェイ・レコードで録音した。

 

1950年代末から1960年代はじめにかけて、核軍縮を求める運動が広がってくると、“花はどこへ行った”(Where have all the flowers gone?)、“ターン・ターン・ターン”(Turn! Turn! Turn!)、“リムニーのベル”(The Bells of Rhymney)など、シーガーの反戦歌が広く知られるようになった。

 

 

 

これらの曲は多くのカヴァーを生み、シーガーのソングライターとしての力量を示すものとなった。

 

1962年、シーガーとジョー・ヒカーソン(Joe Hickerson/1935年10月20日-)との共作“花はどこへ行った”がキングストン・トリオの歌でヒット。同年にはマレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich/1901年12月27日-1992年5月6日)が英独仏の三か国語で録音したものもヒット。1965年にもジョニー・リヴァース(Johnny Rivers/1942年11月7日-)の歌でヒットした。

 

同年、“天使のハンマー”がピーター・ポール&マリーにカヴァーされてヒット、1963年にトリニ・ロペスもヒットした。

 

旧約聖書の『コヘレトの言葉』を踏まえた“ターン・ターン・ターン”はバーズによって1960年代半ばに広く知られるようになり、ジュディ・コリンズの歌でも1964年にヒットした。いずれの作品も、フォーク・リバイバル運動の内部のみならず、それ以外のアーティストたちによっても録音され、現在でも世界中で歌われている。

 

ウェールズの詩人アイドリス・デイビスが1957年に発表した詩にシーガーが曲をつけた“リムニーのベル”も1965年、バーズによってカヴァーされた。

 

 

1963年、ライヴアルバム『We Shall Overcome』をFolkwaysからリリース。

 

同年、ライヴアルバム『Children's Concert at Town Hall』をColumbiaからリリース。

 

 

シーガーは、1960年代の公民権運動にも密接に関わっており、1963年には、画期的な企画であった、テネシー州のハイランダー・フォーク・スクールの資金集めのための、若手のフリーダム・シンガーズを中心とした、カーネギーホールでのコンサートの運営を支援した。このイベントや、同年8月のキング牧師が率いたワシントン大行進には、シーガーはじめ多数のフォーク歌手たちが参加し、公民権運動を象徴する歌として“勝利を我等に” (We Shall Overcome)が多くの人々に普及することになった。この曲のバージョンの一つは、早くも1947年に、ハイランダーのジルフィア・ホートンによって、シーガーが主宰していた「People's Songs Bulletin」に発表されていた。

 


グリニッジ・ヴィレッジを中心とした1960年代のフォーク・リバイバルの動きの中で、シーガーは既に長老格になっていた。もともとシーガーが発行していた『People's Songs Bulletin』を継承した『Sing Out!』誌のコラムニストとしてシーガーは最古参だった。さらにシーガーは、時事問題にも重点を置いた『Broadside Magazine』の創刊にも関わっていた。新たに登場した、政治への参加意識をもったフォーク歌手たちのことを、シーガーは、かつて同僚として旅回りをした仲間であり、既に伝説的人物となっていたウディ・ガスリーに結びつけて「ウディの子どもたち(Woody's children)」と呼び、この表現を定着させた。この都市部におけるフォーク・リバイバルは、1930年代〜1940年代の政治活動の伝統を受け継ぐものであり、伝統的な曲や詞を下敷きにして、社会変革に影響を与えようとしたPeople's Songsの取り組みを受け継ぐものであった。このような実践は、さらに遡れば、スウェーデン生まれの組合活動家ジョー・ヒルが編纂した、世界産業労働組合(the Industrial Workers of the World:その組合員は「Wobbly」と通称される)の『Little Red Songbook』にまで行き当たる。ウディ・ガスリーは『Little Red Songbook』がお気に入りで、常に持ち歩いていた。

シーガーは、2回のオーストラリア・ツアーを行っており、最初のツアーは1963年であった。このツアーの時には、彼の歌った“Little Boxes”(Malvina Reynolds の作品)が、オーストラリアのトップ40の首位になった。

 


一時はテレビから排除されていたシーガーだったが、1965年から1966年にかけて、一部の地方だけの教育的なフォーク音楽番組『Rainbow Quest』のホスト役を務めた。この番組には、ジョニー・キャッシュやミシシッピ・ジョン・ハートなどがゲストで登場した。この番組は、ニュージャージー州ニュアークのUHF局WNJUのスタジオで、シーガー自身と妻のトシ、そしてショロム・ルビンシュタイン(Sholom Rubinstein)によって制作された。

早くからボブ・ディランを評価し、活動を後押ししていたシーガーは、ニューポート・フォーク・フェスティバルの役員に名を連ねていた。

1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルの時、やはり役員でディランのマネージャーだったアルバート・グロスマン(英語版)がディランを煽り、ディランは大音量の歪んだエレクトリック・サウンドで“マギーズ・ファーム”を演奏したが、シーガーはこれに激怒。この時グロスマンと他の役員たちの間には緊張が高まっていた。ディランの演奏中に実際に何が起こっていたのかについては、いくつかの説があり、この時シーガーが機材の接続を切ろうとしたと主張する者もいる。ディラン側の広報担当者は、シーガーをフォークの「純潔主義者」であり、ディランの「電化」に真っ向から反対した人物の一人だとしたが、後年2001年に、この当時のエレクトリック・スタイルへの「反対」について質問されたシーガーは、次のように応えている。
「歌詞が分からなかったんだ。歌詞を聞きたかった。“マギーズ・ファーム”はいい歌だったが、音は歪ませてあった。調整をしてる奴の所へ走って行き、〈歌詞が聞こえるように音をなんとかしろ〉って叫んだら〈これが連中のお望み通りなんだ〉って叫び返してきた。〈ちくしょう、斧があったら、直ぐにケーブルを叩き切ってやるのに〉って言ったよ。でも僕にも責任の一端はあった。司会をしてたんだから、ボブにブーイングをしてた一部の観客に言ってやる事もできたはずだったんだ。〈君たち、昨日のハウリング・ウルフにはブーイングなんかしなかったじゃないか、エレクトリックだったのに〉ってね。今でもディランを聞くならアコースティックの方が好きだけど、彼のエレクトリックの歌にも本当に素晴らしいものがいくつかある。昔、父が言ってた言い方を使うなら、エレクトリックな音楽は20世紀後半の当たり前のもの、だしね。」

 


1966年1月17日、アルバム『God Bless the Grass』をColumbiaからリリース。

 

同年、アルバム『Dangerous Songs!?』をColumbiaからリリース。

 

 

シーガーは長く、ニューヨーク州フィッシュキル (Fishkill) のダッチェス・ジャンクションという集落に住んでいた。高齢となってなお政治には活動的で、ニューヨーク州のハドソン川河谷地域、特に居住地の近傍にあるニューヨーク州ビーコン市で活動的なライフスタイルを貫いていた。

 

 

1969年にシーガーは、当時汚染されていたハドソン川のことを歌った“That Lonesome Valley”を作って演奏したが、彼のバンドのメンバーたちも「クリアウォーター」を記念する曲をいろいろ作り、演奏した。

 

 

1982年、シーガーは、ポーランドの自主管理労組「連帯」の抵抗運動を支援する資金集めのコンサートに出演。彼の伝記を書いたデヴィッド・ダナウェイによれば、これはシーガーが何十年間も密かに感じていたソビエト共産主義への個人的な嫌悪を、公の場で表明したものである。

 

1980年代後半には、「暴力革命」にも賛成しないと表明するようになり、インタビューに応えて漸進主義の支持を表明し、「もっとも永続する革命は、一定以上の時間をかけて実現されるものだ」と述べた。

 

1997年の自伝『Where Have All the Flowers Gone』でシーガーは、「今となっては、スターリンの失策に目を向けず、スターリンが非常に残忍な誤った指導者であったことを理解しなかったことを、謝罪したいと思う」と記した上で、キリスト教徒は十字軍、宗教戦争、宗教裁判について、謝罪すべきであるし、「白人はアメリカ先住民から土地を奪ったこと、黒人を奴隷化したこと、日系アメリカ人を強制収容したことについても、謝罪することを考えるべきである。前を向こうではないか」と続けている。

晩年には、シーガーが、いろいろな賞や顕彰を長年の政治的活動に対して受けるようになってきたが、同時に、1930年代や1940年代の彼の見解や活動が改めて攻撃されるようにもなった。

2006年1月14日、VOA や NPRのコメンテーターで、リバタリアニズム系のシンクタンクケイトー研究所の代表でもあるデヴィッド・ボアズは、英国の新聞『ガーディアン』に、「スターリンの鳴鳥」と題した論説を寄稿し、シーガーを「長年の党の方針に忠実であり続けながら」、「結局は」米国共産党を離れた人物だとした上で、そんなシーガーを賛美する雑誌『ニューヨーカー』と新聞『ニューヨーク・タイムズ』をこき下ろした。自説の根拠としてボアズは、アルマナック・シンガーズの1941年『Songs for John Doe』と、1942年に米国が第二次世界大戦に参戦した際に参戦を支持した『Dear Mr. President』を挙げた。



2007年3月16日、シーガーは妹のペギー、弟のマイクとジョン、妻トシや他の家族たちとともに、ワシントンD.C.のアメリカ議会図書館で開催された、シーガー家を讃えるシンポジウムとコンサートに参加して、発言し、演奏した。議会図書館は、その67年前に彼が民衆文化アーカイブ に雇われていた場所である。

 


2008年9月29日、長く商業的テレビ放送から排除されてきたが、89歳になった歌手/活動家として全国放送のテレビ番組『Late Show with David Letterman』に出演、「Don't say it can't be done, the battle's just begun... take it from Dr. King you too can learn to sing so drop the gun.」(そんなの無理だと言わないことだ、戦いは始まったばかり...キング博士を見習えば、君も歌えるようになるんだから、銃を置きなさい)」と語り、“Take it from Dr. King”を演奏。Dr. King とはキング牧師のこと。

 

同年夏、Appleseed Recordings から12年ぶりの新録音アルバム『At 89』を発表。


2009年1月18日、シーガーはオバマ大統領就任記念コンサート「ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典」のフィナーレで、ブルース・スプリングスティーンと孫のタオ・ロドリゲス=シーガー、そして群衆と一緒に、ウディ・ガスリーの“我が祖国”(This Land Is Your Land)を歌った。この時の演奏では、通常は歌われない二つのヴァースの歌詞も歌われたことが注目された。一つは「私有地」の標識を陽気に無視して進むという歌詞であり、もう一つは1930年代の大不況下の救済事務所への消極的な言及である。

4月18日、シーガーはニューヨーク市のティーチャーズ・カレッジで開催された、小規模なアースデイの集まりで演奏し、“我が祖国”、“Take it From Dr. King”、“She'll Be Coming 'Round the Mountain”などを披露した。

 

5月3日、ニューヨーク市マディソン・スクエア・ガーデンに、ブルース・スプリングスティーンやロジャー・マッギン、ジョーン・バエズやアロー・ガスリーまで、何十人ものミュージシャン達が集まり、シーガーの90歳の誕生日を祝福。長年彼が環境問題への関心を呼びかけてきたことを受けて、このイベントの収益は、ハドソン川の環境保全に取り組む非営利団体「the Hudson River Sloop Clearwater」に寄付された。

 

5月4日、90歳を祝う催しはニューヨーク市立大学のカレッジ・オブ・スターテン・アイランドでも開催。オーストラリアでも90歳を祝うイベントは数多く行われ、シーガーの生涯を描いたミュージカル『ONE WORD WE!』上演、1963年のメルボルン・タウン・ホール公演のDVD発売、フォーククラブやフォークフェスティバルでの関連行事等が催された。

9月19日、シーガーは第52回モントレージャズフェスティバルに初登場した。同フェスでは通常フォークアーティストが出演しないため、特に注目を集めた。 

 

 

2010年、91歳でまだ活動しているシーガーは、ローレ・ワイアットと共作した"God's Counting on Me, God's Counting on You" という曲を演奏し、ディープウォーターホライズンの油流出についてコメントしました。

 

 

 

2012年9月25日、盟友ウッディ・ガスリーについての語りと演奏から成るアルバム『Remembers Woody』をAppleseedからリリース。

 

 

 

2013年4月9日、Hachette Audio Booksはオーディオブック『Pete Seeger:The Storm King』を発行した。2枚組のCDのスポークンワード作品は、著名なパーカッショニストのジェフ・ヘインズによって考案・制作され、様々なジャンルの40人以上のミュージシャンが演奏する音楽を背景に人生の物語を語るピートシーガーを紹介したもの。

7月9日、ピートの妻トシが91歳でビーコンにて亡くなった。

 

 

2014年1月27日、ピート・シーガーがニューヨーク市のニューヨーク長老派病院で死去。94歳没。

 

 

 

 

 


今日でも親しまれる多くの歌を歌ったピート・シーガー。彼の魅力の一端を知ることができる手軽なベストアルバムが、これ。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ピート・シーガー」「Pete Seeger」「アルマナック・シンガーズ」

 

 

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