本書は人気シリーズの第19弾である。平成24年12月10日に幻冬舎時代小説文庫で刊行されている。

 この小説の面白さは、舞台が京都市内と設定されていることであろう。

 ほとんどの時代小説は江戸が舞台となる。

 公事宿とあるので、民事訴訟を扱う西の舞台が京都町奉行所にあったのであろう。

 シリーズ19回目とあるので、公事の話は尽きたのか、京都町奉行所内のスキャンダルなどを題材として取り上げている。

 収録されているのは、

 闇の蛍

 雨月の賊

 血は欲の色

 あざなえる蝿

 贋の正宗

 羅刹の女

 の六話である。

 羅刹とは悪の限り尽くす女である。

 これが、子持ちであると、子供を虐待したり、ネグレクトしたりする。

 筆者は淡々と羅刹の女の行状を描く。

 この女の娘を助けようとする七軒の長屋の衆がいる。

 本来、このようなとき、町の番屋、大家が助けの手を差し伸べるのだが、番屋は余計なことを持ち込むな、大家は店子から家賃を取り立てることにしか頭が向かない。

 いよいよ、ひょんなことから長屋の衆の一人と本作の主人公である公事宿主とその宿の居候が知り合い、一挙に解決に向かう。

 羅刹の女は遠島、羅刹の女と一緒に娘をいじめていた武士は居候の手で懲らしめられ、大家は闕所。長屋はそれぞれの住人に下げ渡されてめでたしめでたしとなる。

 筆者は女性なるがゆえに、この世の中で起こっている母親とその愛人による子どもいじめを江戸時代に再現してみせたのである。

 惜しむらくは、いじめる側の描写が不足していたことであるが、この筆者の作品は遡ることにした。

 

 メールに詳しい方教えてください。

 わたしのパソコンメール(emobile)にiphoneに変えた知人からメールが入った。メルアドの変更通知であった。そこにはiphoneを使っている共通の知人にはうまく届かないとあり、仲介の依頼があった。

 そこで、その知人には転送メールで送った。

 ところが、その知人からメルアド変更を確かに聞いたとメールしたが届かなかった。

 まして、emobileで送ったわたしのメールですら届いていないことが分かった。

 原因と解決策をお分かりの方は是非ご一報ください、

 

 今日は外出日和なので、上記のような気がかりがありながら出かけた。

 運賃が値上がりしたが、東京へである。

 心もち、乗客は少ない。

 買い物に行ったのである。

 わしたで泡盛、松屋でハラダのラスクである。

 店員はいい商品を売っていると、マナーは超特急クラスである。

 いい商品といいサービスを受けたいので訪ねているに違いない。

 食べたカツカレーも今日は「カツカレーの日」とあって、100円引きであり、わたしが入店した後3人が入ってきたが、みなさんカツカレーを注文していた。

 わたしのお気に入りになったのは、一人で気楽にはいれるからである。

 4月14日からテレビで知ったgaccoの授業を受けてみた。

 指導教師の動画を見ながら学ぶわけだが、とても快適に受講できた。

 わたしは網野善彦さんの歴史の素晴らしさに目を開けられたと感じていたのだが、残念ながら網野さんは今はいない。

 今日出会えた、本郷和人さんは網野さんの教え子だった。

 網野さんの史学は「百姓は農民であるとは限らない」の言葉でよく言われるのであるが、本郷さんはこのタイミングという時にきちんと説明してくれた。

 語り口も、史料も斬新であった。

 1時間超の久しぶりに受けた授業はわたしを伸びやかに歴史に引き込んでくれた。

 通常授業は無料。反転授業は有料。ただ、わたしは反転授業は何をするのかつかみ切っていないので当分は通常授業で行くことにしている。

 課題もあり、遊ばせてくれない。

 いい試みを始めてくれた。これから講座は増える予定である。わたしは京都を深く知る講座も受講しようと考えている。

 下記に事務局から送られてきた文書を添付させていただく。


gacco「日本中世の自由と平等」講座(通常コース・反転学習コース)
                  受講登録されたみなさまへ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━[gacco]2014/04/14

gacco「日本中世の自由と平等」講座開発スタッフです。

東京大学 本郷和人先生による講座「日本中世の自由と平等」へようこそ!
いよいよ本日から、「Week1.歴史学とは何か」がスタートします。

はじめに、Week1の内容を簡単にご紹介いたします。
その後、反転学習コースの追加募集についてご案内を差し上げます。


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■1. 「Week1.歴史学とは何か」のご案内
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Week1.は、「歴史学とは何か」という問いから始まります。
以下のような流れで、動画を視聴することができます。

1-1. ウラを取ることの必要性
1-2. ウラを取るには
1-3. それでは一通の古文書を見てみよう
1-4. 海の武士団 陸の武士団
1-5. 網野善彦の「二倍史学」
1-6. 二倍史学が有効な例
1-7. いや、それにしても
1-8. ところがところが
1-9. 雑訴決断所の文書

公開は4月14日(月)にはじまり、6月30日(月)の閉講までの間、
お好きな時間にご受講いただけます。

そして、講座を映像で受講した後はgacco内の掲示板内に
自由に書き込んでいただき、ほかの受講者のみなさまと交流することができます。

また、Week1の課題提出の締め切りは4月27日(日)午後11時59分までと
なっていますのでご注意ください。
Week.2「歴史のべき・ある論」は、4月21日(月)午前9時に公開されます。

 吉田兼好は第117段で友とするにはよくない悪い友と良い友の2種を挙げてずばり言い切っている。

 まず、7種の悪い友を挙げている。

 1.身分が高く、尊い人(自分の出世しか考えない)

 2.若い人(自分の若さの消費にしか関心がない)

 3.病気がなくて身体が強い人(人の弱さを理解できない)

 4.酒を好む人(一日酒を飲んでいる)

 5.はやり立って勇んでいる兵士(平穏を好んで壊す)

 6.嘘をつく人(友をも嘘で裏切る)

 7.欲の深い人(財貨しか考えることができない)

 兼好は上記のような友達から裏切られたのであろう。

 上記の項目にわたしが当てはまるのは酒を好むだけであるが、兼好の悪友は、働きもせず、酒びたりの毎日を送っていて、ひょっとすると酒が原因で兼好に災いをもたらしたのかもしれない。

 上記の悪さを一言でいえば、自分の名利しか考えない人とは友達にならないほうがいいと忠告しているのである。

 続いて良い友には三種挙げている。

 1.物をくれる(兼好に物をくれることで助けてくれる)

 2.医者(老齢になると心配は病気である)

 3.知恵のある人(その知恵で兼好を救ってくれたのであろう)

 医者を挙げるところなど、兼好もしたたかである。

 つまり仁のある人を兼好は良い友としたのであろう。

 わたしにとって良い友とは、兼好のように世捨て人になったわけでないので、医師はかかりつけがいるし、欲しい物などないから兼好とは異なる。

 1.1年に一度でもわたしのことを気遣ってくれる人

 2.同時代を生き、わたしと似ている人(中学、高校、大学の同級生)

 3.知恵と勇気のある人

 良い友とは物心両面でわたしを助けてくれる人となるのだが、できるだけ自活できるようにしていくことこそ運命であるだろう。

 本書は2014年3月13日にマガジンハウスから刊行された。

 筆者は雑誌・書籍の編集者を経て、手紙の在り方に関心を持ち、それを主題に執筆活動を続けている。

 わたしは、明治の時代とはすごいと思ったのは『吾輩は猫である』(大倉書店)の装幀を見たときである。漱石は装丁に強い関心を持ち見事な本に仕立て上げていた。

 この本の表紙にも、筆者の意図をそのまま表す工夫をしていた。

 表表紙には、

 「皆様ごぞんじの例の猫が病気になり、療養しておりましたが回復せず、昨夜いつの間にか裏の物置のかまどの上で逝去いたしました」

 「障子を一枚開け放ってみなさい。春風は思うままに吹くだろう」

 「牛のほかには何も食べるものなし」

 などの言葉を目立つように配置。

 裏表紙にまでも、

 「自分のことは棚へ上げて未来の君のために一言するのです」

 「霧を角切りにして缶詰にして日本に持ち帰りたい」

 「絵は百円から一輪も引けぬとのお言葉、尊敬しながら承知しました」

 などの言葉を配置している。

 これを眺めているだけで、漱石の人間性をうかがうことができる。

 さぞ、筆者は装丁者と話し合ったのではないか。

 わたしなどは断ることの手紙での例示を学びたかったのだが、漱石の断り方には、丁寧さ、行き届いた配慮などが人間性の表れをベースにしており、決してまねができないと考えざるを得なかった。

 それにしても、漱石から学べとこのような本が出ることは悪いことではない。

 昨晩から突然、上腕部、背中、腰、下腿部が痛くなってきた。

 久しぶりにネットで人体の筋肉図を見てみた。

 したがって、上腕部は上腕三角筋、背中は広背筋、下腿部は下腿三頭筋まで理解できたが、腰がよくわからない。お尻と背中の付け根部分である。

 ほとんど、全身が痛いのである。

 昨晩は歩く気も失せ、痛みに耐えた。

 原因は力を使ったのは4月6日である。

 さくら祭りのイベント会場を見ていたら、5歳児の女の子がみたいたいめ、わたしに何とかしろと言ったため、彼女の両脇を抱えてわたしの顔の前まで担ぎ上げたのである。

 その動作を、5回やった。

 5歳女児の平均身長と体重を調べてみた。

 平均身長118.8センチ、平均体重21.2キロとあった。

 わたしはこの重さを抱え上げていたのである。

 高校、大学のころはスポーツをやったら翌日に筋肉痛が出ていた。

 歳を経るにしたがって、筋肉痛が出るのは3、4日後になってきた。

 4月6日に担ぎ上げ、筋肉痛が10日の晩。今回が一番遅い筋肉痛と言える。

 最近は、腹筋20回までできるようになってきた。

 5月になれば、日本の武闘を観覧する。

 いつも必ず、挫折するのだが、春といい、武闘観覧といいわたしには挫折はないと言っているようである。

 負けずにこれから歩きに行く。

 さくらが枝にしがみついている。

 痛々しいが風情がある。

 この時期になると、風がさくらの大敵になる。

 強い風が落下繚乱にさくらの花びらを吹き散らす。

 花びらは歩道、車道に舞い落ちる。

 歩道に下りる花びらは買い物に行く人々のほほにあたる。

 うれしそうに声を上げる。

 車道側に敷き詰められた桜の花びらの絨毯は、疾走する車によって車と同じ方向に舞い上がる。

 人を喜ばし、地に落ちた花びらは、最期の舞を舞う。

 ああ、いいなあ、命の短い花びらであっても、命を失っても自分を失わず自分を振る舞う。

 この桜のふるまいを、わたしは清々しい気持で見ていた。

 わたしは、対談でまためた本は読まなかった。

 なぜ読んだかのか。時代小説を読む参考にしたかかったのである。

 時代小説の書き手である山本一力、時代小説の評論家縄田一男、いまは亡き俳優の児玉清、三人の対談が、一冊の本になった。

 しゃべったものをまとめた本など読みたくない。

 がこの本には「時代小説」があったのだ。

 つい、手に取った。

 朝日新書から2007年1月30日に刊行されていた。

 藤原緋沙子さんが取り上げられていなかったが、まあよしとして読んだ。

 よかった。

 この三人がよしとした本は以下の通り。

 山本さんは、

 1.松本清張『かげろう」絵図』

 2.池波正太郎『剣客商売』

 3.五味康祐『柳生連也斎』

 縄田さんは、

 1.角田喜久雄『髑髏銭』

 2.山田風太郎『魔界転生』

 3.池宮彰一郎『四十七人の刺客』

 児玉さんは、

 1.藤沢周平『蝉しぐれ』

 2.津村節子『流星雨』

 3.五味康祐『桜を斬る』

 であった。

 わたしは児玉さんに近い。

 それでも、この本を読んでよかった。

 わたしは、この三人の助言を雨霰のように受け止め、次の作家を読み進めていきたいと考えた。

 山本周五郎

 五味康祐

 津本陽

 子母澤寛

 山田風太郎

 隆慶一郎

 宮部みゆき

このお三方が言っていたように、時代小説は人間を書き込むことであり、純文学と区別する必要はない。

代替、純文学という言葉すら死語である。

 歴史に学ぶことこそ、人間や社会の仕組みを明らかにすることであると思う。

 したがって、ミステリーとかSFなどもしかりである。 


赤い羽織をまとっているお地蔵様である。

合掌し、顔を天に向けている。

ほんと、目を細め、天に微笑む表情はわたしにはない穏やかさを身体全体で表現している。

わたしの長所も悪所も知っている知人が祈りを込めて誕生祝いとして贈ってくれたものである。

わたしはこの贈り物だけは写真でなければわかってもらえないと思い、必死にデジカメで撮ったデータをパソコンに取り込み、なんとかアップすることができた。

写真の質は悪く、穏やかな表情、身体がわからない。

黒い眉はうまく撮れたが、5ミリほど下に細めた目があるのだが、撮りきれなかった。残念。

陽の光がほほを紅色に染めている。

神々しいお地蔵様なのである。

このお地蔵様に少しでも近づくために、穏やかな心をもてるように努力したいと覚悟したしだいである。


デジタルカメラからのパソコン保存ができない。

ので、1枚になってしまった。

今回こそ、大変うれしかった写真を1枚で表したかったのだが、自らの写真保存の技術のいたらさ加減にため息をついだ。

上記の写真はわたしの誕生日に贈ってくれたものだが、わたしが留守にしていたので、結局受け取ることができたのは2日後だった。

さらに遅れて、昨晩誕生会をやってもらった。

誕生日など自ら祝う気持ちもないわたしが、今年に限ってはうれしかった。

わたしを生んでくれたのは両親であり、一緒に住んでいたころまでは祝ってもらっていた。大学在学までのことである。

それ以降、祝ってくれる人は何人かいたが、あくまで付き合いの延長であった気がする。

「孤独」の怖さを知ったのは10年前であったが、まあ日常に流されて今日まで来た。

それが、二人から誕生日を祝ってもらえたわけである。

花はたぶんバラである。華やかで美しい。それを黄色とピンクでアレンジしてくれて贈ってくれた。

あと1人は、お地蔵様を贈ってくれた。

何とも穏やかなお顔がずしんと胸に迫るお地蔵さまである。

花を長生きさせるには霧吹きであるが、いずれ枯れるであろう。

お地蔵さまはこのあとずっと一緒にいられる。

この二人の心を押しいただいて、生きなければならないと思った。