ということで、鳥羽・伏見の戦いに関連する史跡を巡って参りましたので、ご紹介いたしたいと思います。
京都南ICを少し西へ進んだ場所に、鳥羽離宮跡公園(国史跡)があります。
ここは11世紀の末、白河天皇が院政の拠点としていた場所なのですが、この北端、鳥羽街道道脇に、「秋の山」と呼ばれる築山があります。
秋の山は鳥羽・伏見の戦いにおいて薩摩軍の陣地となった場所で、山頂に記念碑が建っております。
また、山の下には小枝橋の戦いを説明した碑もありました‼
鳥羽・伏見の戦いにおける戦闘図もありましたので、まずはここで各軍の配陣を把握し、史跡巡りスタートです。
さて、戦闘開始の砲が轟いた小枝橋。
鴨川に架かる現在の橋は近年架け替えられたものでして、当時のものは撤去されてしまっております。
この小枝橋から100mほど歩いた場所に「鳥羽伏見戦跡」の石碑が立っております。
ちなみに石碑の背後にある巽家は、かつて薩摩軍の野戦病院となった場所になります。
とても激しい戦があったとは思えないほど静かな場所でして、何か、ついつい手を合わせてしまいました・・・(´・ω・`)
更に歩いて小枝橋・鳥羽離宮跡公園から程近い場所に鎮座するのが、城南宮です。
平安時代頃に創建したと伝わるこの神社は、方除けの大社として古くから信仰を集めております。
そしてこの城南宮。前回の記事でもお話いたしました通り、小枝橋付近に布陣した薩摩軍の本営となった場所になります。
参道には、薩摩軍の大砲がずらりと並んでいたといいますね…。
城南宮から近鉄竹田駅に戻り、近鉄京都線に乗って、桃山御陵駅へ。
ここを降りてすぐの所に、御香宮神社が鎮座します。
御香宮神社は、伏見九郷の鎮守社として古くから崇拝され、江戸時代には徳川家の産土神として数々の寄進を受けてきたと伝わります。
・・・余談ですが秀頼さまの妻・千姫さまは伏見生まれでして、この神社に誕生祝の神輿を奉納したといいますネ‼
本殿(国重文)は徳川家康が慶長10(1605)年に寄進したものと伝わります。
そんな徳川家ゆかりの地に、幕末、薩摩軍はその徳川家を討伐すべく布陣しております。
御香宮神社に布陣した薩摩軍は、旧幕府軍の詰める伏見奉行所に向かって砲撃を開始。死闘が展開するのです。
境内には、佐藤栄作の揮毫した「伏見の戦跡」の石碑が立っておりましたね‼
そして・・・
石垣の上に土塀などが乗り、まるで城郭のような構えだったと伝わる伏見奉行所ですが、現在市営桃陵団地となっている場所が東町奉行所、市立桃陵中学校のグランド、伏見公園の東側が西町奉行所だったといいます。
団地の西門前に石碑が立っておりました。
それにしてもこれらの敷地を見渡したらなかなか広大でして、今でも奉行所の規模を偲ぶことができます。
かつてこの場所に旧幕府軍や新選組が立てこもり、御香宮神社に詰める薩摩軍と刃を交えたのです・・・。
伏見奉行所のすぐ近くには、会津兵たちが詰めた東本願寺伏見別院跡があります。
現在は山門が残され、「伏見御堂」の石碑が立っております。
ここで薩摩兵を蹴散らそうと奔走したカンベさん←(佐川官兵衛のこと)。
10年後の西南戦争では官軍として薩摩兵を蹴散らすことに成功していますが、残念ながら戦死しております・・・。
さあ‼
伏見の町中にやってまいりました‼
この辺り、幕末好きならハズせない寺田屋があることで有名ですね‼
寺田屋過去レポ⇒(http://ameblo.jp/iemochikazunomiya/entry-10720647848.html)
ここで亡くなった有馬どんたちにも手を合わせてまいりましたゾ‼
(。-人-。)
そしてこの寺田屋に程近い京橋の袂には、「伏見口の戦い激戦地跡」の碑が立っております。
なお、鳥羽・伏見の戦いが開戦する前日夕刻、会津藩の先方隊およそ200名は大坂から船で渡り、この伏見京橋に上陸したといいます。
・・・奇しくも、京橋を渡ってすぐの所には伏見長州藩邸跡が。
因縁を感じました。本当(;´Д`)
この日は午後から用事があった為このまま引き上げたのですが、また日を改めて何度か巡っておりますので、追ってご紹介して参りたいと思います。