アンクルのブログ


午前中は雨が降っていた。

桜の季節に降る雨は桜雨というのかな。

午後からは厚い雲が覆い、いまもそのままである。

このような天気は桜曇りと呼んでいいと思う。

人通りはなく、桜の花びらをきらめかす太陽の姿がないと、どうも地味な様相を呈してしまう。

春、命の輝きを体現してくれる桜には春の暖かい日差しが似合うのである。

桜の下に人が集まる。

まだまだ、今週末にはチャンスがある。


わたしも、友人たちと週末はお花見である。

お酒の飲めない彼らには自分の飲み物だけ持参と言明しておいた。


酒のない花見など考えられないわたしは、やはり単なる爺さんかと思うとさびしくなるが、歳とってからの友人は飲まない人間がやたら多くなっている。



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東京・国分寺の湧水を源にする野川である。

いまは冬枯れで水の流れがない。両脇に枝垂桜が見事に咲いていた。

今日は、武蔵小金井にすむ友人に招かれてあちらこちらの桜を見て回った。

満開の桜は、どこに行っても微笑んでわたしを迎えてくれた。


国際基督教大学、多磨霊園、味の素スタジアム、どこに行っても桜が迎えてくれた。

東京運転免許試験場は人の立ち入りを拒んでいたが、外から見てみるとあまりの桜の咲きっぷりに見とれてしまった。


京都円山公園の枝垂桜は、その太い幹にこんもりと山のような桜を付ける。


その枝垂桜が野川沿いに15メートルの間隔で100本以上の枝垂桜が咲き誇っていた。

円山公園に行かなくても枝垂桜が見られただけで、何とも言えない喜びの感情が胸をいっぱいにしてくれた。


桜三昧の一日であった。


 手元に2冊の本がある。

 藤沢周平『無用の隠密』未刊行初期短編(文集文庫、2009年9月10日発行)。

  収載作品(15編)


   暗闘風の陣、如月伊十郎、木地師宗吉、霧の壁、老彫刻師の 

   死、木曽の旅人、残照十五里ヶ原、忍者失格、空蝉の女、佐賀

   屋喜七、浮世絵師、待っている、上意討、ひでこ節、無用の隠密


藤沢周平さんは、とても好きな作家である。

武士を描いても、町人を描いても、その時代に健気に生きた人間の生活、感情を描ききって、読むわたしを泣かせてくれる。

上にあげた作品は、1971年に『溟い海』でオール読物新人賞、1972年に『暗殺の年輪』で直木賞を受賞し、作家としてデビューする以前に書かれたものである。

短編でありながら、どの作品も藤沢ワールドの骨子を内在し見事な読み物に仕上がっている。

どの作品にも男と女が息づいている。

たぶん、藤沢さんは制約のある戦国時代、江戸時代においても愛を貫き通して生きる人間がいることを信じ、確信していたのであろう。


 小川国夫『俺たちが十九の時』小川国夫初期作品集(新潮社、2012年10月30日発行)


  収載作品

   おろかな回想、霜と虹、俺たちが十九の時、少年(四つの掌編)、  

   サン・ユニア公国、叔母・甥、暖冬異変、永遠の人


小川国夫さんは、『アポロンの島』しか読んでいない。ただ、藤枝東高校で小川さんと同級生であった方をわたしは知っていたので、なんとなく気になる作家であった。

『俺たちが十九の時』は、わたしも19歳のときがあったのだから読めると思って購入してきた。

小川国夫さんは古井由吉、黒井千次、後藤明生らとともに内向の世代と呼ばれる文学者である。

その文学世界は独特な文体、内容が難解である。

わたしの心には敬して遠ざけるの気持ちがある。

『俺たちが十九の時』は、友人、渡辺の自殺を巡る短編である。

「俺は自殺だって出来るよ」と渡辺が言ったことばが主人公の柚木を不安にさせる。

わたしは19歳のとき、自殺といったことばを言ったこともないし、考えたこともない。

小川さんの時代は太平洋戦争のころ。予科練に行けと言われたり、死と向き合わざるを得ない時代が小川さんに死を考えさせたのだろうと思うが、自死をなぜテーマにしたのかはわからなかった。

サン・ユニア公国、永遠の人にアポロンの島の習作に違いないと思った。


初期であっても、文学者として大成した人の作品には、テーマを深め、人間を見つめるというすごい力の片りんをうかがえた。


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3月22日、東京都心では桜満開宣言が出た

ここは、昔は東京都下と呼ばれ、冬になると、都心より気温は2,3度低い。

しかし、この暖かさで、わたしの目で見ても8、9分は咲いている。

駅のほうから人が多く歩いてきている。

花見である。

わたしの部屋からも、北と東側に桜が咲き誇っている様子が目に入る。

ついに、桜花見のシーズンがやってきた。

遠くから見ても、樹下から見ても、桜には不思議な魅力がある。

とても人間を愛してくれているのである。

つぼみを桜色に色づかせ、桜色の小花を枝に無数につけ、そしてその散り方は潔く美しい。

人間にさまざまな表情を見せてくれる桜花はまちがいなく人間を愛してくれている。

明日は多くの人々に混じり、桜花を楽しみたいと思っている。


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一週間前に路上に捨てられていた桜の一枝を拾ってきた。

お寿司屋さんにもらったあがりの湯のみに、挿していたら、

今日、2輪咲いた。

つぼみの数を数えた。

4つある。

わたしと桜の対話が始まった。

「よく咲いてくれたね」

「どういたしまして、ちょっと元気がないかしら」

「作かどうか心配していたから、咲いてくれただけでとてもうれしい」

「そう言ってくれると、わたしもうれしい」

「ぜひ、あなたが抱いているつぼみにも花を咲かせてね」

「大丈夫よ、きれいに咲くから」

 久しぶりに楽しい食事をした。


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4人でステーキ。

素敵な食事であった。

わたしのチョコレート仲間である。

このつながりは5年間続いている。


桜が少し咲いて、花見とは言えない今日、ではあったが、ステーキにかぶりついて楽しく食事。

と言いたかったが、わたしは一口食べたところで、食道に肉が引っかかった。

往生した。

それでも無理やり楽しんだ。












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桜が、どのくらい咲き始めてきたかを求めて、夕方目を凝らしながら歩くのは趣がある。

夕闇に白い花がぼんやり見える。

その白さに淡く心が波打つ。

街燈のそばに咲く桜は、白さを際立てる。

まるで、街燈の暖かさを取り入れて喜んでいるように感じる。



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いつから、桜が好きになったのだろうか。

50歳を過ぎてからだったと思う。

自分の人生が終わりに近づいてから、春を彩り、綿菓子のような柔らかさで、束の間わたしを慈しむように包み込んでくれる、そんな桜花の

優しさがわたしにはたまらなく切ない。


今週末にはそんな桜花に会うことができる。

 咲き始めた。

 昨日はある木に4,5輪の花が咲いていた。

 今日の午前は、ほとんどの木に桜の花びらが春を告げていた。

 午後にまた出かけた。

 すると、ある木はもう7分ほど花びらを開いて、静かにたたずんでいた。

 桜の木には個性があると思った。

 気温に敏感に反応する木、少し鈍感な木、ふつうに花開く木。

 さまざまな木があることを、いまなら人間にわかってもらえる。


 健気な桜の木。

 満開のときは、その違いには気づかない。

 人間には多様な個性がある。

 木にも個性がある。


 その個性を正確に知ることが、たとえ木であっても理解する一歩であろう。


 個性とは生き物であればすべてが持っている特性である。

 この個性と呼ぶものを理解しようと考える態度こそ、生物界にとって大切であろう。

 3月は別れのときである。

 新しい人生を探しに出かける人とその人を見送る人。

 見送る人には涙がしばしば見られる。

 悲しい涙ではない。

 大丈夫であってほしい、元気でいてほしい、と無事を願って、つい流す涙である。

 この別れは、お互いに成長するために必要な人生の岐路であろう。


 別れのなくなった人生にはドラマがない。

 ドラマのない人生は穏やかで代わり映えはしないが、毎日平凡である。


 別れがあれば、出会いがある。

 その変化をたくさん経験してもらいたい。

16日に靖国神社の桜が咲いた。

開花宣言が出たわけである。

3月の下旬から4月の上旬にかけて満開になる桜が、

一週間も早く満開になってしまう。

そこで、今日、わたしの街の春はどこにいるか見に出かけた。



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菜の花は明るい日差しを浴びて咲き誇っていた。

黄色い花は軽やかでまぶしくていい。


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さて、桜である。

つぼみを膨らませて、明日になれば咲きそうであった。

ピンク色のつぼみの先端はそれを語っているかのようであった。

間違いなく今週末には、待ち望んでいた大きなふっくらとした薄紅色の

花の群れが見られる。

わたしの街は春を予感させるシグナルに満ちている。