アンクルのブログ


 2通とも、絵葉書であった。

 上の1通は、国宝八角灯篭。

 寺院で使われている。

 この絵はがきなら、死者の魂をあの世にいざなう明かりになる。

 心憎い絵はがきである。

 「今年は大変なことがおありだったのですね」の文章に、

 わたしに対するねぎらいと、死者に対する哀悼を感じた。


 もう1通はマチュピチュの寺院遺跡の絵はがきである。

 「お力お落としの中、どうぞ体調を崩しませんように」と、いたわりのことばをいただいた。


 一人は高校のガールフレンド、もうお一人は行きつけの温泉宿のおかみさん。


 わたしも、喪中はがきを毎年いただく年齢になった。

 しかし、その喪中はがきに返信を出すことはなかった。


 この返信は、わたしの胸に深く響いた。

 死者に深い哀悼の意を表するとともに、生きているわたしを気遣ってくださっている。

 人間の優しさをこれほど感じたことはなかった。


 わたしも、今後は喪中はがきに返信をしようと考えている。

 北朝鮮がミサイルを発射しても、角田被告が自殺しても、女子高生殺人事件の被告が無罪判決がでても、
 銀座は、買い物客でいっぱいであった。

 言うなれば、極楽トンボ。これがわが同胞と思うと。
 かくゆう、わたしは銀座まつや地下にあるHARADAのラスクを買いに行ったのである。

 週末の訪問先へのお土産である。

 HARADAは全国展開をしており、大阪梅田・阪神百貨店には出店済み。

 東京土産は、ほかに考えられず、購入行動を起こした。
 東京駅の東京土産だけは買いたくない。

 しかし、わたしを含めて、能天気な日本人が多い。 
 昔の履歴書には、趣味の記載があった。
 大学から社会に出るときには、
 たしか、「読書」と「スキー」を書いていた。
 文武両道を具体化していたような気がする。 
 当時は、新刊は文学書を月3冊購入し、冬には5回はスキーに行っていた。
 それがいまでは、本は購入せず、もっぱら図書館利用になり、スキーは44歳までで終わった。

 その後は履歴書など書かずにすんでいたが、55歳のとき書くはめになった。無趣味と書くのは気が引けた。
 ところが、最近の履歴書には「志望の動機、特技、好きな学科など」の欄があるだけである。
 したがって、趣味は特技に当てはまらなければ、書く必要がない。
 なんとも、履歴書は企業の必要な情報収集になってしまったようである。
 趣味から人間性を見ようとの情報は消えてしまった。

 わたしは、公民館の文学講座にはよく顔を出していたが、趣味と言えるほど魅力を感じなくなった。
 ではと、バドミントンもやってみた。もう脚が動かない。
 短歌は、所属していた歌会が解散してしまった。
 
 さて、さて、いまは無趣味を生きている、と言える。

 旅行は、行っても年2回。温泉も年1回。
 とても趣味と言えるほどのものではない。
 
 そう言えば、高校時代にはクラス・メイトはほとんどがビートルズのファンになった。聞いたり、見たりする対象はどうも好きになれなかった。
 それ以後も、わたしには、好きになる対象は現れない。歌舞伎しかり、文楽しかり、もちろん映画しかり。
 
 
 10人集まった第2回忘年会で、突然回覧が回ってきた。
 参加者の中に血管腫・血管奇形の患者さんの知り合いがおり、陳情書への署名に協力しようとしているのである。
 その用紙のタイトルは、「血管腫・血管奇形に対する硬化療法・塞栓術の保険適用を求める陳情署名簿」。
 厚生労働大臣宛てである。
 血管腫・血管奇形の患者数は1万人(1万2~3千人に1人)程度と推定されている。
 良性腫瘍の乳児血管腫は小児期に自然退縮するが、それ以外は自然退縮せず、成長に伴い不可逆的に増大し、疼痛や潰瘍、
 不意の出血、患肢の成長異常、機能障害、整容など長期にわたり日常生活に著しい影響を及ぼす。
 食道静脈瘤・下肢静脈瘤には硬化療法が保険適用となっており、一部領域の血管奇形に対する硬化療法、塞栓術も保険適用されている。
 しかし、大半の血管腫・血管奇形には保険適用されていない。
 
 現在、医療の専門家が「血管腫・血管奇形研究会」と「血管腫・血管奇形IVR研究会」を立ち上げて、この病気に立ち向かわれている。

 硬化療法、塞栓療法、レーザー療法、理学療法など手術以外の治療法は多岐にわたっている。
 
 それだけに、検査を経て、治療に至っても、一回だけで治るというわけにはいかない。

 患者さんと家族にとって、精神的負担と経済的負担を考えると、この署名には意味があると思う。

 わたしは、まず知り合いに声をかけ署名を集めようと思っている。

 
関心のある方は、下記に問い合わせてみてください。

  血管腫・血管奇形の患者会 代表 土屋裕樹さん
  メールアドレス  pavamail2006@gmail.com

 第2回忘年会は楽しかった。
 参加する人間はわたしを含めて、不幸せでないからであろうから。
 
 午後3時過ぎから始まった忘年会は、午後10時前に終わった。
 また、来年を約束したが、編集業界はどうも回っていないようだ。

 わたしも、本ずきと自認しているが、ここ10年間で購入した本は2冊。
 いろいろ理由はあるが、買いたい本がないが、買わない理由である。
 
 しかし、出版不況をつくっている一つの要因になることを考えると、来年は行動を代えようと思う。

 彼らの夢をかなえさせるために。

 この忘年会に参加する人たちは、現在も毎日働いている。

 土曜日に設定したのは、そのためである。

 遠くは、長野県松本、山梨県甲府から駆けつける。


 全員、編集会社の中途退職者ばかりである。

 この会が、10年以上続いているのは、人間の縁を大切にしたいと考えている人間が3人いるからである。

 ひとりが場所を提供し、二人が会の運営をしている。

 年に1回とはいえ、頭が下がる。


 昨年も、お互いの無事を喜び合い、また来年も会おうと約束した。


 わたしがなぜ、参加しているかと言えば、運営をしている二人がいるからである。

 ひとりは大学を卒業後、アルバイトで入社し、わたしと一緒に仕事を2年間やった女性。

 もうひとりは、中途採用で入社し、わたしの部下になった男性。


 この二人から声がかかるため、わたしは参加している。


 ところが、上記女性から3日にメールがきた。

 「アメリカ在住のわたしの妹が7日に帰国する。事情で、わたしの家に滞在する。忘年会に出られなくなった。もうしわけございません」


 1年ぶりの再会はできなくなったが、またを約束しておいた。

 12月15日は、新幹線に乗る。
 新幹線に乗るのは6年ぶりになる。
 目的は神戸に住む知人宅で忘年会を行うためである。
 神戸の知人は、年賀に「来年はぜひお会いしたい」と書いてくれる数少ない年賀知人の一人である。 
 今年の年賀にもこの知人は会いたいと、書いてくれた。
 わたしは、今年こそ会いに行くと、固く心に誓った。
 その年賀には「Nさんも一緒に」と添えられていた。
 Nさんとわたしは会社の同期で、3年半同じ部門で仕事をした仲間。
 神戸の知人は同じ部門の2年先輩。
 わたしは3年半で、その会社を退職したが、Nさんは定年退職で、神戸の知人は現役で頑張ってきている。
 20代初の会社勤務を共に体験した仲間である。

 Nさんとわたしは5年前に、すでに退職し、北海道で悠々自適しておられる部門長であった方の自宅を訪問している。
 5時間にも及ぶ訪問になったが、部門長であった方の
 「わしは毎日、朝、1時間余り散歩している。自宅に戻り、いただく朝食ほどおいしいものはない。毎日感謝している」
 この言葉が忘れられない。

 どんなことを神戸の知人が話すのか、待ち遠しいわけである。
  
 3年半、大阪に在住しただけに大阪、奈良には知人がいる。つい、みなさん忙しいだろうと考え、会うためのアクションはとっていない。
 そこで、京都に行くことにした。
 2泊3日の京都旅行でこの旅を終えることにしたのである。
 どこへ行くか。
 鞍馬は行ったことがないので、第一候補。
 市内めぐりの候補が素敵な庭のある渉成園。

 とりあえずの計画はここまで。旅の味わいは行ったところでの出会いによる。

 京都人が「そしたらぶぶでもいかが」と言うのは社交辞令。その誘い言葉にのって、行動しようものなら、何を言われるかわからない。
 このたびの神戸の知人の「会いたい」言葉にも、何かあるに違いないと思うが、わたしは会いたい気持ちに従うことにした。
 待ち遠しい。 

 わたしの過去は、わたし自身の頭の中では、はっきりとしている。

 その過去から学んだことを活かしながら、今日まで何とか生きてきた。


 わたしの前には、80代、90代のお年寄りがたくさんいる。

 わたしの未来は、お年寄りの今を見ることで、おぼろげにわかる。


 人間は死ぬ。

 このことは、わたしが20代、30代、40代、50代でも考えにはあった。

 このころは、死は生きるための力になっていた。

 人間は死ぬのだから、生きている今を自分らしさを考えて生きようと。

 目の前には、仕事があった。その仕事で自分を実現しようと、前向きに考える  

 ことができたのである。


 60代になって、死はずっと先にあるわけではないと自覚した。


 骨は海に散骨とした。

 にもかかわらず、いまとその先については頭の中は、まっ白なのである。

 ああいう生き方はいやだなあ、こういう生き方はちょっと。

 そのうちいいことがある人生ではない。どんどん悪くなる。

 実現したい夢がないのである。


 この空白の人生を、どう生きるかがこれからのわたしの課題であるかな。

 


 

 4,5年前から喪中はがきを、複数枚いただくようになった。

 今年は、いまのところ4通いただいた。

 年賀状のやり取りを続けている親しい人からの知らせである。

 母を亡くされた方がお二人、父を亡くされた方がお二人である。


 子どもを愛し続けてくれる父母を亡くすことは辛い。

 人間の宿命であると、頭では分かっていても、辛い。

 子どもに、どんなことが起こっても受け入れてくれたのが父母である。

 父母は自分のことができなくなっても、子どものことだけは心配する。

 心配し、気にかけ続けるのは父母だけである。

 父母を失うことは、自分の中の存在の大きな部分が失われることだと思う。


 わたしも、今年、母を失った。

 喪失感は、いまでもある。


 喪中はがきには、いろいろな人生がぎっしり詰まっている。

 それを押しいただかなければならないと、改めて思った。

 理解は深まる、

 沖縄の話、今迄の仕事の話を尽きることなくできるのは、これまでの共有経験があるからである。

 その時の言動、態度まで覚えてくれるのが、わたしに対する関心の高さ。

 わたしは、まったく覚えていない。


 その中から、新しい関係が生じる。

 関係が深まる、を強く感じる。

 それは、お互いが認め合っているからできるのだと改めて思った。


 楽しい第1回忘年会であった。


 イギリスのビールから始まり、泡盛をたらふく飲み、最後は沖縄の地ビールで終える。


 楽しいとは、心からという言葉で表現できるのだと思うが、歳をとると、その時の環境に大いに影響を受ける。

 おいしい料理、おいしいお酒、いい雰囲気の店、気の利いた店員、すべてがわたしにとってプラスになるとき、楽しかったという体験が定着する。