アンクルのブログ

上の写真は、水戸偕楽園の「梅の大使」さん。

10人いるようだが、わたしは、4人を見たのみだった。

梅見客と気軽に同一ショットに応じてくれていた。

偕楽園には100品種3672本の梅の木が植えられている。

どうしても白梅が多く、紅梅は少ない。桃色の梅は数本である。

園内は東西に梅林が広がり、多くの人々で平日であるにもかかわらずにぎわっていた。

偕楽園は、9代水戸藩主、烈公徳川斉昭が構想し、1742年に造園された。金沢の兼六園、岡山の後楽園と合わせて日本三名園の一つである。

烈公梅、淋子梅、白難梅、虎の尾など梅の木に名前がついていたのには驚いた。

好文亭3階からの梅林の眺めは思い出に残るものであった。

来たはずの偕楽園であるが、当時の想いは何も思い出せなかった。

それでも、来てよかったと思った。




アンクルのブログ


さて、次はあんこう鍋。

なぜか、水戸ドライブインでの昼食である。

あんこうの切り身は汁の中に埋没しているので、感想のみ。

あんこうは白身の魚である。

名店いせ源では青森産のあんこうを毎日仕入れ食させている。

こちらは、たぶん冷凍のあんこうであろう。

4切れ入っていた。骨付きだったのでかなり食べるまでは難行。

それでもみそ味のあんこう鍋はおいしかった。



アンクルのブログ


さて、上の写真は筑波山の梅である。紅白梅の取り合わせと思って撮ったが、うまくいかなかった。

筑波山の中腹の250メートルの斜面4.5ヘクタールに30品種3000本の梅が咲き誇っていた。

1本1本の梅を見た後、どうしても梅林全体を眺められる場を探してみた。あった。桜は、花弁が密になるため見栄えがするが、梅には残念ながらそういった見栄えがない。

梅林を遠景から眺めると、一本一本が身を寄せながら、健気に咲いているように見えた。


筑波山からは晴れの日には、富士山と東京都市部がくっきりと見えると言う。

1864年に筑波山事件(天狗党の乱)があった。彼らは尊王攘夷の主張をこの山で旗揚げすることにより、江戸に向けたのではないかと思った。


こうして久しぶりのバス旅行を終えた。

参加者は集合時間には必ず戻ってきた。驚くほど、このような旅行のマナーを守っているのである。

運転手さん、阪急交通社の添乗員もそれぞれの責任を果たしてくれた。

とても気持ちの良い旅であった。



 さあ、これからバス旅行に出かける。

 梅とあんこう鍋。

 両方とも今日の旅の目的である。


 水戸の偕楽園の梅は、高校2年の時に観た記憶があるが、行ったという記憶のみである。

 梅の香りも、梅林の思い出が何も残っていない。

 梅になどに思いをはせる10代のわたしではなかったのだ。

 いまなら、梅の風趣を味わえるのではないのか。

 そういう思いが、今回のバス旅行に参加するきっかけとなった。


 あんこう鍋は、東京神田に有名店の「いせ源」さんがある。

 何度も行こうと思ったのだが、鍋はいしかり鍋と思っていたので、行く機会を失っていた。

 鍋は一人で食べるのは、かなり寂しい。

 バス旅行であれば見知らぬ人であっても、一人で食べることはない。


 梅とあんこう鍋。新鮮な出合いを期待して出かけたい。

 

 今日は曇りだが、風は動いていない。

 昨日の風は激しく、強く動いていた。

 出かける用事があり、昨日は午後から出かけた。

 テレビで中央線の運行状況を確認した。

 平常通り運行しています。

 駅についた。

 あれ、もう5分も今の時間から過ぎてしまった時間の電車が来ていない。

 ホームに上ると、

 「申し訳ございません。強風で電車が遅れています」

 特急列車が通り過ぎる。

 つねに遅れの原因は、運賃の高い特急の遅れではないかと、わたしは思っている。


 10分の遅れで目的駅に着いた。

 

 右手には高層ビルが立ち並び、左手には高架の鉄道が走る道に沿いながら歩き始める。

 50メートルは普通に歩けた。

 ところが突然、風の強さが変わった。真正面から吹き抜ける。

 驚いて、わたしと並んで歩いて人が後ろ向きになり動きを止める。

 こんなとき、立ち向かいたくなるのがわたしの性癖。

 思いっきり、前傾姿勢にして歩き続けた。

 風の動きに逆らっているので、日ごろ使っていない筋肉が悲鳴を上げる。

 こうして、100メートル歩ききった。


 用事を終え、自宅に戻ったのは午後7時。

 脚が疲れを訴えていた。

アンクルのブログ


写真は、東京駅丸の内側江戸城後の一角に鎮座する楠正成像である。

後醍醐天皇のために働いた功を愛でてか、田舎者が、皇居の前で勇ましい姿をいまもあらわにしている。

わたしは、小学校に入る前に父親に、楠正成像、二重橋、西郷隆盛像と見て回った。

今日は一人で、楠正成像を見た。

あのころと同じで、格好良かった。

しし、この像の周りにはカップルがいて、わたしはこのショットを撮るのが精いっぱいであった。

たぶん、楠正成のことなど知らないのであろう。

キスに余念がなかった。

ほとんど人が寄り付かない場所である。

わたしは、楠正成は天皇に対しては忠臣であったと思う。

その人が皇居に向かってある行為によってその思いを表現しているのであれば、いちゃつくことはできない。

数十年たって、平気で楠正成像の真下で愛の交換をする複数のカップルを見て、わたしは早々にその場を離れた。

12日午後5時25分であった。


 今日は、武蔵村山市で成年後見制度の会議があった。

 電車とバスを乗り継いで、わたしも出席した。

 午後2時からの会議なので、わたしは早めに会場についた。

 午後2時からなのに、7人出席する会議に、出席者は3人。

 

 午後2時を数分過ぎたところで事務局は、あとの4人は遅れるとの連絡をもらっているとのことで、開会を宣言。

 事務局挨拶、出席者自己紹介が終わったところで、午後2時46分になった。

 「これから、黙とうをささげますのでご起立ください。」

 東日本大震災の丸2年目にあたる今日、黙とうの場にいることになったのである。

 

 あの日は市役所に勤務していたので、勤務中の地震遭遇であった。

 揺れの大きさといい、時間といい、今まで体験した地震とはまるで違っていた。

 恐怖心で自分がすくみ、どう行動するのかわからず、

 「机に下に潜り込んでください」

 の声に反応して、机の下に潜り込んだ。

 頭の中にはこの建物は耐震構造になっていない。補強工事もまだだ、の思いが頭をよぎった。

 何事もなく、初めの揺れが収まった。

 机からはい出し、茫然としていた。

 数分後にまた揺れた。

 わたしは迷わず、外に出た。

 市役所で知った顔が何人も外に避難していた。


 この日、自宅にいても余震が頻繁にあった。

 この世は終わるかもしれない、となぜか悟りきった自分がいた。


 いまや、自宅には3日間は自活できる水や食料を準備してある。

 死にたくないのである。生きたいのである。

 これはわたしの本能である。


 今日は黙とうで、亡くなった方々の菩提を弔ったが、生きている方々の重さまではわからない。

 復旧までに、10年はかかると思う。まだ2年というべきなのか。

 3月11日が来れば、東日本大震災から丸2年になる。

 テレビはようやく被災地のいまをテーマにした番組を流し続けている。

 どの映像からも復興中であるとのいまを撮れないでいる。

 東日本大震災後からマスコミも民主党政権も被災地自治体も「復興」を声高に掲げていた。

 復興とは復旧した後の言葉であるとわたしは思っていた。

 元に戻すことがまずやらなければならないことである。

 仮設住宅から電気・水道・ガスが普段どおり使え、仕事があり、保育所、学校があり、近くには商店がある。普通の暮らしが戻っていることが復旧なのである。

 復興とはその基盤の上に、大津波に対しての備えをなした街づくりであろう。

 復旧と復興の定義をきちんとしない限り、生活を戻すことはできない。


 言葉によるまやかしはあってはならない。

 いまは、普通の暮らしができるところに焦点を当て、それを全力を挙げて国と自治体が援助するところから見直してもらいたい。

 仮設住宅をなくすことこそ、生活者にとって待ち望んでいることだと思う。個人と向かい合い、仮設住宅から自立生活への支援こそ、復興への道ではないだろうか。


 

 9日午前10時半。

 待ち合わせの時間である。

 最近は、新宿駅西口改札が待ち合わせの場所になってしまった。

 待ち合わせ時間の10分前には行くようにしている。

 働いているころは、1時間遅れることは当たり前で、それでも友人知人は待っていてくれた。

 当時は携帯電話などなくて、遅れることを伝える道具はなかった。


 その罪滅ぼしをしていることになる。

 

 10時半になる数分前にはわたしを入れて4人が集合する。


 東京蕎麦名店会に加入している「手打ちそば渡邊」に行く。

 わたしのお奨めは、みぞれしらすそば。

 全員が注文。

 あっというまに昼食終了。

 出際に、店員さんに聞く。

 「この近くに喫茶店はありますか」

 「この2階にあります」


 行ってみた。

 最近、新宿には喫茶店が姿を消していると思っていた。

 少なくともわたしがよく行っていた3軒はない。

 話をする場所がないことを、わたしはさびしく思っていたのである。


 30人は入れる喫茶店が営業していた。

 そこに何と2時間いたことになる。

 連れの一人は、

 「コーヒー一杯で2時間もいてもいいのかしら」

 と、言ったが、その感覚こそおかしいと、わたしは思っている。

 喫茶店は、居たいだけいられる場所である、がわたしの常識である。


 今後この喫茶店をホームグラウンドにしようと思い、名前を覚えようとしたが「ル カフェ ドゥブルベ」。

 レジの店員に、

 「名前を覚えたいが、ちょっとね」

 と言った。

 「昔は喫茶渡邊と言っていたそうです」。

 わたしの街も高層のマンションがあちこちで建てられている。

 ただ、募集をしてもすぐに満室になることはなく、好評につき継続して入居者募集中としている。

 少なくとも人口は増加中の街である。

 老若男女が程よく暮らしている街のようでもある。

 それでも、従来からの商店には人はまばらである。

 どこに人が集まっているのか。

 スーパー、ドラッグストア、コンビニである。少なくとも私が住んでいるところから500メートルの場所にコンビニ4、ドラッグストア3、スーパー2が立ち並んでいる。

 暮らす側からすると非常に便利である。

 どのショップにもポイントカードを持っているので、ポイント還元の余禄にも預かっている。


 ただ、以前はお肉屋さん、八百屋さん、酒屋さんには行っていたが、

ここ2年ぐらいからは行かなくなっている。

 行きつけの飲み屋にも行かなくなっている。


 街に住みながら、街から遠ざかってきている。

 便利機能だけに引き寄せられているわたしは、この街の機能だけに目を向けてこの先、生き続けるかと思うと、多少の振り返りをしなければならないと思っている。

 北杜夫は大好きな作家であった。

 いまはというと、わからない。

 『どくとるマンボウ航海記』『どくとるマンボウ昆虫記『』どくとるマンボウ青春期』は、わが青春のときの愛読書であった。

 その後、わたしは北杜夫さんが歌人斉藤茂吉の息子であることを知った。

 北さんが1998年に『斉藤茂吉伝』を執筆した。


 短歌に興味を持つと、とりあえず斉藤茂吉を読むことになる。

 少し読んでみたが、茂吉の歌は、確かにいい。

 とくに、母親の死の前後の歌は、心を打つ。


 その茂吉を知るには、北さんの本を読むのがいいと思った。

 父茂吉は、神経質で小心で頑固。そういう、家族でなければ確信できない茂吉の人間性から、茂吉の歌を読み解く。

 このような息子を持った斉藤茂吉がうらやましくなった。


 まだ途中なので、このあと感想を言ってみようと考えている。

 5時間前には、研修申し込みをしていた。

 研修元からわたしが所属している機関に送られてきた文書を、そのままメンバーに転送してきた文書に申込書が添付してある。その申込書のファイルを開いて必要な個所に記入して機関に送ればいいのである。

 しかし、その簡単な操作ができない。

 申込書のファイルを開き、必要事項を記入する。

 そのファイルを保存する。

 メール作成を開き、添付の参考を開き、保存したはずのファイルを指定すればいいのだが、そのファイルがない。いろいろとやってみたが駄目であった。

 仕方がないので、メールに必要事項を記載して送った。かかった時間は2時間。

 こういうことはよく覚えている。


 5年前は猪苗代の近くにある湯治場に行った。

 雪が降り積もる、まっ白な世界が出迎えてくれた。

 3食自炊の湯治場で、宅配便で送っておいた、即席めん、包装米飯が主食、缶詰が副菜。焼酎、ワインの瓶が色を添える。

 朝起きる、起き抜けで浴場に直行。朝食。食後近くを散策。また湯治。昼食。昼寝。起きたら湯治。だいたいこの時間からは湯治客がいるので話す。そして晩酌付きの夕食。食後1時間でまた湯治。さらに寝る前にまた湯治。こうして1日が終わる。


 5時間前と5年前を書いたのは自分の認知能力を確認したかったのである。

 5年前のことも、5時間前のことも同じレベルで思い出せた。

 大丈夫であろう。