角川ソフィア文庫に収められた鴨長明の歌論随筆集である。

 久保田淳さんの現代語注がついている。

 古典は岩波書店、平凡社、角川学芸出版でなければ、出す力がないのはさびしい限りである。

 本書には主要語句索引、和歌索引がついており、文庫ながら専門性がきちんと担保されている。


 無名抄は83章段から成っている。

 鴨長明は平安時代末から鎌倉時代まで生きた歌人、随筆家である。

 和歌は俊恵について学んだ。

 その俊恵(しゅんえ)から、歌人としての心構えを諭される。

 「歌には昔からの心得があるのです。それは自分の歌が他人に認められるようになっても、得意になって、われこそはという気持ちでもって歌を詠んではいけません。わたしは今でもただ初心者であった頃のように歌を思案しています」

 俊恵の言葉の要約である。


 わたしは原文を読んでいて、興味を持ったのは68章段「会の歌に姿分かつこと」であった。

 歌人としても著名な後鳥羽院が、「六首についてみな姿を読み変えて詠進せよ、春・夏の歌は堂々として壮大に、秋・冬の歌は繊細で枯淡に、恋・旅の歌は艶麗で優雅に詠んでまいらせよ。」と仰せられた。

 本書は1章段「題の心」で詩は題の意味をよく理解したうえで読まなければならないと述べている。

 ふつう、歌の題は「海路を隔つる恋」「夏を契る恋」「関路の落葉」「水鳥近く馴る」といった題が出され、この題の意味を読み込んで歌を作るのだ。68段目の題はさらに突っ込んだものになっていたため、この歌合に参加できたのは、摂政藤原良経、慈円大僧正、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、そして鴨長明の6人のみであった。

 この六首の歌すべてを長明は挙げている。なかでもわたしの心に残ったのは、艶麗で優雅な歌

 忍ばずよ絞りかねつと語れ人もの思ふ袖の朽ちはてぬまに


 当時の歌合の様子、題の出され方、秀歌にこだわった歌人たち、そこにたゆまない研鑽をつまなければ詠めなかった歌の心が伝わってくる書物であった。

 本書は岩波書店から2013年1月16日に岩波現代文庫として発行された。

 著者の網野さんも宮本さんも現生にはいない。網野さんは新しい歴史学を我々に提示してくれた人であり、宮本さんは柳田民俗学を超えた人である。

 お二人の接点は渋沢敬三さんが始めた日本常民文化研究所に同時期所属していたことぐらいで、親しく付き合ったことはない。

 わたしは、網野歴史学のファンで、『蒙古襲来』小学館から始まり、『異形の王権』平凡社、『無縁、公界、楽』平凡社、『日本社会の歴史 上中下』岩波書店、『日本とは何か 日本の歴史』講談社、『古文書返却の旅』中央公論社などを読んできた。

 網野さんの甥にあたる中沢新一さんの『僕の叔父さん』まで読んでしまった。


 本書は、神奈川大学短期大学の教授を務められていた時に短大という教えることが難しいと感じていた網野さんがゼミのテーマとして選んだのが『忘れられた日本人』であったそうな。

 わたしも同署を読んだが、宮本さんの人から話を聞く姿勢に圧倒させられた記憶と、とにもかくにも、民俗を採集する熱意に惚れてしまった。

 そのお二人が一冊の本で理解し合う様にまったくのところ言葉を失っている。


 本書は、第一講 宮本常一との出会い 第二講 女の「世間」 第三講 東日本と西日本 第四講 「百姓」とは何か から成っている。

 宮本さんの本は網野歴史学を実証するためには最適な内容であったに違いない。


 我々が学び、いまも学んでいる歴史は百姓とは田畑を耕し、年貢、税金を納める人であると教えている。また、歴史に出てくる庶民は男ばかりで老人、女性、子供、遍歴民は一部を除いて皆無である。

 宮本さんは民俗学からの視点で、この常識を覆した。日本全国を回り、老人、女性から話を聞きとり、文書化したのである。

 つまり、忘れられた日本人とは老人、女性、子供、遍歴民であるのだが、その人たちの話から、まさに歴史はいずれ編纂されるであろうと考えて、宮本さんは生きていたのである。

 網野さんは古代から中世にかけての遍歴民を研究し、見事に甦らせてきた。また、百姓は農業だけやっているのではなく、船乗りにもなり、商人にも工芸人にもなっていたと論証した。

 百姓の女性は織物の担い手であり、亭主にお金を貸すぐらい、職業的にも経済的にも自立していた人間であると実証している。


 宮本民俗学にも、たぶん網野歴史学にも取れえていないことがある。お二人の仕事を継ぐべき若手はいる。楽しみである。

 「いやー映画っていいですねえ、ほんとにいいですねえ」とは淀川長治さんの言葉である。

 淀川さんはどちらかと言えば、洋画である。

 わたしは邦画にここ数年は見るべきものがなかったような気がする。

 しかし、日本映画界は作ってくれたのである。

 『舟を編む』を。

原作者は三浦しおんさん。

 脚本を渡辺謙作さんが書き、石井裕也監督が創りきった。


 ストーリーは大手出版社の辞典編集部を舞台にした編集部員と監修者、その主たる人間を支える人々の15年間にわたる人間劇である。ゆえに登場する人間に魅力がなければ物語にならない。


 辞典編集部の責任者である荒木公平(小林薫)は定年後は病弱な妻に寄り添おうと退職を決意する。しかし荒木の能力を高く評価し、新辞典企画には荒木が必要と考えている辞典編集部の顧問であり、言語学の泰斗、松本朋祐(加藤剛)は不安を言葉に出す。荒木は自分に代わる人間を社内から探し出そうとする。辞典編集部の西岡正志(オダギリジョー)が探し出してきた営業の馬締光也(松田龍平)に、「右」の辞典的な答えを問うて、営業から辞典編集部への異動を決定する。


 早速、松本を中心に荒木、西岡、馬締、契約社員、佐々木愛(伊佐山ひろ子)で、新辞典『大渡海』の企画会議を開く。冒頭、松本は、

「大渡海は見出し語24万、新しい言葉も積極的に採り入れたいまを生きる人たちに向けた辞典を目指します。人は辞書という舟でその言葉の海を渡ります。それは自分の気持ちを的確に表す言葉を探し、だれかとつながるためです。この広大な言葉の海を渡りたいと思う人たちに捧げる辞書が『大渡海』なのです」

 深い感銘を受けた馬締(まじめ)はこの辞書作りに携わることを決意する。

 辞書作りは、用例採集(言葉集め)、見出し語選定、語釈執筆、レイアウト、校正(5回校正する)徒ステップを踏んでいく。語釈執筆は編集部で担当したり、外部執筆者に依頼、原稿回収したりする。

 15年間の前半には、下宿先で馬締が、下宿経営者タケ(渡辺美佐子)の孫娘、林香具也(宮崎あおい)に出会い、恋してしまう話とか、西岡が宣伝部に異動したり、西岡が同じ会社の女性、三好麗美(池脇千鶴)と同棲中だったが、酔っぱらった挙句プロポーズしてしまい、「ダサい」の語釈を執筆する。

 後半には、雑誌編集部から黒木華(岸辺みどり)が辞典編集部に異動してくる。西岡は辞典編集部を訪れたとき、電話で子供と話をしている。刊行まであとわずかなところで、松本はガンで命を落とす。長年連れ添ってきた妻の千恵(八千草薫)が『大渡海』出版記念パーティの席で、馬締に夫に成り代わりお礼を述べる。

 ラストシーンは、松本が好きであった房総の海を馬締が妻、香具也と眺めながら「これからもよろしくおねがいいたします」と言う。

 きちんと、妻とのコミュニケーションを取ろうとしてきた松本、馬締、西岡は決して一人で舟に乗ることはないと思った。

 原作、キャスト、スタッフと3拍子揃った日本映画であった。

 北朝鮮がミサイル発射を言いだしてから1週間以上たった。

 韓国に対しては停戦条約の破棄を通告し、アメリカにはアメリカ本土までミサイルを打ち込むと脅迫し、日本には戦争準備に入ったと言い募って、自国防衛のための戦争を演出している。

 たしかに、国際社会においては孤立しており、中国の援助で息を継いでいるのだろうが、太平洋戦争に突入してしまった日本は目的を達成することなく終わってしまった。

 北朝鮮の狙いは、アメリカに自国の核武装を認めさせ、援助を約束させ、自国の現体制を強固にさせるところにあるのだろうが、国連は北朝鮮のやっていることに非難はすれども、一顧だにしていない。

 北朝鮮は数年前から農作物の収量が不足し、北朝鮮の人々は食べることに困窮していると言われている。

 そんなときに、政治権力者は、敵を作り、国民の目を外に向けさせる。正確な情報を知らされていないと、北朝鮮の人々は正しい判断をすることができない。

 ただ、北朝鮮は韓国からの対話呼びかけに反応したり、韓国が発表したサイバーテロは北朝鮮軍の専門部隊の犯行だという発表を否定したりと、戦争にまっしぐらと考えているわけではないと思える。


 韓国、米国、日本は戦争を仕掛けようとは考えていない。

 まして、日本には拉致家族の救出を急がなければならない。

 その目すらそらせているとしか思えない。

 考えられない北朝鮮である。

 ぜひ、まっとうな考えを取り戻し、六か国協議の席に戻り、韓国に続く先進国になってくれることを願いたい。


アンクルのブログ

わたしの歩くコースはいつもかわらない。

そのコースを点描したい。

自宅を出てすぐのところに交番がある。

信号を渡ると、中華そば屋さんがあり、いつも混んでいる。

わたしは一回行ったことがあり、担担麺がおいしかった。

しばらくは住宅が続き、わが街最大の公園が広がっている。

道を横切ると公団が連なっている。

1年前に大規模にオープンしたスーパーが赤々と多くのお客さんを迎え入れている。

信号を渡るとコーヒー専門喫茶が、今日も若いご夫婦オープンしていた。お客さんは一人。

専門喫茶に並んで、持ち帰りお弁当屋さん、子供服専門店、女性服専門店、和食レストラン、日本そば店、コーヒー専門店が連なっている。

しばらく歩くと、ケーキ屋さんが営業している。

ここは遅くまで営業しており、週末はお客さんが熱心に品選びをしている。

ここからマンションが続く。

途切れるところに駐車場を満杯にしたローソンが元気に営業している。

また、マンションが連なり、メガネチェーン店、内科医、事業所が続く。

そして私は、反対側の歩道にわたり、戻る。

市立中学校の校庭沿いに歩く。

向かいには、ガソリンスタンド。ガソリンスタンドの経営は大丈夫かと思いながら通り過ぎると、中華ラーメン専門店、イタリア料理店が続く。

しばらく、個人の住宅が立ち並んでいる。

すると、うどんのチェーン店が現れる。お客さんがいっぱい入っていた。

新聞販売所、漢方薬店、DVDレンタルショップ、また中華料理店が軒を連ねる。

この中華料理店は2階にあり、桜の時期はこの店から眺める桜の枝ぶりは見事である。

さて、信号を渡ると、ガソリンスタンド、ここはいつもお客さんが入っている。この近くに三浦・山口ご夫婦の自宅があるが、いまはお住まいではない。

わが街の中央郵便局が雄姿を見せ、そこを過ぎると、NHK学園。

さすがに、今日は明かりがついていない。

ステーキ・ハンバーグチェーン店、和食チェーン店が営業状況快調を見せてくれていた。

終点は近い。

マンションを過ぎると、障害者センター。

わたしの散歩はこのようにして終わる。

最初に載せた写真は、上弦の細い三日月である。

まだ、働いている人たちをやさしく見つめていた。

 女性と男性では老後のことを考える際、かなり違いがあるのではないかと思った。


 男性はぎりぎりの状況は考えても仕方がないと思っている。

 いまがよければそれでいいと思ってしまう。

 女性は先々のことまで考えている。

 それも、終の棲家になる場所を介護付き老人ホームに決めると、サービスのしっかりした老人ホームに入ろうと考え、その場合の入居金、毎月かかる費用を計算し、その費用を捻出するために、いまどのような生活をすればよいか結論を出す。

 いわば、男性は目標など持たずにいまを生きる。

 女性はきちんと目標を考えていまを生きる。

 老後とは最後の時間である。

 その時間を自分らしく生きることを女性は考え、男性はそこを落としているのだ。

 自分がいつ死ぬのかわからないのが人生であるが。その死すら考えていない自分がよくわからなくなる。

 困った。

 今日は久しぶりに銀座に出た。

 

 銀座を楽しむために出てきたであろう女性陣を見て驚いた。

 わたしの視線をかなり下に導いてくれたのである。

 まず、ジーンスが多いい。

 靴はヒールが高い。

 そのヒールの高い靴の後ろに個性がある。

 色とデザインが多種多様。

 パンツやジーンスに合わせているのかと考えた。


 今日の銀座の女性は顔とか服装でなく足元で勝負していると思った。今日ほど、女性の魅力を感じたことはない。


 さて、女性の足元ばかり見ていたわけではない。

 目の高さに視線を合わせると、いたいた。

 恰好のいいシルバーがたくさんいたのである。

 髪の毛は白髪交じり。

 わたしと同年代。

 さっそうと、スポーティーな服装で歩いているのである。

 その服装が何とも言えず、軽快なのである。

 この人たちは何をしに銀座まで来たのか。

 わたしならデパートの催しか、画廊か、ぐらいである。

 うーん、今度聞いてみよう。


 ただ、気になったのは格好のいいシルバーはみなさん一人で歩いていた。

 小林千草さんが東海教育研究所、東海大学出版会から2012年12月14日に発行した面白い本である。

夏目漱石の最晩年で未完に終わった『明暗』の夫婦の会話、夫婦いずれかと他者との会話を素材にして、会話当時の夫婦の心理状態に迫ろうとした野心作である。

 筆者は「漱石『明暗』は「未完」でありながら、私には、「完」に思えるのです。もはや清子の心が津田に戻ることはありません。中略 作品の“峠”を描ききれば、あとは、自然に理解されうる。そう信じ念じて、漱石は百八十八まで書ききったと思います」と、あとがきで述べている。

 会話や地の文に伏線があると、筆者はしばしばことわって、夫婦の言語力学を書き進めてきた。


 津田と妻の延子は夫婦としてやっていけるのか、相互不信を増幅させてきた会話の先にあるのは、仮面の夫婦の姿しか私には考えられなかった。


 しかし、この作品の斬新さと切り方には、最初述べたとおり面白さが絶えることなく立ち込めていた。


 昼間、生活をする人間は買い物をする。

 スーパーでは女も男も、今晩食べるための食材を勝っているのである。

 わたしはいつも、午後2時過ぎに、生きるための食材を買いに行く。

 その時間が、たぶん一番すいているからである。

 明るいことは、自分の気分を低下させることはない。

 すがすがしいのである。

 最近、野菜を買う量が減り、野菜ジュースを買うことが多くなったことにかなり自己嫌悪の念があるが、それはあまり深刻に考えないことにしている。

 最後に向かう売り場は、酒類売り場。


 ここに来ると、心が解放される。

 ウィスキーの銘柄はシングルモルトに目が行き、ワインにはチリ産に目が行き、日本酒は純米、焼酎は芋へ。

 解放されるのはここまでで、結局、ノンアルコールか糖分ゼロを買って終了。


 重い買い物袋をぶら下げて、散り去ってしまった桜並木の下を歩きながら、あと何年こうして昼間の時間を過ごせるのかと不安がよぎるこの頃である。

 平日だけに160人収容の座席には20人弱であった。

 これが舞台劇であると、役者のみなさんには観客として申し訳なくなる。

 しかし、映画だと俳優は気がつかないから、ゆったり観ることができた。

 オズはライアン・フランク・ポームが創りだした魔術師。

 監督は『スパイダーマン』のサム・ライミ。


 この作品は手品師、奇術師と呼んだ方がふさわしい、オズ(ジェームズ・フランコ)が1905年に所属していたカンザスのサーカス団で不祥事を起こし、気球に乗って逃げ出したはいいが、竜巻に遭遇し、オズの国に迷い込むところから始まる。

ここまではモノクロである。

 オズは、女たらしで、嘘はつく、不正直であるが、エジソンのように「偉大」になりたいと考えている男である。


 オズの国では「オズという魔法使いが現れて、邪悪の魔女を殺して、へ宇和で愉しい国を回復させてくれる」と前国王の遺言が信じられている。


 オズはまず西の魔女セオドラ(ミラ・ニクス)に出会う。セオドラにカンザスにいたころの女を誑し込む業を使い、心を盗んでしまう。

 エメラルドタウンでは、セオドラの姉エヴァノラ(レイチェル・ワイズ)にまで手を出す。

 邪悪の魔女を殺さなければ、国王の地位も黄金も手にいれられないと言われたオズは魔女退治に出向く。途中、陶器の少女を助け、空を飛ぶフィンリーを共に邪悪な魔女のいる荒れ地に着く。

 そこには、南の魔女グリンダ(ミシェル・ウィリアムズ)がいた。グリンダはオズに、邪悪の魔女はエヴァノラだと教える。


 エヴァノラはセオドラに青林檎を食べさせ、セオドラを邪悪な魔女に代えてしまう。


 オズは逃げ出すことばかり考えていたが、オズの国の人々のために一世一代の奇術を見せることを考え、オズの人々の協力を得ながら準備をする。

 そして決戦。準備した記述がグリンダを勝利に導く。


 美しい魔女がその魅力を映像にあふれさせ、オズは魔法で元に戻す力はないと言いながら、陶器の少女に新しい家族を用意してあげる。オズは偉大な力を発揮したのである。

 コンピュータグラフィックの技術を巧みに使いながら、人間臭さを前面に出したこの作品には、温かみが染み渡っていた。