いい天気になった。

 今日も午前7時起きである。

 8時までに姉の新築現場に行かなければならなくなったのである。

 外構工事が始まるとの連絡が入り、工事も終盤に入った。

 スロープ、車庫、デッキがつけば完成である。

 その関係者とは初顔合わせのため、挨拶かたがた、打ち合わせに出かけたのである。

 作業前に挨拶がいいと、わたしが判断したのだ。

 年配、若者二人の3人がいた。

 挨拶をし、

 「コンクリートとデッキの耐用年数」を聞いた。

 思った以上の耐用年数だったので安心した。

 9時には目的を達し、帰路についた。

 宅配便が通る、外構工事の作業する、子供が自転車に乗っている、

 公演では子供たちの声が聞こえる。

 GWには出かけたことのないわたしにも、多くの人々にも普通の時間が流れる。

 どうも今年も巣篭りのGWになりそうである。

 月、花、風、水と自然のあるままのものを兼好は挙げている。

 確かに、こうこうと輝く月には心惹かれる。

 花の咲くのを見ると、その色、花弁の可憐さにうっとりする。

 心地よい春風に出会うと生きていると思う。

 川の流れ、それも清流だとその清冽さに見入ってしまう。

 しかし、それらの自然の営みに心が慰められたことは、わたしにはない。

 わたしが感じるのはいとおしいという感情だけで、わたしを慰めてくれるという感情は芽生えてこない。

 わたしの心を慰めてくれるのは、人間の優しさに出会ったときである。

 それはわたしに向けられた心でなくてもいいのである。

 その人の肉親に対する優しさでもいいし、弱い人に対する優しさでもいい。

 わたしが慰められるのは、人間の心であると思わずにはいられない。

 今日はいい風が吹いている。その風を愛しているが、穏やかさをわたしに与えてはくれるが、わたしの心を慰めてはくれない。

 ゴールデンウィークになると多摩川のサイクリングコースは混むし、サイクリング専用車は増えるし、いまが自分のチャンスとばかり、油を挿して多摩川を府中に向けて走った。

 暖かいし絶好のサイクリング日和である。

 多摩川の水量は多くなかったが、わたしとともに流れていた。

 マックに入り、昼食。

 年に1,2回しか入らないが、一人マックはいい。

 何も考えずにひたすらこぐ。

 競争する相手もいない。

 春の風は、心を浮き立てる。

 1時間行ったところで引き返した。

 あまり無理をしてはいけないと、自制の気持ちが働いたのだ。

 さすがに、多摩川をさかのぼる人は少ない。

 つつじにばかり目が行く。

 本格的なつつじのシーズンである。

 花のわかるこの季節を大いに楽しんで、簡易旅行は終わった。

 いま、わが街には8階建てのマンションが建設されている。

 わが街には景観条例があり、8階建て以上の高さの建物は造れないのだが、制限の高さに合わせた大規模なマンションが建設途上にある。

 高いところなどには私は住みたいとは思わないが、その建設現場に行って驚いた。

 設計、施工、販売を請け負っているのは大手不動産会社であるのだが、販売を意識した看板がでかでかと壁に貼られていた。

 「文京都市」と。

 わたしの街は、立川の隣にあり、当時米軍が駐留していた。

 その米軍の歓楽街をわが街にも作ろうとしたのである。

 母親たちを中心にこの動きに抵抗したのである。

 わが街には、国立大学、音楽大学、高等学校が三つと学ぶ場所が密集している。

 「文教地区」を守るを旗印にこの抵抗運動は功を奏し、いまがあるのである。

 外から入ってこようという人には「文教地区」はセールスポイントになるだろうけれども、歴史の勉強もしないライターが「文京都市」と書いたのであろう。

 あきれて怒る気もなくなっている。

 午後12時50分に自宅を出て午後6時に帰宅した。

 今日はグループホームに行き、お世話させていただいている方の様子を見て、そのあと大学時代の友人とカラオケをしに出かけたのである。

 グループホームでは歩行器を巧みに操り元気で動き回れるようになった様子を確認し、持参したショートケーキを食べながら話をした。

 1時間ほど話し合ったので、近くに住む友人に連絡し、待ち合わせ場所を確認した。

 そして、早速友人がいきつけのカラオケに直行した。

 友人は古い写真を持ってきており、しばし歓談した。

 午後3時になってカラオケスタート。

 交代に歌わなければならないため、歌手名か、曲名化を記憶していないと検索できない。

 友人は独りカラオケ1年の通である。

 カラオケ店の若い女性店員とは顔なじみである。

 わたしは酎ハイを頼み、友人がスタートを切った。

 フォークソングからである。名残り雪、いちご白書、池上線などを歌いきった途端、次は演歌である。

 わたしは石川さゆりの大ファンであり、能登半島、天城越えを歌い、

友人は何々節をうたう。

 同年代とは歌に対して共有しているものがある。

 一緒にいても違和感がないのである。

 1時間30分の時間があっという間に過ぎた。

 再会、再カラオケを約束して別れたが、久しぶりに遊んだとの思いが胸に心地よさを満たした。

 今日は誕生祝いのネックレスとリオハワインを買いに出かけた。

 備えあれば憂いなしが最近のわたしの備えである。

 ネックレスを買うには宝飾店であるので、迷わずデパートの宝飾店に行った。

 感じのいい店員が応対してくれた。

 わたしは、買い物に時間はかけないのだが、本日は30分もかけて、自分が納得できるものを買った。

 予算をかなりオーバーしてしまったので、リオハワインは2000円でおさめた。

 これで誕生日の用意ができた。


 わたしの友人のことをまとめて書いておきたい。

 一人は大学時代、一人は大学を卒業して入社した会社の同期である。

 大学時代の友とは、房総半島1周、九州1周をし、4年のときに下手をすると単位をもらえない最難関の科目を共に学び合った仲である。

 その友は15年前に難病を発症してしまい、わたしを狼狽えさせた。

 いまは薬で進行を止めているので、みかけはわたしより元気である。

 その友と、あしたはカラオケである。

 病状に立ち向かうためにはカラオケはいいと医者がアドバイスしたのである。

 最近カラオケなど言っていないわたしも友と大声を張り上げて昼カオを楽しもうと思っている。


 さて、付き合った時間は濃密であった会社の同僚である。

 配属先が一緒で、独身寮は隣室であった。

 したがって公私ともに一緒が多かった。

 その友はその会社で38年も一筋に勤め上げ、定年退職後すぐに後輩たちに参考にしてもらおうと文章をまとめ上げた。

 わたしはプロの目でその文章を読ませてもらい、いくつかのアドバイスをした。

 その友人は物を書き上げる魅力に取りつかれたのか2作目を書き上げた。

 わたしに再度アドバイスを求めてきたので、わたしは引き受けた。

 まず驚いたのは文章力が高まり、読者を意識した内容に骨があったことである。

 つまり、力量が向上していたのである。

 わたしは三国志に材をとった友人の力作に答えようと北方の『三国志』を併読しながら読んだ。

 友人からわたしが指摘したことを念頭に、書き直ししてみると返事をもらった。


 いい友達を持ったのだと、感謝している。

 本書はNHK出版新書363として2012年1月10日に刊行された。

 筆者は石巻で生まれ育った人間であり、2011年3月11日の東日本大震災の惨状に、その記憶と現実、マスコミが垂れ流す情報の無意味さに、言葉の持つ無意味さに焦りを感じていたのだろう。

 自分の言葉でようやく震災を語れたのではないか。

 しかし、筆者は詩人でもあるため、作中に詩をかなり挿入しているが、それがこの作品をわかりにくいものにしている、と感じた。

 本書のテーマは二つあると筆者は説明している。

 一つは「言葉と言葉のあいだに屍がある」、二つ目には「人間存在というものの根源的な無責任さ」であると言っている。

 本作品の弱さは、被災後に石巻に帰っていないことがある。

 見ることがつらく、イメージを膨らませて書くことしかできなかったのであろう。

 

 本書と同時に読み進めた今野真二『かなづかいの歴史 日本語を書くということ』(中公文庫)も国語の知識を深めるには格好の書であるのだが、専門的すぎて面白くなかった。

 

 筆者は新書をどう位置付けているのかかなり疑問に思ったわたしであった。

 わたしは少し前までは臨機応変、変幻自在で、どんな変更にも即座に対応できる性格であった。

 ところが、歳をとり、60を超えてからは、それができなくなってきた。

 頭と体が一致しないのである。

 今日の昼そばは昨日までは25日の予定であった。

 ところが、知人が昨晩突然、今日のほうが長い時間を取れそうだと知らせてきた。

 そばをすすることは短時間で済むが、なにかせちがらいので、長い時間をかけるのもいいのではないのかと思い、熟慮の上今日にした。

 約束の時間は午前11時半。

 そろそろ出かけようとしたときに知人からメールが来た。

 なんと医者での治療が長引いて10分から20分遅れそうだと。

 午前11時40分にそば屋に入った、

 すると、またメール。

 「12時を過ぎたらごめんなさい」

 やけ酒をあおった。

 それでも知人は12時5分前にたどり着いた。

 約束をしたら約束の時間に行くことを私は自分の尊厳をかけて行くことにしている。

 それ以上に相手の状況、気持ちを大切にすることも心の中におけるようになった。

 それにしても、おいしいそばを向かい合って食べることの幸せを感じた。

 今日、わたしは温かいとろろそばをいただいた。

 知人の旺盛なる食欲が、わたしを刺激しわずか5分で食べきってしまった。

 約束までの長い時間、約束後の変更にかけた時間からすれば、なんと瞬間で終わる昼そば食いであった。

 友人から手紙が来た。

 友人の奥様が体調を悪くし看護に明け暮れしているのでなかなか会うことができない、という近況であった。

 早速、返事を認めた。

 奥様の回復と貴君の健康を祈ると書くことは限られてしまう。

 そして、最後に出来るだけ早い時期に再会できることを信じていると締めくくった。

 普段はメールでやり取りしているが、連絡が無くなってから6か月たつ。

 手紙を書く気持ちになっただけでも、いい方向にいるに違いないと手紙の背景を考えた。

 メールのやり取りが無くなったり、いままでの付き合いが無くなったりすると、われわれの年代では本人ないし肉親に健康上の困難が招来しているのだと考えざるを得ない。

 そういえば、旅先からのはがきをもらうこともなくなった、と突然頭をかすめた。

 10年前に、沖縄、宮古島からのサンゴ礁の絵はがきをもらったのが最期かな。

 わたしも旅先から便りを出すことはほとんどなかった。

 旅にいるときは、旅先での出会いとか、温泉に感動して、それらは旅から帰って土産話にすればよいと思っていた。

 次、旅行に出たら、はがきを書いて、自分の前向きの無事を知らせてやろうと思った。

 けやきとあのさくらの葉が光り輝いている。

 若々しい葉がつややかに光を放っている。

 その一瞬の輝きは、この季節でなければ見ることはできない。

 のんきに上を見上げなければ確かめられなかった。

 葉の若さはいままで確かめたことがなかった。

 暖かい陽が葉にあたる。

 まだ薄い葉は柔軟で薄い。

 光が葉の表面で乱反射して、わたしの目に飛び込んでくる。

 若葉のオーラは不思議なほど自然の力とマッチングしてわたしに伝わってくるのである。

 樹木は不思議な力を持っている。

 数十年経っても、春になれば花を咲かせ、葉を繁らせ、幹の老化を感じさせない。

 無理して若作りしているわけではない。

 自然の法則に従って、自分の生命を表現しているのであろう。

 植物と動物の違いは歳であろう。

 動物は老化がはっきりわかる。植物は老化に左右されない。

 動物は歳を経るごとに責任が重くなり、植物は歳を経ても常に動かず変化は感じられない。

 同じ生物なのだが、どこか違う。