ジーン・クラーク(Gene Clark/出生名:Harold Eugene Clark/1944年11月17日~1991年5月24日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン。

 

 

 

1944年11月17日、ハロルド・ユージーン・クラークはアイルランド、ドイツ、そしてアメリカン・インディアンの血を引く家系に3番目の子どもとして、米国ミズーリ州ティプトンで誕生。一家には最終的に13人の子どもが生まれた。

一家は同じミズーリ州のカンザスシティに転居、そこでクラークは少年時代に父親からギターとハーモニカの演奏を教わった。彼はすぐにハンク・ウィリアムズの曲だけでなく、エルビス・プレスリーやエヴァリー・ブラザーズなど初期のロックン・ローラーの曲も演奏するようになった。

彼は11歳で曲を書き始めた。

15歳の時までに、彼は豊かなテノールの声を発達させ、地元のロックンロールのコンボ「ジョー・マイヤーズ&ザ・シャークス」(Joe Meyers and the Sharks)を結成した。

同世代のご多分に漏れず、クラークは人気だったキングストン・トリオに影響を受け、フォークミュージックに興味を持った。

 

1962年、カンザス州ボナースプリングスのボナースプリングス高校を卒業した時、彼はフォークグループ「ラムランナー」を結成した。

 

クラークは、ハル・ハーバウムが所有するキャスタウェイズ・ラウンジに拠点を置くカンザスシティのフォークバンド「サーフ・ライダーズ」に加入した。

 

1963年8月12日、ニュー・クリスティ・ミンストレルズと出会い、共演した。これをきっかけにバンドはクラークを雇い、彼は1964年初頭に去る前にアンサンブルで2枚のアルバムを録音した。

 

 

ビートルズを聴いた後、クラークはニュー・クリスティ・ミンストレルズを辞めてロサンゼルスに移り、そこで仲間のフォークに会い、トルバドールクラブでジム(後のロジャー)マッギンと合流した。

 

1964年初頭、ロサンゼルスにて、ロジャー・マッギン(リードG,Vo)、ジーン・クラーク(リズムG,Vo, Tumb,Hmc)、デヴィッド・クロスビー(リズムG,Vo)によってバンド「ジェット・セット」を結成、その後すぐにクリス・ヒルマン(B)と、マイケル・クラーク(Ds)が加入した。

 

10月7日、"Please Let Me Love You" / "Don't Be Long"を地元のエレクトラ・レコードから「ザ・ビーフィターズ」(The Beefeaters)名義でシングル制作録音のためにレコーディング(当時未発表)、プロデューサーのジム・ディクソン(Jim Dickson)に注目されデモ・テープを制作している。なお、後の1969年に『プリフライト』(Preflyte)として発売。

 

11月、米CBSコロムビアと契約。これ以降、彼らは正式にバンド名を「ザ・バーズ」(The Byrds)に変更した。

 

 

1965年4月12日、バーズはデビュー・シングル“ミスター・タンブリン・マン”(Mr. Tambourine Man) をコロムビアからリリース、ボブ・ディランの曲のカヴァ―をA面にし、B面にはクラーク作の"I Knew I'd Want You"を収録したこのシングルは、全米シングル・チャートでナンバー・ワンのヒットを記録、イギリスでもシングルチャート1位を獲得し、いきなりロック・スターとしての地位を確立する。マネジメント・サイドの決定により、“ミスター・タンブリン・マン”のリードヴォーカルを担当したのはマッギンだった。デビュー曲の大成功の陰でこのクラークの失望は、彼の飛行機恐怖症の慢性的な恐怖を含めたツアーに対する嫌悪感と、作詞作曲から得た余分な収入に対する他のバンドメンバーによる恨みと相まって、バンド内部の争いにつながっていくことになる。

 

 

6月14日、シングル"All I Really Want to Do"をリリース、再びディランのカヴァー曲で、チャートでは全米40位・全英4位に達した。B面の“すっきりしたぜ”(I'll Feel a Whole Lot Better)はクラークが作詞・作曲とリード・ヴォーカルを担当したナンバーで、B面曲ながら全米103位にチャートイン、1stアルバムにも収録された。

 

 

6月21日、1stアルバム『ミスター・タンブリン・マン』(Mr. Tambourine Man)をリリース、全米6位・全英7位のヒットアルバムとなる。シングル化された"I Knew I'd Want You"、“I'll Feel a Whole Lot Better”の他、“Here Without You”がクラークが単独で作った曲、"You Won't Have to Cry"と"It's No Use"がマッギンとの共作で、カヴァー曲がビッグヒットする陰でクラークはバンドでソングライターとして存在感を放っていた。一方、プロデューサーであったテリー・メルチャーの差配により、バンドからレコーディングに参加したのは12弦ギターを弾くリーダーのマッギンのみで、他のパートはレッキングクルーのメンバーが起用された。

 

 

 

 

10月1日、次いで『旧約聖書』の「コヘレトの言葉(伝道の書)」3章を元に曲をつけたピート・シーガーの“ターン!ターン!ターン!”(Turn! Turn! Turn! [To Everything There Is a Season])をカヴァーしてシングル発売した。フォークロックというジャンルを定着させたこの曲も、バーズのシンボル的な曲となり、人気ロックグループとしての地位を確かなものにした。

 

12月6日、2ndアルバム『Turn! Turn! Turn!』をリリース、全米17位・全英11位。翌年リカットされる“Set You Free This Time”をはじめ"The World Turns All Around Her"、"If You're Gone"がクラーク作だが、前作と違い共作はない。また、今作ではバーズのメンバーがレコーディングに参加した。

一方で、ツアーなどで一緒にいる時間が長くなり、人間関係での軋轢も発生する。

 

 

 


1966年1月10日、クラーク作のシングル"Set You Free This Time"をリリース、全米79位。

 

2月、次のアルバムのレコーディング中にクラークが脱退。マッギンと並んでソングライティングで中心的な役割を果たしていた彼の脱退により、クロスビーやヒルマンらも曲作りに取り組むようになり、結果としてバンドの音楽の幅は広がっていった。

3月14日、シングル“霧の8マイル”(Eight Miles High)をリリース、全米14位・全英24位を記録した。A面の“霧の8マイル”はクラーク、マッギン、クロスビーの共作だが、当時のサイケデリック・ムーブメントを先取りした先進的な楽曲で、世界初のサイケデリック・ロックとする見方もある。マッギンの12弦ギターの奏でるうねるような不協和音的イントロは、ジョン・コルトレーンの影響を多分に感じさせる。また、ラヴィ・シャンカールなどのインド音楽からの影響もあったことであろう。この作品のインパクトは大きく、いくつかのラジオ局が「ドラッグ体験を連想させる」との理由で放送禁止にした。後のビートルズの『リボルバー』などの作風に大きな影響を与えている。ロジャー・マッギンの12弦ギターは、ジョージ・ハリスンの影響が最も強い。本人も、ビデオなどで述べている。

 

 

1967年、カンザスシティに移動した後、ロサンゼルスに戻り、チップ・ダグラス、ジョエル・ラーソン、ビル・ラインハートとともにジーン・クラーク&グループを結成した。

同年、クラークは1stソロアルバム『ジーン・クラーク・ウィズ・ゴスディン・ブラザーズ』(Gene Clark with the Gosdin Brothers)をリリース。しかし商業的には失敗に終わった。

 

同年10月、脱退したデヴィッド・クロスビーの代わりとしてバーズに一時的に復帰しが、ミネアポリスでの不安発作の後、わずか3週間後に再びバンドから去ることになった。この短期間でクラークはバーズのアルバム『The Notorious Byrd Brothers』の曲“Goin' Back”と“Space Odyssey”にバックグラウンドヴォーカルを提供したと見なされている。

 

 

1968年、クラークはA&Mレコードと契約し、バンジョープレーヤーのダグ・ディラードとのコラボレーションを開始、「ディラード&クラーク」を結成した。ギタリストのバーニー・レドン(後にフライング・ブリトー・ブラザーズとイーグルスに参加)、ベーシストのデイブ・ジャクソン、マンドリン奏者のドン・ベックが加わり、ディラード&クラークの中核を形成。さらに、マイケル・クラークはフライング・ブリトー・ブラザーズに加わる前に、グループのために簡単にドラムを演奏した。彼らは2枚のアルバム、『The Fantastic Expedition of Dillard&Clark』(1968)と『Through the Morning, Through the Night』(1969)を制作した。

1968年、ディラード&クラークの1枚目のアルバム『The Fantastic Expedition of Dillard&Clark』は、アコースティックカントリーロックの中心的な作品だった。“Train Leaves Here This Morning”(1972年にイーグルスのデビューアルバムでクラークとリードンが目立つようにカヴァーしたコラボレーション)や“She Darked the Sun”(1970年のアルバムでリンダロンシュタットがカヴァーした)などの永続的な曲が含まれていました。

 

 

 

1969年、『Through the Morning, Through the Night』は対照的に、伝統的なブルーグラスのアルバムだったが、エレキ楽器も採用した。この時点で、ディラードのガールフレンドであるドナ・ウォッシュバーンがバックヴォーカリストとしてグループに加わり、リードンの退団を促進した要因となった。伝統的なブルーグラスへの移行もクラークの興味を失った。クラークによって書かれたタイトル曲は、1972年のサムペキンパーの映画『ゲッタウェイ』のサウンドトラックでクインシージョーンズによって使用された。また、2007年のアルバム『レイジング・サンド』では、ロバート・プラントとアリソン・クラウス(アルバムの別のクラークが書いたトラック「ポリー」とともに)によってカヴァーされた。

 

ディラード&クラークの2枚のアルバムはチャート上でうまくいかなかったが、今ではカントリーロックとプログレッシブブルーグラスのジャンルの独創的な模範と見なされている。ディラードとのコラボレーションはクラークの創造性を活性化させたが、彼の飲酒問題の拡大に大きく影響した。ディラード&クラークは、クラークとリードンが去った後、1969年後半に崩壊しました。この期間中、クラーク、リードン、ジャクソン、ベックは、1969年11月にリリースされたスティーブヤング、ロックソルト&ネイルズのデビューアルバムに貢献した。


1970年、クラークは新しいシングルの作業を開始し、バーズの元のメンバーと2つのトラックを録音、それぞれが自分のパートを別々に録音した。結果として得られた曲“She's the Kind of Girl”と“One in a Hundred”は、法的な問題のため、当時はリリースされなかった。それらの曲は後に1973年のアルバム『Roadmaster』に収録された。

1970年と1971年に、クラークはフライング・ブリトー・ブラザーズのアルバムにヴォーカルと2つの作曲“Tried So Hard”と“Here Tonight”を寄稿した。

音楽業界に不満を感じたクラークは、カリフォルニア州アルビオンの家を購入し、1970年6月に元ゴーゴーダンサーでベルレコードの制作アシスタントであるカーリーリン・マッカミングスと結婚した。彼には2人の息子(ケリーとカイクラーク)がいた。半引退で、彼は1970年代初頭を通して、まだかなりのバーズの著作権使用料を維持し、タートルズの1969年のアメリカのトップテンヒット“You Showed Me”からの収入で補強された。

 

 

1971年7月、バーズのオリジナル・メンバー5人が再集結、再結成について話し合いを持つ。

8月、2ndソロアルバム『ホワイト・ライト』(White Light)をリリースした。タイトルはカバースリーブに記載されていなかったため、後のレビューアの中には、タイトルがジーンクラークであると誤って想定した人もいた。ボブ・ディランとリチャード・マニュエルの“Tears of Rage”を除いて、すべての資料はクラークによって書かれた。ロックミュージック評論家から年間最優秀アルバムに選ばれたオランダを除いては商業的な成功は得られなかった。

 

 

1973年、オリジナル・メンバー5人でバーズが再結成、アサイラム・レコードからアルバム『バーズ』(Byrds)を発表し、全米20位・全英31位を記録した。アルバムにはクラーク作曲の“Changing Heart”と“Full Circle”も収録、“Full Circle”はその後シングルとしてリリースされ、アルバムからのシングルとして唯一全米チャートに入り109位に達した。

 

 

新作記念のライヴ活動を短期間行ったが、同年中に解散。

 

 

1974年9月、ソロアルバム『No Other』をアサイラムからリリース。全米144位。

 

 

 

1977年、ソロアルバム『Two Sides To Every Story』をリリース。

 

 

1979年、バーズに在籍したメンバーで「マッギン、クラーク&ヒルマン」(McGuinn, Clark & Hillman)を結成、アルバム『マッギン、クラーク&ヒルマン』(McGuinn, Clark & Hillman)をリリース。シングル"Don't You Write Her Off"は全米33位のヒットとなった。

 

 

 

 

1980年、マッギン、クラーク&ヒルマン名義でアルバム『City』をリリース。

 

 

1984年、ソロアルバム『Firebyrd』をリリース。

 

 

1987年、アルバム『So Rebellious A Lover』を「ジーン・クラーク&カーラ・オルソン」(Gene Clark & Carla Olson)名義でリリース。

 

 

1991年5月24日、出血性胃潰瘍によって引き起こされた心不全のため死去した。没年46歳。長年にわたるアルコールの過剰摂取とヘビースモーキングの習慣も要因だった。

死後もさまざまな未発表曲の編集版やトリビュートアルバム「Full Circle」(2000年)がリリースされる。

同年、バーズの一員としてロックの殿堂入りを果たした。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジーン・クラーク」「Gene Clark」「「バーズ(アメリカのバンド)」「The Byrds」

 

 

芽瑠理堂WEBマガジン『ROOT』#009 バーズ特集

https://merurido.jp/_ebook/EBMMAG0009.pdf