*2018.1.16*
何故なのか分かった。と言うより、思い出した。と言った方が正確かもしれない。何故わたしが音楽に救われているのか。先週からこつこつとやっている「依頼された作業」で分かったのだ。(依頼された作業は音楽ではない。)依頼された作業にはたくさんのルールがある。そのルールをクリアしながら相手が望むものを作り上げていかねばならない。主観を入れず、作業を進めねばいけない。ルールにのっとり作業することは、小さな頃から苦手としてきた。(だから学校はとても苦しい場所だった気がする。どうしたって出来なかった。)「でももう大人になったし、出来るかもしれない。理解できるかもしれない。」そんな希望的観測も含め、わたしはその依頼を受けて作業を進めた。しかし困った。わたしにとってそのルールは膨大で、忘れぬように大きなルールをメモしながら作業を進め、最後にチェックし、送ったのだ。返事は簡単にまとめると、「ルールをよく読んでください。」と言うものだった。あれだけ確認しても、ルール通りに出来なかったのだ。そして、「主観を入れないでください」とのこと。わたしの中では主観はなかったはずなのだ。この差はなんだろうか...。主観とは..,。苦戦しながらやり直しを行った。そんな時ハッとしたのだった。「なるほど、だから答えのない音楽しかなかったのだなあ。」と思い出した。答えは「よし!」と思えるか、思わすことができるか、だ。オリジナリティーの世界だ。パーソナルであり、誰かのパーソナルともなり得るものを作る世界だ。それがとても好きだった。がんばれた。大人になってもルール通りにできない。そのルールの意味を理解することができないわたしはどこか社会人として欠陥していると思う。しかし、こんなわたしにも音楽があった。好きになってくれる人たちがいた。微力ながら、出来ることもあった。家族がいた。子育があった。「幸せに生きていけるようにする」ことが正解なのだ。音楽も家族も、子育ても人間関係も、「幸せに生きていけるようにする」方法は無限大で、自由だ。オリジナリティーだ。そっちの方がわたしには適していたことに気がついた。(子育てだって、まだ道半ばだけど。)人には向き不向きがあったのを思い出した。でも、ルール通りに仕事を遂行することにも憧れているので、さらにパワーアップするべく、諦めずに「苦手」を乗り越えようと、大人になったわたしなら思える。それは大きな変化だった。その向こう側に、「しあわせ」が待っている気がするからなのだ。いつか乗り越えられたら、こどもたちに苦手だったことをどう乗り越えられたか、話してあげることができる。だから、わたしはこれを乗り越えたいと思っている。見守っていてね。お母さんはきっとできるようになる。はず...おわり